学位論文要旨



No 216601
著者(漢字) 中島,直人
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,ナオト
標題(和) 都市美運動に関する研究
標題(洋)
報告番号 216601
報告番号 乙16601
学位授与日 2006.09.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16601号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 北沢,猛
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 教授 下村,彰男
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、都市計画にとって都市の美とは何か、都市に住む市民にとって都市の美とは何か、という聊か大仰な、ただし「景観法」時代の始まりに立ち会う誰もが常に意識しておかねばならない問いに対して、歴史的経験を精緻に再検証し、現代的に意味づけていく作業を通して、回答への接近を試みたものである。本研究が対象とするのは、1920年代半ばに提起され、1960年代半ばまで継続された都市美運動と総称される美しい都市の実現を目指した一連の組織的な活動である。本研究では、この都市美運動について、運動の理念と実態の全貌を明らかにすることを目的としている。

 第1章では、都市美運動に関する既往研究を整理した上で、本研究が持つべき視野として、世界史、全国史、結社史、人物史を提起し、かつ、現代における景観づくりの課題に即して、都市美運動を再評価する視座として、第一に、都市計画に於ける審美的観念の導入運動としての側面、第二に、公共的観念を有した市民の育成運動としての側面に着目するという、本研究の枠組みを説明した。

 第2章から第5章では、「第1部 都市美運動の大勢的展開 都市美協会の活動の変遷」として、都市美運動を主唱し、その後中心的に推進した民間団体である都市美協会の活動の変遷の把握を課題に設定して、都市美運動とその周辺の主体による運動も含めて、都市美運動の大勢的な展開を把握した。

 第2章では、1920年代に都市美運動が生成してくる背景、経緯を明らかにした。都市美運動の運動理念である「都市芸術」は、アメリカで20世紀初頭に登場した都市の美的整備という物的空間整備と市民の精神的統一という精神的環境整備とを組み合わせた都市づくりの理念である「シビックアート」に起原を持っていた。

 我国では、美を主題化することを避けた都市計画法制度の制定直後から、都市問題に端を発した都市の自然化、都市の芸術化の議論が新たに生じ、1923年の関東大震災を機にそれらは実践段階へと移行した。1925年設立の都市美研究会、1926年設立の都市美協会はそうした実践的展開の一つであった。物的環境だけではなく精神的環境をも扱う都市芸術の理念を掲げ、例会、建議、植樹デーなど、後の活動の基礎が既に見られる活動を展開した。翌1925年には、都市美協会へと改組され、主に協会内部での研究体制を整ええ、積極的に建議活動を展開するようになったのである。ただし、都市計画への審美的観念の導入運動という面では、未だ具体的な目標を獲得していなかった。

 第3章では、1930年代前半に都市美運動の具体的目標として都市美委員会の設置が措定される背景や経緯、意図について、明らかにした。

 1930年代に入ると、都市美協会は道路祭や建築祭の開催など、大規模な啓蒙事業を展開していく一方で、アメリカで公共建造物の審査機関として各地の自治体で設置されていた芸術委員会という制度に感化され、同制度を我国でも導入することを運動目標として措定することになった。

 アメリカの芸術委員会は、我国でも1900年代からしばしば紹介されていたが、都市美協会の「帝都美化委員会設置の意見書」(1930年)は、牧野伸顕内大臣がアメリカの外交官経由でワシントンの連邦芸術委員会と接触し、入手した資料を東京市長永田秀次郎に手渡したのが発端で、永田市長からの諮問に都市美協会が回答したものであった。

 「東京市都市美委員会設置の建議」(1934年)は、都市美協会と東京市との結びつきから生れた。都市美協会は1933年から、東京市に事務局を移転し、東京市職員が役員や諸事務を担当するようになったが、その背景には、市域拡張を実施し、かつ地方自治の観点から特別市制運動を展開する東京市側の事情があった。都市美協会は、特別市制運動の影響下で、将来的な警察権の市への移行も含めた東京市長の諮問機関としての都市美委員会を提案したのである。

 都市芸術を理念ではなく、制度に転換することで、都市計画における審美的観念の導入を具体的な施策として提案したことで、議論を誘発し、関心を集めるようになった。

 第4章では、1930年代後半以降の、都市美協会の全国的視野の獲得と、全国都市美協議会及び全国の都市での都市美運動の実相について明らかにした。この時期に、都市美協会以外の都市美運動の担い手が各地で生まれ、多元化していった。

