学位論文要旨



No 216585
著者(漢字) 田中,周二
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,シュウジ
標題(和) 生命保険と年金のリスク管理の数理
標題(洋)
報告番号 216585
報告番号 乙16585
学位授与日 2006.09.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 第16585号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 楠岡,成雄
 東京大学 教授 岡本,和夫
 東京大学 教授 舟木,直久
 東京大学 教授 吉田,朋広
 東京大学 准教授 稲葉,寿
内容要旨 要旨を表示する

 生命保険と年金の財政管理・運営は、保険料計算(Pricing)と並んで、伝統的にアクチュアリー(保険数理人、年金数理人)が担う重要な職務となってきた。そのためには、保険契約や年金の債務をどのように客観的に評価すべきかという責任準備金評価(Valuation)の問題がまず大きな課題とされた。銀行のような金融機関の負債は、大部分が短期の預金などであり、預金残高そのものを負債と評価しても大きな差異はない。しかし、生命保険や年金では、キャッシュフローが超長期であり、また死亡や脱退などの不確実性が内在している。こういった特徴を有する債務評価を行う技術として保険・年金数理(actuarial mathematics)が誕生したのである。伝統的な保険・年金数理の世界では、例えば死亡率や脱退率は確定的な年齢や勤務年数に依存する関数と置かれ、その前提にもとづいてキャッシュフローを予測し、そのキャッシュフローを固定した利率で割り引くという実務が行われてきた。しかしながら、前提となる計算基礎率どおりに事態が推移してはじめて、加入してからキャッシュフローが満期時点で収支残がゼロになって辻褄が合うことになるため、計算基礎率の不確実性を考慮した場合には、当然のことながら過不足が生じることになる。このため、計算基礎率の設定に際しては、安全割増<割引>(safety margin)を考慮した保守的アプローチをとってきた。この方式は、世の中が安定しており、保険会社や年金基金を取り巻く環境の変化が小さい時代には、よく機能してきた。

 しかし、運用環境や競争環境の大きな変化にはこのような伝統的なアプローチだけでは耐えられないことが次第に明らかになってきた。例えば、1970年代後半の米国においては、高金利政策がとられたため、多くの貯蓄銀行(S&L)や生命保険会社の契約が解約されたり、資金が引き出され、高金利商品に向かっていったため、ALMの失敗に起因する財務上の危機を経験することになった。また、わが国の1990年代以降の伝統的な大手生命保険会社では、株価、不動産価格の大幅下落に加え、超低金利政策がとられたため高い予定利率が保証された膨大な既契約からは毎年、大きな逆ザヤが生じることになり、21世紀を迎えても解消することはできず大きな重荷を背負ったままである。これは年金基金においてもまったく同様の経過を辿った。1990年代以降、わが国の企業年金の財政は、生命保険会社と同様に大幅な逆ザヤを経験することになった。ただし、年金基金の場合には、多くの場合、所要財源の負担は企業が負うため、保険料の増加や、場合によっては労働組合などの合意を得て、給付の引き下げという形で対応することになった。

 このように責任準備金という契約債務は多くの場合、法律上の概念として規制の対象となっており、柔軟性に乏しい場合が多い。生命保険会社の責任準備金は、経費を考慮しない平準純保険料式(Level Net Premium)のほか、チルメル式(Zillmer)や営業保険料式(Gross Premium)のように、外務員や維持管理に要する経費支出も考慮した負債評価を行なうものもあり、国や規制目的により異なっているのが現状である。年金基金でも特定の財政方式のみ認める規制がある国が多い。このような実態から責任準備金に見合う資産を保有しているだけでは、財政の健全性が保たれているとは到底、主張することはできない。そこで、法的に定義された負債概念を超えて保有すべき資産の額(広義資本)をどう決めたらよいのか、保険会社や年金基金の経営にとってどのようなリスクに見合う資本(経済的資本)が必要か、などの議論が生まれてきた。さらに、生命保険会社や年金基金の安定した財政運営のための負債を考慮した資産運用はどのようにあるべきか、というALM(Asset-Liability Management)やその他の事業リスクや災害リスクをも含んだERM(Enterprise Risk Management)のような枠組みに対しても多くの関心が寄せられるようになり、特にアクチュアリーが当該分野では大きな役割を発揮すべきことが期待されているのである。

