学位論文要旨



No 216698
著者(漢字) 塩津,弥佳
著者(英字)
著者(カナ) シオツ,ミカ
標題(和) 医療施設の空気環境から見た建築計画的研究
標題(洋)
報告番号 216698
報告番号 乙16698
学位授与日 2007.02.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16698号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、医療施設の空気環境、特に揮発性有機化合物の実態調査を通じて、医療施設における"空気"の意味を改めて問い直し、"空気"を軸にした新しい建築計画のあり方を提案した。

本論文は、以下の4編からなる。

1編 研究の背景と目的

2編 医療施設における空気質の実態

3編 空気環境から見たこれからの医療施設計画における課題

4編 結語

 本論文は、2編と3編が大きな柱になっている。2編では、シックハウス問題で注目された揮発性有機化合物を主にとりあげ、医療施設での室内空気汚染の実態を報告した。3編では、2編で実施した調査の結果および知見から、医療施設における空気環境計画に関する提案を行った。本論文の特徴は、通常、建築環境工学で取り扱われる空気環境調査の結果から、建築環境工学における考察に加え、その対策を建築計画的手法において考察した点である。

1編 研究の背景と目的

 1編では、研究全体の枠組みを示した。

 1編1章では、わが国の医療および医療施設の歴史的背景を示した。

 1編2章では、研究目的を示した。

 1編3章では、研究対象の定義を行った。特に、2編で、実態調査を行った旧国立病院、旧労災病院については、沿革、歴史、これらの施設が果たしていた社会的役割について記した。

2編 医療施設における空気質の実態

 2編では、これまでほとんど実態が把握されていない医療施設の室内空気質に関する実態調査を行い、考察を行った。

 2編1章では、調査対象とした汚染物質のひとつである揮発性有機化合物(以下、VOCと省略)が社会問題となった背景を考察、空気汚染物質の定義・分類・汚染発生源・現行の室内空気に関する法律・規制、2章以降で行う測定・分析方法を解説した。既往調査では、医療従事者が作業環境でVOC濃度を調査し、空気汚染と健康影響に関する問題を指摘し論文がみられたが、医療施設全般にわたるVOC濃度調査は、著者らが行うまでは、国内外とも報告例はなかった。

 2編2章では、建築物衛生法7項目のうち、温度、相対湿度、一酸化炭素、二酸化炭素、浮遊粉塵、ホルムアルデヒドを測定した。調査は20施設、357室で実施した。調査対象とした主な部屋は、外来待合、処置室、外来診察室、ナースステーション、病室(個室、4床室)、汚物処理室、病棟食堂、集中治療室、内視鏡検査室、病理検査室、放射線課、サプライ、調剤、透析室、管理部などである。二酸化炭素濃度は、事務部門で高い濃度がみられた。5分間隔で測定した温度・湿度の平均値が、建築物衛生法の管理基準内に入っていたのは121室(約33%)であった。また、アンケートによる加湿運転の有無と平均相対湿度の結果から、事務所用ビルでも指摘されている加湿の難しさが、医療施設でも確認された。

 2編3章では、2002年に実施したパッシブサンプラーによるVOC濃度の調査結果を報告した。調査は、プレ調査と本調査の2種類ある。プレ調査では、どのような用途の部屋にVOC汚染が見られるかを把握することを目的とし、6つの医療施設のいろいろな用途の部屋で測定を行った。本調査では、異なる機関で同じ用途の部屋で実態調査を行った。20施設18用途、のべ357室で測定した結果、VOC濃度は、ほとんどの部屋で厚生労働省のガイドライン値以下であった。ホルムアルデヒドとキシレンのガイドライン値を超えていたのが19室で、このうち18室が病理検査室であった。

 2編4章では、ホルムアルデヒド濃度の系時変化を測定し、その時、そこで行われていた作業内容(発生行為)との関連を考察した。

 2編5章では、環境調整室をもつ医療施設で調査を行った。

2001年には、環境調整室をもつ4つの医療機関において、患者動線に基づいたサンプリングポイントを設定しVOC濃度の実態調査をした。

2003年には、環境調整室を持つ施設で、粉塵に付着した準揮発性有機化合物に注目し、ダクト内や空調フィルター内の汚染状況を調査した。ダクト内の粉塵に付着している準揮発性有機化合物は、外気から空調機を通って室内に吹出す間、段階的に少なくなっていることが確認できた。

