学位論文要旨



No 216630
著者(漢字) 狩野,章太郎
著者(英字)
著者(カナ) カリノ,ショウタロウ
標題(和) Binaural Beatを用いた両耳聴の研究
標題(洋)
報告番号 216630
報告番号 乙16630
学位授与日 2006.10.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16630号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 山田,芳嗣
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 助教授 高山,吉弘
 東京大学 講師 朝蔭,孝宏
内容要旨 要旨を表示する

 両耳を使って音を聴くことにより、空間での音源の位置を捉えたり、様々な音刺激の中から特定のものに注意を向けて抽出したりすることが可能になる。このような両耳聴を実現するためには、左右の耳からの情報を中枢聴覚路で統合する必要がある。今回の研究では、聴覚心理学的手法と電気生理学的手法を用いて、binaural beat(BB)と呼ばれる両耳聴現象のメカニズムを検討した。

 BBは周波数のわずかに異なる正弦波を左右の耳に提示したとき(図1下段)に知覚される周期的な聴覚現象(音のうねり)であり、左右の耳で抽出された位相情報が保存され、脳幹及びより中枢側の聴覚路において統合されるために生じると考えられている。両耳間の周波数差(interaural frequency difference(IFD))がどのくらいかにより、広義のBBは数種類に細分される。IFDが小さい場合には、両耳間の位相差の経時的変化に伴い、IFDと同じ周期で1つの音像が両耳間を動くような感覚が得られる(rotating tone)。IFDがもう少し大きくなると、この音像の移動に代わり、音圧の振動が感じられるようになり、これが狭義のBBに相当する。「ラウドネスの周期的な振動」あるいは「音圧の振幅の振動」と表現される感覚である。一般にIFDが20Hz以上になるとひとつひとつの振動が聞き分けられないほど速いroughnessとなり、さらに2つの完全に分離した音像へと移行していく。250Hz付近の純音を用いた場合、IFDがおよそ2Hzから30Hzまでの場合に狭義のBBが知覚される。

 BBを実現させるための末梢側での基盤は、蝸牛神経の音に対する位相同期である。音の周波数と位相の情報を中枢に伝える機構のひとつとして、蝸牛神経は音のある特定の位相に同期して発火すること(phase locking)が知られている。蝸牛神経より中枢側の聴覚路、すなわち蝸牛神経核や上オリーブ核においても周波数と位相の情報は保存される。BB刺激の場合には左右間の位相差interaural phase disparity(IPD)が連続的・周期的に変化するので、聴取される周期的振動は、IFDと同一の周波数で変動するIPDの情報が中枢聴覚路で保持されていることを意味している。電気生理学実験では哺乳類の中枢聴覚路においてIPDの周期的な変動に対応する神経活動が証明されている。

 蝸牛障害によりphase lockingの精度が低下すればBBの検知も劣化する可能性があるが、中枢あるいは末梢聴覚器が障害された場合に両耳聴がどのような影響を受けるかを調べた研究は少ない。そこでまず正常被験者を対象として聴覚心理実験を行い、狭義のBBを知覚させるIFDを測定した。次に、片側の末梢聴覚器が障害された場合にBBを知覚できるIFDがどのように変化するかを調べるため、急性低音障害型感音難聴(ALHL)の患者(図2)を対象として同じ測定を行い、対照群と比較した。正常側の耳には閾値上30dBの250Hzの純音を提示し、患側に提示する純音の音圧は、補充現象の存在を想定して、各被験者別にラウドネスマッチングを行って決定した。患側の周波数は250Hzの周囲で変化させ、BBが知覚できるか否かを測定した。左右の周波数差が小さすぎてBBが知覚できない範囲のIFDをfrequency range in which no BB is perceived(FRNB)と名付け、BBの検知の指標とした。

