学位論文要旨



No 216677
著者(漢字) 青山,裕晃
著者(英字)
著者(カナ) アオヤマ,ヒロアキ
標題(和) 三河湾における干潟・浅場の浄化力評価と造成に関する研究
標題(洋)
報告番号 216677
報告番号 乙16677
学位授与日 2007.01.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16677号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 岡本,研
 東京大学 助教授 小松,輝久
内容要旨 要旨を表示する

 近年,東京湾,有明海,中海に代表される内湾沿岸域の環境問題が注目されている。いずれも大規模な沿岸開発計画を有し,それが環境破壊の原因あるいはその要因になり得ると議論されている。しかしながら,浅海域は開発しやすい一方で,調査研究が困難なために研究事例は少なく,浅海域が有する機能の重要性はほとんど知られていなかった。このような状況において,愛知県水産試験場では,三河湾干潟域において総合的な調査を実施し干潟域の物質収支を定量化した。これにより干潟域では効率的に有機懸濁物が除去されており,その機能は底生生物が担っていることが明らかになった。また,浅海域底層の溶存酸素濃度の連続観測と底生生物現存量について密に観測を行った結果,底層の貧酸素化が浅海域の底生生物を死滅させ,水質浄化機能を低下させていることが明らかとなった。この研究結果に基づき,水質浄化機能の回復を目的とした「貧酸素を回避できる干潟・浅場造成の有効な手法」を検討した。本論文は,この一連の研究をとりまとめた物である。

 第I章では,研究対象とした三河湾の現況を10カ年の自動観測ブイ結果を用いて説明した。さらに,海岸線の変遷から三河湾奥部の東三河地区で埋立が急速に行われた時期(1970年代)と赤潮・貧酸素水塊拡大といった水質環境悪化の時期とはよく一致し,富栄養化の一因であることを考察した。

 第II章では,ろ過食性底生生物が担っていると考えられる水質浄化機能を評価するため,三河湾一色干潟において水質及び底質分布調査を行い,ボックスモデルによる物質収支を計算した。青潮によるマクロベントスへい死前後2回の調査結果をみると,マクロベントス現存量が大きく異なり,水質分布およびボックスモデルによる収支結果にも大きな違いがみられた。通常のマクロベントス現存量の場合には,沖側に懸濁物が多く,岸側に溶存態が多いという特徴的な分布が伊勢湾小鈴谷干潟の調査結果と共通してみられ,収支結果においては懸濁物質の90%以上が干潟上で消失するという結果が得られた。逆にマクロベントス現存量が少ない場合には,沖側よりも干潟上に懸濁物が多く分布し,干潟上で懸濁物が生成する収支結果となった。これらのことからマクロベントスのろ過摂食による懸濁物の減少こそが干潟の持つ水質浄化機能であると考察された。

 この水質浄化機能を直接測定するため,上記の調査と同時にマクロベントスをチャンバーに収容してろ過摂食速度を測定したところ,マクロベントス群集の現存量に比例する21.7l/gN/hourが求められた。また,この値に干潟の平均マクロベントス現存量6.47gN/m2を乗じて得られる単位面積あたり濾過速度140.4l/m2/hourに,さらに海水中の平均有機懸濁物濃度0.09mgN/lを乗じて求めた干潟全体で濾過食される有機物量,すなわちマクロベントスによる有機懸濁物除去速度は227.4mgN/m2/dayとなった。一方,ボックスモデルによる懸濁態有機窒素の収支からは150mgN/m2/dayが得られ,前者が約1.5倍大きい。干潟上ではチャンバー内でのろ過摂食速度測定とは異なり,海水の流動により懸濁物食者の糞や擬糞が再懸濁し再び摂餌される「懸濁物の内部循環」の起こるのが通常であり,アサリの排泄率を文献値から55%,その再懸濁率を60%と仮定したところ,ボックスモデルにより求められた有機懸濁物除去速度はチャンバー実験で得られた値と近似し,妥当な値であることが裏付けられた。また,木村ら(1991)に準じてP/B(生産量/現存量)比からマクロベントスの年間生産量を求め,つぎに摂餌速度を推定する方法を検討したところ,チャンバー実験で得られた値と良く一致した。木村らがP/B比を1.5として求めたのに対し,P/B比を2.5とし,糞や擬糞の再懸濁を考慮することによって干潟の実態に近づくことも明らかになった。

