学位論文要旨



No 216691
著者(漢字) 橋本,鉱市
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,コウイチ
標題(和) 戦後日本における専門職養成の政策過程 : 医師をケースとして
標題(洋)
報告番号 216691
報告番号 乙16691
学位授与日 2007.02.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第16691号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,元久
 東京大学 教授 矢野,眞和
 東京大学 教授 山本,清
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 衞藤,隆
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の目的は、わが国の占領期から1990年代に至る医師養成の政策過程分析を通して、戦後の専門職養成の政治的構造とその変容を、福祉国家形成・再編との関係において分析することである。この目的のため、医師養成の「量」をめぐるイシュー・政策に焦点を絞り、そこに政策過程分析における「アクター」と「レジーム」という概念枠組みと、イシューアプローチの分析手法を援用して、イシューの認知・統合―アジェンダ設定―政策形成・決定までの各段階をそれぞれ詳細に分析した。

 本論文は大きく2部構成をとっている。第I部(序章〜第3章)は研究枠組・方法論の措定と先行研究(歴史・比較)のレビューを扱い、それを踏まえる形で第II部(第4章〜結章)において、戦後日本の医師養成政策の実証的分析を行った。

 まず序章では、本論文の研究意義と目的、概要と構成、などを概説した。

 次に第1章では、本論文が高等教育政策の中核的なケーススタディとして取り上げる専門職(医師)養成政策について、量的な側面に着目する意義、そしてその際に立ち現れる「国家」、「大学」、「専門職団体」の三者からなる鼎立構造(レジーム)に言及した上で、戦後に発展・再編された福祉国家の重要性について触れ、政策研究としての必然性について述べた。さらに、研究対象としての専門職養成と方法論としての政策過程論について、それぞれ先行研究のレビューを行って課題を抽出するとともに、イシュー・政策はそれを取りまく特有の政治的な権力構造=レジームの中で生起・進展していくこと、現実的にはレジームから析出された多元的なアクター群がイシューを認知・統合しアジェンダ・セッティングを経て政策へと形成・決定していく、といった理論的な枠組を整理した。

 第2章では、戦後改革に至る明治期から昭和戦前期までの、資格試験制度(医術開業試験)と高等教育機関(大学・医専・医学校)の変遷と、その重層的な学歴・履歴が生み出した身分的格差について整理した。その上で、戦前期においては医師の量と質に関する政策は国家・大学・医師集団間でアドホックに形成・決定されてきたこと、したがって医師養成のレジームとしてはこの三者が不安定ながらも相互に牽制・拮抗した構造を有していたことを解明した。さらに、こうした学歴格差と量的なインバランスが、戦後の医師養成政策の歴史的基盤・制約となったことを指摘した。

 第3章では、アメリカにおける医師養成のあり方について、わが国の戦後改革から現代に至るまでのモデルケースともなったメディカル・スクールの発展と拡大を中心として、AMA(アメリカ医師会)がイニシアティブをとりながらも、戦後は福祉国家体制の志向性の下で連邦政府の財政的介入が法制化されてきたことを考察し、医師数の抑制―拡大―縮小というその政策過程を跡づけた上で、医師養成のレジームにおける中央政府の役割の増大化傾向が、戦後わが国の医師養成と通底している点を分析した。

 第II部は、第I部の基礎・理論編を踏まえて、戦後の改革から1990年代に至る医師養成政策の政策過程をインテンシヴに分析した。まず、戦後占領期から1990年代までを5つの時期、すなわち、(1)占領期、(2)抑制期(1960年代前半期まで)、(3)胎動期:秋田大学医学部の設置(60年代後半期)、(4)拡大期:無医大県解消政策(70年代前半期)、(5)縮減期(80年代以降)に区分し、それぞれの時期における医師養成に関わるイシュー(医師の適正数もしくは供給量)がどのように政策決定にまで至ったのか、という政策過程をメゾレベルで実証的に分析した。またその際に、まず医師養成策の理念的なレジームから想定されるアクター群を、中央レベルと地方レベル、また行政ルートと政治ルートにそれぞれ分けて特定し、彼らの行動・役割を考察した上で、各時期におけるレジームの在り方と変容を分析するという手順を採った。