 論文は、まず第1章から第4章までで生命保険分野のリスク管理をとりあげる。第1章では、特に1990年代までの米国の生命保険会社のソルベンシー概念とALM・リスク管理の手法との関連に焦点を当てて分析する。当時の生命保険会社ではキャッシュフロー・テスティング(Cashflow testing)と呼ばれるシミュレーション型ALMがよく使われていた。これは、生命保険会社のバランスシート項目を確率論的にシミュレートし、剰余金や配当可能剰余などの確率分布により会社の財務健全性をチェックしようとするものである。

 第2章から第4章までの各章では、独自に開発した生命保険会社のバランスシート型ALMモデルについて解説する。1990年代以降の生命保険会社のALMはいわゆるバランスシート型ALMに注目が集まり、現在の保険会社のバランスシートの剰余金(surplus)が金利、その他の要因の変化によってどのような影響を受けるかを計量的に把握する感応度分析を主な分析手法とするものである。最近ではさらに資本コストとの関連により、商品や部門の採算管理とリスク管理を統合した会社の内部モデルの開発が課題になってきている。第2章では、より具体的に生命保険会社のバランスシート型ALMを資産と保険負債を確率微分方程式によりモデル化した枠組みでのモデルを提案し、生命保険会社の事例のもとで数値実験を行い、実用化への試みを行っている。第3章は機関投資家の資産サイドの実際のモデリング、第4章では保険負債の実際のモデリングを扱う。

 資産側のモデルは、具体的には、誘導型(reduced form)の信用リスクのある社債モデルから出発する。

 債券(株式)を発行しているn社の企業があるとき、デフォルトフリーな金利(スポットレート)r(t)と企業jのデフォルトをあらわすhj(t)を要素とするハザード率ベクトルh(t)=(h0(t),h1(t),...hj(t),...hn(t))を導入する。特に、h0(t)=r(t)である。これらは、観測確率Pの下で、次の確率微分方程式を満足すると仮定する。

 一定の条件下では、適当な測度変換が可能であり同値なリスク中立測度のもとでこの社債の価格付けが可能となる。この場合、ハザード率の変動性に由来するリスクプレミアム調整率という項がでてくる。さらに、株式についてもデフォルト時に株価がゼロになるという条件を入れ、これを多国間に拡張することもできる。第2章では、この信用リスクモデルのデフォルトを死亡や解約失効といった脱退事象に読み替えることにより、保険負債のリスク中立測度のもとでの公正価値評価を行うことができる。

 生命保険契約は、「満期Tjまでに解約せずに生存していたら満期時点でSe,jを受け取り、時刻τqj(<Tj)に死亡すれば死亡時点でSd,j(τqj)を受け取り、時刻τwj(<τqj)で解約すれば解約時点でSw,j(τwj)を受け取る権利を有する生命保険証券jに対し、契約者は時点tji(>0)に保険料Pjを払い込む条件付請求権(contingent claims)」という解釈が成り立つため、2資産のバスケット型のデフォルトスワップのキャッシュフローと形式的には一致している。この類似性に気付けば、保険証券の価格付けもバスケット・デフォルト・スワップと同様に可能となる。生命保険証券の場合には市場で取り引きされないため、リスクの市場価格をどう推定するかという問題が残っており、これは現在、保険の国際会計基準やソルベンシー規制で話題になっている「保険債務の公正価値」の評価方法における残された大きな課題の一つ"Market Value Margin"の評価方法に直結する問題である。

 この負債評価と、資産評価を統合することにより、生命保険のバランスシート型ALMのモデルの骨格が完成する。第4章ではこの理論モデルを実用化するための具体的検討を行う。生命保険のALMのためのリスク管理指標であるデュレーションをはじめとする各種リスク指標を導入し、パフォーマンス評価の枠組みも提案する。

 第5章と第6章では、企業年金分野をとりあげる。第5章ではシミュレーション型ALMとバランスシート型ALMの企業年金版の解説を行う。企業年金におけるALMは財務健全性もさることながら、主に資産運用方針の決定に利用されることが特徴となる。第6章では、2要因のデュレーション指標を用いた企業年金ALMの方法論について述べる。

