学位論文要旨



No 216622
著者(漢字) 山岡,和純
著者(英字)
著者(カナ) ヤマオカ,カズミ
標題(和) 温潤気候下の水田灌漑における水利ガバナンスの発展に関する研究
標題(洋)
報告番号 216622
報告番号 乙16622
学位授与日 2006.10.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16622号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 助教授 溝口,勝
 筑波大学 教授 佐藤,政良
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景、目的、手法

 湿潤気候下の地域の多くでは、いわゆる農民参加型灌漑管理(PIM)の導入が滞っている。また、国際水管理研究所(IWMI)、国連食料農業機構(FAO)をはじめ、国際的な議論の場で広く用いられている水生産性(Water productivity)の概念は、湿潤気候下の水田灌漑稲作への適用性に問題があるのではないかと考えられる。また、湿潤気候下の水田稲作地区で繰り返し見られる異常渇水時の水融通は、水を融通する側に何のメリットもない経済的に不合理な行動のように見える。

 このため、本研究では、これらの疑問や問題点の解明を進めるため、湿潤気候下の水田における水利用・水管理の特徴を抽出し、集団的・組織的な水利用・水管理を協働で実施する水利ガバナンスの成立と発展の合理性を体系的に論考し、その検証を事例研究により提示することを目的とする。その手法としては、既往研究文献を整理すると共に、モンスーン・アジア各地の水田灌漑地区での独自の実態調査を実施し、日本の愛知用水地区における30年間の渇水対応の記録等の整理を加え、分析、考察を行う。

2.湿潤気候下の水田灌漑への水生産性概念の適用性

 湿潤気候下では、異常渇水リスクのパラドックスの存在により、異常渇水が比較的頻発しやすい。このため、湿潤気候下の水田灌漑稲作では、投入要素としての農業用水と労働力の代替性並びに水利用の競合性(水のシャドー・プライス)の変動性が重要な論点となり、水生産性の概念は、湿潤気候下の水田灌漑稲作への適用性に問題があると結論づけられる。

 湿潤気候下の水田灌漑稲作への適用性を向上させるための修正としては、半旬(5日間)程度を単位とする灌漑用水の投入量をDとして、連続干天時など水利用の競合性が高まった時期の水生産性を計算することがあげられる。また、価格ベースで表示される水生産性の算定式の分子に多面的機能(外部経済)の価値を加えることもあげられる。今後は、これに基づいて具体的な事例で水生産性の値を算出、比較、検討して、その妥当性を検証することが望ましい。

3.湿潤気候下の水田灌漑異常渇水時の水利用・水管理の重要性

 また、湿潤気候下の水田灌漑では、異常渇水リスクのパラドックスの存在により、異常渇水が比較的頻発しやすいうえに、この時には灌漑される水のシャドー・プライスが平常時と比較して一時的に高騰する。さらに、基本的にほ場に導入した水の全てが土地と一体化し、土地の生産力の一部となる畑地や草地と大きく異なり、水田では水の一部が田面水の形で保持され、私的な水のストックを一時的に形成できるので、田越し灌漑等により他の水田への移転が可能である。このため、水利用の効率性を議論するうえでは当然のことながら、湿潤気候下の水田灌漑の持続可能性の面からも、異常渇水時の水利用・水管理のあり方を論じることが、極めて重大な意味を持つ。

4.異常渇水時の水融通の経済的合理性と水利ガバナンスの必要性

 比較的小規模かつ集約的に耕作を行う多くの農民が関わる、湿潤気候下の水田灌漑において、シャドー・プライスが一時的に高騰した限りある水資源を効率的かつ円滑に再配分する知恵として、カンボジアの田越し灌漑地域では一筆相隣関係の農民間で相対の水融通が行われ、日本の多くの地区では、異常渇水時に流域規模での農業用水から水道用水への水融通が行われている。これらの水融通は、一見、水を融通する側に何のメリットもない経済的に不合理な行動のように見える。しかし、ゲーム理論のうち、非協力ゲーム(non-cooperative game)の理論的な枠組みを使ってこの現象を分析することにより、水を融通する側、される側の双方の行動に一定の経済合理性があることが説明できる。