 正常被験者の大半がBB周波数0.25Hzで振動を検知できた。かなり緩慢なうねりも検知できることは過去の報告と一致する。ALHL群では対照群に比べてFRNBが有意に拡大していた。すなわち、長い周期の緩慢なBBの検知が選択的に障害されたが、1Hz以上の速いBBはALHL群でも検知できた。片側の蝸牛障害によりphase lockingが障害され、位相情報が劣化することによって、特に遅いBBの知覚が障害されることが示唆された。聴力閾値が大きい場合にFRNBは大きかった。この有意な相関は、拡大したFRNBがALHLによる蝸牛障害の重篤度を反映している可能性を示唆する。ALHLは低音部の難聴の増悪・回復を比較的短期間に繰り返すことが特徴であり、聴力閾値の改善に伴い、FRNBは縮小する傾向が見られた。蝸牛障害の特徴である補充現象が著明な場合にはBBの知覚はより困難であった。ALHLの病態に関しては、内リンパ水腫の存在が推定されており、蝸電図の-SP/AP比が病的に増大することが知られている。今回の測定でも同様な傾向が見られたが、有意な相関は見られず、内リンパ水腫の程度とBBの検知能力との有意な相関は示せなかった。

 次に、BBの主観的な振動が大脳皮質での周期的な神経活動に基づくものかどうか調べることを目的として、脳磁図を用いた実験を行った。BBに対応する周期的な神経活動を非侵襲的に測定するには、BBが提示されているときの聴性定常反応(auditory steady-state response(ASSR))を記録、解析する必要がある。従来のASSRはクリック音列や振幅変調音を用いて、刺激音そのものに内在する物理的特性の周期性に同期した神経活動を記録している。これに対してBBに対するASSRの場合は、各耳に提示される音の中には存在せず、両耳からの情報を中枢で統合して得られるIPDの周期性に同期した神経活動が記録できるか調べる点が特徴である。今回の実験では狭義のBBを実現させるためのIFD(4Hz及び6.66Hz)を選択し、この周波数が大脳皮質でどのように表現されているかを明らかにした。

 正常被験者に4Hz及び6.66HzのBBをきかせたときの脳磁場反応を測定した。誘発された脳磁場反応は弱かったが、ノイズを十分に上回る振幅を示した。BBの周波数に一致した周期的な反応が特に両側側頭部で強く認められた(図1上段)。記録された脳磁場波形にスペクトル解析を行った結果、BBの周波数に精確に一致したピーク(図3矢印)が確認され、この脳磁場がBBに対するASSRそのものであることが判明した。使用した8種類のBB刺激のいずれにおいても全被験者が狭義でのBBを知覚したと報告し、従来の聴覚心理実験の結果と一致した。大脳皮質がIPDの情報を用いてBBに同期した神経活動を行うことが明らかになった。

 BB周波数に同期した反応が見られたチャネルの空間的分布、及びminimum-norm current estimate(MCE)を調べた結果、BB ASSRの電流源は両側の聴覚皮質を中心とした側頭部の他に、頭頂葉や前頭葉にも存在する可能性が示された(図4)。陽性チャネルの個数やMCEの分布では、8種類のBBによる違いは認められなかった。同じ被験者でトーンバーストを用いてtransient auditory evoked fieldも記録し、特にN100m(図5)をBB ASSRと比較した。側頭部に限定したダイポールモデリングを行った結果、BB ASSRの等価電流双極子(ダイポール)はN100mのダイポールと有意差のない位置に同定された(図6)。さらに、得られたダイポールを用いてsource strength波形を計算し、それのスペクトル解析も行った結果、BB ASSRの側頭部の電源が聴覚皮質にあり、BBの周波数に同期した反応を呈することが示唆された。ネコやマカクザルの聴覚皮質のニューロンにおける電気生理学実験では、BBの連続して変化するIPDに対する神経活動が報告されており、今回の実験結果はこれらの動物での先行実験の結果に一致した。BB刺激は周期的に変化するIPDを生じさせるので、IPDの周期とBB ASSRの波形の間に何らかの相関があると予想されたが、反応波形の位相は大きなバラツキを示し、IPDの位相との有意な相関を示さなかった。BB ASSRが、IPDをコードする神経活動自体の反映ではなく、BBによって生じる主観的な振動に対する高次の認知過程を反映している可能性が示唆された。

図1 BB(L240R244)に同期したチャネルにおける脳磁場波形(A:左側頭部 B:右側頭部)とBB刺激

上段:各チャネルの脳磁場波形

中断:BB1周期分の脳磁場波形を拡大して示す。灰色で示した正弦波は4Hzの成分である。

下段:左右の耳に提示されたBB刺激のBB1周期分を示す(細線:左耳への純音 太線:右耳への純音)

