学位論文要旨



No 216592
著者(漢字) 長谷川,純一
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ジュンイチ
標題(和) 経済発展における技術変化と社会制度 : 江戸後期と明治初期の比較
標題(洋)
報告番号 216592
報告番号 乙16592
学位授与日 2006.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 第16592号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,恒昭
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 山路,永司
 東京大学 助教授 佐藤,仁
 東京大学 助教授 石田,哲也
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、途上国の経済発展において、社会制度が果たす役割を考察するものである。途上国の経済成長の足跡は一様ではなく、国により大きく異なっている。東アジアの国々ように「奇跡」といわれる高度成長を経験する国がある反面、サブサハラアフリカの多くの国々のように、長期にわたり停滞を続ける国がある。この格差を説明するためには、途上国の経済成長の仕組みを明らかにする必要がある。経済成長は、一般に、生産要素の蓄積と技術進歩によってもたらされると考えられる。しかし、技術進歩のメカニズムについては、依然として不明な点があるため、途上国間の格差は、十分には説明されない。途上国間の技術変化に関する先行研究を、途上国間格差の説明に着目して分類すると、以下のとおりである。

 1)人的資本論:途上国間の技術変化の違いを、人的資本の違いによって説明しようとする議論。

 2)労働節約型・スキル偏重型技術進歩論:先進国で開発される技術は、労働節約型・スキル偏重型技術進歩であり、途上国には適さない場合があるという議論。

 3)技術伝播コスト論:Learning by doing・スピルオーバー効果・ローカリゼーションなど、技術伝播にはコストが必要であるとする議論。

 4)社会制度論:途上国の技術伝播には、社会制度が影響するとする議論。

 人的資本の議論は、技術変化に必要な能力が人的資本によって提供されると考える点において、途上国の技術変化の仕組みを明らかにすることに成功している。しかし、同じ水準の人的資本をもつ途上国の中に、技術変化に成功する国と成功しない国が存在することについては、有効な説明が困難である。

 労働節約型・スキル偏重型技術進歩論と技術伝播コスト論については、途上国に特有な技術変化の仕組みの一部を明らかにしている。しかし、途上国間で技術変化の成否が分かれる理由を説明することはできない。技術伝播にコストが必要であるとしても、途上国間でそのコストが異なる可能性については、論じられていない。

 したがって、途上国間の技術変化の相違について議論しようとすると、社会制度の違いに、踏み込まざるを得ない。しかし、社会制度論は、古くから途上国研究において議論が試みられたものの、社会制度という概念が漠然としているために、これまで大きな議論の進展はなかった。漠然とした概念を議論するためには、より議論しやすい概念に分解することが必要である。そのため、本論文は、社会制度のうち、技術変化に影響すると考えられる要因を抽出し、分解することによって、途上国の技術変化の仕組みを考察する。

 本論文では、まず、技術が伝播する経路と伝播の方法について検討した。その結果、どの経路にも共通して、人的資本が重要な役割を果たしていることがわかった。財の貿易によって新技術を伝播するためには、製品を模倣するだけの知識水準が必要であり、その知識水準は人的資本によって提供される。また、ライセンスによる技術の購入と直接投資による技術の導入は、途上国の側に、その技術を習得するために十分な知識水準がないと円滑な技術伝播は起こらない。ここでも、人的資本の蓄積による新技術習得能力が要求される。

 ではなぜ、技術伝播には人的資本の蓄積が必要とされるのか。この点を理解するために、人が新しい知識を学習する時の仕組みについて、認知科学の理論を使って検討した。認知科学の理論では、人が新しい知識を理解するためには、既存の知識と比較・関連させてこれを理解するという。この考えを途上国の技術伝播の場合に適応すると、新しい技術を利用するためには、その技術に伴う新しい知識を理解することが必要であり、そのためには、既存の知識水準が新しい知識の近辺になくてはならないことがわかる。既存知識が新知識とかけ離れていた場合には、新しい知識を既存の知識と関連づけようとしても、関連づけがうまくいかず、そのため理解が進まないと考えられる。

 このように、人的資本は、経済発展に必要な生産技術を習得・利用する能力を提供する。また、技術変化が起こるには、常に人的資本の蓄積がなくてはならない。しかし、人的資本の蓄積があれば、必ず技術変化が起こるかというと、そうではない。国により技術変化の状況は、大きく異なる。本論文では、その説明を社会制度の違いに求め、国ごとの社会制度の相違について検討した。