 湿潤気候下の水利用をめぐって繰り返し発生する異常渇水時の水融通は、二つの利水者間の平常時の水利慣行(優位性の維持)、並びに異常渇水時の水利慣行(水融通の実施)をめぐる利害構造と相互戦略を考えることにより、流域規模並びに一筆相隣関係という両極端の規模で同様に説明できることがわかった。しかし、流域規模での農業用水から水道用水への水融通では、その前提として、最大の水需用者である水田灌漑部門内で、協働で集団的・組織的な水利用・水管理を行うという水利ガバナンスが成立、発展し、ある程度成熟していることが求められる。

5.ソーシャル・キャピタル蓄積のもとでの水利ガバナンスの発展・高度化

 流域規模での農業用水から水道用水への水融通については、ここで分析したゲーム理論が現実の農業用水管理の現場で成り立つための前提として、この成熟した水利ガバナンスを維持し、発展するために、農民間のソーシャル・キャピタルが一定程度蓄積されていることが極めて重要な要素となるものと考えられる。なぜならば、ソーシャル・キャピタルの蓄積が不足していると、各経済主体が利己的な行動をとりやすくなり、いわゆる「囚人のジレンマ」、「フリーライダーの問題」、「コモンズの悲劇」といった、集合行為のジレンマに直面しやすくなるからである。

 ゲーム理論による分析の結果、このソーシャル・キャピタルの蓄積度が高いほど、より厳しい渇水下での水融通を実現させる可能性が増えたのではないかと推察され、渇水調整という仕組みと経験のもとで効果的に水管理に関するソーシャル・キャピタルが蓄積し、水利ガバナンスが高度化する可能性が見いだされた。このため、日本の愛知用水の30年間にわたる渇水対応の事例を調査分析し、異常渇水時における農業用水の節水が繰り返し行われ、節水率の強化と同時に水道用水への水融通を増加する経験が積み重ねられた結果、次第に水利ガバナンスの水準の高度化、さらに農業者間から異種利水者間への拡大が流域規模で達成されたとみられることがわかった。

 また、タイの水田及び畑地灌漑を行う5地区を対象に、農民に対するアンケート調査を行い、これを分析した結果、各地区の農民とWUGの結びつきの強さと農民間のソーシャル・キャピタルの蓄積との関係が深いこと、また、農民とWUGの結びつきが強ければ渇水による収穫減を回避できる可能性が高まることがわかった。このことから、農民間のソーシャル・キャピタルの蓄積が、異常渇水時の水利ガバナンスの発展・高度化に一定の役割を果たすことを認めることができた。

6.ソーシャル・キャピタル蓄積と水利ガバナンスの発展のシナリオと破滅のシナリオ

 南インド・タミルナドゥ州のため池灌漑地区や中国河北省天津市近郊で開水路灌漑を行っていた石津灌区の事例から、開水路系の重力式灌漑の集団的水管理よりも、需要主導型の水利用の自由度が高い地下水ポンプ灌漑を個別管理する水利用が選択され、「集団的管理意欲の低下→公平な配水の困難化→水利用の効率性の低下→作物の減収→管理負担能力の低下→集団的管理意欲の低下」という悪循環に陥る事例について指摘した。

 これらのことから、社会経済の発展とともに、水利ガバナンスと利水者間のソーシャル・キャピタルが正のスパイラルを形成し、それぞれ向上・蓄積していく発展のシナリオが描ける一方で、誤った近代化の方向により過度の個人主義を助長すると、これらが負のスパイラルに陥り、それぞれ低下・劣化損耗していく破滅のシナリオを招く可能性があるとの結論を得た。

7.関連及び補完的事項の検討と結論

 また、湿潤気候下の水田灌漑地区への農民参加型灌漑管理(PIM)の導入については、近代的な灌漑システムが導入された水利施設末端の、もともと天水田地域であった田越し灌漑地域へ、PIMを導入し効率的かつ持続的な水利用・水管理を発展させるためには、水利ガバナンスの成立と、その前提及び維持発展に必要な「資本」としての農民間のソーシャル・キャピタルの蓄積をPIMの制度設計に組み込む必要があるとの結論を得た。

 さらに本論文のテーマを補完するものとして、湿潤気候下の地域に加えて、乾燥・半乾燥気候下の地域も含めた、地球規模で水利ガバナンス(国を超えた協働による水資源の持続可能な管理)の発展についての議論を提起し、由来する水資源の状況により分類したヴァーチャル・ウォーター(従来の水資源が稀少な国に輸入する場合の輸入国の水資源節約量に相当するものに加え、水資源が稀少でない国に輸入する場合も含めた拡張された定義の下での輸出国で消費される水資源量に相当するものを含める)の輸入量や世界的な移動量をモニターし、管理するシステムを構築するべきとの結論を得た。