 まず、第4章では戦後直後の改革期におけるGHQ/SCAP/PHWによるアメリカのメディカル・スクールをモデルとした改革について、一次資料であるPHW-CME(医学教育審議会)の議事録から、その審議過程と政策決定について詳細に分析した。これによって、「7年制教育」案と多数の医専統廃合が最大のイシューとなったこと、日本側(文部省、教育刷新委員会など)の中央レベルの限定的なアクター間で政治的な妥協に落ち着いたこと、GHQ/SCAP側に権力が圧倒的に偏重しており、その下で戦後の専門職養成に関わる国家・大学・専門職団体の基本的なレジームが形成されたことなどを解明した。

 第5章では、改革後1960年代前半までの厳格な抑制期において、医学部定員の増員転換までの政策過程を考察した。この時期は、厳格な定員政策が持続され質の向上が目指されたものの、国民皆保険制度の発足とともに急激に医療需要が増大化し、それに伴って厚生省は医師数増加の認識へと急転換させてインクリメンタルな形で既設医学部の定員増員を文部省に依頼するに至ったこと、つまり中央の行政レベルのアクター群の役割と行動を中心に分析して、レジームにおける中央政府の比重の増大化傾向を裏付けた。

 第6章では、60年代半ばから本格化する秋田大学医学部の設置実現(1970年)までの政策過程を跡づけた。これ以前のアクターは中央レベルの諸官庁が中心であったが、この時期以降は知事・県議会や期成同盟会といった地方レベルのアクターが登場し、彼らが地方国立大学を通じた概算要求によって中央レベルでのアジェンダとして設定したこと、また政治ルートも活用して医学部設置の実現にまでこぎ着けたことを明らかにした。レジームにおいて中央と地方という2重のディメンジョン構造が生まれたとともに、政府の増大化が決定的となったことを指摘した。

 第7章では、この秋田大学を端緒として拡大路線が本格化し、70年代前半期に無医大県解消政策(1県1医大政策)へと結実していく過程について、中央と地方の2レベル、政治と行政の2ルートそれぞれから詳細な分析を行った。医療・保健・福祉面での拡充を求める世論の高揚を背景に、この大拡張政策の政策過程では、きわめて厳しい行政的制約の中で自民党(文教族)による政治的影響力によって推進されたことのほか、地方レベルのアクターの陳情活動によるところが大きかったこと、また単科医大方式がそれを熾烈化させたことなどを明らかにした。したがってこの時期のレジームは、中央・地方双方の政府セクターが過大な役割を担うという福祉国家に典型的な形態であったことを解明できた。

第8章では、80年代に入って、これまでの拡大路線から一転して、医師数抑制ひいては医学部定員の縮減へと政策転換されていく過程を跡づけた。中央レベルの行政的対応では全国の医学部(医大)定員の削減政策は遅々として進まず、大学側・専門職側の調整役としての役割を担うこととなり、これと軌を一にして医師養成をめぐる政策コミュニティ的な専門家集団が台頭したことを指摘した。レジームの在り方も政府セクターの縮小とともに他のセクターの参入、さらには三者間の関係の緊密化・浸透化が認められ、わが国の福祉国家から福祉社会への転換を考察した。

 最後の結章では、これまでの詳細な政策過程の考察をまとめ、各時期におけるアクターとその行動から、戦後における医師養成政策のレジームの変容について考察し、日本的特質を抽出した。

