学位論文要旨



No 216580
著者(漢字) 北門,利英
著者(英字)
著者(カナ) キタカド,トシヒデ
標題(和) 遺伝統計学的モデリングによる集団の時空間構造の推定と水産資源への応用に関する研究
標題(洋) Statistical genetic modeling and estimation of spatial and temporal population structures with application to fisheries populations
報告番号 216580
報告番号 乙16580
学位授与日 2006.09.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16580号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸野,洋久
 東京海洋大学 教授 北田,修一
 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 助教授 平松,一彦
 東京大学 講師 高野,泰
内容要旨 要旨を表示する

 自然集団の多くは,時空間的な集団構造を有すると考えられる.例えば,集団の地理的な分離は集団の分化をもたらす.また,異なる集団の混合,その混合率の空間的な違い,あるいは混合率の時間的な変化なども現実にみられる構造である.このような集団構造は集団の遺伝的な組成に影響を与えるが,逆に,その遺伝的な情報を利用することで集団構造を探ることが可能な場合もある.実際,集団遺伝学の分野では,遺伝的データを利用した集団構造の研究が発展してきた.またこのような集団の構造を把握することは,水産資源などの持続的利用を実践する上でも欠かすことのできない要素となる.

 そこで本研究では,集団の空間的あるいは時間的な構造を推測するための統計的モデルの構築と,そのモデルに含まれるパラメータの推定方法および計算アルゴリズムの開発を行うことを目的とした.また,従来から集団の差異を検出する際に利用されている古典的な統計的検定法の性能についても同時に考察を行った.さらに,水産資源から得られたデータにモデルを適用することで,その実用性および有用性についても検討した.

 本論文は主に2つの構成からなる.序章に続く2つの章(2章および3章)では空間的な集団の差異に関する研究を,そして続く3つの章(4章から6章)では集団の混合の様子を空間的あるいは時間的な視点から捉えた研究について述べた.また7章ではこの2つの視点を融合させたモデルの可能性について検討し,最終章において総合的な考察と今後の課題をまとめた.

第2章「集団構造の差異に対する統計的検出力の評価と北西太平洋ニタリクジラへの応用」

 集団間の遺伝的差異の有無を検定する方法は,集団遺伝学の実際的な場面で利用されている.例えば北西太平洋ニタリクジラの場合,mtDNAのハプロタイプおよび核DNAの対立遺伝子の観測頻度を利用した解析から,サンプリングしたエリアの集団間で遺伝的差異はないと判断された.しかし,仮説検定の枠組みから必然的に検出力への評価が,こと保全生物の立場からは,要求される.そこで本論文では,島モデルを仮定し上記の関係の把握を試みた.ここでは,対立遺伝子あるいはハプロタイプの観測頻度がディリクレ多項分布に従うことを利用した.この確率モデルでは,集団間の遺伝子頻度の分散が,集団間の遺伝的差異を表現する尺度の一つであるFSTと密接に関係する.そこで,シミュレーションにより,FSTと検出力の関係を評価した.その結果,このニタリクジラの例の場合,FSTが相当に小さな値ではない限り,集団間の差異を検出できる程度の標本数であることが示された.この結果は,ニタリクジラにおいて集団間の遺伝的差異はないと判断された従来の結果を支持している.

第3章「積分尤度による集団間の遺伝的差異の推定」

 無限島モデルで表現されるメタ個体群モデルにおいて,核DNAの対立遺伝子あるいはmtDNAのハプロタイプの観測頻度はディリクレ多項分布に従い,そのパラメータとしてFSTが明示的に確率分布に含まれる.これまでこの確率分布の下で,最尤法の枠組みでFSTを推定することが提案されてきた.しかしながら,最尤法では観測する集団の数が少ないとき,FSTを過小推定する可能性がある.そこで本研究では,この偏りを減少させるための方法として積分尤度を導入した.ただし,この場合.積分尤度を明示的に表現することができない.そこで,モンテカルロEM(MCEM)およびラプラス近似を用いたアルゴリズム開発した.シミュレーションの結果,従来提案されていた方法よりも偏りおよび精度の意味で優れた推定性能を有することが示された.また,太平洋ニシンなどの具体的なデータへ適用し,積分尤度による方法の有用性を確認した.