図2 ALHL群(n=12)の聴力閾値

図3 各チャネル(A:左側頭部 B:右側頭部)における脳磁場のスペクトル解析

図4 MCEによって推定された電流源の典型例。この被験者ではL244R240のBB刺激下で、0.5nAmを超える強度の電流源が左側頭部(A)、右側頭部(B)、左頭頂葉後部(C)、右頭頂葉後部(D)に認められた。

図5 トーンバーストによるN100mの典型例(左側頭部のチャネル)

図6 頭部MRIにTB刺激時のダイポール(+)とBB刺激(L240R244)時のダイポール(○)の位置を重ねて示す。これらのダイポールが左(A)および右(B)の聴覚皮質に同定されている。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、聴覚心理学的手法と電気生理学的手法を用いて、binaural beat(BB)と呼ばれる両耳聴現象のメカニズムを検討したものである。両耳を使って音を聴くことにより、空間での音源の位置を捉えたり、様々な音刺激の中から特定のものに注意を向けて抽出したりすることが可能になる。このような両耳聴を実現するためには、左右の耳からの情報を中枢聴覚路で統合する必要がある。BBは周波数のわずかに異なる正弦波を左右の耳に提示したときに知覚される周期的な聴覚現象(音のうねり)であり、左右の耳で抽出された位相情報が保存され、脳幹及びより中枢側の聴覚路において統合されるために生じると考えられている。BBを実現させるための末梢側での基盤は、蝸牛神経の音に対する位相同期(phase locking)である。蝸牛神経より中枢側の聴覚路、すなわち蝸牛神経核や上オリーブ核においても周波数と位相の情報は保存される。BB刺激の場合には左右間の位相差interaural phase disparity(IPD)が連続的・周期的に変化するので、聴取される周期的振動は、IFDと同一の周波数で変動するIPDの情報が中枢聴覚路で保持されていることを意味している。電気生理学実験では哺乳類の中枢聴覚路においてIPDの周期的な変動に対応する神経活動が証明されている。以上のような背景に基づき、本研究は下記の結果を得ている。

1. 蝸牛障害によりphase lockingの精度が低下すればBBの検知も劣化する可能性がある。そこでまず正常被験者を対象として聴覚心理実験を行い、狭義のBBを知覚させるIFDを測定した。さらに、片側の末梢聴覚器が障害された場合にBBを知覚できるIFDがどのように変化するかを調べるため、急性低音障害型感音難聴(ALHL)の患者を対象として同じ測定を行い、対照群と比較した。左右の周波数差が小さすぎてBBが知覚できない範囲のIFDをfrequency range in which no BB is perceived(FRNB)と名付け、BBの検知の指標とした。ALHL群では対照群に比べてFRNBが有意に拡大していた。片側の蝸牛障害によりphase lockingが障害され、位相情報が劣化することによって、特に遅いBBの知覚が障害されることが示唆された。

2. BBの主観的な振動が大脳皮質での周期的な神経活動に基づくものかどうか調べることを目的として、BBが提示されているときの聴性定常反応(auditory steady-state response(ASSR))を脳磁図を用いて記録、解析した。正常被験者に4Hz及び6.66HzのBBをきかせたときの脳磁場反応を測定した結果、BBの周波数に一致した周期的な反応が特に両側側頭部で強く認められた。記録された脳磁場波形にスペクトル解析を行った結果、BBの周波数に精確に一致したピークが確認され、この脳磁場がBBに対するASSRそのものであることが判明した。BB周波数に同期した反応が見られたチャネルの空間的分布、及びminimum-norm current estimate(MCE)を調べた結果、BB ASSRの電流源は両側の聴覚皮質を中心とした側頭部の他に、頭頂葉や前頭葉にも存在する可能性が示された。同じ被験者でトーンバーストを用いてtransient auditory evoked fieldも記録し、特にN100mをBB ASSRと比較した。BB ASSRの側頭部の電源が聴覚皮質にあることが示唆された。

 以上、本論文は蝸牛の障害がBBという両耳聴現象に影響を及ぼすことを初めて明らかにした。さらに非侵襲的な測定法を用いて、大脳皮質がIPDの情報を用いてBBに同期した神経活動を行うことをヒトで初めて示した。これらの知見はこれまで主に動物実験で調べられてきた両耳聴のメカニズムを、ヒトのレベルで解明する端緒となるものであり、聴覚生理学に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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