学位論文要旨



No 216616
著者(漢字) 村上,興匡
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,コウキョウ
標題(和) 近代的葬祭慣習の成立と意識変化 : 死の個人化に関する社会史的研究
標題(洋)
報告番号 216616
報告番号 乙16616
学位授与日 2006.09.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16616号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 池澤,優
 大正大学 学長 星野,英紀
 駒沢大学 教授 池上,良正
 愛知学院大学 教授 林,淳
内容要旨 要旨を表示する

 告別式や葬祭業者による葬儀執行補助などの近代的な葬儀慣習がいかに成立し、それが葬儀や死後の祭祀を行うこと、ひいては死の意味づけにいかなる変化を与えたかについて考察する。本論文は3部構成を取る。

 第1部「都市化・近代化と葬送儀礼の変容」においては、郡部および都市部における葬儀変化と都市化・近代化との関係について分析する。

 第二次大戦後、(1)葬列から告別式へ葬儀中心行事の変化、(2)地域の葬式組から葬祭業者への葬儀補助主体の変化、(3)土葬から火葬へ埋葬法の変化の3つの葬儀慣習の変化が全国的に進展した。これらの変化は大都市圏で起きた変化をなぞるものであり、自作農から勤出への就業形態やそれにともなう人間関係のあり方の変化、住居形式など生活様式が都市化するのと並行して起こっている。群馬県の市部と郡部で行った参与観察調査からは、都市化によって従来の慣習が維持できなくなり、その結果、共同体から故人を送り出す儀礼から喪家が弔問を受ける儀礼へと、葬儀の意味づけが変化したことがわかった。

 大正期東京におこった葬儀慣習変化は、戦後地方で起こった変化を先取りしている。明治期に盛んに行われていた大がかりな葬列中心の葬儀から、昭和初期の自宅告別式中心の葬儀へと変化している。それに伴って、それまで地域や親族が果たしてきた役割を葬祭業者がかわって行うようになる。これらは直接的には、東京がさらに大都市化し産業化が進んだことにより、住民の移動手段や居住形態(空間構造)が変質したことや、大量かつ急激な人口流入もあって地域や職場の社会関係の変化が起きたことに起因するものだが、それと並行して日常生活からの「死」が排除されたり、それまでは僅かながら地域の公行事の性格を残していた葬儀が家族の私事となるなど、意識面の変化が起こっている。

 葬儀慣習の変化を象徴的に表すのが葬祭業の変遷である。葬祭業者は慣習の変化にあわせて業務内容を変化させてきたが、逆に新しい習慣を生み出す面も見られる。明治に葬具賃貸業が成立したことにより、大がかりな葬列を組む葬儀が一般化しえた。大正になり葬列葬ができなくなると、近隣や親戚にかわって葬儀補助の役割を担った。戦後は死者への直接対処を専門家に任せる傾向が強まり、地域共同体や親族が「死」を取り扱う慣習・生活技術の伝承されなくなって業者が情報産業的性格をもつようになった。それによって地域社会は葬祭慣習を民俗継承の母体ではなくなった。

 第2部「近代的葬儀慣習の成立とその背景」では、現代日本において一般的となった告別式葬儀や宗教結婚式などの慣習の成立と、その背景にある風俗改良や文明と宗教の関係などに着目し、その儀礼の持つ社会的役割の変化について考察する。

 ルソー『社会契約論』の訳者として知られる中江兆民は、ガンの告知を受け、生前の遺稿として『一年有半』『続・一年有半』を出版した。当時多くの人々に読まれたが、そこには彼の無神論的で物質的な生死観が強くあらわれており、中江が自身の死に際してもその主義を守るかどうか関心が高まった。1901年に執り行われた中江の葬儀は、本人の強い主張により無宗教形式で営まれたが、それが日本で最初の「告別式」であるとされる。葬儀を生の最終表現とする中江の考え方は、明治期においては受け入れられがたいものであったが、1970年代以降には医学関係者を中心に同様の考え方が主張され、2000年以降は一般の人々にも広まりつつある。

 中江の告別式が行われた翌年には来馬琢道の仏式結婚式が、その翌年には現在の神道式結婚式の原型とされる式が日比谷大神宮で執り行われている。これらの宗教式結婚式は告別式同様、伝統的な日本の風俗を劣ったものとし、それを改良しようとする意図を持って考案された。当時、これらの儀式を行うのは法曹関係者など比較的高い教育を受けた人々であり、一般都市市民がこれらを行うようになるのは昭和に入ってからであり、戦後、地方の都市化により、全国に広がっていく。

 告別式も宗教結婚式も日本を文明するという機運、簡素化・合理化の主張としての風俗改良運動、社会教育における宗教の役割といった時代の問題と関係していた。その一方で日本の伝統的宗教習俗の多くは、文明に反する迷信として排除の対象となったが、「家」に関連する部分(たとえば「祖先教」など)は天皇制との関係で残された。近代的な人生儀礼は、都市的な生活様式に適合するものであるとともに「家」的なイデオロギーと密接に結びついていたといえる。2000年以降以降には葬儀と同様に、結婚式も「個人化」しつつあり、本来の個人と個人の契約の式としての性格を取り戻しつつあるように見える。

 明治初年から数年間は、政府の神道国教化政策が強力に押し進められた時期であり、近世以後の日本仏教にとって大きな転機であったといえるが、それらの動きの中で、政教分離・信教自由の議論が提出され、日本仏教の「宗教」としての自己規定が形成されていった。その動きの中で大きな役割を果たした島地黙雷は、葬儀などの日常儀礼についても発言しているが、個人への布教・教化の機会以上には仏教式結婚式や葬儀を評価しなかった。こうした議論が今日の仏教界の慣習・儀礼観に与えた影響は大きいと考えられる。

 戦後の農地改革によって寺領を失った仏教寺院は、その主な収入源を葬祭に頼るようになった。高度経済成長期以後の郡部から都市部への人口流入により、地方寺院の檀家は減少し、都市部では、従来の葬祭慣習から切り離されたいわゆる「宗教浮動人口」が大量に発生している。伝統的な仏教教団がそうした事態に対応できていないことが、現状の葬儀への批判を生んでいると考えられる。

 第3部「第2次世界大戦以後の葬儀慣習の変化と死の個人化」では、戦後、特に高度経済成長期以後の葬儀慣習の変化を見ることにより、その意味について考察する。

 戦後の主に都市的地域における葬祭業の展開をみるために、葬祭業者の「社史」、葬祭業協同組合が出している「年史」(『全葬連二十五年史』『冠婚葬祭互助会四十年のあゆみ』)を繙いてみると、葬儀の公的な意味づけ、生活の合理化という本来対立する2点が繰り返し強調されていることがわかる。葬具の賃貸にせよ、葬儀費用のカタログ化にせよ、互助会による葬儀顧客の囲い込みにせよ、元々は葬儀慣習の近代化、合理化という目的ではじまったが、結果として葬儀費用の増大の歯止めとなりえていない。高度経済成長期以降は、それまで小店舗的な経営を行っていた葬祭業者も、高度経済成長期以後は特に、社葬や社員の福利厚生目的で企業と特約を結ぶ動きの中で、全国的な組織化が進んだ。

 社葬は日本独自の慣習であり日本的経営を象徴的に表すものである。社葬は国葬に習う形で始まったが、1980年代以降になるとそれまで大会社しか行われなかった「社葬」を、創業者の葬儀のために中小企業も行うようになる。取引関係のある企業間に「村」-「家」において存在していたような相互贈答関係が成立している。会社と遺族の合同葬という形をとることは、一般の人たちの葬儀をより華美にする圧力とした働いたと考えられる。

 社葬実行担当者は、重要取引先会葬者に失礼がないよう細心の注意を払う。「社葬」が「後継者による会社の継承の儀礼」としての側面を持ち、社長の死後も、それまでの企業ネットワーク中の位置を確認し維持するという、現世的な意味での会社永続の願いに基づいているためである。それに対し葬儀の対象者がカリスマに富んだ創業社長である場合、「社葬」は上記の個人的側面、会社的側面の双方を併せ持つ傾向にある。現在、日本的経営の見直し等によって世俗的なお別れ会が増えるなど社葬慣習は大きく変化しつつある。

 一方、一般的なサラリーマンの場合、現在、「家」の先祖になるということの実感が薄れ、社会において安定した死後の身分・位置づけというものが考えにくくなっている。葬儀は喪主や遺族の通過儀礼としての側面も有し、葬儀の規模・格付への見栄などは遺族の社会儀礼に関わるものであったと考えられるが、近年、葬儀がより私事化の傾向を強めてきたことにより、その社会的意味づけは全体としては弱められつつある。今日、葬儀の人生儀礼としての意味合いは薄くなっている。

 平成10年4月から6月にかけて朝日新聞の読者投稿欄で「お葬式」をテーマとして投稿を依頼したところ、従来的な費用のかかる(仏式)葬式をしたくないとの投書が多数あった。平成13年に東京都文化生活局が行った調査でも、自分の葬儀を行わず火葬のみとする人の割合が7人に1人に上った。

