学位論文要旨



No 216593
著者(漢字) 石井,菜穂子
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,ナオコ
標題(和) 長期経済成長を支える制度に関する研究
標題(洋)
報告番号 216593
報告番号 乙16593
学位授与日 2006.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 第16593号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,恒昭
 東京大学 助教授 湊,隆幸
 東京大学 助教授 佐藤,仁
 東京大学 助教授 澤田,康幸
 東京大学 助教授 田中,弥生
内容要旨 要旨を表示する

世界は現在、圧倒的な所得格差に直面しており、かつ格差は縮小する傾向を見せていない。この所得格差は、産業革命以降の200年間にわたる持続的な経済成長――現代経済成長――の過程で生じている。本論文は、世界における所得格差が持続的経済成長軌道に乗った国とそうでない国の間に生じていることに着目する。なぜある国は持続的経済成長軌道に乗ることが出来るのに、他の国は出来ないのか。なぜある国は停滞してもまたキャッチ・アップできるのに、他の国は出来ないのか。本論文の研究目的は、まずある国が持続的経済成長軌道に乗るための条件を特定することを試みる。次にその研究結果を活用して、持続的成長軌道に乗ることが出来ずに停滞している低所得国に対し、政策提言を行うことである。

新古典派経済学や制度分析は、一国の経済成長を扱うにあたって、どのような条件下である国が持続的成長軌道に乗るのかいう疑問に、十分に答えていない。新古典派経済学は、分析対象を狭義の経済システムの内部に限定し、その経済システムの内部における成長メカニズムの機能に着目してきた。しかし現実の経済では、成長メカニズムが機能するかどうかは、その周辺を取り巻く種々の環境条件に依存する。そうした環境条件には、社会制度・政治制度・文化制度、さらには、地理的条件や地政学的条件などの外生的な条件も、含まれうる。しかし本論文は、そうした幾多の環境条件の中から、成長メカニズムの機能に直接的な関連を有し、かつ政策的にコントロールすることがある程度可能である「制度」に着目する。本論文においては、持続的経済成長は、環境条件としての制度が改善を続ける場合に、定常状態がそれにつれて上方シフトを続け、その定常状態に向かって現実の経済が移動し続けることから、起こると考える。

それではどのようにして、成長メカニズムを機能させるための環境条件としての制度を特定するのか。本論文では、現代経済成長が産業革命の勃興・伝播と軌を一にして生じた事実に着目する。すなわち、現代経済成長は、産業革命が勃興したイギリスに始まり、産業革命がヨーロッパから新大陸へ、さらには極東へと伝播した軌跡とともに、生じている。しかし一方で、産業革命が起こらなかった、あるいは遅れて起こった地域もあることから、どのような条件が整ったときに産業革命が伝播したのかを分析することにより、「成長メカニズムを機能させる環境条件としての制度」の特定を試みる。この作業を経て特定された制度としては、(1)その国の発展段階に最も必要とされる技能を備えた労働者を育てるシステム、(2)技術を自国の発展度合いに合わせて適切に選択、吸収、開発する制度、(3)成長メカニズムを機能させるためのインフラ整備といった、成長のための投入要素を最大限に育成し活用する制度、が挙げられる。また、(4)投資に対する成果を保証する経済取引制度の存在や、(5)経済取引を効果的に行うための政治的・社会的安定、さらには(6)その国の発展のための戦略を立て、その目標に向けて利用可能な資源を効果的に結び付け、そのための制度整備を行うリーダーシップの存在である。本論文では、制度に関する最近の実証研究ならびに理論面での研究成果をサーベイすることによって、制度が適切に特定されているかどうかを確認する。

本論文では、「ある国が持続的成長軌道に乗るためには、ここで特定した6つの制度が備わっていることが必要であり、かつその6つがバランスよく発達していることが必要である」という仮説――『制度のミニマム・セット仮説』――をたてる。そして、回帰分析によってこの仮説を検証する。本論文で用いる計量分析モデルは、Mankiw = Romer = Weil 論文 (1992) で定式化された、拡張されたSolowモデル(augmented Solow model)における、レベル効果(level effect) の回帰式を応用したものである。作業としては、104カ国に関して、6つの制度の発達度を表すための数値化を行い、所得水準と回帰させる。ここで特定した6つの制度の数値化にあたっては、企業家へのアンケートをベースとするビジネス・サーベイ・データを活用する。