 技術変化に対する社会制度の影響を検討した結果、3つの分野で技術変化に関係すると考えられた。(1)「社会の変化に対する抵抗」、(2)「社会の対外開放度」、(3)「契約履行の状況」の3つである。社会が、変化を好まず、伝統的な技術に固執する場合には、新たな技術は選択されない。高度な人的資本をもっていても、社会が閉ざされていて、外国からの情報が伝わらなければ、技術変化は、やはり、起こり難い。また、法と規範によって契約が遵守されない社会では、新技術を導入する利益が守られず、新しい技術を導入する誘因は減少する。

 本論文では、これらの社会制度の要素が技術変化に影響するかについて、江戸後期と明治初期の技術変化の比較による検証をおこなう。そのため、製鉄技術、製茶技術、綿製品生産技術における技術変化を考察した。これら3つの分野では、いずれも、江戸後期には技術変化はほとんど見られず、明治初期に、非常に大きな技術変化が発生している。

 日本の江戸時代は、厳しい身分制度と世襲制度によって、社会が変化を求めなかった時期である。人々は、旧来の習慣を踏襲することに懸命であり、新しい技術の導入には消極的であった。武士階級は、門閥制度の下で家名を守ることが最重要事項であると考え、先例を尊び、格式が重んじられた。商人には、投機的な新しい業務を意識的に避け、伝統的な業務に活動を限定する傾向があった。また、幕府が設計した経済システムは、石高による統治であり、米作を中心としていたことから、農民は、作付けの自由を厳しく制限され、米作に強く縛られていた。加えて、江戸幕府は、発明・改善などの新商品開発を禁止する政策を採っていた。そのため、在来の道具を用いた修練が極度に重視され、外国の事情を研究した者は処罰されることもあった。したがい、江戸後期は、社会的に変化を好まない傾向があった時代と考えられる。

 江戸時代とは反対に、明治初期は変化の時代である。明治政府は、身分制度を廃止し、廃藩置県を行なって、人々の移動と職業の自由化を実現した。教育制度が新たに設けられ、国民全員が基礎教育を受けることが可能となった。これらの変化が、わずか10年余の間に起こっている。政治、法律、教育、産業など、すべての分野で、従来の考え方を変化させるよう、人々は求められた。急速な変化に、戸惑う人も多くいたが、社会全体の動きとしては変化を受入れている。明治初期の社会は、社会の変化に対して、積極的にこれを受入れる時代となっていた。このように、江戸後期と明治初期は、大きく異なった社会制度をもち、このことが、技術変化に対しても強い影響を与えた。

 社会制度が技術変化に関係する第2の要素は、「社会の対外開放度」である。社会の対外開放度とは、単に外国との通商関係をもつだけでなく、人々が外国の製品と文化にどれほど強い関心を寄せるかに依存すると考えられる。日本の江戸時代は、鎖国によって通商と海外情報の伝達が制限されていた。わずかに中国との生糸の貿易のために通商が維持されていたに過ぎず、人々にとって、外国からの情報は完全に遮断されていた。したがって、江戸時代の対外開放度は、極端に低い。ところが、明治初期には、通商を開始したばかりでなく、外国へのミッション・留学生の派遣を積極的に行ない、外国人の技術者を大量に雇用するようになった。江戸時代と比較すれば、180度の方向転換である。

 社会制度のうち第3の要素である「契約履行の状況」については、技術伝播に深く関与すると考えたものの、江戸後期・明治初期の比較では、関連する事例を見出すことができなかった。なぜ、「契約履行の状況」が技術伝播に関与しなかったのかについて、明確に指摘することは難しい。だが、その理由として、3つの推論が成り立つ。第1に、明治初期に急激に法制度が変化したにもかかわらず、インフォーマルな制度は大きく変化しなかったために、社会制度全体としては、大きな変化がなかった可能性がある。第2には、両時期の契約履行の状況は、いずれも、技術変化を妨げるほどには低くなかった可能性である。第3は、そもそも、「契約履行の状況」が技術伝播に関与すると考えたのが、間違いであった可能性である。

 本論文の目的は、社会制度が技術変化に影響することを示すことにある。この点について、江戸後期と明治初期という、隣接しながらも、大きく変化した時代を取り上げることによって、明確に示すことができたと考える。経済学では、長い間、「その他の条件を一定とすれば」という前提をおくことによって、社会制度の影響を無視してきた。しかし、途上国の経済発展を考慮するうえで、社会制度が技術変化に影響するとすれば、この前提は変えなくてはならない。国ごとの社会制度の違いを認識することにより、途上国の経済発展にとって、より有効な開発戦略の議論が可能となると考える。