 皇紀二千六百年にあたる1940年のオリンピック開催が1936年夏に決定して以降、都市醜の排除を目的とした都市美化運動が官民の双方で盛りあがりを見せていたが、1937年に開催された第一回全国都市美協議会では、そうした話題は「差し当たり」の問題とされ、むしろ「根本問題」とされた都市計画が議論された。1938年の第二回全国都市美協議会は、大阪都市協会の主催で開催されたが、厚生省からの諮問もあり、「健康都市の建設」をテーマに、保健問題に特化したものであった。

 そして、1940年の第三回全国都市美協議会は、京都市と都市美協会との共催で、1939年に創設されていた美観審査委員会が議論の中心となり、委員会構成における市民との接触面の確保や、美観計画の策定過程におけるパブリックヒアリング等が論点となった。つまり、理的環境への働きかけと精神的環境への働きかけが市民参画において連携されたのである。

 また、都市美協会や第二回全国都市美協議会を主催した大阪都市協会以外にも、東京府による風致協会運動や、博覧会を機縁とした商工会議所を主体とした名古屋の都市美運動、京都市が中心となって進めた観光的視点からの京都の美化運動、風致地区の活用と緑化運動を進めた仙台の都市美運動など、全国各地で物理的環境への働きかけと精神的環境への働きかけの双方を有した都市美運動が展開されたのである。

 第5章では、戦後の都市美協会の再発足と、都市美運動の退潮の経緯を明らかにした。戦時中、活動を休止していた都市美協会は、戦後、活動を再開した。特に1950年には日本都市美協会として、1961年には社団法人都市美協会として再発足し、都市美運動の再生を目指した。

 日本都市美協会では、物心両面から都市愛を育てるという運動理念も継承されたが、例会の開催、都市美審査会法案の検討、『都市美』の復刊の他、景観的課題に関する諮問や問題提起などを展開したが、何れも戦前に比べれば活動頻度も反響も小さかった。

 東京オリンピックを前にした首都美化の気運の中で、1961年に都市美協会は社団法人化されたが、目前の問題への取り組みを重視し、都市計画等に関する根本問題、長期的課題は後回しとなった。当初予定していた団体会員を集められず、財政的には逼迫していき、有効な活動が行えないまま、1964年には事務局を閉鎖し、以降、休眠状態となったのである。

 第6章から第8章では、「第2部 都市美運動の個性的展開 都市美運動家の経歴と思想」として、3人の都市美運動家を取り上げ、第1部で大勢的展開では充分には扱えなかった運動の多元的な広がりや個性的な深まりを把握した。

 第6章では、1920年代から1960年代に至るまで、40年にわたって一貫して都市美に関する論考を発表し続けた唯一の人物である石原憲治について、都市美運動で果たした役割と、その都市美論の変遷を跡付けた。

 石原憲治は、ウィリアム・モリスの中世的なギルト社会主義に影響を受け、都市計画を、統一ある美をつくりだす社会芸術の実践とし、細部の美醜ではなく、都市全体の調和の重要性と、都市は市民の共同の精神の表れであると強調した。

 しかし、石原は1930年代半ばまでに、地理学から「景観」概念の導入を試み、芸術論的な都市美論からの脱皮を図った。また、都市美の審美基準も、視覚で感知する形態に限定せず、心地よさに関する全ての生理的概念、心理的・社会的概念を含むものへと広げた。1930年代後半以降は、生理的概念の強調から市民の公徳運動を推奨するとともに、都市を歴史的労作として捉え、長期的視野で一定の方向性を維持させるための美観計画とその立案運用主体としての美観委員会の提案を行った。特に美観計画を都市計画の一つとして位置付けることを主張した。戦後の石原は、戦後の復興気運の中で、無為に破壊されていく歴史的、文化的景観の保全を積極的に訴えた。

 第7章では、都市美協会の創立者であるが、途中で退会して独自の都市美運動を展開した橡内吉胤の経歴と思想を明らかにした。

 橡内吉胤は、ジャーナリスト出身の民間都市研究家であった。故郷である自然豊かな小都市・盛岡と大都市・東京との比較から生じた反大都市の意識を、大都市の環境改善への取り組みの原動力とした。橡内は当初、都市環境の自然化を訴え、都市計画に期待をかけた。関東大震災後は、政府に東京全体の植樹計画の立案を要請するとともに、民間有志による植樹団体の設立を提唱し、帝都植樹協会を設立し、都市緑化運動を開始した。

 また、1920年代半ばには、新たにアメリカのロビンソンらのシビックアート論に影響を受けて、我国における「都市芸術」の導入を主張し、都市美研究会を設立した。市民に都市に対する基礎的な知識を啓蒙し、市民意識を醸成することに力点が置いた活動を行った。また、地方都市に残る歴史的町並みに、集団としての調和の空間像、そして各都市の固有性を見出し、将来の都市造営の範として、保存を主張するようになった。

