学位論文要旨



No 216709
著者(漢字) 佐藤,全敏
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,マサトシ
標題(和) 平安時代の天皇と官僚制
標題(洋)
報告番号 216709
報告番号 乙16709
学位授与日 2007.02.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16709号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 助教授 大津,透
 史料編纂所 教授 加藤,友康
 放送大学 教授 五味,文彦
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、八世紀から十一世紀における、天皇を頂点とする朝廷の、その権力行使体としての特徴を、変化を含めて明らかにすることを課題とする。具体的には、天皇と中央官僚制からなる権力組織が政務を決裁・遂行する際の手続きを検討する。

 第一章は、一見、唐のあり方と大きく異ならないかにみえる四等官制の基底に、八・九世紀における日本の政治原理を見出そうとしたものである。検討の結果として、日本の四等官制には次のような特徴が見出せた。

 第一に、政務の差配・決裁に関する限り、長官と次官との別は二次的な意味しかもたない。それよりも、まずは五位以上の位階を有しているということが、決裁する第一の条件であった。五位以上官人とは、七世紀来の伝統を誇るマヘツキミ層にあたる。マヘツキミが一人いれば通常政務を決裁できる構造であったといえる。相当位を四位とする卿は、原則として通常政務を差配・決裁せず、省としての裁定権が問われる重要案件の場合のみ差配・決裁していた。

 第二の特徴は、判官と主典の相違である。主典は政務案件を決裁者に報告し、その決裁を仰いだ。ところがこれを命令対象者に下達するのは判官であった。これは、決裁者に代わり下達するという性格のものであった。また判官には決裁権が認められており、軽微な案件であれば判官が差配・決裁した。こうしたあり方は唐と異なっていたが、その背景には、マヘツキミ層の子・孫が若年にして判官に任じられ、長い舎人づとめを経た位子・白丁出身者が主典に任じられる、という任官構造があった。日本の律令国家は、五位以上の家に生まれなかった者には、容易には「判」の権限を与えない国家だったといえる。

 日本の四等官の第三の特徴は、省の長官、すなわち卿は、勅任官として天皇に直接結びつき、五位以上官人によって差配・引率されている官司を統轄する存在であった、ということである。〈天皇―卿―五位官人―判官・主典〉という構造こそが、日本の律令官僚制の基本骨格であった。

 以上の概形は、すでに七世紀後半にみることができる。四等官制にはそうした七世紀来の政治原理が、ほぼそのままのかたちで流れ込んでいたと結論できる。

 さて、八世紀末から九世紀にかけて、朝廷の政治構造に一定の変化が生じる。四等官制はそのまま運用されていたが、それとやや編成原理を異にする官僚制が成立する。第二―六章は、そうした新しい官僚制である別当制をとりあげ、その総体的な解明を目指したものである。

 別当は、九世紀を通じ、蔵人所など天皇の身辺を調える種々の所々、天皇にとって重要な意味をもつ大寺院、警察・裁判機関である検非違使など、様々な機関におかれていく。

 それらの別当はみな、天皇と人格的ないし血縁的に強く結びついた官人を母体に、その本官によることなく編成されていた。具体的には、この頃から内裏に伺候するようになる参議以上や抜擢された実務官人、そして天皇側近で雑仕につかえる近衛次将などを母集団としていた。なかには東大寺の僧別当のように、高僧が任じられるものもあった。別当制がこうした構成をとる背景には、平安初期政治体制とも呼ばれる当時の政治形態があった。その意味で別当制は、この時期の政治形態をそのまま制度化したものといえる。従来、別当制は太政官制の枠組みで理解されることが多かったが、その権能や任じられる者の官をみれば明らかなように、本来太政官制とは相容れぬ、むしろそれと並存する官僚制度であった。

 別当がおかれた機関の性格は多様であったが、それらの別当はみな共通する性格をもっていた。第一に、天皇に直属すること、第二に、その統轄対象となっている機関の外部に位置付けられた存在であること、第三に、日常的・軽微な政務には関与せず、重要な案件の場合にのみ関与すること、第四に、にもかかわらず、その統轄対象機関の代表であり、また最終責任者であること。

 一見して気づくように、別当のあり方は、省の長官である卿にきわめてよく類似している。卿が省務に関与するあり方を令制にとらわれずに具現化すれば、別当制になるといってよいほどである。本稿はここに、古代日本の統轄原理、ひいては権力原理をみる。

 さて、こうした別当制も、九・十世紀の交を境に各々大きく変質し、それぞれ全く異なる性格をもつものへと変貌してしまう。天皇の人格のもとでの一元的統合が、ここに途絶えるのである。その変質には、大きく二つの方向性が認められる。第一に、天皇や上級貴族の家産機関的な存在への転化、第二に、太政官制への接近・融合、である。天皇の人格的統合から解放された諸機関は、かたや個別家産のもとへ、かたや太政官制のもとへと吸収されていったのである。こうして、天皇の人格のもと国家機関を一元的に統合しようとする政治体制は、九・十世紀の交に途絶える。

 十世紀初頭以降の朝廷政治構造は、次のような特徴をもつ。第一に太政官制の拡張である。卿や別当を介し、それまで天皇に人格的に統合されていた領域が、〈上卿―弁〉制を軸とする太政官制の扱う範囲に取り込まれていく。日本の律令制本来のあり方とは必ずしも一致するものではなかったが、古代日本官僚制の一つの展開であったといえる。平安時代中後期の朝廷の政務体制は、このときに形成されたものである。

