学位論文要旨



No 216692
著者(漢字) 西谷,しのぶ
著者(英字)
著者(カナ) ニシタニ,シノブ
標題(和) 肝硬変病態における骨格筋での分岐鎖アミノ酸の糖代謝改善機構
標題(洋)
報告番号 216692
報告番号 乙16692
学位授与日 2007.02.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第16692号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

[序論]

 肝硬変病態では耐糖能異常を示す患者は6-8割、そのうち糖尿病を併発している患者は1-2割程度存在することが報告されている。

 肝硬変病態での糖代謝異常の特徴は、インスリンクリアランスの低下に伴う高インスリン血症とそれに引き続くインスリン抵抗性、耐糖能低下、および臓器中のグリコーゲン量の減少により、食後の耐糖能異常と空腹時の低血糖という管理の難しい糖代謝異常を呈することが知られている。

 また、こうした糖代謝異常を合併している肝硬変患者においては肝臓癌のリスクが高いことが報告されており、その是正は肝硬変患者の予後改善にきわめて重要である。しかしながら、既存の糖尿病治療薬の多くは肝機能に影響を与えることから、肝疾患時に投薬できる糖尿病治療薬はほとんどなく治療が十分には施されていないのが現状である。

 そこで、肝硬変治療薬として用いられている分岐鎖アミノ酸製剤に、肝硬変患者の糖代謝異常に対する新たな治療の可能性を見出すために、モデル動物を用いた非臨床研究により骨格筋における分岐鎖アミノ酸の糖代謝改善効果についての検討を開始した。

[研究内容]

 先ず始めに、3つの分岐鎖アミノ酸の耐糖能作用の有無を調べるために、糖負荷試験を行った。肝硬変モデルラットにグルコースを経口投与し、その一時間後にイソロイシン、ロイシン、バリン、vehicleを経口投与し、継時的な血糖値の変化と血中インスリン値を観察した。イソロイシンが最も強い血糖降下作用を示し、ロイシンも有意な作用を示した。バリンにはその作用はなかった。ロイシン、イソロイシンを投与することによる新たなインスリン分泌は認められなかった。分岐鎖アミノ酸によるインスリン非依存的な耐糖能改善作用が示唆された。

以上の結果より、肝硬変モデルラットにロイシン、イソロイシンを経口投与すると、耐糖能改善作用が認められた。その作用はインスリン分泌を伴わないことが明らかになった。

肝硬変モデルラットは肝臓でのインスリンのターンオーバー低下によるhyperinsulinemiaと耐糖能低下により、インスリンへの感受性が低下しているため、インスリン分泌不全傾向にあると推察された。

以上の結果より、肝硬変モデルラットではロイシン、イソロイシンはインスリン非依存的に耐糖能を改善することが明らかとなった。また、分岐鎖アミノ酸の中でイソロイシンが最も耐糖能改善作用が強かった。

 そこで、ロイシン、イソロイシンのインスリン分泌を介さない耐糖能改善作用のメカニズムを、骨格筋を用いて直接調べた。肝硬変モデルラットのヒラメ筋のみを単離し、RIラベルを用いてインスリン非添加での糖取り込み量を測定した。2mMのロイシンまたはイソロイシンを処理した時、ヒラメ筋の糖取り込み量は有意に増加した。糖取り込みシグナルに関与しているキー酵素、PI3-kinaseの阻害剤であるLY294002、PKCの阻害剤であるGF109203Xをそれぞれ前処理すると、イソロイシンの作用は完全にキャンセルされた。このことから、ロイシンおよびイソロイシンによる糖取り込み促進作用はPI3-kinaseとPKCシグナルを介していることが示唆された。

以上の結果より、ロイシン、イソロイシンによるインスリン非依存的な耐糖能改善作用のメカニズムの1つは、骨格筋における糖取り込み促進であることが示唆された。また、その糖取り込み促進作用はPI3-kinaseとPKCシグナルを介している可能性が示唆された。