 つぎにマクロベントスによるろ過食,糞や擬糞の再懸濁,干潟の潮位変動,植物プランクトン基礎生産速度などを含んだ窒素循環に関する簡易な数値モデルを作成し干潟の骨格的な物質循環を計算し,ボックスモデルによる収支結果を検証したところ,チャンバー実験によるマクロベントスのろ過速度と良く整合した。

 第III章では,浅海域における貧酸素化が底生生物と水質浄化機能に及ぼす影響について考察し,底生生物を維持する溶存酸素環境をアサリの生残率モデルにより評価することを試みた。

 はじめに三河湾奥部の水深3mの地点において約60日の溶存酸素濃度の連続観測と定期的な底生生物調査を行ったところ,貧酸素によってマクロベントスがへい死する過程が観測できた。しかしながら,溶存酸素濃度は長・短期的に大きく変化し,マクロベントス群集の生残率との関連を詳細にみることは困難であった。このことから,底生生物群集の中で最も優占するアサリについて,生残率を溶存酸素飽和度により再現するモデルを作成し,マクロベントスへの影響を評価することとした。モデルは,嫌気呼吸のエネルギー源となるグリコーゲン含量を内部関数とし,溶存酸素飽和度,水温を観測結果から取り込む外部関数にして,生残率を計算するものとした。8ケースの観測結果を検討した結果,計算された生残率は観測値とよく一致した。つぎに,浅海域の変動する溶存酸素飽和度のもとでは,アサリの生残率は一旦70%を下回ると急速に低下し,その後短期間で0%となってしまうことから,底生生物を維持できる溶存酸素環境は,モデル上で生残率が70%を下回らないことを基準とするのが妥当と考えられた。

 第IV章では,三河湾における水質浄化機能回復のための干潟・浅場造成手法を沿岸9地点の観測結果から検討し,その経済効果を推定した。各地点の環境調査からは,水質浄化を担うマクロベントス現存量は水深が深くなるほど減少する傾向にあり,底質の,強熱減量(IL)5%,総窒素(TN)1mg/g・dry,COD10mg/g・dry以上ではマクロベントス現存量が維持されないことが明らかになった。

 つぎに浅場造成の地盤高を決定するため,前章で定めたアサリの生残率が70%を満たすと推定される水深を,底層における連続観測データと鉛直観測データから補完作成した溶存酸素濃度を用いて,アサリ生残率モデルにより求めた。

 求められた造成地盤高は地点によって異なり,DL-1.3m〜-3.8mとなった。また,貧酸素が観測されず,底生生物の生残率が70%以上確保されると推定できた箇所も2地点認められた。さらに,海域の特性によらず一律の造成地盤高とする従来の造成手法では,貧酸素の影響を回避できない地区が生じ,そのような場合には水質浄化能の回復という観点からは,造成が全く意味をなさないことも指摘できた。

 さらに,水深(造成地盤高)からの評価ではアサリの生残率70%を確保できる箇所でも,底質が悪化していることにより底生生物現存量が少ないと判断される場合については,底質改良(覆砂)が水質浄化機能すなわちマクロベントスの生存を保証する手段であると判断した。

 上記の覆砂を併用する浅場造成によって回復・増加することが見込まれる有機懸濁物除去速度を,三河湾7地区における時期別,水深別のマクロベントスの食性別現存量から推定した結果,合計で73.1KgN/dayと推定され,事業費で36.8億円が必要と推定された。仮にこのような事業を実施するとなれば,専門家だけでなく市民にも理解しやすい費用対効果の説明が今後一層求められると考え,つぎに,同等の機能を有する下水処理施設建設費と比較することを試みた。本研究で指標として用いた窒素量を,下水処理機能の評価に使われる化学的酸素消費量(COD)に既報の「COD/PON(懸濁態有機窒素)」を用いて換算・計算した結果,建設費は約50億円となった。したがって,覆砂を併用する浅場造成は,同等の水質浄化機能を持つ下水処理場建設費よりも,約13億円の費用対効果を生むことになる。

