学位論文要旨



No 216711
著者(漢字) 宮澤,淳一
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザワ,ジュンイチ
標題(和) グレン・グールド論
標題(洋)
報告番号 216711
報告番号 乙16711
学位授与日 2007.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16711号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長木,誠司
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 教授 中地,義和
 早稲田大学 教授 藤本,陽子
内容要旨 要旨を表示する

 本論は,カナダのピアニストで思想家のグレン・グールド(1932-1982)をめぐる包括的な研究である。グールドは,演奏会メディアを否定し,レコード,ラジオ,テレビ等の電子メディアでの音楽活動に専念した演奏家であり,音楽芸術とメディアをめぐる挑発的な言辞と,特異な演奏解釈によって知られる。ここではその発想の根源と実践を「メディア論」「演奏論」「アイデンティティ論」の3部構成によって探求し,芸術家像の描出を試みる。

 第1章「メディア論――聴き手とは誰か」では,グールドの「音楽メディア論」の変遷と伝記的事実をクロノロジカルにたどる。

 デビュー当初より放送スタジオへの親近感を語っていたグールドは,電子メディアを介した家庭での音楽聴取に「内省的態度=美的ナルシシズム」を見出し,「拍手禁止計画」(1961年提唱,翌年実施)による演奏会メディアの改造さえ企てた。やがて演奏会死滅論を持ち出し,みずからも演奏会活動停止(1964年)に向かったが,その背景には,作曲活動に専念したいという思惑のほかに,メディア論者マーシャル・マクルーハン(1911-1980)との交流によって,電子メディアという新環境が導く音楽界の新時代への期待があった。

 演奏会活動引退後,60年代後半のグールドは,電子メディア全般から録音メディアに議論の焦点を絞り,録音メディアが生み出す諸相を「予言」した。これは,録音メディア擁護と演奏会メディア批判を伴う議論となったが,編集行為の正当性・優位性を強調する形となり,レコーディング・アーティストであるグールド本人の実践的な仕事ぶりを語る傾向が強まっていった。同時にグールドは,音楽の創造プロセスへの「聴き手」の参加と主導権の獲得を期待し,それを担う卓越した「聴き手」像を次々に提起した(「新種の聴き手」「感受できる聴き手」「よい聴き手」など)。しかし,グールドの願いどおりの「聴き手」は,聴衆からは現われない。結局,「聴き手」の肖像は,能力的にも,実践的にも,グールド本人の営為の投影にすぎなかったことが見えてくる。

 70年代,演奏会メディア優位の衰えない状況で,グールドは,もはや演奏会メディアの死滅も,録音メディアの台頭も,新しい「聴き手」の出現も語らなくなり,代わりに録音メディアの正当性の「宣伝」に努めた。それは,録音・編集行為が倫理的に正しいこと(録音メディアの倫理性)と,テクノロジーの介入によって完成度の高い音楽が仕上がること(スタジオ技術の完全性)の2点に集約された。その努力を通じて,グールドが「新種の演奏者」としての自己宣伝に傾斜したことも否めない。しかし,録音メディアと録音された音楽の自律性を絶えず説き続けていた事実が損なわれるものではない。

 80年代を迎えたグールドは,録音メディア論の「宣伝」を続けると同時に,演奏会メディアの衰えない現実とのギャップにいらだちさえ表明したが,死の数ヶ月前に,それまでの音楽メディア論を総括するかのように,録音制作のプロセスに着目し,録音が自律した芸術形式であることを改めて確認した。この段階で描き直した「聴き手」像は,録音された音楽を真摯な態度で受けとめる「創造的な聴き手」であり,それは「引退」前に提唱した「内省的態度=美的ナルシシズム」への回帰であった。グールドは,創造行為の枠を拡げる自分を「聴き手」像に投影させつつも,電子メディアを通じての聴き手とのコミュニケーションの回復・成立を求め続けていたのであり,演奏会批判といった対立的論理に拠らない方法でこれを思い描き,その後,この世を去ったのである。

 第2章「演奏論――《ゴルトベルク変奏曲》をめぐって」では,デビュー盤と再録音盤という2つの《ゴルトベルク変奏曲》に挟まれた四半世紀にわたるグールドの演奏活動とその音楽観を,J・S・バッハとの関わりに絞って考える。

 1955年1月,グールドは米国での演奏会デビューに成功し,コロンビア・レコードと専属録音契約を結び,同年6月にデビュー盤《ゴルトベルク変奏曲》を録音,翌年これを発売した。スピード感と躍動的なリズム,デタシェ中心のアーティキュレーションによる型破りな演奏であった。また,グールド本人の解説からわかるのは,完結性への憧れと,ある種の主知主義的な超越願望である。彼は始原と終末を持つ直線的な時間論や因果論を斥け,永遠性を獲得する営みを《ゴルトベルク》に読み取ろうとしていた。

 このデビュー盤の解釈が成立した背景には学生時代と初期のキャリアが存在する。グールドと《ゴルトベルク》との出会いは十代の頃で,トロント音楽院でピアノを師事したアルベルト・ゲレーロ(1886-1959)を通じてであった。彼はゲレーロから多くを学んだが,楽曲構造の現前化を重視したバッハ演奏の端整なスタイルについては,むしろ米国のピアノ奏者ロザリン・テューレック(1914-2003)の影響が大きい。

