学位論文要旨



No 216650
著者(漢字) 湊,清之
著者(英字)
著者(カナ) ミナト,キヨユキ
標題(和) アジアのモータリゼーションと環境負荷
標題(洋)
報告番号 216650
報告番号 乙16650
学位授与日 2006.11.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16650号
研究科 工学系研究科
専攻 環境海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,淳
 東京大学 教授 湯原,哲夫
 東京大学 教授 影山,和郎
 東京大学 教授 松橋,隆治
 中央大学 教授 鹿島,茂
内容要旨 要旨を表示する

(研究の背景と意義)

 豊かさの象徴となった自動車は,わずか一世紀の間に8.3億台(乗用車6.2億台,商用車2.1億台)までに著増し世界中の道路を縦横に走行している.この結果,自動車による化石燃料の消費と排出ガス等によりエネルギー面のみならず都市および地球環境にも大きな負荷を与えるようになった.現在では交通=自動車といっても過言ではない状況であり,自動車は産業面だけでなくエネルギー・環境面においても行政によって規制されるようになってきた.1997年に開催された気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3 京都会議)では難航を極めたものの人類史上画期的な法的拘束力を持つ温暖化防止の合意形成にこぎつけた.京都会議の約束を遵守するため先進諸国では自動車部門で徹底した省エネルギー化が要求されているが,交通は最終需要と結びついており,利用する需要側の指向に大きく影響されるのが自動車の特徴である.しかし,モータリゼーションの進展が著しいアジアにおいては京都議定書への約束履行の義務はなく,このまま放置されるのであれば地球温暖化対策において自動車からのCO2問題がアジアで最大の課題となることが予測される.

 世界的にみて,自動車保有台数の大幅な増加に伴う燃料の不足・高騰化と石油の枯渇傾向が顕在化することにより,石油代替エネルギー問題が加速され重要性が増すことは必至である.このエネルギーセキュリティー問題の直撃を受けるのは途上国,とりわけ持続的な高度成長を遂げてきたアジア諸国である.21世紀のアジア諸国は経済成長と共に自動車保有台数を大きく増加させることは確実である.この結果,有効なエネルギー政策の欠如と現状の自動車技術水準のままであればアジア地域の自動車エネルギー消費量は現在の3〜4倍になり,CO2排出は地球温暖化を促進させ,NOx等により都市の大気汚染はさらに悪化すると予測される.アジアが持続可能な社会を目指すためには克服すべき課題が数多くあり,アジアにおける自動車部門の対応策は世界の全ての分野に大きな影響を及ぼす.

 このため,激動するアジアに焦点を当てエネルギー・環境問題に最も影響を及ぼす自動車を対象として環境負荷低減に向けた研究の着手は意義あることである.

(研究の目的)

 アジア諸国では乗用車利用が急速に高まってきている.ここでは,世界から注目されている中国と,アセアン3カ国(タイ,インドネシア,フィリピン)を研究の対象としている.アジアでは人口増加と国民所得の向上等に伴い,急激なモータリゼーションが見込まれ,環境規制の遅れ等により環境問題の深刻化が予想される.本研究の対象国は,その現象が一部の高所得層や首都圏等の大都市において顕著であるが,先進国にみられる世帯1台あるいは複数台の水準にまで達していない成長過程にある.本研究では,自動車保有台数の増加に伴って引き起される環境負荷の問題に対し,従来,考慮されていない以下の疑問点を研究の発端としている.

(1)アジアの特徴は一部の高所得層と大多数の貧困層が存在し所得格差が大きいことである.乗用車価格を考慮した場合,モータリゼーションの進展は一部の高所得層に依存するか,あるいは多くの国民は整備不良の使用過程車を所有している可能性が大きい.

(2)従来の研究では国民一人当たりGDPをもとに保有台数の予測がなされてきたが,短期的な自動車保有台数を予測するにはアジア特有の所得格差を考慮する必要がある.

(3)従来の研究では,所得分布は考慮していたとしても自動車保有のみを検討しており,自動車の環境負荷量の予測を行う場合は使用過程車の比率や車令分布を考慮されずに推計されてきた.

 本研究ではこれら双方(所得格差と使用過程車)を考慮して乗用車保有台数予測モデルの作成と使用過程車の車令分布および排出ガス性能を勘考すると,

(1)所得格差を考慮しない場合と,した場合ではモータリゼーションの進展が異なり,将来のエネルギー需要や排出ガス削減量に大きな影響を及ぼす.

(2)新車を対象とした排出ガス規制強化に伴う排出ガス削減量と,使用過程車の未規制車をも考慮した場合とでは,排出ガス量が大幅に異なる.このため,将来の排出ガス規制導入時期により大気汚染改善の見通しに影響を与える.

 この2項目を研究対象として,現状の分析を行うことにより,乗用車保有台数の予測を行い,これらの結果をもとに環境負荷要因の抽出とアジアにおいて持続可能な進展を目指した対応策を提案した.