 第V章においては以上を取りまとめ,三河湾における干潟・浅場の水質浄化機能の評価と水質浄化機能の回復を目的とした干潟・浅場造成の手法を総合的に考察した。

審査要旨 要旨を表示する

 近年,内湾沿岸域では大規模な沿岸開発が実施され,それが環境破壊の一因であると議論されている。しかしながら,浅海域では地形,海底,潮流などが複雑であり,干潟に代表される浅海域が有する機能の重要性はほとんど明らかになっていない。本研究は,愛知県水産試験場が三河湾において実施した調査をもとに干潟域の物質収支を定量化し,水質浄化機能回復を目的とした干潟・浅場造成の手法を論議したものである。

 第I章では,三河湾の水質変化を10カ年の自動観測ブイ結果から論じ,三河湾奥部で急速に行われた埋め立てが,赤潮・貧酸素水塊拡大を招く海域富栄養化の一因であることを考察した。

 第II章では,ろ過食性マクロベントスが担っていると考えられている水質浄化機能を評価するため,一色干潟の水質及び底質分布調査結果をもとに,ボックスモデルによる物質収支を計算したところ,マクロベントスが分布する場合には沖側に懸濁物が多く,懸濁物質の90%以上が干潟上で消失するという結果が得られた。いっぽう青潮(無酸素水塊の一つ)でマクロベントスが減少した場合には干潟上で懸濁物が生成した。これらのことからマクロベントスの摂食による懸濁物の消費こそが干潟の浄化機能であると考察できた。また現場の底泥をチャンバーで覆い,この機能を直接測定したところ21.7l/gN/hourであり,平均マクロベントス現存量6.47gN/m2を乗じて面積あたり濾過速度140.4l/m2/hourが,さらに海水中の平均有機懸濁物濃度0.09mgN/lを乗じて干潟全体の有機懸濁物除去速度227.4mgN/m2/dayが求められた。

 つぎに窒素循環に関して,マクロベントスのろ過食,糞や擬糞の再懸濁,干潟の潮位変動,植物プランクトン基礎生産速度などを含んだ数値モデルを作成して干潟の骨格的な物質循環を計算したところ,ボックスモデルによる収支結果とチャンバー実験による結果は良く整合した。

 第III章では,干潟の造成指針を定めるためマクロベントスを維持しうる溶存酸素環境を評価した。三河湾奥部で最も優占するアサリをモデルとして低酸素への耐性,すなわち嫌気呼吸のエネルギー源となるグリコーゲン含量を内部関数に,溶存酸素,水温を外部関数にして生残率を計算した結果は観測値とよく一致し,アサリの生残率は一旦70%を下回ると急速に低下・死滅した。すなわち,造成では、モデル上のアサリの生残率が70%を下回らない溶存酸素環境とするのが妥当と考えられた。

 第IV章では,干潟・浅場造成手法を沿岸9地点で検討し,その経済効果を推定した。各地点でマクロベントスは水深が深くなるほど減少し,底質の強熱減量(IL)5%,総窒素(TN)1mg/g・dry,COD10mg/g・dry以上ではマクロベントスが維持されないことが明らかになった。これらの値を下回り,かつ,前章で定めたアサリの生残率70%を満たす水深を造成地盤高とした。

 求められた地盤高は地点によって-1.3m〜-3.8mとなった。また,造成が不要と推定された箇所もあった。すなわち,海域の特性によらず一律の造成地盤高とする従来の手法では,貧酸素を回避できない地区が生じること,また底質の悪化が著しい場合は覆砂の併用が必要と判断された。

 上記の造成方法によって回復・増加が見込まれる有機懸濁物除去速度を,三河湾7地区における時期別,水深別のマクロベントスの食性別現存量から推定した結果,事業費36.8億円が必要と推定された。いっぽう同等の機能を有する下水処理施設建設費は約50億円となり,考案された覆砂を併用する浅場造成は,同約13億円の費用対効果を生むことになる。

 第V章においては以上を取りまとめ,「貧酸素を回避できる干潟・浅場造成の有効な手法」を考察した。

 以上本研究は、長期かつ広範囲の観測および生物調査をもとに干潟の生物過程による水質浄化機構を初めて定量化し、さらに水質浄化機能の回復を目的とした干潟の設計に展開したものであるなど、基礎科学上また応用科学上の貢献は少なくない。よって審査委員一同は、本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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