 しかし,デビュー盤の解釈の本質は,それを録音した前年(1954年6月)にカナダ放送協会で生放送された彼の《ゴルトベルク》の初演奏を比較して初めて明らかになる。復刻された放送録音は,異質な演奏で,情緒の移ろい,集中力と傾注と緩和,身体的な持久力と疲労感といった生理的要素に支配されている。デビュー盤のグールドは,録音テクノロジーを駆使し,編集作業を施すことで,そうした生理的要素を切り捨て,超越的な演奏を確立したとわかる。つまり,以後知られるようになった「グレン・グールド」とは,録音メディアと演奏解釈が一体化した結果として「誕生」した存在だった。グールドの「第1の超越」である。

 グールドはその後もバッハの作品を演奏・録音し続けた。時流に逆らい,フーガの探求を貫いた「頑固者」――それがグールドが終始抱いたバッハ観であり,同時にグールド自身の禁欲的態度や倫理観の投影でもあった。また,グールドはシェーンベルクの「発展的変奏」にも影響を受け,両極的な二項対立による「劇的な構造」の音楽を嫌い,むしろ「劇的」な要素の欠如した,単一原理に基づく一元論的な音楽を好んだ。彼のバッハ演奏はそうした禁欲性と一元論的発想の実践であり,それをさらに拡張させ,「パルス」という単一原理を導入して全曲を統一しようと試みたのが,1981年の《ゴルトベルク》の再録音であった。この「第2の超越」は,「システム化への憧れ」の成就ばかりか,ある種の自己克服でもあった。

 第3章「アイデンティティ論――グールドはなぜカナダ人なのか」では,グールドと「カナダ」との関わりに焦点を絞り込む。考察には,学際的な「カナダ研究」の諸成果(日本での成果を含め)が動員される。

 考察の起点は,4人のグールドがその思想と生涯を再構築する戯曲『グレン・グールド最後の旅』(原題Glenn,デイヴィッド・ヤング作,1992年)である。マーガレット・アトウッドの「サヴァイヴァル論」や,ノースロップ・フライの「駐屯地根性」の概念等を援用することで,「米国」の殺伐とした演奏会活動からの「生き残り」をかけ,「カナダ」の録音スタジオに逃走したグールド像,さらにそれを乗り越え,「超越」を希求するグールド像が暫定的に見えてくる。

 殺伐とした「北」の大地をかかえ,米国の国境付近で身を寄せ合って暮らすカナダ人の地理的状況を把握し,古今のカナダ人の言説を参照することで,グールドも共有していたカナダ人の国民性やアイデンティティの問題が眺望されるが,グールドが魅了された「北」の本質は,彼の制作した一連の「対位法的ラジオ・ドキュメンタリー」に隠されている。北に生活した人の体験談を多声的に編集した代表作「北の理念」(1967年)のプロット分析の結果,グールドが求めていたのは,カナダの荒漠たる「北」の大地に潜む「隔絶」(isolation)の含意であり,その「距離感」と「超然性」こそがグールドの発想の原点であり到達点でもあったことが見えてくる。最後に,そうしたグールドの発想が,「卒業生に贈る言葉」(1964年)のような,「北」を語らない初期のテキストにさえ隠されていたこと,それがカナダ人が無意識に共有する領域に求められることを本論は示唆して終わる。

審査要旨 要旨を表示する

 宮澤淳一氏の学位請求論文『グレン・グールド論』は、長年に渡りカナダ出身のピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)の研究に携わり、このピアニストの著作や研究書に関する翻訳も多く手がけてきた宮澤氏が、初めて本格的な研究として自説をまとめたものであり、本文339ページに詳細な注が110ページ、さらに年譜と付録がついた包括的な内容とその規模は、グールドに関してなされてきた研究としては他国にも例を見ないものである。本論文において宮澤氏は、コンサート活動からドロップアウトした異色のピアニストと見なされるグールドの、そのドロップアウトの要因を、まずはグールドにとっての電子メディアの意義と同時代のメディア論との相関から解きほぐし、そうして誕生した、演奏会に出演しないピアニストという新しいタイプの演奏家グールドにおいて、「聴き手」という存在がいかなる変化を伴いながら表象されてきたかということを時系列的に追う。そして、そのなかでメディアを介した聴衆とのコミュニケーションをどのようにグールドが考察したかを検討しながら、実際にレコードに刻まれた演奏を丹念に分析することが、本論文のひとつの大きな柱になっている。

 しかしながら、本論文のもうひとつの骨子は、こうしたグールドというピアニストを作り出した文化的な環境への検討を、出身地のカナダにおけるナショナル・アイデンティティの問題に接続したことであり、カナダのなかでもとくに「北」というものへの独特の思考、「北の理念」が、グールドの演奏様式、ひいてはグールドというピアニストの演奏家としての人格形成や演奏美学に深く係わってきたことを主張する。これは、従来グールド研究者の誰も包括的な議論を行ってこなかった主張であり、その意味で本論文はグールド研究にとって、さらには演奏研究・演奏家研究一般にとっても、大きな指針を与えるオリジナリティを持っている。