 平成15年に行った全国調査(「お墓に関する意識調査」)では、東京都調査の検証を行う目的で、葬儀についての意識についても調査を行った。葬儀を行わないとまで希望する人は4〜5%で、それほど多くなく、特に首都圏に顕著な減少であるが、自らの葬儀をより質素に行いたいと考える人が多いのは全国的な傾向であることがわかった。

 少子高齢化、核家族化によって「家」制度は徐々に壊れ、1990年代には継承者いらない墓地、散骨(自然葬)等々の運動が起こった。これらの運動の主題は「どう葬るか」ではなく「どう葬られるか」にあり、従来の葬儀慣習が強制力をなくし、葬儀のあり方が多様化していることを示している。それによって人々の葬儀や死に対する考え方は個人化し、葬儀の社会儀礼としての意味づけが弱められてきていると考えることが出来る。

審査要旨 要旨を表示する

 村上興匡氏の「近代的葬祭慣習の成立と意識変化――死の個人化に関する社会史的研究」は、明治期から現代までの日本の葬祭慣習の変化をたどり、葬祭に関わって死の観念や死の意識がどう変わってきたかを考察したものである。関東地方の村落部と東京都心における葬儀の変化についての聞き取り調査、葬祭業の歴史、新聞広告の変化、質問紙調査などを資料としながら、村上氏は伝統的な葬祭慣習から近代的なそれへの大きな変化が起こったことを跡づけていく。都市と村落部のさまざまな地域で変化が起こる時期は異なっているが、共通することは、(1)葬儀の中心行事が葬列から告別式へと変化すること、(2)葬儀補助主体が地域の葬式組から葬祭業者に変化すること、(3)遺体処理と埋葬の方法が土葬から火葬へと変化することである。以上3点のうち、前の2点について詳細に論じられる。

 葬列による葬儀では地域共同体が死者を送り出すことが中心行事で葬儀の主体は共同体だが、告別式では会葬者が死者に別れの挨拶をすることが中心行事で主体は個人同士の関係になっている。告別式が成立するのは都市生活に適合的な近代的な人生儀礼が整って来る時期にあたる。告別式を創出する上で大きな影響力をもった中江兆民の死生観とそれへの反響について、そしてその後の告別式の普及の状況が論じられている。明治期の葬祭業は都市の葬列を組む葬儀において葬具を貸し出し人足を調達する役割を担っていたが、地域共同体や親族の役割が縮小して来るに従ってそれを肩代わりする仕事に変容していく。葬祭業者は葬儀を営むための知識や技能を提供する職種という性格を強めていく。

 こうした変化を推し進めた主な原因は、社会組織のあり方が変化して地域共同体や親族が葬儀を担えなくなったということに帰せられるが、村上氏は葬儀批判の言説や生活慣習の簡素化・合理化の訴えがくり返しなされてきたことにも注意を促している。近代的な儀礼文化を支えるイデオロギー的な側面である。日本の近代国家がその基盤を「家」に置こうとしたことを反映して、共同体としての結束がやや弱まりつつも「家」や家族の葬儀を標準とする意識はむしろ強化されたとも言える。他方、近代化が進むとともに葬儀を支える共同体的な側面が強く維持され表現されるような例もあるとされ、日本独特の現象とされる社葬が好例として取り上げられている。

 第二次世界大戦後は社葬のような例外はあるにせよ、共同体の支持が弱まっていくのに並行してますます近代的葬祭慣習が成立し普及していくのだが、一九九〇年代以降になるとさらに個人化の傾向が強まり、近代的葬祭慣習の枠を超えるような死の儀礼や遺体処理のあり方が次第に目立ってくるようになる。故人自身が自己表現として葬儀を演出しようとする意識は新しい。葬儀批判の言説もこの時期には、これまでの葬儀は故人の意思を無視した形式的なものだとするものが優勢になると論じられる。

 村上氏は近代日本の葬祭の変化に関わる資料を多面的・重層的に発掘して丁寧に解析して提示して、分厚い記述を行っている。「個人化」「私事」などのキータームの説明が不十分であり、複雑な変容の過程をもう少し分かりやすく整理することもできたかと思われる。しかし、豊かな資料に基づき多様な変化を比較しつつ総合的にとらえることに成功しており、近代日本の葬祭慣習の成立と変容に関する共通認識を形成する上での貢献は大きい。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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