回帰分析の結果、(1)持続的成長軌道に乗るためには、特定された6つの制度が備わっていることが重要である、(2)6つの制度がバランスよく発達していることが重要であり、未発展な制度がある場合には、それが持続的成長への隘路となる、という推計結果が得られた。ここから、『制度のミニマム・セット仮説』が、一定程度の説明力を有することが確認された。さらに、制度間の補完性をみると、「人的資本」と「技術革新力」との間に、また有意の程度は落ちるが、「人的資本」と「社会的結合力」、「インフラ構築」と「経済制度」の間にも補完性があるとの結果が得られた。また発展段階別にどの制度が重要になるかという推計を行うと、発展段階の低い間は「人的資本」と「物的インフラ」の重要性がとりわけ高く、中位グループになると「技術革新力」の重要性が最も高くなり、高所得グループになると再び「人的資本」ついで「経済制度」、程度はさがるが「ガバナンス」が重要になるとの結果が示されている。こうした推計結果は、具体的な政策提言を行うにあたって、提言の幅を広げるものとして活用することが出来る。

『制度のミニマム・セット仮説』から得られる政策含意は、ある国が持続的成長軌道に乗るためには、特定された6つの制度の中で最も未発展な制度に開発努力を集中するというものである。本論文では、「最も未発展な制度」の発見を容易にする道具として、特定された6つの制度を六角形(『制度の六角形』と称する)の形で表現し、その凹み具合によって、当該国にとって相対的に未発展な制度が一目瞭然となるようにする。そして幾つかの国についてケース・スタディを行い、その国の『制度の六角形』がどのような経緯で生じたものか、またその凹みの大きいところを改善するにはどのような政策努力が必要かの提言を試みる。例えば下記の図は、ベトナムの『制度の六角形』である。この六角形から、ベトナムの持続的成長のためには、物的インフラ制度と技術革新力への投資が優先されるべきことが提言できる。こうした提言にあたっては、「自己拘束性」「戦略的補完性」といった、近年の比較制度分析の成果を活用する。また制度間の補完性に関する推計結果を活用して、「人的資本」、「社会的結合力」がともに未発展な場合には、「社会的結合力」を高める努力を行うのではなく、「人的資本」育成のために資源を集中することを提言する。

最後に、本研究に関する制約と今後の課題について検討する。第一に、仮説の検証に関する制約と課題について述べる。この分野の困難の第一は、「経済制度」「ガバナンス」「社会的結合力」といった制度は、比較的新しく誕生した概念であり、それが成長に影響を及ぼす経路についてまだ解明が必要なことである。第二に、これらの制度の質をどのように数値化して回帰分析を行うかである。こうした「ソフト」な制度は、その数値化に使われるサーベイやデータ・ベース化が比較的最近になって始まったものであることが多く、長期にわたったデータの利用可能性に限界がある。第三に、『制度のミニマム・セット』として特定された制度の多くは、所得が上昇すると制度の質も向上し、制度の質の向上が今度は所得の向上をもたらすという、いわば所得との間で双方向の因果関係を有するため、この内生性の問題を緩和するための工夫が必要である。本論文では、操作変数法を試みたが、説明力は必ずしも向上しなかった。こうした分野でさらに研究が進めば、制度と持続的経済成長との関係の説明力がさらに向上することが期待される。

本研究に関する制約と今後の課題に関する第二の分野は、政策提言への活用方法に関するものである。『制度の六角形』はたしかに、当該国の制度の成熟度、とりわけ未発展な制度の存在を視覚的に示す。そこから政策担当者あるいは援助関係者は、優先的に資源配分を行うべき制度を特定することが可能となる。しかしながら、本研究で特定した制度は、いずれも比較的広い範囲を指すものであり、様々な要素の複合からなっている。具体的で有用な政策を提言するためには、『制度の六角形』によって未発展とされた制度がなぜそうした形になっているのか、その歴史的な経緯にさかのぼって理解し、複合的な要素の中で、その制度の発達に最も効果のある政策手段オプションの分析や有効性などを分析する努力が必要である。

ベトナム

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は一国が持続的経済成長軌道に乗るための制度条件を特定し、制度と持続的経済成長の関係性を定量的に分析し、停滞している途上国における制度に関する政策提言を試みようとしたものである。