 そこで、ヒラメ筋においてイソロイシン投与による糖取り込みシグナル酵素の活性化の程度を、グルコース投与と比較して測定した。2g/kgのグルコースを経口投与したとき15分後に血中インスリン値はピークとなり、以降も絶食時と比較して有意に上昇した。グルコースによって内因性のインスリン分泌が起こったと考えられ、グルコース投与による酵素活性化はインスリンによるものと考えられた。

一方、イソロイシン投与でのインスリン分泌は、どの時間においても有意差なく上昇は認められなかったため、以後の酵素の活性化には内因性インスリンの関与はほとんどないと考えられた。このときヒラメ筋においてPI3-kinaseのリン酸化活性をオートラジオグラフィーで観察したところ、グルコース群では15分から強く活性化しており、既知のとおりインスリンによってPI3-kinaseは活性化されることを確認した。

一方、イソロイシンでも15分以降絶食群に比較してPI3-kinaseの活性化が起こっており、グルコース投与群とほぼ同じ程度活性化されていることが明らかとなった。

 次に、糖取り込みシグナルで知られているAktのリン酸化活性を調べた。グルコース群では15分から強く活性化しており、既知のとおりインスリンによってAktは活性化されることを確認した。

一方、イソロイシン群では15分と30分において絶食群に比較して活性化が認められたが、グルコース群に比較すると非常に弱いと考えられた。

以上の結果より、イソロイシンではAktの活性化はほとんど認められず、インスリンによって知られる糖取り込みシグナルと違うシグナルを活性化することにより糖取り込み促進作用を示していることが示唆された。

 次に、単離ヒラメ筋の糖取り込み促進作用で認められたPKCシグナルの活性を調べた。PKCの中でもatypical PKC(aPKC)のPKCζはGLUT4の細胞膜移行を促進することが知られているため、PKCζによるリン酸化活性を、RIを用いて測定した。絶食群に比較してグルコース群では2倍程度の活性化が認められた。

一方、イソロイシン群では10倍近い活性化が認められ、イソロイシンはPKCζを非常に強く活性化することが明らかとなり、インスリンシグナルとの違いが示唆された。

 次に、骨格筋においてグルコースを取り込む最終工程であるGLUT4の細胞膜移行量を調べた。各時間においてグルコースまたはイソロイシンを経口投与したモデルラットより単離した骨格筋から細胞膜フラクションを調整し、GLUT4の抗体を用いてウエスタンブロッティングによって検出した。グルコース群では15分からGLUT4が細胞膜に多く移行していた。

一方、イソロイシン群でもインスリンと同様にGLUT4の細胞膜移行が起こることが明らかになった。

また、ロイシンもGLUT4を細胞膜への移行促進作用があることが明らかとなった。

以上の結果より、骨格筋においてイソロイシンはPI3-kinaseを活性化し、PKCζを非常に強く活性化するという新たな糖取り込みシグナルを使って、GLUT4を細胞膜へ移行させてグルコースを取り込んでいることが明らかになった。

 さらに、イソロイシン、ロイシンを経口投与した時のグリコーゲン合成酵素の活性化を調べた。ロイシンのみに骨格筋におけるグリコーゲン合成酵素が活性化作用があることが明らかとなった。このロイシンによるグリコーゲン合成酵素の活性化作用はmTORの阻害剤であるrapamycinを前投与しておくと完全にキャンセルされたことより、mTORシグナルを介して起こっていることが明らかとなった。

以上の結果より、ロイシンのみにmTORシグナルを介するグリコーゲン合成酵素の活性化作用が認められた。

 次に、このロイシンおよびイソロイシンの耐糖能改善作用が糖尿病態においても有効であるか検討した。1型糖尿病モデルを用いて、ロイシン、イソロイシン単独投与による血糖降下試験を行った。STZラットではVehicle群に比較してロイシン、イソロイシンともに有意に血糖降下作用を示した。