 また、漠然とした概念である社会制度について、「社会の変化に対する抵抗」、「社会の開放度」、「契約履行の状況」という3つの要素を示したことは、社会制度を分解(unbundle)する第一歩として位置づけたい。社会制度のunbundleについては、Acemoglu and Johnson 2005が、最近の研究成果として発表された。社会制度という広い概念の事象を要素に分解して検討することは、重要であると考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、経済発展において重要な役割を担う技術変化と社会制度の関係性を歴史的事例の比較を通して解明しようとしたものである。一国の経済発展と技術進歩には強い相関があることは知られているが、技術進歩のメカニズムについては、依然として不明な点が多く、近年の途上国に見られる経済成長の格差を十分には説明できていない。本論文は技術進歩を技術変化として捉え、これをもたらす、あるいは阻害する要因としての社会制度とは何かを問うものである。この問いに答えるために、本論文は7章で構成され、前半の4章で既往研究の検討を通して分析の枠組みを設定し、後半では事例比較に基づく検証を行い、途上国への政策的含意を持つ結論を導いている。

 第1章においては経済成長理論における技術変化と経済成長に関する既往研究をレビューし本研究の位置づけを明確にしている。第2章では技術変化が経済成長に大きく影響する実証研究を論述している。さらに技術変化と人的資本について既往研究を詳細にレビューし、人的資本は生産技術を理解し、習得し、利用する能力を提供するという意味において、技術変化の説明に有効であることを指摘している。第3章では、技術伝播のメカニズムについて考察し、技術が伝播する経路や、伝播の方法などについて認知科学の理論を用いて検討し、既存の人的資本が提供する知識水準と、新たな技術の知識水準とが、接近している時にのみ技術伝播が行なわれると結論付けている。第4章では、途上国の中には人的資本が蓄積されていても、技術変化が効率的に起こる国とそうでない国が存在する。この現象に焦点を当て、国ごとの技術変化の違いは社会制度の違いで説明できるとの作業仮説を立てる。既往研究を通して技術変化に対する社会制度の影響を整理した結果、技術変化に大きな影響を与える社会制度として3つの分野(社会制度要素)を抽出した。すなわち、(1)社会の変化に対する抵抗、(2)社会の対外開放度、(3)契約履行の状況、の3要素である。

 第5章と第6章では、上記で特定した3つの社会制度の変化が技術変化にどのような影響を与えたかについて、江戸後期と明治初期における社会制度と製鉄業、製茶業、および、製綿業における技術変化の事例を検証している。第1の要素について、江戸後期は「社会の変化に対する抵抗」が著しく高く、一方、明治初期はそれが急激に低下した時代であったことを示している。第2の要素である「社会の対外開放度」について、江戸時代の対外開放度は極端に低く、一方、明治初期には、通商を開始したばかりでなく、外国へのミッション・留学生の派遣、外国人技術者の雇用など急激な対外開放を行なったことを示している。さらに、社会制度の第3の要素である「契約履行の状況」については、技術変化に深く関与すると仮定したものの、江戸後期・明治初期の比較では、関連する事例を見出すことができず、今後の課題として残った。

 これらの事例検証を踏まえて、最終章の第7章において以下の主要な結論を導いた。

 (1)途上国に存在する技術変化の違いは、一般に、人的資本の蓄積の差によって説明される。

 (2)だが、その社会が変化に対する抵抗を持つとき、および、対外開放度が低いときには、人的蓄積があっても、技術変化は生じにくい。

また、現在の途上国の技術変化に対しては以下の示唆を与えている。

 (3)人的資本の蓄積を図っても、経済成長が加速化されていない国では、社会制度が障害となっている可能性がある。

 本論文の成果の第1点目は、既往の理論的研究と実証的研究の双方を丁寧にレビューすることにより、技術変化に影響を与える社会制度の3要素(社会の変化に対する抵抗、社会の対外開放度、契約履行の状況)を抽出しことは、先行研究に見られないオリジナルな研究成果である。第2点目は、これらの社会的制度要素と技術が急激に変化した経験を持ち、かつての途上国であった日本の江戸後期と明治初期に焦点を当てて、社会制度と技術変化の関係性を示したことである。この分析手法は経済学的マクロな視点と技術史的ミクロな視点の両面からのアプローチであるとともに、現在の途上国の課題を見据えた分析視点でもあり、ユニークな分析手法と評価できる。結論で得られた命題(仮説)は現在の途上国における経済発展、技術変化、社会制度の3者の相互依存性の議論に付加価値を与えるものである。すなわち、本論文で得られた知見は開発戦略の策定や開発協力政策に一定の実務的で有意義な貢献をなすものと期待できる。また本論文で抽出した社会制度に関する3つの制度要素は、社会制度を分解(unbundle)する第一歩の試みとして位置づけることができ、今後の発展性を示唆するものである。以上により、本論文は、博士(国際協力学)を授与するに値するものと認めることができる。

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