 以上、本論文の結論として明らかとなったのは、まず戦後わが国の医師養成政策のアクターは、厚生省、自民党(文教族)、文部省のほか、1960〜70年代の拡大期においては地方政府関係者があげられ、これらを地方大学、日医、自治省、大蔵省、全国医学部長病院長会議などが取り巻いていた。ただし、政策過程の前半では厚生省、形成段階では文部省、また拡大期においては決定段階で文教族が重要な役割を担うなど、中心アクターは段階ごとに交代しており、医師養成政策も他の公共政策と同様に、同一アクターが影響力を一貫して行使できたわけではなく、多元的なアクターによる闘争・調整・妥結の結実であった。また、諸アクターは行政的・法律的な制約(制度)に拘束されており、それが政策過程の在り方を左右していたこと、また拡大期=福祉国家形成期にはそれらを反故にするような強力な政治的手法も度々採られていた。このようなアクターの行動と役割の分析から、戦後60年にわたる医師養成に関わる基本的なレジームの構造と権力バランスが改革期に新たに成形されて、政策形成・決定への文部省と厚生省の関与の正統性が確立されたこと、またこうした中央政府の持つ役割と権限は福祉国家への志向性の中で次第に肥大化するとともに、「地方」というディメンジョンが生じて複層化したこと、しかし80年代の福祉国家修正期には、他のセクターとの調整役に回るなど、中央・地方とともにレジーム内での影響力が弱まり、政府・大学・専門職集団から成る専門家コミュニティが台頭したことなどを解明した。したがって、政府セクター、特に地方政府に果たした役割を考え合わせると、わが国の医師養成のレジームの在り方とその変容は、福祉国家化とその再編という国際的な潮流に追随しながらも、後発国に特徴的な社会・経済・政治システムに即応していたことが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 わが国の高等教育政策の形成についてはいくつかの先駆的な研究があるが、いずれも大まかな政策の方向を対象としたものであり、個々の具体的な施策がどのように形成されているのかを具体的に研究したものはほとんどなかった。本論文は戦後改革から1990年代に至るまでの医師養成政策を事例としてその形成過程を、体系的かつ詳細に分析しようとしたものである。

 論文は序章、総括を含めて十の章からなっている。序章では、既往の政策研究を概観しつつ、一方において政策課題(イッシュー)の立ち上がりとその政策への具体化の経緯、他方において政策形成の場となる社会権力構造(レジーム)とその中でのさまざまな主体(アクター)の行動とその相互作用、という二つの軸を交錯させる分析枠組みを設定している。第2章においては分析の背景として、日本における戦前の医師養成と、戦時中の医専増設を概観し、戦後の医師養成の出発点の特質を述べた。第3章ではそれと対比してアメリカにおける医師養成制度の形成過程を述べている。

 第4章から第8章は、上述の分析枠組みを用いた戦後改革から1990年代に至るまでの変化の分析である。第4章では占領期において、戦時期の大量養成による医師過剰と、アメリカにおける1940年代の医師養成制度改革という二つのコンテクストの中で、戦後の医師養成制度がいかに構想されたかをあとづけ、さらに続く第5章ではそうした構想が、戦後日本の現実の中で変質し、厚生省(当時)、文部省(同)、日本医師会などからなる一つの統制的な体制が形成されていったことを示している。

 第6章は1960年代にはいって、そうした体制がゆらぎ始めたことを象徴するものとして秋田大学医学部創設の経緯をあとづけ、さらに第7章では、福祉国家化への流れの中で1960年代後半から始まる全国的な国立医大・医学部の新設の動きを詳細に分析している。第8章では1980年代にはいって一転して医師養成数が抑制にむかった経緯が分析されている。結章では以上の分析を総括し、今後の分析課題を述べている。

 以上の分析をつうじて本研究は医師養成政策を事例として、高等教育政策が時代の社会構造と権力の布置構造の中で、いくつかのアクターの交互作用として形成されていること、またそのダイナミックスのあり方自体も変化してきたことを具体的に示した。医師養成以外の分野での政策形成への一般化の可能性、現在の医師養成政策との関連、経済的要因との関係、などについてさらに分析が必要であることが指摘されたが、その出発点として以上の点を実証的に明らかにしたことは高く評価された。このような観点から博士(教育学)の論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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