 本論文は6章より構成される。第1章と第2章では世界における所得格差の状況を歴史的にレビューし、世界規模での一人当たりの所得格差の発生と拡大は産業革命以降の約200年間に生じたことを明確にする。既往研究、とりわけ新古典派成長論の分析枠組みや、比較制度分析の成果や社会的な仕組みにも着目した理論・実証研究をレビューし、本論文の中核的分析視点である「成長メカニズムが機能するための環境条件としての制度」に着目して本論文の分析枠組みを規定している。

 第3章では、現代経済成長をもたらした産業革命の伝播の歴史を辿ることによって、成長に不可欠な以下の制度を特定する:(1)その国の発展段階に適した技能を備えた労働者を育てるシステム(人的資本)、(2)技術を自国の発展度合いに合わせて適切に選択、吸収、開発する制度(技術革新力)、(3)市場アクセス・コスト軽減のためのインフラ構築(インフラ整備)、(4)投資に対する成果を保証する経済取引制度(経済制度)、(5)より多くの国民が経済取引に効果的に参加するための政治的・社会的安定(社会的結合力)、さらに(6)戦略を立て利用可能な資源を効果的に結び付け、制度整備を行うリーダーシップの存在(ガバナンス)、である。本論文ではこれらを『制度のミニマム・セット』と定義する。

 第4章は本論文のハイライトである。「持続的成長軌道に乗れないのは『制度のミニマム・セット』が備わっていないからである」という仮説を回帰分析手法によって検証する。104カ国に関して、特定された6つの制度の成熟度を数値化する。このために世界規模で実施されている企業家へのアンケートをベースとしたデータを活用する。回帰分析の結果、(1)持続的成長軌道に乗るためには、特定された6つの制度が備わっていることが重要である、(2)6つの制度のバランスが重要であり、未発展な制度がある場合にはそれが持続的成長への隘路となる、という推計結果を得る。さらに、制度間の補完性を分析し、「人的資本」と「技術革新力」との間に、また有意の程度は落ちるが、「人的資本」と「社会的結合力」、「インフラ整備」と「経済制度」の間にも補完性があるとの結果を得ている。また低い発展段階の国のグループでは「人的資本」と「インフラ整備」の重要性がとりわけ高く、中位国グループになると「技術革新力」の重要性が最も高くなり、高所得グループになると再び「人的資本」ついで「経済制度」が重要になるという結果が示された。一方、著者も指摘しているように、制度の概念自体の曖昧さ(とりわけ社会的結合力やガバナンス)や定性的制度の数値化に伴う問題、また被説明変数は一時点での一人当たり平均所得を用いており、長期成長率を用いていないことなどに留意が必要であると銘じている。

 第5章では、特定された6つの制度を六角形で表現し、その凹凸によって、当該国にとって相対的に欠如している制度が視覚化される。

 最後の第6章では、分析の結果として、最も未成熟な制度に開発努力を集中させることを提言する。一方、著者も指摘しているように、制度と経済成長は双方向作用であることに留意すること、また未発展とされた制度を歴史的な経緯に遡って理解し、複合的な相互作用の中でその制度の発達に最も効果のある政策手段の検討に留意するべきこと、なども併せて指摘している。

 本論文は、産業革命後の世界各国における持続的経済成長と制度の特徴を検討することによって、一国に長期的経済成長をもたらす重要な条件として、6つの制度からなる『制度のミニマム・セット(人的資本・技術革新力・インフラ整備・経済制度・社会的結合力・ガバナンス)』を特定化した。加えて、これらの制度と持続的経済成長の相関性をクロス・カントリーで定量的に分析し、(1)持続的成長軌道に乗るためには、ミニマム・セットが備わっていることが重要である、(2)ミニマム・セットがバランスよく発達していることが重要であり、未発展な制度がある場合にはそれが持続的成長への隘路となる、ということを明らかにした。加えて、制度間の補完性の分析結果も提示している。これらの知見は既往研究には見られないオリジナリティの高いものである。今後、これらの制度に関するデータの改良と蓄積が行なわれれば、開発途上国の制度改革と持続的経済成長の議論をさらに深めるという発展性も期待できる。また、発展段階別や地域別にみた『制度の六角形』は当該国の開発優先課題の選択や関連する政策検討に実務上の有益な示唆を与えるものと期待できる。以上のことから、本論文は、博士(国際協力学)を授与するに値するものと認めることができる。

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