 論文は3つの章から構成されており、第1章「メディア論 聴き手とは誰か」では、1964年に宣言された「コンサート・ドロップアウト」を中心に、それに到る経緯とその後のピアニストとしての活動の意義が多くの資料を駆使して検証されてゆく。電子メディアへの信奉を高めてゆく過程には、グールド特有の「歴史的進歩主義批判」があり、一見新時代の申し子に見えるこのピアニストが、保守的とも言える音楽観や作曲観を持ち、同時に、あらゆる時代の様式の併置を可能にするような音楽の「環境」を考えていたこと、そのために録音メディアが大きな力を持ちうると考えていたことなど、意外とも思われるようなピアニストの実像が丹念に描かれてゆく。

 ドロップアウト後のグールドは、電子メディアから録音メディアに興味の焦点を絞り、そのなかで新しい聴き手像を預言しつつ模索した。宮澤氏によれば、この模索は必ずしも成功したとは言えないが、演奏会を否定したにもかかわらず、グールドのすべての営為が、「創造的な聴き手」の成立に向けた努力として、聴衆とのコミュニケーションの樹立を目指してなされていたことが指摘される。

 宮澤氏の資料渉猟は、あらゆる枝葉末節にいたるまで徹底しており、グールドに関する文献は、本人の手になる著作はもとより、グールド・アーカイヴに残された原資料、第三者の証言、録音資料等々、可能な限りのすべてのものにおよび、また従来の諸々の研究書の細部にいたるまで批判的検討が行われている。迫力さえ感じさせるその遺漏なき緻密さに関しては、審査員全員が驚嘆するところであった。

 第2章「演奏論 《ゴルトベルク変奏曲》をめぐって」は、グールドがキャリアの最初と最後に録音したJ.S.バッハの鍵盤曲《ゴルトベルク変奏曲》の2種類のレコード(1955年と1981年の録音)の演奏分析を通じて、そこに代表される演奏家グールド像を跡づけてゆく。その足跡は、グールドにとってひとつの自己克服の道であり、超越への希求がこのピアニストの演奏キャリアを巨大なアーチのように取り結ぶ要素であったことが確認される。《ゴルトベルク変奏曲》の比較演奏論に関し、本論文において新たな知見ないし見解として提示され評価されるべきなのは、最初の録音にさらに先だって、グールドにとっての初演奏として生放送されたもうひとつの演奏(その録音は復刻された)が持つ意義であり、そこに刻まれた生理的要素に由来する限界の克服のために、グールドが録音メディアに向かっていったことである。また、こうして開始したピアニストのキャリアのなかで、かつての演奏、かつての自己を乗り越えるために、グールドは作品全体をひとつの「パルス」の連続として表現することを意図し、それによる一元論的な発想、単一原理に基づく演奏のひとつの精華が2度目の録音であることが、詳細な分析を通して検証される。

 自己超克への意志という視点は、第2章と次の第3章「アイデンティティ論 グールドはなぜカナダ人なのか」を取り結ぶ結節点である。ここでは、まずカナダの国民文化形成のための議論の過程で、カナダ文学の自律性、英米文学からの独立性を主張するためにマーガレット・アトウッドが用いた「サヴァイヴァル」という概念を援用しつつ、それに先立つノースロップ・フライによるカナダ人のメンタリティ分析ないしは「駐屯地根性」という概念なども参考にしながら、「静寂で荒涼たる場所」として表象される「北」のイメージを内包するカナダと、そこからの「生き残り」ないしその「超越」こそ、グールドの美学を究極において支えているものであるという見解が示される。そして、その主張のもとに、グールドが残したラジオ・ドキュメンタリー『北の理念』が分析され、そこに読みとれる「孤独」と「隔絶」の独特の結びつきこそ、カナダ人のメンタリティとしてグールドに共有されるものであり、そこにこそこのピアニストのアイデンティティが投影されていることが確認される。

 ピアニスト、グールドの人格を「後背地」として支えるカナダ文化への指摘は、これまでのあらゆるグールド論に欠けていたものであり、その意味でここでの宮澤氏の主張と分析は本論文のなかでももっとも挑発的でスリリングな部分であると同時に、若干の問題点が指摘された箇所である。「カナダ性」というものの時代を追った変化、当時の「カナダ性」の議論そのものの位置づけが考慮されておらず、それが固定的に捉えられており、図式的にすぎる点は複数の審査員から指摘されたが、宮澤氏の視点がグールドという個性の発生に関する重大な指摘を含んでいることは、全員一致して認めるところであった。

 これまで語られてこなかったカナダ性の指摘からグールド研究を新しい方向に広げる可能性を示唆した本論文の意義は、今後さらなる可能性へと開かれている面を残すとはいえ、現時点での学術的成果としてはきわめて高い水準にあることは疑い得ない事実であり、日本という枠を越えたグールド研究、ひいては演奏研究、演奏家研究の場に対しても多大の示唆を含んだものである

 以上をふまえて、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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