 2編6章では、高沸点の揮発性有機化合物濃度とフタル酸エステル類に注目して調査を行った。

 高沸点の物質は、新棟入居直前と入居後1ヶ月後経過したときの空気質の変化を調べ、入居前後のVOC成分が異なっていたことを確認した。

 また、これとは別の施設においては、フタル酸エステルに注目して開院前と1年後の室内空気質調査を行った。これらの物質は、極めて低い濃度レベルであった。

 2編7章では、病院で感じる「におい」について、医療従事者にアンケートを行った。987名の回答のうち、「病棟」勤務者は、排泄介助、オムツ交換、嘔吐物処理などの時に「におい」を不快と感じていた。このほか、「検査課」では切り出しや病理標本作成時に使用するホルマリンやキシレンなどの薬品に対して、「中材・手術室」では消毒薬使用時や血液臭に対して、不快なにおいとの回答がみられた。また、「薬局」では調剤時、特に錠剤粉砕時に不快と感じると意見がよせられた。それぞれの汚染発生の特性に応じた、対策が必要である。

 2編8章は、2章から7章までの調査結果をまとめた。

3編 空気環境から見たこれからの医療施設計画における課題

 3編1章では、いわゆるシックハウス対策で、建築環境工学が提案してきた発生量と換気量対策だけでは限界があることを示した。医療施設では、設備の維持管理をする専門知識を有した人材が不足していることを指摘し、環境工学における課題のひとつとしてこうした人材育成の必要性を指摘した。

 3編2章では、建築環境工学で使用する"空気"と、一般的に考えられている"空気"という言葉の意味や言葉のイメージの違いをはじめ、医療施設で空調設備の導入に至る歴史的経緯を整理した。

 「いい空気とはどんなものか?」という自由記入形式のアンケート回答(2337票)を大別すると、ポジティブなイメージをあてはめて「いい空気」と答える記述と、ネガティブなイメージを取り上げ否定し「いい空気」とする2つの傾向がみられた。「いい空気」は「森」や「自然」「山」など、自然に対するイメージがポジティブなイメージとして強く持たれていることが分かった。また、「すがすがしい」「ここちよい」などの温熱感を表す言葉も、「いい空気」の感覚として持たれていた。建築環境工学の分野で「空気」という言葉を用いるときには、温熱環境に関する概念は除かれている場合が多く、この点が異なっていたことがわかった。

 3編3章では、空気の捕らえ方には違いがあることを前提として、"空気環境"を良好にするため建築計画からのいくつかの提案を行った。

 医療施設でVOC濃度が低かった理由は、換気回数が大きかったことが挙げられる。この換気回数は日本医療福祉設備協会の設計・管理指針に基づいてた運用が、おおむね行われていた。この規格は、米国ASHRAEの基準がベースになっている。しかし、米国とわが国の医療施設は、同じ用途の部屋でも床面積・体積が異なる。このため換気回数が同等であっても換気量は異なる。著者は、この点を指摘し、汚染発生の懸念される部屋については、室容積を考慮した建築計画を行うことが必要であることを提案した。

 施設管理には、施設利用者の日常的な環境に対する意識も重要である。そこで、医療従事者が、空気清浄度を意識するデザインが必要であることを提案した。例えば、給気口・排気口を意識させるデザインで、空気の流れを意識させる。壁・床・天井などを利用し、その空間の空気清浄度・注意する汚染物質を"色や濃淡"で示し、目に見えない環境を意識させる。このような工夫が、現在の医療機関において必要であることを提案した。

 このようなデザインをしても、空気汚染物質を意識することは難しい。そこで、ユビキタス技術の位置情報システムは、労働衛生管理の強化、特に汚染空気の曝露量管理を行い、医療従事者をはじめ職員の健康管理に役立てる技術であることを指摘した。

 現在の医療施設の建築計画では、人やモノの動線を中心に配置計画が行われているが、これからは、"空気の動線"を考慮した計画が必要であることを提案した。

 そして、これからの医療施設を、空気環境を軸に見直すと、空気清浄の維持・管理の点から、部門単位で建物をつくり、分散させる建築様式を提案した。部門単位で建物を分散させることは、空気質の維持管理から医療施設を考えた時のみに有効ではない。部門単位の用途に応じた"設計の自由度"が増ばかりか、部門単位で起こる医療器機の変化にも建築的対応がしやすいといえる。部門単位の分散は21世紀の医療を発展させるための、持続可能な形でもある。

 さらに、部門単位の分散を敷地内だけでなく、地域分散させることを提案した。地域分散させることは、現在のさまざまな技術を応用すれば可能である。部門単位で地域分散させた様式を、新しいパビリオン様式とも位置づけ、これを、地域分散型パビリオンと名づけた。

本論文が "空気"を通して、快適な療養環境が生み出される指針になることを望むものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、医療施設の空気環境、特に揮発性有機化合物の実態調査を通じて、医療施設における室内空気の状況を把握し、"空気"の意味を改めて問い直す過程の中で、今後の医療施設における"空気"のあり方を軸にした建築計画の可能性を探ることを目的としている。

