学位論文要旨



No 216602
著者(漢字) 三藤,利雄
著者(英字)
著者(カナ) ミツフジ,トシオ
標題(和) イノベーション・プロセスの動力学 : 情報通信技術を事例として
標題(洋)
報告番号 216602
報告番号 乙16602
学位授与日 2006.09.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16602号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西尾,茂文
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 後藤,晃
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 山田,一郎
内容要旨 要旨を表示する

 さまざまなイノベーションが社会に登場してそのうちに普及しながら、同時にそれまでにあったイノベーションに置き換わり、支配的なイノベーションとして社会に定着する。しかしこうして支配的となったイノベーションもやがて新しく登場したイノベーションによって置き換えられていく。それでは、イノベーションは社会のうちにどのように普及浸透するのであろうか。一方、イノベーションの形成に社会はどのように干与しているのであろうか。本論ではイノベーションが社会に普及浸透する一連の動的な過程つまり「イノベーション・プロセスの動力学」について考察する。ここで、イノベーション・プロセスとは、ある社会システムに登場したイノベーションが、その社会システムのうちに普及しつつ、同時に社会システムのなかで形成される過程のことであって、おおよそイノベーションが社会システムに登場してから定着するまでの期間をさすものとする。

 本論では、その出発点をRogersのイノベーション普及理論においたうえで、情報通信技術に関する一連のイノベーション普及研究を発展させて、イノベーション・プロセスに関わる動力学的モデルを提案することを目的とする。こうした問題意識のもとで、次のような順で論述する。

 第1章では、まずRogersの提唱するイノベーション普及理論を概説する。これの基本的な体系は1960年前後にまとめられたもので、イノベーションは線形的(linear)あるいは一方向的に展開するとされており、線形モデルなどと呼ばれている。つまり、イノベーション・プロセスとは必要性あるいは問題発見、調査研究、開発、商業化、社会システムへの普及と採用、そしてその結果へと続く一連の過程であり、この際、イノベーションの開発や創造と社会システムへの普及浸透過程は別の出来事であり、両者の間に顕著なやりとりつまり相互作用はないと仮定されている。しかし、この線形モデルに対しては、早い時期から異論の声があがっている。端的には、イノベーションと社会システムは互いに影響を及ぼしあっているという反論である。

 そこで、情報通信技術のうち耐久消費財に関わるイノベーションの普及率を統計的に解析した結果、イノベーションと社会システムとの間の相互作用は無視しえないほど大きいとともに、線形モデルは必ずしも適用できないことが確認された。これを踏まえて、主としてイノベーション・プロセスにかかわる既存の文献等を参照しながら、これまでに提案された代表的なイノベーション・プロセス・モデルを概観したうえで、イノベーション・プロセスについて次の項目に関わるひとつの仮説を設けた;(1)イノベーション・プロセス全般に関わる動力学、(2)クリティカルマスの形成、(3)支配的設計の登場、(4)イノベーションと社会システムの相互作用、および(5)イノベーションの交代。

 第2章では、この仮説を検証するために、日本語ワードプロセッサが1970年代末以降にわが国社会に普及した過程を実証的に分析した。その結果、イノベーション・プロセスに関する仮説をおおむね検証することができた。これに加えて、次のことが明らかになった。

 すなわち第一に、日本語ワードプロセッサがわが国社会に普及する過程での支配的設計の登場は、自己組織化現象を想起させるものであった。つまり、日本語ワードプロセッサというイノベーションに関して、社会システムへの登場当初さまざまな入力方式が存在していたところ、社会システム内部でさまざまな力が作用することにより、そのなかから自己組織的にかな漢字変換方式という支配的設計が確立されたものと解釈しうるのである。第二に、社会システムのうちでのクリティカルマスの形成も自己組織化現象を想起させるものであった。つまり、当初社会システムの成員は日本語ワードプロセッサに関して特に際立った知識を持たない状況にあったところ、日本語ワードプロセッサが登場してしばらく後、社会システムの成員は持続的にかな漢字変換方式による日本語ワードプロセッサを採用し、社会システムのうちに自己組織的にクリティカルマスが形成されるにいたったと解釈しうるのである。第三に、この間にイノベーションと社会システムとは相互に影響を及ぼしつつ共進化したと考えることができた。つまり、日本語ワードプロセッサに支配的設計が登場するのと相前後して、社会システムはイノベーションと共進化しつつ、その内にクリティカルマスが形成されたと解釈しうるのである。第四に、新旧イノベーションの交代に関してひとつの顕著な傾向が見られた。つまり、日本語ワードプロセッサという新たなイノベーションに支配的設計が登場するとともに社会システムのうちにクリティカルマスが形成された直後に、和文タイプライタという旧イノベーションの急激な後退が生じた。これは新旧イノベーションの交代の際の断続平衡の生起を示唆するものである。