次にII型糖尿病モデルラットであるGKラットを用いて、糖負荷試験を行った。ロイシンを投与すると、インスリン分泌促進することにより、速攻型インスリン分泌型糖尿病薬と同様に耐糖能改善効果があることが明らかとなった。また、イソロイシンを糖尿病薬と共投与するとインスリンの効果が増強した。

 以上の結果より、糖尿病態においてもロイシン、イソロイシンの糖取り込み促進作用は発揮され、耐糖能改善作用を示したことで、肝硬変病態だけでなく、糖尿病のようなあらゆる糖代謝異常に対しても有効であると考えられた。

 最後に、今回の研究で骨格筋において明らかになったことをシグナルマップにまとめた(図表1)。ロイシンによるmTORシグナルを介したグリコーゲン合成酵素の活性化作用は、肝硬変病態の骨格筋において減少したグリコーゲン蓄積量を回復させる可能性があり、肝硬変病態での糖代謝の改善に寄与すると考えられる。

 イソロイシンは分岐鎖アミノ酸の中で最も強く耐糖能改善作用を示した。この耐糖能改善作用のメカニズムの1つは骨格筋における糖取り込み促進作用であることが明らかになった。

 インスリン非依存的に、イソロイシンはPI3-kinaseとそれに続くPKCζを活性化し、GLUT4の細胞膜移行を促進して糖取り込み作用を示していることが明らかになった。さらに、イソロイシンによってGLUT1の細胞膜移行も促進されていたことが確認された。これらの現象は世界で始めて明らかになったことである。このイソロイシンによる耐糖能改善作用は、肝硬変病態の食後高血糖の是正に寄与すると考えられた。

 実際、臨床において分岐鎖アミノ酸製剤の投与によって、肝硬変患者のインスリン抵抗性の改善や耐糖能の回復、さらに大規模長期投与試験においては、合併症の低減、予後の改善などが報告されている。この臨床における分岐鎖アミノ酸の効果の一端を今回の研究で明らかになった糖代謝改善作用が担っていると思われる。

骨格筋におけるイソロイシン、ロイシンのシグナル活性化マップ

審査要旨 要旨を表示する

 肝硬変病態では耐糖能異常を示す患者は6〜8割、そのうち糖尿病を併発している患者は1〜2割程度存在することが報告されている。肝硬変病態での糖代謝異常の特徴は、インスリンクリアランスの低下に伴う高インスリン血症とそれに引き続くインスリン抵抗性、耐糖能低下、および臓器中のグリコーゲン量の減少により、食後の耐糖能異常と空腹時の低血糖という管理の難しい糖代謝異常を呈することが知られている。また、こうした糖代謝異常を合併している肝硬変患者においては肝臓癌のリスクが高いことが報告されており、その是正は肝硬変患者の予後改善にきわめて重要である。しかしながら、既存の糖尿病治療薬の多くは肝機能に影響を与えることから、肝疾患時に投薬できる糖尿病治療薬はほとんどなく治療は十分ではない。

 そこで、肝硬変治療薬として用いられている分岐鎖アミノ酸製剤に、肝硬変患者の糖代謝異常に対する新たな治療の可能性を見出すために、モデル動物を用いた非臨床研究により分岐鎖アミノ酸の糖代謝改善効果について検討した。