第4章「遺伝標識の継時的サンプリングに基づく混合率と遺伝的浮動の同時推定およびノコギリガザミ資源への応用」

 栽培漁業においては,放流した種苗集団が自然集団にどの程度混合しているのかを評価することが必要となる.この目的の為にしばしば遺伝標識による方法が利用されてきた.通常,このような混合の様子を知るには,混合群に加えて混合のソースとなる基準群からの観測値を利用することが多い.ここでは,基準群は放流前の自然集団,および放流集団であり,混合群は放流後に漁場に存在する集団である.放流集団の遺伝的組成の情報は容易に得られる.また,漁獲は放流後の混合集団から行われることが多く,混合集団の遺伝的組成は観測されるが,混合前の自然集団の遺伝的組成は直接観測できない.このため前年の混合群が基準群として代用されるが,再生産に伴う遺伝的浮動により,混合前の自然集団の遺伝的組成とは異なる.そこで,本論文では遺伝標識の継時的サンプリングを想定し,混合率と遺伝的浮動の同時推定を考慮した統計モデルを構築した.また,推定アルゴリズムとしてMCEMおよび重点的サンプリングによる方法を開発した.シミュレーション実験の結果,遺伝的浮動の大きさをやや過小評価する傾向があるものの,混合率はほぼ偏り無く推定できることが示された.また浦戸湾のノコギリガザミの放流事業から得たデータに適用した結果,自然集団において放流種苗の混合率が低いこと,そして自然集団が比較的小さな有効集団サイズを持つことが示された.

第5章「不完全な基準群情報による混合率の推定と東京湾アサリ集団への応用」

 第4章における混合率の推定では,2つの基準群(そのうち1つは浮動による変動を想定)および混合群からのサンプリングを想定した.しかしながら,ある基準群からの情報が全く得られないこともある.例えば,東京湾のアサリ資源では,中国あるいは北朝鮮からの外来集団の個体の放流が進められているため,それらの混合が想像される.このように混合後に混合率を推定する状況においては,混合前の基準群の情報を利用することができない.そこで本論文では,複数遺伝子座の個体別の遺伝子型情報を利用し,外来集団のみが基準群と想定できる場合の統計モデルを提示した.また,ここでも積分尤度を導入し,ラプラス近似による比較的計算速度の速い推定アルゴリズムの実装を行った.本モデルをアサリ資源へ適用した結果,サンプルの得られた場所においては外来集団の混合がほとんど起こっていないと推定された.

第6章「個体の遺伝子型情報を利用したエリア別混合率の推定法と混合率への平滑化構造の挿入」

 第5章では,不完全な基準群情報のみが得られる場合に混合率を推定する統計的方法について議論した.この第6章では,基準群が全く得られない場合を想定した統計モデルへの拡張を行った.また,サンプリングを行うエリアが空間的に一列に並んでいる場合に,それらのエリア間の混合率が滑らかに変化する構造も取り入れることを可能にした.尤度推測においては,対立遺伝子頻度を表すパラメータには無情報事前分布を想定し,ここでも推定アルゴリズムには積分尤度のラプラス近似を利用した.シミュレーションの結果,混合率の推定値はほぼ不偏であることが示された.また,平滑化の導入は,混合率の推定にやや偏りをもたらす可能性があるものの,特にサンプルサイズの小さなエリアにおいて推定値の分散を減少させる利点が確認された.

第7章「混合率と集団間の差異の同時推定」

 第3章で述べたモデルは,いわば繁殖域が明確に分かっている場合に,そこからのサンプルを基に集団間の遺伝的差異を評価する方法である.一方,第6章で述べたモデルは,複数の集団が回遊経路や摂餌域などで混合している際に,その混合の様子を捉えるモデルである.例えば鯨類の場合,繁殖域は不明な場合もあり,標本も回遊経路や餌場などでとられることが多く,この状況があてはまる.ところで,第6章で述べたモデルでは,各集団の対立遺伝子頻度を無情報事前分布で除去した.しかしこのモデルでは,遺伝子流動を想定する場合,その大きさを事前に決定していることになる.そこで第7章では,第3章と第6章のモデルの融合を図り,混合率に加えて集団間の遺伝子流動率(あるいはFST)も同時に評価可能な統計モデルを構築した.シミュレーションの結果,FSTの値が小さいときに混合率とFSTを過小推定することが示された.しかしながら,遺伝子座と標本数を増加させることで,推定精度の改善が可能なことも同時に示された.

 本論文では,集団間の遺伝的差異と混合の構造に注目し,空間的あるいは時間的な混合の様子の違いや変化を捉える統計モデルと推定方法を開発した.これらの統計的モデリングおよび推定方法は,実際的な場面で要求される集団の構造やサンプリングを想定しており,様々な場面での適用が可能と考える.なお,連鎖不平衡が予想される場合,遺伝的差異の程度が遺伝子座間で異なる場合,あるいはモデル選択などの問題については研究の方向性を述べるに留めているが,これらについても本論文のモデルや方法を基に拡張や展開が可能と考えらえる.