 この検討結果を踏まえて、第3章ではイノベーション・プロセスに関わる仮説を整理した。それを要約すれば、「イノベーションと社会システムは相互に影響を及ぼしあいつつ共進化しながら、一方で社会システムに関しては自己組織的にクリティカルマスが形成され、他方でイノベーションに関しては自己組織的に支配的設計が登場するとき、当該イノベーションは社会システムの成員に受け入れられつつ浸透する。イノベーション・プロセスには一定の方向性はあるものの、全体として各サブプロセスが交差する複雑な過程であり、新たなイノベーションが社会システムに普及することによって、そのイノベーションは対応する既存のイノベーションをしのぎ事実上これに取って代わる。新旧イノベーションの交代に際して、断続平衡状態が生起することがある。」また、イノベーション・プロセスに関わる主要構成要素であるイノベーション、社会システムおよびコミュニケーション・ネットワークについて自己組織化および共進化の観点から定義した。その結果、実証的な検証が可能な程度にイノベーション・プロセスに関する仮説を整理するとともに体系化することができたものと考える。

 これに続く以下の二つの章では、情報通信技術のイノベーション・プロセス事例に即して、第3章で整理したイノベーション・プロセスに関する仮説を検証した。ところで、情報通信技術においてはネットワーク外部性がイノベーションの採用と普及に大きな影響を及ぼすことが指摘されている。そこで第4章では、間接的およびサービス体制にかかわるネットワーク外部効果が強く作用した家庭用VTRを事例として取り上げた。続く第5章では、直接的なネットワーク外部効果が強く作用したファクシミリを事例として取り上げた。その結果、いくつかの留意点はあるものの、イノベーション・プロセスに関わる五項目の仮説の妥当性が検証された。

 第6章ではイノベーション・プロセスに関する以上の検証作業を総括して、「情報通信技術に関して、そのすべてに対してではないが、少なくともあるイノベーション・プロセスについては、表1に示すイノベーション・プロセスの五命題が成立する」という結論をえるにいたった。最後に、この命題に基づいてイノベーション・プロセスの動力学的モデルを作成した。これを図1に示す。

 本論で展開したイノベーション・プロセスに関する動力学的モデルのもっとも大きな特徴は、一連のイノベーション・プロセスが進行するなかで、イノベーションと社会システムが各々自己組織化するのみならず、共進化するという主張にある。すなわち、成功するイノベーションにおいては、イノベーションの側で支配的設計が登場するのと相前後して、社会システムの側ではクリティカルマスが形成されつつ、共に進化展開するというものであり、これを「共進化を伴いながら自己組織化するイノベーション・プロセス・モデル(self-organizing innovation process model with co-evolution)」と呼ぶことにしたい。

 一方、これをイノベーション・プロセスに関わる五命題という観点からみると、表1中の命題のうちの(1)、(2)、(3)および(5)は、自己組織化という自然科学上の概念に基づきながらも、おおよそ既存のイノベーション理論あるいはイノベーション・モデルを援用したものである。本論では、それにイノベーションと社会システムの相互作用を自己組織化と共進化という観点から(4)の命題を新たに付け加えるとともに、これらをひとつのイノベーション・プロセス・モデルとして統合したところにその特徴と新規性がある。

表1:イノベーション・プロセスの五命題

図1:イノベーション・プロセスの動力学的モデル

(S:社会システム、I:イノベーション)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、イノベーションが社会システムに登場してから普及にいたる過程をイノベーション・プロセスと措定したうえで、そこでのイノベーションと社会システムとの間のダイナミックな挙動の解明を試みているものである。

