学位論文要旨



No 216619
著者(漢字) 淺野,敏久
著者(英字)
著者(カナ) アサノ,トシヒサ
標題(和) 湖沼をめぐる環境運動に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 216619
報告番号 乙16619
学位授与日 2006.09.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16619号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 須貝,俊彦
 東京大学 助教授 松原,宏
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
内容要旨 要旨を表示する

 地球規模での環境の危機がさけばれ,ローカルな場面でも環境に関わる出来事がいろいろな形で話題になる現代社会において,環境問題は,絶え間ない研究・実践が求められる極めて重要な社会的課題の1つである。学術的にも重点的に取り組むべき課題であることは言うまでもない。環境問題へのアプローチは,自然科学によるだけではなく,人文・社会科学等,さまざまな分野からなされ,総合的な検討がなされなければならない。

 環境問題は,単なる自然環境の変化(ないし今後の予想される変化)だけから構成されるものではなく,それが「問題」となるのは,ある現象・出来事が問題であると社会に発信され,広く認識・支持されることによる。この問題提起やアイディアの普及に関わる主体の1つとして,市民や住民による環境運動体の果たす役割は大きい。環境問題研究の1つの視角として,環境問題の構築過程やその担い手についての理解を深めることも,具体的な現象の理解や技術的な研究などと並んで重要である。

 本研究では,環境問題が社会的に構築されていく過程を解き明かすことへの関心を抱きつつ,その過程に大きな存在感を示す環境運動に焦点をあてた。その際,「環境運動の地域性」を鍵として,国内の湖沼環境保全運動の事例研究を踏まえ,地域の特性が市民・住民運動の何に,どのように反映されるのか,また,逆に市民・住民運動がいかに環境問題の地域差を生みだしていくのかについて考察することとした。換言すると本研究の課題は,「環境運動の地域性」に注目し,1)市民・住民運動はその担い手や支持者の社会経済的な属性によると同時に,居住地の差によっても説明でき,観察される運動の地域差は当該地域の地域性が反映されたものとして理解できること,2)市民・住民運動は,環境の変化に意義を申し立て,その後の議論構築の利害関係者の1つとして機能することで,その現象に地域の環境問題という社会的な意味づけを与え,関連する政策の方向や,地域の環境・景観に寄与する存在となることを示すことにある。

 論文の構成は4部10章とし,本論にあたる2・3部で,地方圏の大規模開発をめぐる運動の事例として中海干拓反対運動と,首都圏の水資源開発や環境悪化に関する市民運動をとりあげ,これらの特徴や運動と地域との関わりなどについて検討した。最終章で,環境運動と地域の関わりについて総括的に論じた。以下,各章の概要についてまとめる。

 第1章では,研究の目的と課題を述べるとともに,キーワードとする「環境運動の地域性」についての概念を説明した。加えて,地理学における環境運動研究の位置づけと意義を,地理学において社会運動を扱ってきた研究動向と,隣接分野といえる環境社会学の動向とのそれぞれとからめて整理した。

 第2章では,日本における水環境をめぐる市民・住民運動の概要をまとめた。日本の環境運動の特徴として,公害反対運動の系統のものと,自然保護運動の系統のものとがあり,両者が必ずしも結びついていないことを,前者の左翼運動との近さと後者の保守的志向とのギャップという観点から述べた。全国の水環境保全運動の例を引きながら,各地の運動が争点化を図る論理が時間とともに変化していること,かつては環境悪化を「公害」に結びつける論調が強かったが最近では生物多様性などさまざまな議論が組み立てられていることなどを論じた。

 第3章から第7章で中海干拓問題を扱った。第3章では,中海干拓問題の基本事項を整理した。中海干拓事業は,淡水化凍結までと本庄工区干陸が議論された段階,さらに中海干拓事業の後処理と湖の環境再生が問題になっている現在とで争点や登場する主体などが変化してきた。宍道湖の淡水化を中心に反対運動が盛り上がり,淡水化無期延期となるまでの出来事やその間に提起された諸問題を「淡水化問題」とし,本庄工区干陸の是非が主に議論された段階を「本庄工区問題」,その後,事業の後処理と環境再生に関心が寄せられている今を「ポスト中海干拓事業・湖再生問題」とし,3者をあわせて「中海干拓問題」と呼ぶことにし,それぞれについて事業の経過と運動の関わりをまとめた。

 第4章では,淡水化問題期に焦点をあてて,問題構築に関わる主体ならびに環境運動の地域性を論じた。淡水化問題について,行政上の当事者は,国と鳥取・島根両県,それと事業の受益市町とされ,事業の影響でではなく,具体的受益事業の有無で当事者が線引きされた。各市町は受益状況や推進・反対の住民の声を反映して,それぞれ異なる対応を示した。推進派は,農業水利開発の受益地を中心とした組織を,県域を超えてつくった。一方,反対派は,全域的な連絡組織をつくったが,シジミ漁や観光,都市景観面で湖への関心を示す松江市や,水害や水質を問題にした米子市に中心的な団体があった。また,反対派組織には県域が反映され,活動にも違いが認められた。これらを通じて明らかになるのは,この運動は決して単純なものではなく,時期により,また場所によって変化し続けてきたということであり,この地域のロカリティを反映したものであるということである。

 第5章では,中海干拓事業反対運動の開発計画への影響等について論じた。淡水化延期後,土地利用検討委員会や同懇話会からの提案,さらには土壇場での県知事案提示と,本庄工区の土地利用案は二転三転した。この間の議論は,建前上,干拓地を農地とする価値と漁業の場として再生する価値との対立として展開されるが,本音としては干拓地を用途転用して都市的利用を期待する商工団体の思惑と,湖の自然環境の再生を願う環境保全団体の思惑とが衝突していたといえる。対抗する視点・価値を提示する存在としての環境運動の存在をクローズアップすることができた。

 第6章では,当事者地域あるいは「地元」という概念はいかに創られ,環境問題論争の中でいかなる意味・機能をもつのかについて検討した。行政は、当事者の範囲を、県や市町村を単位として、事業の影響を受けるかどうかでなく、事業の計画地があるかどうかで定める。反対運動は「地域の多数派になる」ことをテーマとし,「地元」の意識は強い。「地元」はひとつでなく、県への直接請求では県域を、湖との関わりをアピールする場合には湖の利用者を想起させる地区を意識するなど、主張する内容や目的、期待する効果を勘案して使い分けられている。「地元」という言葉は、事業推進派・反対派の双方にとって戦略的な資源となった。

 第7章では,反対運動がどのようにマスコミ等で紹介されてきたのか,事業中止に至る歴史が運動をどのような関わりを持った存在として描くのかについて確認した。具体的にはNHKの特集番組とローカル新聞での年表記事を取り上げ,運動団体側が作成した出来事の推移と相互に比較することで,それぞれの事実認識の差について言及した。結果として,環境問題の総括段階において運動の存在が軽視されることが明らかになった。

 第8章と第9章では,首都圏の水環境運動の事例として霞ヶ浦の運動を取り上げた。第8章では,現在の環境運動の成立期に焦点をあて,当地での主に富栄養化問題の構築に寄与した住民運動がいかなる地域的な背景のもとに成立したのかを明らかにした。富栄養化は全流域住民に関係することながら,住民運動としての反応がみられたのは,常磐線沿線の都市化地域においてであった。その背景には,飲料水としての霞ヶ浦の水に対する不安,都市化にともなう環境悪化,「水郷土浦」の喪失などがあった。都市化地域の運動であったため,都市住民的な関心事は重視されたものの,農村地域でより重要な畜産排水や水産養殖対策は具体的な活動対象にならなかった。

 第9章では,主に世界湖沼会議以後の環境運動の変化を追いながら,運動が地域に与える影響を検討した。特に, 霞ヶ浦市民協会とアサザ基金の活動を取り上げ,1990年代後半以降,組織のあり方や活動内容,事業規模が大きく変わったことと,その経緯について記述した。それをもとに,運動が水資源開発に与えた影響として,ただの圧力だけだった状況から少しずつ提案が受け入れられるようになってきたこと,富栄養化対策として以前からの関わりがあることに加え,啓発・環境教育機能が強まっていること,自然再生の試みにおいて運動の果たす役割が高いこと,環境に関するコミュニティビジネスの仕掛け人になりうること,それと将来の湖イメージの提起や具体的な環境対策の提案などで,流域住民の環境意識の形成に影響を及ぼす可能性などについて言及した。