 最後に、保険を含む金融全般のリスク管理の方向性について著者なりのパースペクティブを述べて締めくくる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、生命保険会社における資産負債の管理運営(ALM)をテーマとして、新しい数学モデルを構築し、モデルのシミュレーションを通じて生命保険と年金に関するリスク管理を全般的に論じたものである。

 生命保険と年金の財政管理・運営は、保険料計算と並びアクチュアリー(保険数理人)が担う重要な職務である。そのため、従来は責任準備金評価が重要な課題とされてきた。しかし、生命保険・年金はキャッシュフローが超長期的であり、また死亡、脱退などの不確実性が内在している。伝統的な保険・年金数理では、金利、死亡率、脱退率などを一定として、保険料・責任準備金の計算を行ってきた。しかし、近年の金融自由化に伴い、様々な不確実性が現れ、伝統的な手法では対応できなくなった。1970年代のアメリカでは高金利となり、生命保険会社の契約が多数解約され、財務危機に陥った。また、1990年代の日本では証券価格が下落したが、一方で高い予定利率を保証していたため生命保険会社が相次いで破綻した。このため、不確実性を考慮したALM手法が必要となった。

 本論文ではまず、1990年代までの米国の生命保険会社のソルベンシー概念とリスク管理手法を概観した後、米国で当時開発されたキャッシュフロー・テスティングなどのALM手法について解説している。

 さらに、本論文では、これら従来のALM手法に対して、新しい生命保険会社における資産負債統合型のファイナンスモデルを提唱し(これは現在、田中・室町モデルと呼ばれている)、それに基づくALM手法についての研究を数値実験を軸として行った。本モデルの特徴は以下のような点にある。

1.資産サイドでは国債・社債・株で運用するとしており、金利を含む市場リスク、債務不履行などの信用リスクを考慮している。社債の価格に対しては、ファイナンスにおけるモデルである誘導型信用リスクモデルを採用している。

2.負債サイドにおいては、生命保険・年金を条件付き請求権として考え、死亡率・解約率・脱退率も金融状況に依存して変動する確率過程として定式化している。

3.本モデルでは決算期における貸借対照表に注目しており、資産額・負債額の計算において時価評価会計を取り入れている。そのため、決算期における収益額の分布を数値実験により与えることができる。

 なお、社債の評価については、ハザード確率に基づき個々の会社が債務不履行に陥いる状態までもモデル化されているが、生命保険・年金契約については契約者が多数いるため大数の法則が満たされるとし、実際の支払い額は条件付き平均で与えられるとしている。また、短期無リスク金利、株価、社債のハザード率、死亡率、解約率、脱退率などはすべて時間依存型の拡散過程型の確率微分方程式で与えられている。

 モデルそのものは、大きな確率微分方程式の系で与えられるので、ここでは資産サイドにおける金利とハザード率の方程式の形のみを与えておく。

 t>O,j=1,...,n.ここで、r(t)が金利過程、hj(t),j=1,...n,が会社jの債務不履行に関するハザード過程である。Zj(t)はブラウン運動で、d<Zi,Zj>(t)=ρij(t)dtを満たすと仮定されている。

 時価評価にあたっては、与えられた確率測度での単なる条件付き期待値ではなく、リスク中立確率測度の下での条件付き期待値を計算する必要がある。このため、単純なモンテカルロシミュレーションを用いることは出来ない。システムが巨大であるために、係数が一般の場合には、現在知られている数値計算手法ではリスク中立確率での期待値を効率的に行うことが難しい。このため、論文では、リスク中立確率下の期待値の公式が知られているガウス型の場合に数値実験を行っている。数値実験の結果、決算期における資産状況の確率分布はリスクとなる下方向には裾野が広くなることが確認されている。これは会社の債務不履行の影響によるものであることが検討により確認されている。

 論文ではさらにデュレーションなどの各種の古典的なリスク指標に基づく管理の評価をモデルに基づき行っている。

 このように本論文では時価評価会計に耐えうる生命保険会社におけるALMのモデルを提示し、数値実験による解析を行うと同時に、これまでのALM手法との比較検討が行われており、生命保険におけるALMに対して新しい視点を与えており高く評価できるものである。

 よって、論文提出者 田中 周二 は、博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい十分な資格があると認める。

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