 まず、三種類の分岐鎖アミノ酸について糖負荷試験を行った。肝硬変モデルラットにグルコースを負荷後にイソロイシン、ロイシン、バリンを経口投与し、継時的な血糖値の変化と血中インスリン値を測定した。その結果、イソロイシンが最も強い血糖降下作用を示し、ロイシンも有意に低下させたがバリンにはその作用はなかった。ロイシン、イソロイシンはインスリン分泌には影響せず、分岐鎖アミノ酸によるインスリン非依存的な耐糖能改善作用が示唆された。そこで、肝硬変モデルラットのヒラメ筋のみを単離し、インスリン非存在下での糖取り込み量を測定した。ロイシンまたはイソロイシンによりヒラメ筋の糖取り込み量は有意に増加し、この作用はPI3-kinaseの阻害剤であるLY294002、PKCの阻害剤であるGF109203Xにより完全に抑制された。ヒラメ筋においてイソロイシン投与による糖取り込みシグナル酵素の活性化の程度を、グルコース投与と比較した。グルコースを経口投与した15分後に血中インスリン値は最大値になり、以降も有意に上昇し続けており、グルコースにより内因性のインスリン分泌が起こったことが確認できた。また、この時にPI3-kinaseのリン酸化活性が上昇していることもオートラジオグラフィーを用いて確認した。一方、イソロイシン投与後にはインスリン分泌の有意な上昇は認められなかった。以後の酵素の活性化には内因性インスリンの関与はほとんどないと考えられた。しかし、インスリン分泌は起こらなくてもイソロイシンによりPI3-kinaseの活性化がグルコース投与群とほぼ同程度に起こっていることを明らかにした。

次に、糖取り込みシグナルとして知られているAktのリン酸化活性を調べた。グルコース投与群ではAktの強い活性化が確認できたが、イソロイシン投与群ではその活性化は非常に弱いものであった。以上の結果より、イソロイシンはインスリンとはことなるシグナル伝達系を活性化させることにより糖取り込みを促進していることが示唆された。また、PKCの中でもatypical PKC(aPKC)のPKCζはGLUT4の細胞膜移行を促進することが知られているため、PKCζによるリン酸化活性をRIを用いて測定した。グルコース投与群では2倍程度の活性化が認められたが、イソロイシン群では10倍近い強い活性化が認められた。

 骨格筋におけるグルコース取り込みの最終過程であるGLUT4の細胞膜移行量を解析した。その結果、グルコース投与群およびイソロイシン投与群においてGLUT4の細胞膜移行が同程度に上昇することが明らかになった。さらに、イソロイシン、ロイシンを経口投与時の骨格筋におけるグリコーゲン合成酵素の活性化を調べたところ、ロイシンにのみグリコーゲン合成酵素が活性化作用があり、rapamycinにより完全に抑制されることからmTORシグナルを介していることが示唆された。

 次に、このロイシンおよびイソロイシンの耐糖能改善作用が糖尿病態における有効性を検討した。I型糖尿病モデルであるSTZ投与ラットにおいて、ロイシン、イソロイシンはともに有意に血糖降下作用を示した。また、II型糖尿病モデルであるGKラットを用いて、糖負荷試験を行ったところ、ロイシン投与により、速攻型インスリン分泌型糖尿病薬と同様に耐糖能改善効果があることが明らかとなった。また、イソロイシンを糖尿病薬と共投与するとインスリンの効果が増強された。

 ロイシンおよびイソロイシンは、肝硬変病態モデル動物において、インスリン非依存的にPI3-kinaseおよびPKCζの強い活性化を介してGLUT4を細胞膜へ移行させ、グルコース取り込みを促進して血糖低下させることが示唆された。また、糖尿病モデル動物においても耐糖能改善作用を示すことを明らかにした。さらに、ロイシンには、肝硬変病態の骨格筋において減少したグリコーゲン蓄積量を回復さる作用があることを明らかにした。臨床において、分岐鎖アミノ酸製剤の投与によって、肝硬変患者のインスリン抵抗性の改善や耐糖能の回復、さらに大規模長期投与試験においては、合併症の低減、予後の改善などが報告されているが、本研究はそのメカニズムを明らかにした。さらに、糖尿病に対する有効性も示唆した。インスリン非依存性の耐糖能改善はインスリン抵抗性の治療にも結びつく知見であると考えられる。以上のように、本研究は肝硬変や糖尿病における糖代謝にたいする分岐アミノ酸製剤の効果を示すものであり、博士(薬学)の学位授与に値すると判断した。

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