 本論文は、4編で構成される。

 1編では、研究全体の枠組みを示している。1章では、わが国の医療と施設の歴史的背景、2章では、研究目的、3章では、研究対象の定義を行っている。特に、2編で実態調査を行った旧国立病院、旧労災病院の沿革・歴史・社会的役割を述べている。

 2編では、これまで実態把握がされていない医療施設内空気の質に関する調査と考察を行っている。

1章では、調査対象とした汚染物質のひとつである揮発性有機化合物(以下、VOCと省略)が社会問題となった背景を考察し、空気汚染物質の定義・分類・汚染発生源・関連の法律・規制、そして今回の測定・分析方法を解説している。また医療施設全般にわたるVOC濃度調査は、これまで国内外とも既往調査報告がないと述べられている。

2章では、建築物衛生法での7項目のうち、一酸化炭素、二酸化炭素、浮遊粉塵、ホルムアルデヒドの4項目を1施設あたり20測点において20施設で温度・相対湿度を24時間連続測定した結果をまとめている。

3章では、2002年実施のパッシブサンプラーによるVOC濃度のプレ調査と本調査結果を報告している。

4章では、ホルムアルデヒド濃度の経時変化の測定と作業内容(発生行為)との関連を考察している。

5章では、環境調整室をもつ4つの医療機関での2001年の室内揮発性有機化合物濃度調査と2003年のダクト内ならびに空調フィルター内汚染状況調査を報告している。

6章では、高沸点揮発性有機化合物濃度とフタル酸エステル類に関する調査結果を報告している。

7章では、病院で感じる「におい」について、医療従事者を対象としたアンケート結果を報告している。

8章は、2編2章から7章までの調査結果をまとめている。

 3編では空気環境から見たこれからの医療施設計画における課題の考察と提案を行なっている。

1章では、いわゆるシックハウス症候群対策において、建築環境工学が提案してきた発生量と換気量対策だけでは、限界があることを示している。また、医療施設では、換気運転管理の専門知識を有した人材が不足していることから、人材育成の必要性を環境工学における課題のひとつとして指摘している。

2章では、「空気」や「換気」という言葉のイメージに関して一般と建築環境工学では意味が異なる点を整理している。「いい空気」という言葉の受けとめられ方について、自由記述アンケートの分析結果を報告している。「森」「自然」「山」など、自然に対するポジティブなイメージをあてはめる回答とネガティブなものとの相違があること、そして建築環境工学分野では「空気」には、温熱環境の要素は含まないのに対し、「すがすがしい」「ここちよい」などの温熱感を表す回答が「いい空気」の表現となることを指摘している。

3章では、これらの違いを前提として、"空気環境"を良好にするため建築計画的ないくつかの提案を行っている。医療施設でVOC濃度が低かった理由は、米国ASHRAEの基準をベースにした日本医療福祉設備協会の設計・管理指針にもとづき換気回数を運用していることであるが、米国とわが国の医療施設内における部屋床面積・体積が異なるため換気回数が同じであっても換気量は異なる点を指摘し、汚染発生が懸念される部屋については、室容積を考慮した基準設定の必要性を提案している。次に利用者の日常的な環境意識も施設管理では重要であることから、医療従事者が空気清浄度を意識し得るデザインの必要性を提案している。また、ユビキタス技術など位置情報システムを応用することにより、労働衛生管理、特に空気質の曝露量管理の強化を効果的に実施できることから、医療従事者の健康管理への応用を示唆している。

 最後に、現在の医療施設の建築計画では、人の動線や物流を中心に配置計画を行うが、今後は"空気の動線"を考慮した計画が必要であり、空気環境を軸に医療施設を見直すと、部門単位で建物をまとめ、これを分散配置する建築形態が基本になるのではないかと提案している。この形態は、建物全体への空気の無制限な拡散を確実に防止し得るだけでなく、設計の自由度の増加、部門ごとの成長と変化への対応が容易であることでも有利である。さらに、この考え方を敷地内だけでなく地域的に行うことは、現在のさまざまな情報・搬送技術の応用で可能になることを前提にして、地域分散型パビリオン様式を提案している。

 4編では、結語としてこの研究の限界と今後の課題をまとめている。

 以上のように本論文は、シックハウス症候群で問題視された揮発性有機化合物を中心に、多くの医療施設における実態調査を踏まえた空気環境調査の知見から、建築環境工学における考察に加えて、その対策を建築計画的手法において考察した点が斬新である。そして、かつて設備技術が未発達であった時代に導入された「パビリオン形式」の建築形態を現代的視点からあらためて見直すことを提案しており、医療施設の内部における空気に関する問題がまだ表面化していない現況で、建築環境工学および建築計画の両面から警告を発し、医療施設における今後のあるべき一つの計画手法ついての提案を行なっている。このように実地調査・実測に基づいた分析により問題の構造を究明して基本的な知見を示し、建築計画学の発展に大きな寄与をしたものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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