(分析の視点と成果)

 本研究ではアジアのモータリゼーションの進展に伴う環境負荷量を評価するツールの開発と環境負荷量低減の政策導入の効果を評価することを目的として分析を行った.従来の研究では乗用車保有台数の推計には平均所得やGDPが用いられてきた.また,環境負荷量を推計する場合もアジアで使用されている車令の高い使用過程車と車令の高さに伴う排出ガス性能の劣化を考慮することなく取り扱われてきた.

 本研究ではアジアで顕著な所得格差に着目し,所得格差を考慮した乗用車推計モデルの提案と,提案モデルに使用過程車の排出ガス性能を考慮して,アジアのモータリゼーションの進展と環境負荷量の分析を行った.以下に得られた成果をまとめる.

(結論)

 本研究における主要な結論は以下の通りである.

(1)アジアの特徴は需要側からみると所得格差が大きいこと,また使用段階では整備不良の使用過程車が多いことである.従来の研究ではこれらアジアの特徴を十分に考慮に入れて考察されていない点を顧みて,所得格差(ジニ係数と世帯所得と世帯数)を考慮に入れた乗用車保有台数予測モデルを作成した.この結果,中国では従来の推計法と比較して2020年には2,000万台多い156百万台に達する.推計を試みた他の国(タイ,フィリピン,インドネシア)においても従来の方法と比較して,高所得層の成長に伴い乗用車保有台数は増加することが示唆された.

(2)提案されたモデル(所得格差,車令および性能劣化を考慮)から推計された乗用車保有台数をもとに,排出ガス量を推計した.各国の乗用車保有台数の車令分布と車令の高さに伴う排出ガス性能劣化を定量化し,車令毎の排出量を算出することにより,乗用車からの排出ガス量を算出した.この結果から,車令および排出ガス性能劣化を考慮して算出された排出ガス量は,排出ガス規制が無い場合と同レベルの排出量であるとの結論を得た.排出量の推計には車令分布の考慮と車令の高さに伴う排出ガス性能が劣化することを考慮して推計することの重要性が示唆された.

(3)モータリゼーションの進展に伴う乗用車排出ガス量を抑制するため,環境政策の導入効果を試みた.即ち,「対象国で実施されていない車検制度の導入と,排出ガス規制を強化した場合」,あるいは「各政策の組合せによる政策影響評価」を行った.この結果,従来の排出ガス規制の実績をもとに,2010年に最も厳しい排出ガス規制であるEuro 4を導入した場合,1990年比で最大で20%の排出ガス量を削減できることが示された.さらに排出ガス規制と車検制度の組合せでは,約50%の排出ガス量削減が示され,環境政策の導入効果を証明することができた.また政策時期や政策の組合せ効果を定量的に把握できることが示された.これまでは,大気汚染改善に向けて,排出ガス規制導入の必要性や車検制度の効果については個別に評価されており,その相乗効果等については検討あるいは評価されてこなかった.本研究において初めて,環境政策の導入時期や政策の組合せによる効果が示された.

(今後の課題)

 本研究では,アジア各国がモータリゼーションの進展に伴い,直面しているエネルギー・環境問題について分析・評価を行いその対応策を提案した.アジアでの自動車環境負荷低減に欠かせない項目として,

1 使用過程車の車検・メンテナンス制度の充実

2 燃料性状の改善と触媒装置装着の義務付け(有鉛ガソリンの撤廃と硫黄含有量の低減)

3 自動車排出ガス規制の強化

4 大気モニタリング体制の整備

が挙げられる.

 さらに,環境対策の将来に関するグラウンド・デザインをしっかり描いて,相互にトレードオフ関係が多く存在する具体的な対策の選択を考えることが重要である.環境負荷低減に向けて今後取り組むべき課題と実施時期は以下の通りである.

●現在から2020年まで

・自動車からの総排出量低減

 -排出ガス規制の強化(直ぐにでもEuro 4導入,また早期にEuro 5を導入)

 -燃料性状の改善: 硫黄分低減(50ppm)と燃料性状品質確保

 -車検制度の充実と新車代替政策の導入

 -最新自動車技術の導入: 燃料技術,燃焼技術,後処理技術の組合せ

●2010年から2030年まで

・省エネルギー政策の推進

・燃費規制の強化

 -CO2問題への対応で燃費の改善に力点

 -ガソリン車か燃費の良い軽油車かの選択

・バイオ燃料利用拡大(エネルギーミックスの確立)

●2020年以降

・地球温暖化への対応

・本格的なモータリゼーションに対応した政策の確立

 -エネルギー・環境面の戦略確立(技術の開発・高度化)

 -CO2問題への対応の更なる強化

 -化石燃料からバイオ燃料,水素への展開

 -都市形態の変革(環境負荷低減都市への推進)