 十世紀初頭以降における朝廷政治構造の第二の特徴は、天皇や上級貴族、そして大寺院が、国家から相対的に独立した個別の家産を展開させていくことである。天皇を頂点にいただく非権門的な官僚機構のもと、諸権門が国政に関与するという構図が、その構造的な面で成立したのは、まさにこの九・十世紀の交のことであった。

 以上の検討をふまえ、次に九・十世紀の交における転換の意味を考えようとしたのが、第七章である。ここで検討対象として注目したのが、天皇の日々の食事のあり方と、それをめぐる諸制度の変化である。

 八・九世紀の天皇の食事は、律令国家の君主にふさわしく、隋唐様式のものであった。だが天皇独自の食材である「贄」は、律令国家成立以前からの収取構造に依拠して調達されるものであった。全国を一律に支配するという理念をかかげた日本律令国家の天皇は、全国から貢進される贄を食べることによって、その理念を日々体現していたといえる。

 ところが九・十世紀の交に、天皇の食事は大きく変容し、非隋唐的な、上級貴族層とほとんど変わらない食事に移行する。食材の収取方法も九・十世紀の交に変化し、新しい収取システムが畿内近国に設定され、七世紀来の国制に依拠した収取制度が急速に性格を希薄化させていく。

 ここにいたり、天皇はもはや全国から集められた食材を隋唐風に食べる存在ではなくなった。こうした事実は、八・九世紀の天皇が、毎日の生活の中で体現していた、全国を一律に支配するという日本律令国家の支配理念が、この段階で急速に希薄化したことを意味している。

 こうした律令制理念の希薄化は、「法」の領域でも確認され、律令があまねく全国に布かれるべきであるという理念が、やはりこの時期に衰えている。それまで維持してきた、唐の律令国家を絶対的な規範とする中央集権的な国家体制への志向性が、この時期に急速に衰滅していることがうかがわれる。

 実際、この時期に、天皇や上級貴族層の間で唐の規範性が一気に失われていったことは、政治基調やその文化的動向からつとに指摘されてきたところである。本書が明らかにしてきた政治体制の変容は、これまで文化史などの分野で論じられてきた転換が、国制史上でも確認できることを示しているようである。唐に対する意識の変化が、天皇を頂点とする朝廷の、その権力主体としてのかたちを変容させたと考えられるのである。

 もしそうだとすれば、逆に十世紀以降の新しい政治体制は、唐を絶対的な規範としなくなったことによって成立したものであったということになる。もちろん体制転換が起こるためには、それ以前に様々な社会変容が深く進行していなければならない。実際、これまでの諸研究は、律令国家体制を揺り動かすような種々の社会変化が、八・九世紀を通じて継起していたことを教えてくれている。ただ、そうした様々な社会変化が大きな体制転換というかたちをとるためには、唐規範からの離脱を待たねばならなかったのではないか。

 こうした理解は、かつて唱えられた学説へ再び戻るもののようにもみえる。だが、本稿が検討してきた天皇と官僚制の変貌の様相は、あらためてそうした古い理解をとりあげる必要があることを示しているように思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、天皇と官僚制からなる権力体が政務を決裁し遂行する様相を分析して、平安時代の国家のなりたちに迫ろうとしたものである。

 第一章では、令制官司に共通して見られる「四等官制」を横断的に俯瞰して、職務の分担関係、決裁権の所在、位階による昇進障壁などの諸特徴を明らかにした。第二〜六章では、令外の官僚制組織として広範な領域に見出されるにもかかわらず、全体を見渡す研究がなかった「別当制」を対象に据えて、検非違使(けびいし)別当、所々(ところどころ)(天皇の家産機関の総称)別当、寺院の俗別当と僧別当を順次とりあげて、丹念に分析を加え、別当制は九世紀に天皇による能動的な組織化によって生まれたが、その後の摂関政治の展開を通じて、太政官や氏長者のもとに編成されていく、と論じた。第七章では、所々のいくつかが担う「天皇の食事」の原料調達・調理・配膳・作法のシステムを復元し、当初唐風であった食事文化が、九世紀末〜十世紀初頭に、唐風の要素は儀式的部分に追いやられ、実質的な部分では和風に変化することを明らかにした。

 以上三つの研究領域は、本論文の分析によって初めて、日本古代官僚制のもつ隠れた特質に迫りうる未開の沃野であることが、明らかにされた。たとえば、四等官制が諸官司共通の制度であることはよく知られているが、その運用のされ方を唐制と比較しつつ分析して、氏族制的要素の強固な残存を見出したことは、独創的な業績である。別当制についても、可能な限り対象・時期を広くとって分析を加えた結果、先行研究が特定の役職や時期に見られる特徴を一般化して、太政官組織に包摂されるものという別当像を描いていたことが明らかになり、少なくとも初期には、令制官司とならぶ「もう一つの官僚制」として性格づけられることが、導き出された。また、食事という日常の行為を精細に分析することが、平安時代の天皇に関わる制度において、唐風・和風の二要素がどのように組み合わさって配置されているか、という大きな視野の獲得につながった。

 また、三つの論点を貫通して、九世紀後半〜十世紀初頭という時期が、古代官僚制の変質の大きな画期として浮かび上がってきた。今後筆者が、中世国家への移行の解明という大きな課題に、精力的にとりくんでいくであろうことが、予見される。

 もちろん、課題が大きいだけに物足りない部分もある。とくに第七章については、他の部分との繋がりが弱く、「食事」をとりあげる必然性が充分に示されているとはいえない。冗長な感じを与える文章の改善をも含めて、今後の研鑽にまちたいところである。

 以上より、本委員会は、本論文を、博士(文学)の学位を授与するにふさわしい独創性豊かな業績として、認めるものである。

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