 橡内は、故郷・盛岡での岩手日報社との協働による都市美運動にも尽力した。『岩手日報』誌に盛岡の都市問題を扱った論考をたびたび寄稿し、また時に講演会を開催するなどして、独自の都市美運動を展開した。更に1928年に盛岡の市民有志による盛岡都市生活研究会を設立し、市民社会による都市づくりへ向けての実践を試みた。

 1930年代には、都市風景論を発表し、画一化する都市風景を批判し、各都市固有の風景を保全、育成していくことの重要性を説き、岩手日報社との協働体制で、岩手県内の市町村での講演会や実地指導を積極的に展開した。また、盛岡市では、盛岡都市美協会を設立し、運動を推進した。一方で、東京では、東京市職員による運営体制に移行していた都市美協会を脱会し、新たに日本都市風景協会を設立した。国や市に拘束されない自由人の立場から、都市風景の批評による世論形成を目標に活動を展開した。

 第8章では、我国を代表する都市計画技師でありながら、一方で盛り場を中心とした独自の都市美運動を展開させた石川栄耀の都市美運動を明らかにした。都市を生産の場ではなく、生活の場として捉えた石川の問題意識は、我国の都市計画が都市の本質である「賑かさ」や「市民の化合体」に対応していないという点にあった。

 石川は「賑かさ」の創出には広場が必要であるとし、それこそが都市計画の主要な関心であるべきだと考えた。我国では、広場の代替を盛り場に見出し、商店街を美化することで盛り場へと育成することに使命を見出した。また、都市は「市民の化合体」であるとの認識は、政府による都市づくりに加えて、市民による都市づくりを促し、提案型から交流型まで、各種の市民組織を構想した。

 戦前名古屋時代には、照明技術者や看板図案家らと名古屋都市美研究会を立ち上げ、主に広小路、大須という二つの商店街で地元組織と協働して盛り場づくりに取り組んだ。

 1931年の東京転任後も、盛り場計画論の体系化を行うとともに、都市美協会等の都市美運動が生産的要素を無視して上滑りしているという問題意識のもとで、新たに生産と結びついた都市美運動=商業都市美運動を提起した。石川は名古屋都市美協会と広島都市美協会の設立を支援し、更に翌1936年には、東京で商業都市美協会を設立し、商業都市美運動を推進した。

 戦後は、東京都都市計画課長、そして建設局長として、東京の戦災復興計画の立案を指揮した。そして復興都市計画の中に、美観商店街制度や外広告物取締り業務を取り込み、商業都市美運動の法定化を試みた。特に屋外広告に関しては、その美化に力を注ぎ、広告業者による東京屋外広告研究会や、広告技術者による都市美技術者協会等の設立を促し、運動を支援したのである。

 以上の知見に基づいて、第9章では、結論として、都市美運動の有していた物心両面主義という特徴を改めて当時の大都市が抱えていた課題との関係から説き明かし、都市計画に於ける審美的観念の導入運動、及び公共的観念を有した市民の育成運動の両側面から、都市美運動の意義を考察した。

 都市計画における審美的観念の導入運動では、都市美委員会や美観計画という方策の検討の過程で、都市計画と都市の自治、市民参画の論点が提示された。また、都市美運動家たちによって審美的観念そのものが発展的に検証され、石原が主張した生活環境としての都市を強く意識した生理的次元への拡張や、石川が主張した生産を機縁と置きつつも、最終的には生活を第一に置き、市民の親和のために盛り場を育成する都市美運動は、我国の都市計画における市民社会の不在を逆に浮き彫りにするものであった。また、橡内の都市の個性への着眼は、地方都市の自律、自治を推し進めるものであり、これも中央集権的な都市計画への鮮やかな批判であった。つまり、都市美運動の経験に従えば、都市計画における「美」の追求とは、都市の自治や市民社会といった理念、概念に都市計画を接近させていくことに他ならなかった。

 そしてこうした都市計画からの都市の自治や市民社会への接近は、公共的精神を持った市民の育成運動における二つの市民性、統合と連繋の双方を一つに纏める際の要請とまさに合致するものであった。都市の管理という側面からの市民の公共的精神の涵養は終極的には都市の自治を目指していた。都市の居住という側面からの市民の公共的精神の涵養とは、つまり市民社会の確立を目指すに他ならなかった。

 つまり、物心両面主義の都市美運動に見られた運動の二つの側面は、共通して都市の自治と市民社会へと進行していくものであった。自治の単位として都市が重視され、かつ、それを市民社会が支持するとした場合、都市美運動が有していた二つの側面は同一の地平にて連続し展開することになったのである。

