学位論文要旨



No 216618
著者(漢字) 安田,震一
著者(英字)
著者(カナ) ヤスダ シンイチ(シャング ウィリアム)
標題(和) 中国近代史と歴史画 : その機能と史料的価値
標題(洋)
報告番号 216618
報告番号 乙16618
学位授与日 2006.09.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16618号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 安西,信一
 東京大学 助教授 今橋,映子
内容要旨 要旨を表示する

 本論の主な目的は、18-19世紀に中国をモチーフとして描かれた歴史画を系統化し、美術史学に組み入れること及び歴史(中国近代史)研究において信憑性のある史料として位置づけることである。欧米では、これまでは歴史画を商業主義目的(ロー・アート)で描かれたとして扱ってきた。画家及び作品群を広東派(Canton School)に属すると位置づけながらも、未だに本格的な研究分野としては確立していない。その理由は、モノとして、または生活の一部に使われたことからその社会性が評価され、美術品として認識の妨げになっている。これまでの研究で明らかになったことは歴史画の構図は、ヨーロッパ人画家によって描かれた作品及び中国人画家が西洋人のために中国を多様な側面から紹介した作品であると言える。ヨーロッパ人の作品は本国では、さほど評価されず、中国人画家の作品も中国では評価されることはなかった。その意味からも18-19世紀当時は、注目されることはなかった。現在ではそれらを歴史を語る目で見る史料であると徐々に認識されるようになった。

 歴史画は、東西文化交流の枠組みで考察する必要がある。本論では、ヨーロッパ及び中国に限定して述べるが、本来は東南アジア、インド、オセアニア、アメリカ大陸、中東など広い地域を検証するための史料になりうるであろう。しかし、地域及び時代背景によってこれまでオリエンタリズム、植民地主義の継承、作品が大量生産されたこともありツーリスト・アートとして捉えられることもある。こうした見解は、政治的あるいは地域的な枠組みが異なり、最も大きな要素として中国人画家達の市場が確立していたため必ずしもオリエンタリストの作品だと特定できない。さらに、ピクチャレスクまたはリアリズムの傾向を考慮し、画風から考察しても、歴史画の場合は日常または歴史的出来事の記録であることが重要である。

 本論は「まえがき」、「研究史」そして第一章は、西洋絵画と中国絵画、互いに直接影響を及ぼした作品が存在しないため学問的分野として確立されなかったと考え、美術史学及び歴史学から研究史料として認められない経緯について述べている。現時点で言えることは、マカートニー使節団の記録からも中国絵画に対してはさほど評価していないことは明かである。また、中国の研究者の視点からは逆に中国人は西洋絵画に対する興味は示したが、中国絵画に影響を及ぼすまでには至らなかったとされている。言い換えれば、18-19世紀、中国で書画を始め様々なジャンルがすでに確立した地位にあったからだと言える。そのため、本論ではジェームス・クックの太平洋学術調査団が持ち帰った作品群を長年研究したバーナード・スミス及びリンダ・ノクリンらが提唱するように、記録画を再考する必要があるという意味から中国の作品群に限定して考察した。歴史画が描かれた時代は、ヨーロッパ諸国の植民地主義が横行し、そしてとりわけアジアを描いた作品をそうした時代背景及び当時の外交・政治的な傾向を含めて考察を行えば、画像史料の中でも連続性または非連続性が理解できることに着目した。さらに第一章では、模倣作品が多いことに関連し、利益目的で描かれ、土産作品であると言われるツーリスト・アートと歴史画を分類した。中国をモチーフとした歴史画は、特にこれまでは曖昧に扱われてきたと言え、再度様々な視点から考察することによって新たな解釈ができるのではないかと考えた。

 第二章は、中国の歴史画の原点とも言えるマカートニー使節団に随行した画家ウィリアム・アレグザンダー(William Alexander, 1767-1816)の肖像画及び風景画を中心に考察した。アレグザンダーの作品は長年西洋人が見た「中国のイメージ」そのものであり、その画像は今日に至っても使われている。アレグザンダーは17世紀のオランダで定着した静止画を描く姿勢及び画法を用いて中国をエキゾチックに、かつ同情的に描いている。アレグザンダーは、イギリス学士院が1665年に定めた規定に沿って描いているだけでなく、『日記』には詳細な航海記録を記している。アレグザンダーは18世紀末、中国の内陸部に足を踏み入れた唯一の西洋人画家であったため、彼の作品は当時の史料としては、貴重かつ最もアップデートされた情報であった。アレグザンダーが「見たまま」の様子を記録したため、今日アレグザンダーの作品は「目で見る中国の歴史」であると評価できると考察した。

 第三章では、アレグザンダーと同時期にジェームス・クックの太平洋学術調査団に随行したジョン・ウェバー、インド及び中国の広東省を訪れたトーマス及びウィリアム・ダニエルらも18世紀中国の素顔を捉えた初期の画家達などについても考察しながら互いにどう影響したのかを考えた。こうした画家達が巨匠と呼ばれる域に成長していれば、中国の歴史画は現在異なる評価を受けていた可能性は否定できない。しかし、画家達は記録として描いた作品と展示会へ出品する作品とでは、伝えたい情報の要素及び方向性が異なり、その評価は難しい。当時は、鑑賞者に合わせて「真実」の中国と「想像したまま」のキャセイとの狭間で画像が移行したと言え、最新情報にもかかわらず社会的にはそれらを受け入れることは難しかった。