 結論の第10章では,第1に,環境運動の地域性をみる視点として,「中心−周辺」関係で把握できる地域構造の反映としての地域性,自然と住民との関わり方の違いとしての地域性,そこならでは特殊事情としての場所性の3つを論じた。第2に,環境運動がその地域の土地利用や景観形成に大きな影響を与える存在であること,第3に,環境運動の存在が,住民の地域像や環境像の醸成に寄与することを強調した。第4に,環境問題は対象となる「場所の意味」をめぐる争いであるという考え方について,模式図を用いて論じ,全体を総括した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,環境問題研究の一環として環境運動に焦点を当て,詳細な資料調査・聞取り調査により,環境運動の地域性を明らかにしたものである。ここでいう環境運動とは,社会運動の一つであり,環境問題に関わる住民運動・市民運動を指す。また環境運動の地域性とは,環境運動が,運動の担い手の社会経済的属性のみならず居住地や活動の場所によっても差異を生ずること,そして,そもそも環境問題は,環境の現状及び変化に対する住民・市民からの問題提起により社会的な意味付けを与えられたものであり,環境運動が地域の環境に大きな影響を及ぼすという,論文提出者の研究視角に基づいている。

 本論文は10章から成る。まず第1章では,研究の目的と課題を述べるとともに,環境運動の地域性の概念・枠組を提示し,地理学及び隣接分野における社会運動の研究動向を踏まえて,環境運動研究の位置付けとその意義について整理した。第2章では,日本における水環境をめぐるこれまでの環境運動の経過を概観して,これらの環境運動には公害反対運動の系統のものと自然保護運動の系統のものとがあり,両者が必ずしも結び付いてはいないこと,そして環境運動の論理・視点が公害反対型から自然保護・環境再生型へと変化してきていることを示した。

 第3章〜第7章は,地方圏における水環境問題として,宍道湖・中海の淡水化・干拓計画をめぐる環境運動を取り上げた事例研究である。まず第3章では,基本的な経過を概観し,宍道湖・中海の淡水化計画に対する反対運動と淡水化の延期・中止に至る「淡水化問題」,中海の干拓の是非や土地利用をめぐって複雑な経過をたどった「干拓問題」,その後の「ポスト干拓・湖再生問題」の三つに整理した。第4章では,淡水化問題を取り上げ,これに関わる行政・住民などの主体の行動及びそれによる環境運動の展開過程における地域性を詳細に論じ,環境運動が地域により差異があること,そして時期により変化してきたことを明らかにした。第5章では,干拓問題を取り上げ,さまざまな主体の行動と環境運動の経過を詳細に分析した。第6章では,前3章の分析結果を踏まえつつ,視点を変えて,環境問題をめぐる論争の中で「地元」という概念がいかにしてつくられ,いかなる意味・機能をもつのかについて検討し,「地元」の意味が一義的ではなく,主体によってさまざまな意味で使い分けられていることを示した。 第7章では,この問題に関する全国向けテレビ特集番組及び地元の新聞報道を,運動団体側の資料と比較して詳細に検討し,これらの報道において環境運動の存在及びその影響力が軽視されていることを明らかにした。

 第8章〜第9章は,首都圏の水環境問題として,霞ヶ浦の水質汚濁及び環境再生をめぐる環境運動を取り上げた事例研究である。第8章では,富栄養化問題を中心とする水質汚濁問題を取り上げ,この問題に対する環境運動が都市化地域を基盤として展開されたこと,そして農村的地域との関係が希薄であったことを明らかにして,その地域性を論じた。続く第9章では,その後の環境運動の新たな展開を取り上げ,環境運動が,単なる反対運動にとどまらず,地域に対する啓発・教育機能,自然再生に果たす役割,環境に関する具体的な事業活動などによって,地域住民の環境意識の形成に影響を及ぼしていることを示した。

 最後に第10章では,環境運動の地域性について整理した。すなわち,第1に,地域性をみる視点として,全国スケールからローカルなスケールに至るさまざまな意味での「中心−周辺」関係,自然と住民との関係における地域差,そしてその地域固有の事情としての「場所性」があること,第2に,環境運動が,短期的・現実的な目標の達成度にかかわらず,その存在そのものが地域の土地利用や景観の形成に,直接・間接に大きな影響を与えること,第3に,環境運動の存在が住民の環境認識及び地域像の形成に寄与すること,そして第4に,環境問題は,それを「問題」とする環境運動の存在によって顕在化するものであり,「場所の意味」という認識の問題であること,を示した。

 以上のように,本論文は,環境問題における環境運動に着目し,環境運動の地域性を明らかにすることによって,環境問題研究における新たな視点を示したものである。特に,環境問題が,環境の現状及び変化に対する住民・市民からの問題提起によりはじめて「環境問題」となるという独自の視点に基づいて,環境運動の担い手に着目して論じた点に独創性が認められ,地理学のみならず隣接分野も含めた環境研究に対して貴重な学術的知見を提供した研究として,本論文を高く評価することができる。したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42883