 序論で述べた都市計画と「美」との関係、市民と「美」との関係という設問を念頭に言い換えれば、何れの関係においても、都市の自治と市民社会が媒介的に、ないしは目標として存在した時に、初めて都市美運動が追求する「美」が都市計画や都市生活の改善や改革の推進力となりうるのであった。更に敷衍すれば、都市の自治や市民社会の形成といった近代都市の改革運動を推し進める要として都市美運動は存在しえるということを示唆しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は都市計画における「美」の概念と、市民の一般的な「美」の概念との間のあるべき関係の探求の第一歩として、日本における「都市美運動」について、その理念及び実体を明らかにすることを目的としている。ここで、都市美運動とは、日本において、大正期以降の一定の期間、都市美協会の主唱、主導のもとで開始、展開された、「都市美」の実現を目標とした社会的活動をいう。

 論文は論文の目的と構成を述べた第1章と、都市美運動の体勢的展開を述べた第1部と3人の都市美運動家の活動に焦点を当てた都市美運動の個性的展開を述べた第2部とから成っている。

 第1章は、序説であり、本研究の意義および研究上の課題を明らかにしている。同時に既往の先行研究をまとめ、世界史としての都市美運動をはじめ、全国史、結社史、人物史としての都市美運動という4つの視野と都市計画における「美」と市民と「美」という2つの視座を明らかにしている。

 第2章から第5章までは第1部を構成しており、都市美協会の活動の変遷を詳細に明らかにしている。

第2章は、都市芸術理念の生成と都市美運動の初動について論じている。とくにシビックアートのアメリカでの生成とその日本への伝播を明らかにし、そこかわがくにの都市美運動が胚胎していく様子を明らかにしている。

第3章は、東京市における都市美委員会の設置に関してその経緯を明らかにし、そのなかで都市美運動がどのように進展したかを述べている。東京市との関係を強化していく中で、1932年の大東京市の成立を契機として、市民意識の向上のために市によって都市美運動が選択された事情が明らかにされている。

第4章は、全国都市美協議会の開催とそこにおける都市美運動の多元化について論じている。1940年の東京オリンピック開催が1936年に決まったところから都市醜の排除と根本的な都市風景改変為の都市計画の重要性が論じられるようになり、都市美の問題が全国レベルで多元化した様子が明らかにされている。

 第5章は、戦時中から戦後にかけての都市美運動の再生と衰退の歴史を明らかにしている。1964年の東京オリンピックを準備する段階で首都美化の気運が高まり、東京都に首都美化審議会等が設置されたが、清掃等による美化にとどまり、都市計画的な施策による都市美化は回避され、都市美運動はその後衰退した過程が明らかにされている。

 第6章から第8章までは3人の都市美運動家の思想と経歴を明らかにした第2部である。

 第6章は、都市美協会の創立者であり東京市建築技師であり後に都立大学教授に転じた石原憲治についてその思想と都市美運動に関する経歴を明らかにしている。石原憲治はW.モリスの思想を基盤とした社会芸術としての都市美運動理解から出発し、のちに景観概念の展開を図り、次いで公徳運動と美観計画を提案するに至る思想を詳細に明らかにしている。

 第7章は、同じく都市美協会の創立者であり、新聞記者でありのちに文筆家として活躍した橡内吉胤についてその思想と都市美運動に関する経歴を明らかにしている。とりわけ、大都市の環境改善思想から都市美の運動に至り、後には都市の個性としての都市風景思想へと変化した橡内吉胤の思想を詳細に跡づけている。

 第8章は、都市美協会とは一線を画した商業都市美運動を展開した東京都建設局長であり後に早稲田大学教授に転じた石川栄耀についてその思想と都市美運動に関する経歴を明らかにしている。特に石川栄耀の商業都市美運動の理論と実践に関して、日本で初めて詳細に明らかにした。

 最後の第9章は結章であり、都市美運動とは、都市計画における審美的観念の導入運動であり、同時に公共的精神を有した市民の育成運動であるという結論を導き出している。

 以上の総括によって、本研究は日本における都市美運土の総合的歴史を初めて明らかにしたものとして非常に貴重であり、その過程でさまざまな新発見の資料を提示しており、今後の都市美関連研究を大きく進展させるものとして高く評価できる。同時にそのような都市美認識に立ちつつ、今後の都市における「美」の追究に関して一定の視座を提供しており、さらに実際的かつ有効な提言を数多く行っている点で非常に有用であるといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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