 第四章では、中国に関連する歴史画を情報収集のために1790年代に描かれた記録画が1820年代以降、西洋人貿易商人の往来が活発化するにつれ、作品の形態に変化が見られるようになった。このことから、本国での需要に対する供給のバランスによってこれまでの記録を残す作品の必要度が低下し、むしろ風景画より中国人の職種または社会を視覚化した風俗画が増えた。供給側である中国人画家達は、西洋人が「好む」、「欲しがる」画題及び画風にもとづいて描くようになった。また1820年代以降は、中国人画家達の作品が飛躍的に伸び、大量生産されたと思われることから土産作品として評価されてきたことも学術界で扱われる障害となった。ラムクワー、ティンクワー、スンクワー、ヨウクワーなどの中国人画家達は、広東そして後に香港で工房を起こし、欧米人貿易商人相手に手広く商売を行った。その結果、多く作品が西洋諸国へ持ち帰られ、イギリスやアメリカでは美術品としてではなく「モノ」として、さらに社会性を持つ「モノ」になった。欧米人の考えの中では、中国に対する概念または思いとは別個にエキゾチックなイメージが存在し、それは過去も現在においても変わることはないであろう。そうしたエキゾチックなイメージを彷彿させるのが、歴史画である。さらに1820年代以降は、西洋人の往来が増加するにつれ、画像情報は様々な媒体を通じて欧米諸国へ頻繁に、そして容易に持ち帰られるようになった。欧米諸国では、中国の記録とした画像よりも実用性、機能性などを重視し、モノに描かれた風俗画像が好まれるようになった。モノは利用でき、受け入れられたが、画像は単なるイメージとして解釈され、このことが美術史学において歴史画が認められない大きな要因となった。これほど西洋社会に受け入れられながらも、学問体系として確立できない状況を作り出したことには疑問を感じる。

 第五章では、職貢図のような画像史料は、ヨーロッパ諸国に持ち帰られているが、それらが直接影響を及ぼしたことを立証する記録はない。しかし、職貢図に見られる画像は、ヨーロッパのコレクション、例えば18世紀の肖像画を集めたMottahedeh Collection, Peabody Essex Museum さらには歴史画を専門に扱っているMartyn Gregory Galleryなどで確認できる。一方、西洋絵画の技法及び画風は中国絵画に影響を及ぼしているかについてはジェームス・ケーヒルやマイケル・サリバンの研究によって考察されているが、中国人研究者の間では、信憑性は未だに低いと考えられている。中国人研究者の間では、若干歴史画の存在が認められているが、今後研究分野として構築されることを期待する。しかし、中国においても西洋で言う職貢図と呼ばれる「記録画」が存在した。職貢図は西洋人画家らが中国をモチーフに描いた作品群より歴史があり、梁の時代から存在していることが確認されている。本論では、清朝時代それも乾隆帝年間以降の作品を中心として考察したため、当然梁の職貢図については述べていない。本論で扱った職貢図は「皇清職貢図」には肖像画が一枚一枚描かれそれに説明文が加えられている。これは教育的な史料としても考えられるが、清朝は統治権の安定に必要な情報であると解釈していた。

 今後、中国をモチーフとして描かれた歴史画は、研究が始められた初期の時代、すなわち1970年代に出版された資料を再考し、西洋的な見解を改める必要があると思われる。これまでは、そうした資料にもとづいて研究が進められたので、まず「モノ」ではなく、それこそ西洋と中国の土壌によって作られた、あるいは双方の文化を超越したハイブリッド画(混合画)として認識することであろう。また、英文学及びアメリカ学の視点から、これまで「中国人画家の手によって描かれたとは思えないほど詳細かつ鮮明である」、「欧米でも、これほどの作品を描ける画家は稀である」などの記述には注意する必要があることは言うまでもない。そのため、今後は漢文資料に基づいて少なくとも画家の実名及び描かれた背景の事実確認が行えるような研究に期待する。

審査要旨 要旨を表示する

 『中国近代史と歴史画:その機能と史料的価値』と題する本論文の主な目的は、18-19世紀に中国をモチーフとして描かれた歴史画を系統化し、美術史学に組み入れること及び歴史(中国近代史)研究において信憑性のある史料として位置づけることである。欧米では、これまでは歴史画を商業主義目的(ロー・アート)で描かれたとして扱ってきた。画家及び作品群を広東派(Canton School)に属すると位置づけながらも、未だに本格的な研究分野としては確立していない。その理由は、モノとして、または生活の一部に使われたことからその社会性が評価され、美術品として認識の妨げになっている。これまでの研究で明らかになったことは歴史画の構図は、ヨーロッパ人画家によって描かれた作品及び中国人画家が西洋人のために中国を多様な側面から紹介した作品であると言える。ヨーロッパ人の作品は本国では、さほど評価されず、中国人画家の作品も中国では評価されることはなかった。その意味からも18-19世紀当時は、注目されることはなかった。本論文は、それらについて、歴史を語る目で見る史料であることを画像と背景説明によって分析した独創的な研究である。

 いったいに歴史画は、東西文化交流の枠組みで考察する必要がある。安田氏の論文は、ヨーロッパ及び中国の歴史画に限定して述べているが、本来は東南アジア、インド、オセアニア、アメリカ大陸、中東など広い地域を検証するための史料になりうることを明らかにした。しかし、地域及び時代背景によってこれまでオリエンタリズム、植民地主義の継承、作品が大量生産されたこともありツーリスト・アートとして捉えられることもあった。しかし氏は、この見解に賛成せず、政治的あるいは地域的な枠組みが異なり、最も大きな要素として中国人画家達の市場が確立していたため必ずしもオリエンタリストの作品だと特定できないと論じたのである。さらに、ピクチャレスクまたはリアリズムの傾向を考慮し、画風から考察しても、歴史画の場合は日常または歴史的出来事の記録であると結論づけるべきだというのが氏の所見である。

 本論文は、「まえがき」、「研究史」そして第一章において、西洋絵画と中国絵画が互いに直接影響を及ぼした作品が存在しないため、歴史画が学問的分野として確立されなかったと考え、美術史学及び歴史学から研究史料として認められない経緯について述べている。歴史画が描かれた時代は、ヨーロッパ諸国の植民地主義が横行し、そしてとりわけアジアを描いた作品をそうした時代背景及び当時の外交・政治的な傾向を含めて考察を行えば、画像史料の中でも連続性または非連続性が理解できることに氏は着目したのである。

 とくに第一章では、模倣作品が多いことに関連し、利益目的で描かれ、土産作品であると言われるツーリスト・アートと歴史画を区分している。中国をモチーフとした歴史画は、特にこれまでは曖昧に扱われてきたと言え、様々な視点から考察することによって新たな解釈ができるのではないかと考えたのである。

 第二章は、中国の歴史画の原点とも言えるマカートニー使節団に随行した画家ウィリアム・アレグザンダー(William Alexander, 1767-1816)の肖像画及び風景画を中心に考察している。アレグザンダーは18世紀末、中国の内陸部に足を踏み入れた唯一の西洋人画家であったため、彼の作品は当時の史料としては、貴重かつ最もアップデートされた情報であった。アレグザンダーが「見たまま」の様子を記録したため、今日アレグザンダーの作品は「目で見る中国の歴史」であると評価できると氏は評価している。

 第三章では、アレグザンダーと同時期にジェームス・クックの太平洋学術調査団に随行したジョン・ウェバー、インド及び中国の広東省を訪れたトーマス及びウィリアム・ダニエルらも18世紀中国の素顔を捉えた初期の画家達などについても考察しながら互いにいかなる影響を及ぼしあったのかを考察している。

 第四章では、中国に関連する歴史画を情報収集のために1790年代に描かれた記録画が1820年代以降、西洋人貿易商人の往来が活発化するにつれ、作品の形態に変化が見られるようになったことを明らかにしている。

 第五章では、職貢図のような画像史料は、ヨーロッパ諸国に持ち帰られているが、それらが直接影響を及ぼしたことを立証する記録はない反面、職貢図に見られる画像が、ヨーロッパのコレクション、例えば18世紀の肖像画を集めたMottahedeh Collection, Peabody Essex Museumさらには歴史画を専門に扱っているMartyn Gregory Galleryなどで確認できることを考察している。

 以上の知見と手続きによって安田氏は、中国をモチーフとして描かれた歴史画について、研究が始められた初期の時代、すなわち1970年代に出版された史料を再考し、西洋で見られた一方的見解を改める必要があることを氏は明らかにした。まず「モノ」ではなく、西洋と中国の土壌によって作られた、あるいは双方の文化を超越したハイブリッド画(混合画)として認識する重要性と必要性を実証とともに明らかにした。また、英文学及びアメリカ学の視点から、これまで「中国人画家の手によって描かれたとは思えないほど詳細かつ鮮明である」、「欧米でも、これほどの作品を描ける画家は稀である」などの記述がなされてきたが、こうした傾向に注意する必要があることを氏はさりげなくかつ説得的に述べている。今後の漢文史料に基づいて画家の実名及び描かれた背景の事実確認が行えるような研究にとっても、本論文は大きな出発点となることを期待したい。

 本論文は、問題の中立的なアプローチと禁欲的な叙述を心がけるために、氏の得意な中国語や英語でなく日本語で書かれた。この点をまず多としたい。その反面、表現には日本語としてぎごちない面も見られ、審査委員から随時指摘もなされた。また、英文資料や外国人名の日本語訳や日本語表記にも慣用とは違う表現がまま見られた。しかしながら、中国と欧米の地域研究を横断し、美学・美術史の分野の蓄積にも射程を延ばした本論文は地域文化研究の可能性に新たな領野をもたらした点を高く評価したい。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク