学位論文要旨



No 216627
著者(漢字) 松岡,佐織
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,サオリ
標題(和) 抗HIVプロテアーゼ阻害薬存在下で複製能亢進を示す高度薬剤耐性臨床分離株の機序に関する研究
標題(洋)
報告番号 216627
報告番号 乙16627
学位授与日 2006.10.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16627号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東條,有伸
副査: 東京大学 教授 鈴木,洋史
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 教授 俣野,哲朗
 東京大学 講師 森屋,恭爾
内容要旨 要旨を表示する

【背景】Human immunodeficiency virus type-1(HIV-1)は、ヒトCD4陽性細胞に感染し後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症させる原因ウイルスとして1983年にMontagnier、Galloらによって発見された。ウイルス粒子内には遺伝情報としてRNAが含まれる。HIV-1の複製過程は、宿主細胞のゲノムに組み込まれプロウイルスになるまでの前期過程と、プロウイルスを鋳型にHIV粒子として細胞外に放出されるまでの後期課程の2つに大別される。HIV-1は宿主であるヒト生体内に入ると、CCR5をはじめとするケモカイン受容体を介してCD4抗原陽性細胞と結合し、細胞質内にウイルスRNAゲノムを放出する。ウイルスゲノムはHIV-1自身の酵素の働きにより2本鎖DNAへ合成及び宿主DNAへの組み込みが行われ、プロウイルスとし生体内で潜伏する。一度宿主ゲノムに組み込まれたHIV-1プロウイルスは、宿主細胞の酵素作用により転写、翻訳されウイルスタンパク質を合成する。合成されたタンパク質は細胞膜下から出芽し、新たなHIV粒子として細胞外へ放出される。この一連の機構によりHIVは複製され続ける。

 複製の最終過程で働くHIV-1プロテアーゼ(HIV-1 protease、以下PR)はウイルス粒子の成熟に必須な酵素である。PRは99アミノ酸から構成され、ウイルス複製サイクルの後期において基質である未成熟な前駆体蛋白質のcleavage siteを切断し、成熟したウイルスの構造蛋白質及び酵素を生成する。このプロテアーゼの作用はウイルス粒子が感染性を獲得する上で不可欠である故、抗HIV薬の標的となっている。現在抗HIV薬として広く使用されているプロテアーゼ阻害薬(protease inhibitor;PIs)は、PRの活性中心に結合するようデザインされている。活性中心にPIが結合すると酵素活性は低下し、蛋白質の成熟過程が阻害される。結果として、ウイルスの複製は著しく抑制される。

 この強い抗ウイルス効果にもかかわらず、治療中に患者生体内で薬剤耐性ウイルスが出現することが稀ではない。抗HIV治療中の薬剤耐性ウイルスの出現、耐性度の上昇は治療効果を著しく低下させるため、HIV-1が薬剤耐性を獲得する機序及び耐性度上昇の機序を明確にすることはウイルス学の基礎研究分野のみならず、新たな治療薬開発、投与法の開発など臨床研究においても非常に有用であると考えられる。

 現在、PIに対する耐性獲得及び耐性度の上昇について次の3つの機序が考えられている。第1に、PRと薬剤の結合を弱め、直接的に耐性に関与する変異が出現する。これらは一次変異と呼ばれ、主にPRの活性中心近傍に集約している。この変異は活性中心の構造変化を引き起こすため、ウイルスにとって耐性という利点を付与される一方で、酵素の機能低下も同時におこる。結果としてウイルスの複製能が低下することが報告されている。第2に、低下したPRの機能を代償するようにPRの立体構造の活性中心から遠い位置に二次変異が出現する。二次変異は一次変異とは異なり直接的且つ単独で高度耐性へと導くものではなく、一次変異によって生じた歪を調整する役割を果たすことが報告されている。これによりウイルスは適応度(fitness)を回復し複製能を部分的に回復する。第3は上記2つとは異なり、基質蛋白質の二次的変異である。この変異はPR内に複数の変異をもつ高度薬剤耐性ウイルスにしばしば認められる。耐性関連変異によって構造が変化したPRに最適化されるように基質タンパク質も変化すると考えられている。つまり、PIの選択圧がある環境下では、環境に対し適応度を増加させるために、耐性度と複製能の両者を上げる方向にウイルスは進化していると推測される。しかし、これは仮説にとどまらない。私は1997年より多くの臨床分離HIV-1株を用いて薬剤感受性試験を行ってきたが、近年ではPI服薬の長期化に伴い高頻度に高度薬剤耐性を示すウイルスが分離されるだけでなく、高度薬剤耐性HIV株の中に低濃度薬剤存在下においてむしろ複製能が亢進する臨床株が混在していることに気がついた。本研究において、これら薬剤存在下で複製能が亢進する株を用いてウイルス学的解析を行い、PI選択圧下でのHIV-1の適応進化の新規機序を明らかにした。

【方法】 Nelfinavir(NFV)長期服薬患者1例から経時的に提供していただいた血液を材料とし臨床HIV-1株4株を分離した。NFV治療開始以前の血液からCL-1を、NFV治療開始後の血液からCL-2,CL-3,CL-4株を分離した。このうち、NFV服薬開始32ヶ月後に分離されたCL-4株はCCR5発現-HeLa-CD4細胞を用いた薬剤感受性試験により高度NFV耐性を示しただけでなく、むしろ低濃度NFV存在下(0.001-0.1μM)で感染効率の上昇が認められた。同時にNFVの標的であるprotease領域、及びその基質であるgag領域の遺伝子解析を行ったところ、CL-4株のGag及びPR領域にはNFV治療開始以前から散発的に34アミノ酸変異が存在し、治療開始後Matrix、PR領域特異的に新たに22のアミノ酸が観察された。そこでCL-4株のNFV依存的増殖亢進の形質発現と遺伝子変化の関与を明確にするため、Gag及びPR領域(5.1kbp)をMatrix領域(MA)、CA領域N末端領域(NCA)、p2-NC領域を含むCA領域C末端領域(CCA)、p1-p6領域を含むPR領域(PR)の4つに分断し、pNL4-3を遺伝子背景にGag-protease組換えHIV-1パネルを作成し、組換えHIV-1の増殖動態、競合HIV-1複製試験、NFV感受性試験、ウェスタンブロッティング解析を行った。

【実験結果】主な結果を表にまとめた。

 本研究により主に5つの結果が示された。第一に、PR領域を置換したPR変異体は複製能の低下が認められたものの感染性を有し、かつPR変異単独でも充分にNFV耐性能を示した。第二にNFV期間中顕著な遺伝子変化が認められたMA、PR領域を置換したMA+PR変異体では有意に複製能が上昇したものの、NFV依存的複製能亢進は認められなかった。第三にCA領域上流をMA+PR変異体に追加置換したNCA変異体において複製能、Gag前駆体のprocessingを亢進し且つNFV耐性度上昇が認められた。四つ目としてCA領域C末端側を追加置換したCCA変異体はNFV非存在下で複製能低下を示し、Gag前駆体のprocessing効率が低下した。そして最後として、CL-4株に認められたNFV存在下における複製能亢進の形質が充分に発現されていたのは、Gag-PR全域を置換したp17PR変異体のみであった。

【考察】CL-4株に認められるGag領域のMA変異、CA-N末端領域、CA-C末端領域の変異は、それぞれNFV存在下、非存在下におけるプロテアーゼ変異体の複製能に正負の異なる影響を与えることが示唆された。これらすべての変異を含むp17PR変異体にのみ完全はNFV依存的複製能亢進が認められたことから、CL-4株に認められるNFVに対する形質は単一の領域のアミノ酸配列によって再現されるものではなく、GagおよびPR領域全域のアミノ酸配列の密接な相互作用があり初めて完全なNFVに対するCL-4株の形質が発現可能となることが示唆された。

【結語】本研究において、NFV存在下における複製能亢進する現象は、gag-PRの共進化が要因の一つであることを示した。このように患者生体内において特定の選択圧下では、その環境により高い適応度を上げる方向にウイルスは絶えず進化し続けている。今回私が分離したウイルスはその一つの証拠となりうると考えられる。

NL4-3(□)を遺伝子背景にCL-4株由来Gag-PR組換えウイルスを作成した。置換した領域は青で示した。

■;NFV治療期間中顕著な遺伝子変化が認められた領域、■;新たな遺伝子変化は認められなかった領域。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究において、抗ヒト免疫不全ウイルス1型(HIV-1)プロテアーゼ阻害薬の1つであるネルフィナビル(Nelfinavir、以下NFV)を長期服薬したHIV-1感染患者1名の血液から経時的に分離したHIV-1株を用いてウイルス学的解析を行い、下記の結果を得た。

1.CCR5発現-HeLa-CD4細胞(Magic-5細胞)を用いて、NFV長期服薬患者1例から経時的に提供していただいた血液を材料と、NFV治療開始以前の血液からCL-1を、NFV治療開始後の血液からCL-2,CL-3,CL-4株の4株を分離した。このうち、NFV服薬開始32ヶ月後に分離されたCL-4株は高度NFV耐性を示しただけでなく、むしろ低濃度NFV存在下(0.001-0.1μM)で感染効率の上昇が認められた。

2.CL-4株に認められるNFV存在依的な複製能が亢進する表現系の責任領域を推測するため、NFVの標的であるprotease領域、及びその基質であるgag領域の遺伝子解析を行った。HIV-1分子クローンNL4-3及びCL-1株の遺伝子配列と比較した結果、CL-4株のGag及びPR領域にはNFV治療開始以前から散発的に34アミノ酸変異が存在し、治療開始後Matrix、PR領域特異的に新たに22のアミノ酸が同定された。

3.CL-4株の各Gag領域に出現したアミノ酸変異の役割を明確にするため、Gag及びPR領域(5.1kbp)をMatrix領域(MA)、CA領域N末端領域(NCA)、p2-NC領域を含むCA領域C末端領域(CCA)、p1-p6領域を含むPR領域(PR)の4つに分断し、pNL4-3を遺伝子背景にGag-protease組換えHIV-1パネルを作成し、組換えHIV-1の増殖動態、競合HIV-1複製試験、NFV感受性試験、ウェスタンブロッティング解析を行った。その結果、CL-4株に認められるGag領域のMA変異、CA-N末端領域、CA-C末端領域の変異は、それぞれNFV存在下、非存在下におけるプロテアーゼ変異体の複製能に正負の異なる影響を与え、CL-4株に認められるNFVに対する形質は単一の領域のアミノ酸配列によって再現されるものではなく、GagおよびPR領域全域のアミノ酸配列の密接な相互作用があり初めて完全なNFVに対するCL-4株の形質が発現可能となることを示した。

 以上、本論文は、NFV存在下における複製能亢進する現象はgag-PRの共進化が要因の一つであることを明確に示した。さらに本研究により分離された臨床分離株は、患者生体内のように特定の選択圧下が存在する環境においてHIV-1はその環境により高い適応度を上げる方向にウイルスは絶えず進化し続けているという一つの証拠を示したものと考えられる。以上の審査結果から、本論文は学位の授与に価するものと考えられる。

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