 工学分野では、近年になって社会・技術相関や技術経営といった研究領域が注目を集めている。ところで、イノベーションは科学・技術と社会・経済のインターフェースに位置して両者を連結するものであり、イノベーション・プロセスの解明はこれら関連分野の研究に資するところがきわめて大きい。しかし、情報通信技術をはじめとする科学技術の著しい進歩の一方で、その研究が遅滞なく進んでいるとは必ずしもいえない。これは社会と技術の相関といった研究を行うときのひとつの宿命とさえいえるものである。

 こうした状況のなかで、本論文は、主として情報通信技術に関するイノベーションに焦点をあてて、既存のイノベーション研究に沿いながら予備的な検討を行うとともに、これまでの関連分野の研究成果を渉猟したうえで、新たにイノベーション・プロセスに関わるダイナミックな挙動についての仮説を設け、事例に基づいて分析し検証した意欲的な研究である。

 本研究ではその論述を次のように展開している。すなわち、序章では、イノベーション・プロセス研究を進めるにいたった背景や問題意識、ならびに本論文の目的と全体の構成を述べている。

 第1章では、情報通信技術に関わるイノベーションの普及率分析を行うとともに、既存のイノベーション・プロセス研究を概観している。そのうえで、少なくとも情報通信技術分野のイノベーションにおいては、イノベーションと社会システムがダイナミックかつ相互に影響を及ぼしあいながら、イノベーションにおいて支配的設計が登場するのと相前後して、社会システムにおいてクリティカルマスが形成された後、イノベーションが社会システムのうちに広く普及するとして、この観点からイノベーション・プロセスのダイナミックな挙動に関する仮説を設けている。

 第2章では、この仮説を検証するために、日本語ワードプロセッサを事例としたイノベーション・プロセスの実証分析を行っている。

 その検討結果に基づいて、第3章ではイノベーション・プロセスに関わる仮説を自己組織系と共進化過程という観点から整理している。

 これに続く以下の二つの章では、ネットワーク外部性を念頭に置きつつ、イノベーション・プロセスのダイナミックな挙動に関する仮説を検証している。ネットワーク外部性とは、特に情報通信技術のイノベーション・プロセスにおいて強く作用するとされており、当該イノベーションに関わるネットワークに接続する利用者の数あるいはネットワークの規模が大きくなるとその普及浸透が加速度的に増加するというものである。

 すなわち、第4章では間接的およびサービス体制にかかわるネットワーク外部性が強く作用した家庭用ビデオテープレコーダ(VTR)を事例として、上記仮説を検証している。

 続く第5章では直接的なネットワーク外部性が強く作用したファクシミリを事例として、同じく上記仮説を検証している。

 これらの結果に基づいて、第6章ではイノベーション・プロセスに関する検証作業を総括するとともに、その動力学的モデルを提示している。

 実際に生起したイノベーション・プロセスを中心に論じているので、適切な技術の普及をいかに導くかという実践的有用性には多少の課題がある。しかし、本論文では、イノベーション・プロセスがダイナミックな挙動を示すものとして、これをエクスプリシットにとらえるとともに、自己組織性と共進化という概念を援用しつつ、イノベーションと社会システム両側面からその解明を図り、実例に基づいて検証している。若干の検討の余地はあるものの、既存の研究には見られないユニークな試みであり、イノベーション・プロセスのダイナミックな挙動を解明して、見通しを良くすることにより、その統一的な理解に貢献しているという点で、きわめて高く評価できるものである。

 本論文ではイノベーション・プロセスという主題について、当該研究分野におけるこれまでの理論の整理にはじまって、仮説の提示、事例による検証にいたるまでの一連の論証過程を、情報通信技術に関わるイノベーション事例に基づいて整合的に展開している点で大いに評価できる。実際、第2章において日本語ワードプロセッサのイノベーション・プロセスを分析したうえで仮説を確認するとともに、第4章と第5章ではそれぞれ家庭用VTRとファクシミリを事例として仮説を検証している。家庭用VTRについてはこれまでもいくつかの研究事例がみられるが、日本語ワードプロセッサやファクシミリのこうした研究事例はほとんど見当たらない。こうした点でも、本論文は今後のイノベーション研究の方法を示唆しているとともにその発展に資するところ大である。

 このように、本論文はイノベーション研究の分野で新たな知見を提示しているとともに、今後の進むべき方向を示しており,該当分野における工学的寄与は非常に大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク