学位論文要旨



No 216583
著者(漢字) 牧野,麻美
著者(英字)
著者(カナ) マキノ,アサミ
標題(和) 脂質を標的とする膜作用物質の反応機構の研究
標題(洋)
報告番号 216583
報告番号 乙16583
学位授与日 2006.09.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16583号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,明徳
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 理化学研究所 主任研究員 小林,俊秀
 東京大学 助教授 有岡,学
 東京大学 助教授 堀内,裕之
内容要旨 要旨を表示する

 生体膜の基本構造である脂質二重層構造はたった一種類の脂質分子を用いて人工的に作ることができる。しかし、自然界には数千種類の脂質が存在し、各脂質の存在意義が想像される。様々な生物、臓器、細胞において脂質組成は異なる。さらには一つの細胞の中においてもオルガネラ間で脂質組成は異なる。スフィンゴミエリンはゴルジ体や細胞膜に多く存在する。カルジオリピンはミトコンドリアに、リゾビスホスファチジン酸/ビス(モノアシルグリセロ)リン酸は後期エンドソームにという様にオルガネラに特異的に存在する脂質もある。このように、多種多様な脂質が存在し、特定の局在を示す理由は明らかになっていないが、脂質の合成、分解、輸送、拡散の動的平衡が脂質の分布を決めていると考えられる。

 さらに脂質は同一膜上でも分布の偏りが見られる。先に述べたようにスフィンゴミエリンは細胞膜に多く存在するが、そのスフィンゴミエリンが糖脂質やコレステロールとともに微小なドメイン構造を形成していると考えられている。スフィンゴ脂質は長い飽和脂肪酸鎖を持ち、スフィンゴ脂質同士が相互作用しやすい性質を持つ。その長い飽和脂肪酸鎖の間にコレステロールが入り込み、その結合をより強固にしている。そして多くのタンパク質がこの微小なドメインに存在し、シグナル伝達などに重要であると考えられている。

 また同一膜上において脂質は外層と内層においても分布が異なる。ヒト赤血球膜ではホスファチジルコリンやスフィンゴミエリンのほとんどは外層に、ホスファチジルエタノールアミンやホスファチジルセリンのほとんどは内層に存在するといわれている。

 特徴的な分布を示すことが栄養の取り込みや輸送、分解、細胞分裂や遺伝情報の維持、伝達といった生物のホメオスタシスに重要であると考えられる。脂質は単に膜を形成する構成成分であるだけでなく、脂質あるいは脂質集合体そのものに機能が存在するのである。

 本研究で私は、特定の脂質に結合する物質、または特定の脂質の性質に影響を与える物質を用いて、結果として生ずる脂質動態の変化あるいは細胞機能の変化からその脂質の機能を知るアプローチを用いて幾つかの脂質プローブの作用と標的脂質の機能を研究した。

1.放線菌由来毒素、シンナマイシンの作用機序

 シンナマイシン(Ro09-0198)は19アミノ酸からなるテトラサイクリックペプチドで、放線菌Streptoverticillium griseoverticillatamから精製される。アミノ酪酸などの希少なアミノ酸をもち、グラム陽性の細菌に対して殺菌活性を持つだけでなく、様々な動物細胞の赤血球を溶血させる。シンナマイシンは細胞膜の内層に存在するホスファチジルエタノールアミンに特異的に結合するという点で非常にユニークである。しかしシンナマイシンがどのように細胞膜の内層のホスファチジルエタノールアミンに結合するのかはわかっていなかった。本研究ではシンナマイシンが標的細胞の内層の脂質を外層に移行させる、脂質のフロップを引き起こし、その結果細胞膜の内層に存在したホスファチジルエタノールアミンが外層に出てくることを示した。シンナマイシンによって引き起こされる脂質のフロップは人工膜においても観察され、脂質のフロップはタンパク質などを介した間接的なものではなく、シンナマイシン自身の作用によるものであると考えられた。シンナマイシンが脂質のフロップを誘導するにはホスファチジルエタノールアミンが必要であることが人工膜の実験より示された。細胞膜や人工膜の外層にホスファチジルエタノールアミンの量が多くなると、シンナマイシンは膜の融合や形態変化を引き起こす。これらの結果は、シンナマイシンは細胞に結合すると、脂質のフロップを誘導し、細胞膜の秩序を壊し、細胞死を誘導することを示唆している。

2.ミミズ毒素、ライセニンの作用機序

 ライセニンは297アミノ酸からなるタンパク質で、ミミズの体腔液に含まれる毒素である。シンナマイシンと同様に細胞に対して毒性を示し、赤血球を溶血させる。ライセニンは多くの哺乳細胞の細胞膜を形成する主な脂質の一つであるスフィンゴミエリンに特異的に結合する。よってライセニンを用いることにより、細胞内のスフィンゴミエリンの分布、動態を調べることが可能である。これまでの研究で用いられてきたライセニンのほかに、シマミミズにはライセニン関連タンパク質、LRP-1(lysenin2)とLRP-2(lysenin3)が存在する。LRP-1はライセニンと相同性76%、類似性88%で、LRP-2は相同性89%、類似性94%である。しかし、これらLRPの性状解析は行われていなかった。本研究ではライセニンとLRP-1、2について組み換えタンパク質を作製し、スフィンゴミエリンへの結合、赤血球への溶血活性を調べた。その結果、LRP-2はライセニン同様にスフィンゴミエリンに特異的に結合し、溶血活性をもっているがLRP-1はその活性が1/10に低下した。ライセニンとLRP-2は30個の芳香族アミノ酸を共有するが、これらの共通の芳香族アミノ酸のうち210番目のイソロイシンをフェニルアラニンに置換したI210F変異体を作製したところ、この変異体は野生型ライセニンと同様の活性を示した。

 ライセニンによるスフィンゴミエリンの認識、溶血活性における芳香族アミノ酸の重要性はライセニンのトリプトファン変異体を用いることにより確かめられた。ライセニンは6個のトリプトファンを含むが、このうちの5個はLRP-1およびLRP-2に保存されている。保存されているトリプトファンをアラニンに置換した変異体は脂質への結合、溶血活性を共に失ったのに対して、保存されていないトリプトファンの変異は活性に影響を与えなかった。これらの結果はライセニン、LRP-1、LRP-2の活性に芳香族アミノ酸が重要な役割を果たしていることを示している。

3.糖脂質合成阻害剤、PDMPの脂質に与える影響

 D-threo-1-phenyl-2-decanoylamino-3-morpholino-1-propanol (D-PDMP)は糖脂質合成酵素であるUDP -glucose : ceramide glucosyltransferase (GCS)の阻害剤である。しかしながらD-PDMPはいくつかの興味深い性質が報告されている。たとえば、多剤耐性細胞における抗がん剤の感受性の増大(chemosensitization)、コレステロールの排出量の増加などである。これらはGCSの活性阻害だけでは説明できない。

 D-PDMPは細胞に加えると後期エンドソーム・リソソームに蓄積する。後期エンドソームの内膜はビス(モノアシルグリセロ)リン酸と呼ばれているユニークな脂質に富んでおり、このオルガネラは特徴的な多重膜構造をとる。この特徴的な構造こそがビス(モノアシルグリセロ)リン酸が後期エンドソームで形成する膜ドメインの機能に必要不可欠であると考えられている。本研究でD-PDMPがpHに依存的にビス(モノアシルグリセロ)リン酸膜ドメインの構造に影響を与え、ビス(モノアシルグリセロ)リン酸によって活性化される酸性リパーゼの活性を阻害することが示された。培養細胞においてはD-PDMPは低密度リポタンパク質の分解を阻害し、その結果、細胞内にコレステロールが蓄積し、細胞表面のコレステロール量は減少した。D-PDMPの異性体であるL-PDMPはGCSを阻害しないがL-PDMPも同様に細胞のコレステロールのホメオスタシスに影響を与えた。よってこの影響は糖脂質の合成とは関係のないものであることが示唆された。さらに本研究では細胞膜のコレステロール量が低下することで影響を受けるタンパク質の一つとして、P-糖タンパク質に注目した。P-糖タンパク質は抗がん剤の細胞外への流出に関与している。細胞表面のコレステロール量が減少したことにより、P-糖タンパク質は活性が低下し、その結果抗がん剤は細胞内に蓄積した。以上の結果からD-PDMPはコレステロールホメオスタシスの変化を介して多剤耐性がん細胞の抗がん剤感受性に影響を与えていることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 特定の脂質を標的とするタンパク質、ペプチド、低分子物質は脂質の分布、動態を知るだけでなく、脂質の機能を知る上でも重要な道具である。しかしこのような物質の報告は少なく、これらの物質の脂質との相互作用の詳細な解析、また新たな脂質との相互作用の発見は重要な意味を持っている。本論文はホスファチジルエタノールアミンを認識するペプチド、シンナマイシンの作用機序、スフィンゴミエリンに特異的に結合するタンパク質、ライセニンの詳細な解析、および糖脂質合成阻害剤D-PDMPのエンドソーム特異的脂質ビス(モノアシルグリセロ)リン酸(BMP)との相互作用の発見とそれを用いたBMPのコレステロール代謝における機能の記述を行ったもので、三章から成っている。

 第一章では放線菌Streptoverticillium griseoverticillatamが産生する19アミノ酸からなるテトラサイクリックペプチド、シンナマイシンが標的細胞膜の脂質二重層内層の脂質を外層に移行させる、脂質のフロップを引き起こすことを示した。シンナマイシンによって引き起こされる脂質のフロップは人工膜においても観察され、脂質のフロップはシンナマイシン自身の作用によるものであることが示された。人工膜の実験によりシンナマイシンが脂質のフロップを誘導するためにはホスファチジルエタノールアミンが必要であることが示された。これらの結果により、細胞膜外層に極微量存在するホスファチジルエタノールアミンにシンナマイシンが結合することにより、内層に大量に存在するホスファチジルエタノールアミンが外層に露出し、その結果大量にシンナマイシンが細胞に結合し、細胞は死に至る、というシンナマイシンの作用機序が明らかになった。さらにシンナマイシン処理により膜の構造が著しく変形することを電子顕微鏡観察により示した。

 第二章ではシマミミズEisenia foetidaが産生する297アミノ酸からなるタンパク質、ライセニン、および、それぞれライセニンとの相同性76%、類似性88%、また相同性89%、類似性94%であるLRP-1(lysenin2)とLRP-2(lysenin3)について組み換えタンパク質と種々の変異体を作製し、これらのタンパク質のスフィンゴミエリンへの結合および溶血活性にはライセニンの210番目のフェニルアラニンが重要な役割を果たしていることを示した。またライセニンの6個のトリプトファンを各々アラニンに置換した変異体の解析から、ライセニン、LRP-1およびLRP-2の間で保存されているトリプトファンはライセニンの活性に必要であることを示した。

 第三章ではこれまで糖脂質合成阻害剤とされていたD-threo-1-phenyl-2-decanoylamino-3-morpholino-1-propanol (D-PDMP)が後期エンドソームに蓄積し、エンドソーム特異的脂質、ビス(モノアシルグリセロ)リン酸(BMP)がつくる高次構造を変化させることを示した。またBMPがコレステロールエステルの分解に関与する酸性リパーゼを著しく活性化させることを初めて明らかにし、D-PDMPがBMPによるリパーゼ活性の亢進を阻害することを示した。さらにこのリパーゼ活性の阻害により後期エンドソームにコレステロールエステルが蓄積し、コレステロールが生成しないために形質膜のコレステロールの低下、小胞体でのコレステロールのエステル化が阻害されることを示した。形質膜でのコレステロールの低下は形質膜に存在する抗がん剤のくみ出しを触媒するP-糖蛋白質の活性を抑え、それにより抗がん剤の細胞への取り込みが上昇することを示し、D-PDMPによる多剤耐性がん細胞の抗がん剤への感受性への増大は、糖脂質合成の阻害ではなく、BMPの機能の阻害の結果起こることを明らかにした。

 以上、本論文は特異的な脂質に作用するシンナマイシン、ライセニン、およびD-PDMPの作用機序を明らかにすると共に、エンドソーム特異的脂質、BMPの新たな機能を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42880