審査要旨 要旨を表示する

 集団は多くの場合階層構造を持っている。しばしば異なる分集団が混合し、そのパターンが時空間的に変化する。生物資源を正しく管理し、保全していくためには、この複雑な集団構造とを、精確にモニタリングすることが重要である。そこで本論文では、集団の空間的あるいは時間的な構造を精度良く推測するために、新たな統計遺伝モデルを構築し、モデルを規定する未知パラメータの推定方法と計算アルゴリズムの開発を行った。そして、水産資源から得られたデータにモデルを適用することで、その実用性および有用性を検討した。本論文は序章と総合考察を含む8つの章から構成される。

第2章 遺伝的均質性の検定の検出力

 検定により集団間の遺伝的差異が認められなかったとしても、それは必ずしも集団が均質であるということを意味しない。調査により得られた標本の大きさが不充分であったり、不均質性の度合が大きくなかったりする場合に、仮説は棄却されない。そこで、島モデルのシミュレーションにより、分集団化の強さおよび標本サイズと検出力の関係を評価した。北西太平洋3海域から185、103、113頭サンプリングされたニタリクジラの場合、有意な差異は認められなかったが、この場合の検出力は充分に高いことが確認された。

第3章 積分尤度による集団間の遺伝的差異の推定

 無限島モデルは、アレル頻度がメタ個体群の分集団間で確率的に分布するとする。多くの集団遺伝学的調査では、各サンプリング地点から集められる個体数は30程度と限られるため、FSTの推定精度は低くなる。分集団の遺伝子頻度について尤度を周辺化して推定量の分散を抑えることができるが、負の偏りを免れない。そこで、さらに遺伝子頻度の分布を規定する超パラメータを周辺化した、積分尤度によるアプローチを提案した。シミュレーションの結果、従来法よりも偏りおよび精度の点で優れた推定性能を有することが示された。また、太平洋ニシンのデータへ適用し、積分尤度による方法の有用性を確認した。

第4章 継時的サンプリングによる混合率と遺伝的浮動の同時推定

 いくつかの基準群が混合した混合群においては、そのアレル頻度は基準群のアレル頻度の重ね合わせとなる。栽培漁業においては、基準群は放流前の自然集団と放流集団であり、混合群は放流後に漁場に存在する集団である。放流集団の遺伝的組成は得られるが、漁獲は放流後の混合集団から行われることが多く、前年の混合群が基準群として代用される。そこで、放流群と自然集団を継時的にサンプリングしたデータから、混合率と遺伝的浮動を同時推定する統計モデルを構築した。シミュレーションの結果、遺伝的浮動をやや過小推定するものの、混合率は偏り無く推定することが示された。浦戸湾のノコギリガザミの放流事業の調査を解析した結果、放流種苗の寄与が小さいこと、自然集団が小さいことが示された。

第5章 不完全な基準群情報による混合率の推定

 混合率の推定で、ある基準群からの情報が得られない場合でも、基準群を単純無作為交配集団として定義することにより、遺伝子型のデータから基準群の遺伝組成と混合率を同時推定することができる。そこで、外来集団のみが基準群と想定できる場合の統計モデルを提示した。東京湾のアサリ資源では、中国あるいは北朝鮮からの外来集団の個体の放流が進められているが、本モデルにより解析した結果、サンプルの得られた場所では外来集団はほとんど混合していないと推定された。

第6章 混合率の空間構造と平滑化

 空間分布する集団では、混合率は空間的に変動するが、近接する集団は似た混合率を持つ。そこで、混合率の平滑性を事前分布の形で取り込んだモデルを構築した。シミュレーションの結果、特にサンプルサイズの小さなエリアにおいて推定値の分散を減少させる利点が確認された。

第7章 混合率と集団間の差異の同時推定

 第7章では、第3章と第6章のモデルの融合を図り、基準群が未知の場合、混合率に加えて集団間の遺伝子流動率も同時に評価可能な統計モデルを構築した。シミュレーションの結果、FSTの値が小さいときに混合率とFSTを過小推定することが示された。しかしながら、遺伝子座と標本数を増加させることで、推定精度の改善が可能なことも同時に示された。

 以上のとおり、本研究では、集団間の遺伝的差異と混合の構造に注目し、空間的あるいは時間的な混合の様子の違いや変化を精確に推定するための統計モデルと推定方法を開発した。これらのモデルは、いずれも、申請者が水産資源の管理とモニタリングで遭遇した困難を克服していく中で提案されたもので、様々な場面での適用が可能である。これらの研究は学術上および応用上価値が高く、よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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