 あと20〜30年以内にアジアの自動車保有台数は世界地域別に見た場合,世界一の地位を確保しているものと予測される.それだけに,自動車関連のエネルギー・環境問題は重要な課題となってくる.現在,アジア各国が導入している種々の規制体系は異なっているが,アジアの自動車市場の拡大に伴い,エネルギー・環境問題がアジアでの共通課題になっていく可能性が高い.このため,APEC(アジア太平洋経済協力会議)あるいはアジア開発銀行等の自動車環境政策に関する政策対話の場を活用していくことが必要である.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「アジアのモータリゼーションと環境負荷」と題し、世界の環境・エネルギー問題の中で今後の動向が注視されている「アジア」と「モータリゼーション」をキーワードとして、独自の分析と提言をとりまとめたものである。具体的には、アジアにおける所得格差の拡大度合いが乗用車保有率に及ぼす影響や、モータリゼーションにおける使用過程車の割合等、独自の新しい視点から今後のアジアの環境負荷増大傾向と要因を分析するとともに、それに基づいた効果的な対策を立案したものである。

 まず第1章では、はじめにアジアの所得格差の拡大が進展していることを整理し、従来の多くの研究は乗用車保有台数の将来予測に対して単に一人当たりのGDPあるいは平均所得を用いているに過ぎないことなどを指摘し、所得格差が大きいアジアにおいては、所得分布を考慮した乗用車保有台数の予測を行うことが必要であり、さらには中・低所得層における使用過程車の購入により、一台あたりの排出ガスが先進国と比べて桁違いに悪くなる現実を認識する必要があるとの本研究独自の着眼点を述べている。

 第2章では、分析の前提として、従来のアプローチの詳細なレビューを行い、本研究の位置づけとオリジナリティを明確にしている。すなわち、従来の研究では将来の乗用車保有台数や排出ガス量などを予測する場合、例えば保有台数は平均所得あるいは一人当たりGDPを基に推計されており、また、排出ガス量の推計においては、車令を考慮することなく、平均排出量原単位を用いて推計されるのが一般的であった。しかしながら、所得格差の小さい先進国では経済成長と保有台数の関係に大きな構造変化が生じないため、所得やGDPのみのモデルでも将来予測には大幅な誤差は生じないが、所得格差の大きいアジア諸国では将来予測に大幅な誤差をもたらす可能性を指摘している。そしてここでは、日本のモータリゼーション初期における保有特性を分析し、アジアの将来における乗用車保有台数は所得分布を考慮して推計を行うことが必要であることを明らかにしている。

 第3章では、環境負荷の小さい持続可能なアジアのモータリゼーションを進展させるための要因を、従来の研究から分析・評価している。すなわち、現在のアジアにおけるモビリティー・システムは持続可能なものではなく、このままの傾向が続けば持続可能なものにならないことを明らかにしている。具体的には、モータリゼーションを阻害する要因として、エネルギー問題、車検制度の不備、燃料性状の粗悪、排出ガス規制の遅れ、および使用過程車利用と規制が指摘されている。そして、これら既存の諸制度の問題点を分析し、環境負荷の小さい持続可能なアジアのモータリゼーション進展の可能性とその対応策を検討している。

 第4章では、アジアの所得格差が拡大していることに着目し、所得格差を考慮した乗用車保有台数予測モデルを作成し、従来の平均所得や一人当たりGDPから推計された乗用車保有台数と比較・検討している。具体的には、統計量として整備されているジニ係数をパラメータとして、「所得分布を高所得層と低所得層に二極化した場合」と、「乗用車価格の下限界値を設定することにより、乗用車購入可能な所得層の変化を含む国民の所得分布を考慮した場合」の2ケースについて、2020年までに乗用車保有台数の予測について検討を加えている。

 第5章では、従来型アプローチと本研究で提案する推計方法での排出ガス量の違いを明確にしている。すなわちここでは、車令毎に排出ガス量が異なるため(車令が高くなるにつれて排出ガス性能は劣化する)、これまでアジア地域では考案されていない乗用車の残存率(ある年次に購入された車が、x年後にどの程度残存しているかを示す比率)を推計し、車令分布表を作成することによって、車令による排出ガス性能劣化を考慮した詳細かつ精度の高い環境負荷量を推計しており、従来の研究との違いを明確にしている。

 第6章では、アジア諸国で問題となっている乗用車に起因する大気汚染問題を取り上げ、乗用車が主因の環境負荷量低減に向けた取組みの抽出と実施項目の分析を行っている。具体的には、各規制導入(車検制度、排出ガス規制、使用過程車リタイアメント等)のタイミングが環境負荷量増減に大きな影響を及ぼすことを明らかにし、規制導入時期の効果を推計し政策提言を行っている。

 第7章では、各章で得られた成果をまとめ、今後の課題を述べている。

 以上のように、本論文は、今後の環境・エネルギー問題における将来予測と対策の立案に普遍的に適用可能な新しい方法論の提案となっており、高い工学的価値を有すると判断される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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