8.今後の課題

 今後は、さらに多くの視点から、農民間あるいは流域関係者間のソーシャル・キャピタルの蓄積と水利ガバナンスの発展の関係に関するデータを収集、分析し、両者の関係について一定の定量的な解明を行う研究が望まれる。

 また、ここで「湿潤気候下の水田灌漑における水利ガバナンスの向上と利水者間のソーシャル・キャピタルの蓄積との間には、水配分をめぐるスパイラルとともに、水利施設の劣化損耗を回復するための投資をめぐるスパイラルが二重のスパイラルを形成しており、これが超長期にわたる湿潤気候下の水田灌漑システムの持続的維持・発展を支えているのではないか」という仮説を提示し、その検証を今後の研究課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、湿潤気候下の水田における水利用・水管理の特徴を抽出し、集団的・組織的な水利用・水管理を協働で実施する水利ガバナンスの成立と発展の合理性を体系的に論じ、事例研究により検証することを目的としている。

 湿潤気候下の水田灌漑では、灌漑地域における降水量が期待したよりも下回ると、灌漑用水需要量が増大する。このため不確定要素による異常渇水のリスクの程度が高くなる灌漑計画となる傾向が存在する。一方、乾燥地域では短期的な異常渇水のリスクが低い農業用水の需給計画を立てやすい。このため、湿潤気候下の地域がむしろ異常渇水のリスクが高いというパラドックスが生じ、このパラドックスの存在により、異常渇水が比較的頻発しやすいうえに、この時には灌漑される水のシャドー・プライスが平常時と比較して高騰する。さらに、圃場に導入した水は土地と一体化し、田面水の形で私的な水のストックを一時的に形成できるので、田越し灌漑等により他の水田への移転が可能となる。水利用の効率性を議論する際、湿潤気候下の水田灌漑の持続可能性の視点からも、異常渇水時の水利用・水管理が、極めて重要となる。

 湿潤気候下の水田灌漑において、シャドー・プライスが高騰した水資源を効率的かつ円滑に再配分する知恵として、我が国においては多くの地区で、異常渇水時に流域規模での農業用水から水道用水への水融通が行われており、またカンボジアの田越し灌漑地域においても、一筆相隣関係の農民間で相対の水融通が行われている。これらの水融通は、水を融通する側にメリットのない不合理な行動のように見えるが、ゲーム理論のうち、非協力ゲームの枠組みを使って分析すると、水を融通する側、される側の双方の行動に一定の経済合理性があることが示される。この分析の結果、ソーシャル・キャピタルの蓄積度が高いほど、より厳しい渇水の状況下での水融通を実現させる可能性が増え、水利調整のもとで効果的に水管理に関するソーシャル・キャピタルが蓄積し、水利ガバナンスが高度化する可能性が見いだされた。このため、日本の愛知用水の30年間にわたる渇水対応の事例を調べたところ、異常渇水時には農業用水の節水が繰り返し行われ、節水率の強化と同時に水道用水への水融通が増加しており、その結果水利ガバナンスの水準の高度化、さらに農業者間から異種利水者間への拡大が流域規模で達成されたことが明らかになった。また、タイの水田及び畑地灌漑を行う5地区を対象に、農民に対するアンケート調査を行い、これを分析した結果、各地区の農民とWUG(水利組合)の結びつきの強さと農民間のソーシャル・キャピタルの蓄積との関係が深いこと、また、農民とWUGの結びつきが強ければ渇水による収穫減を回避できる可能性が高まることが示された。

 南インド・タミルナドゥ州のため池灌漑地区、あるいは中国河北省天津市近郊の開水路灌漑地区では、水利用の自由度が高い地下水ポンプ灌漑が選択され、「集団的管理意欲の低下→公平な配水の困難化→水利用の効率性の低下→作物の減収→管理負担能力の低下→集団的管理意欲の低下」という悪循環に陥った事例もある。

 以上、社会経済の発展とともに、水利ガバナンスと利水者間のソーシャル・キャピタルが正のスパイラルを形成し、それぞれ向上・蓄積していくことが示されたが、一方では過度の個人主義により、負のスパイラルに陥り劣化損耗していく可能性もあるとの結論を得ている。このように、本研究は水利ガバナンスと利水者間のソーシャル・キャピタルの蓄積の重要性を示すなど、学術上寄与するところが大きい。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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