学位論文要旨



No 216712
著者(漢字) 陳,萱
著者(英字) CHEN,SHUAN
著者(カナ) チン,セン
標題(和) 明治日本と台湾像の形成 : 1874年「台湾事件」の波紋
標題(洋)
報告番号 216712
報告番号 乙16712
学位授与日 2007.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16712号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 助教授 櫻井,英治
 東京大学 教授 若林,正丈
 大手前大学 教授 川本,皓嗣
内容要旨 要旨を表示する

 一八九四年に始まった日清戦争の勝利によって、日本は最初の植民地、台湾を領有することになった。それ以前にも、豊臣秀吉や徳川家康の時代に、台湾占領の計画があったとされているが、いずれも実行には至らなかった。しかしこの台湾領有は、日清戦争に至ってはじめて具体化したわけではない。その約二十年前の、一八七四年、明治維新を経て近代国家へと成長しつつあった日本が発動した、最初の国際戦争、台湾出兵の際に、台湾を植民地化する意図は萌芽した。この出兵を含む、一八七一年から一八七四年にかけての、台湾をめぐる事件は、日本が台湾に注目し、後に植民地化することになる、起点として捉えることができる。それまで台湾について多くの知識を持たなかった日本政府、及び国民は、この事件についての公式文書、記録、政府関係者の報告書、新聞報道、これに取材した実録作品を通して、台湾を認識し、台湾観を形成したのである。

 一八七一年十二月、琉球の宮古島の船が遭難、台湾南部東海岸に漂着し、乗組員六十六人のうち五十四名が、牡丹社、高士滑社の先住民に殺害された。これが事件の発端となった。当初はさほど注目されなかったこの遭難事件に、琉球を実質的に管轄していた鹿児島県の旧士族が着目し、やがて台湾出兵を唱えるようになる。次いで、お雇い外国人の献策があり、さらに清国との事件をめぐる交渉において、先住民は「化外ノ民」であるとの言質を獲得したことで、政府関係者は台湾出兵、領有の意図を抱くようになった。その後も、琉球の帰属との関連、旧士族の政府に対する不満、政府内部の外征派と内治派の対立など、様々な要素が相俟って、出兵が決定、実行された。実際に台湾で日本軍による牡丹人討伐が行なわれてから、ようやく事態の重大さに気付いた清国は、日本政府に厳重な抗議をし、長い交渉が始まる。当初は結論が出なかったが、結局駐清英国公使ウェードが調停に乗り出したことで、日清両国の間に条約が締結され、事件は終結した。

 これまでの研究は、事件の経過と大きく重なる、琉球処分との関わりに重点を置いて、相互の影響を論じたり、国際関係の観点から日清両国の交渉を検討したものが、大多数を占める。また事件を、政府に対し不満を持つ旧士族層の、反政府運動のはけ口として捉え、もっぱら国内の政治情勢との関係から分析しているのも、これまでの研究の大きな傾向の一つである。さらに、明治政府の最初の海外出兵であることから、国家主義の起点と捉えたり、事件を通して確立された明治期の軍事体制を論じたものもある。残念ながら、これらおびただしい研究では、事件を通して生じた、台湾についての言説、またそこに表現された台湾観への言及は、ほとんど見当たらない。この論文では、先行研究をふまえながら、これまで重視されなかった、事件における日本の台湾観の形成や、その変化を論じる。

 論文の構成は、扱う資料の性質によって、次の四部に分かれる。まず第一部では、政府が布告した告諭、関係者に下した命令、政府関係者の提出した公式の意見書、建言書、及び関係者の間で交換された書簡など、政府関係者によって作成された公式文書を資料として、事件の経緯を紹介する。まず、琉球人の遭難に始まり、鹿児島県士族によって出兵が主張され、政府関係者が事件を認識していった経過について述べてから、外務卿副島種臣を中心とする外征派が、積極的に出兵を推進し、いったんは実行が決定されたものの、内治派との対立ののち副島を含む外征派が下野したことで、出兵が立ち消えた経過を描く。しかし、政府関係者の間では、国内の不安定な政情のはけ口として、出兵が再び議論されるようになり、列強諸国の反対を押し切って、大久保利通、大隈重信、及び西郷従道の三人が、出兵を実行した経過について記す。そして、出兵に対する清国の厳重な抗議を受けて、特命全権辨理大久保利通が清国に渡り、清国総理衙門の諸官員と交渉、締約した経過について記す。

 次に第二部では、政府・軍関係者によって作成された公式文書、記録を中心に、そこに描かれた台湾をめぐる表現を分析して、政府関係者が抱くようになった台湾観、事件の捉え方を解明する。まず第一章では、出兵が実行される前に、外務省に提出された文書を中心にして、出兵の根拠となった、あるいは事件の進展を方向付けた文書の特徴を明らかにする。第二章では、従軍関係者の書いた資料を中心に、その中の台湾をめぐる表現や、現地での体験を分析し、政府の事件に関する対応、台湾観の確立を明らかにする。第三章では、事件終了後に政府が作成した事件の記録を取り上げ、その事件の捉え方、及び台湾観を解明する。

 つづいて第三部では、新聞メディアの表現した台湾事件に注目する。事件について、つねに事後的、かつ簡略に公表した政府に代わって、新聞メディアは従軍記者の派遣、外字新聞の翻訳を通して、国民に事件の進行、及び台湾についての情報を提供した。第三部では、三つの方向から、新聞に描かれた事件、及び台湾についての表現を分析し、後に日本人の持つことになる台湾観の起源を探る。まず第一章では、当時発行されていた八種の新聞を取り上げ、事件に関する新聞メディアの言論を検証する。第二章では、『東京日日新聞』の従軍記者として台湾に赴いた、岸田吟香の連載に描かれた台湾表現に注目する。第三章では、事件に際して出版された、西洋人が書いた台湾関係の書物の翻訳物を取り上げ、原文と様々な省略、誤訳を含む訳文と比較しつつ、翻訳に描かれた台湾イメージを分析する。

 最後に、第四部では、台湾事件に関する新聞報道に依拠して、一八七四年に作成、編纂された、様々な実録作品を取り上げる。まず第一章では、新聞の報道に基づいて書かれた各作品を紹介し、新聞報道との関係だけではなく、各作品間のつながりも明確にしてから、新聞ではほとんど触れられなかったものの、各作品では共通して描かれた、鄭成功をめぐる表現に注目し、台湾事件をめぐる言説における鄭成功像の変化をたどる。第二章では、各新聞における、文明開化した台湾西部、野蛮で未開な東部という、分割された台湾観の形成を追究し、また各作品に継承された、この両分された台湾というイメージの持つ意味を明らかにする。第三章では、牡丹社の討伐に関する描写を通して、野蛮な先住民観の成立、及び日本における国威発揚意識の発生を確認し、新聞報道で形成され始めた国威発揚意識の、先住民観・台湾観に与えた影響と変化を論じる。また、先住民教化のもっとも典型的な事例として、東京へ連れてこられた爾乃少女の表現に注目する。この先住民少女の表現を通じて、事件中、日本人の先住民観の変化を捉え、さらに、それらの表現を通して逆照射される、日本人の新しい自己認識を分析する。

 このように、様々な文献資料から、この事件を通して形成された台湾観、及び先住民イメージは、未開な土地、及び野蛮な人種という、一貫して変らない方向を有しながらも、その表現の中心が、次第に変化してきたことを確認する。まず、万国公法という西洋諸国で通用していた基準に基づいて、「未開ノ地」という台湾観が提示された。これをきっかけに、開墾、文明化されていない、先占取得の可能な土地という台湾イメージが、政府関係者の間で芽生えてきた。このような台湾イメージの形成、定着とともに、実際に台湾を訪れた軍関係者や従軍記者によって、暑熱の気候で、疾病の起きやすい土地として描かれることで、「瘴癘の地」というイメージが形作られはじめた。同時に、このイメージと一見矛盾する、物産が豊かで、開拓・移民に適した土地として、台湾は観察され、描かれるようにもなっていく。さらに、事件発生の早い段階で、西洋諸国の事件に対する強い関心に気付いた日本は、台湾を国際社会から注目されている土地として認識しはじめた。この認識に基づき、国威を海外へと発揚するのにふさわしい場所として、また、国土の拡張に不可欠の場所として、台湾をより具体的に思い描きはじめた。

 先住民についての見方も、当初は討伐を正当化するために、野蛮な未開人というイメージを前面に出していた。しかし、討伐が成功し、台湾領有の可能性が強まるにつれて、野蛮ではありながらも、教化が可能で、日本化が期待される人種として描かれるようになる。つまり、未開ではあるが、現地に滞在する日本人を慕う、日本文化の習得が可能な人種として描かれるようになる。このような台湾観、先住民イメージは、いずれも、日本の期待する台湾観が大きく投影されたものである。

 このように、台湾事件を通して形成された、日本人の台湾観、及び先住民イメージの原点である、「瘴癘の地」でありながらも、「無主ノ地」で、植民地化に値する土地、及び、野蛮で未開な人種でありながらも、統治、教化が可能な種族、という見方は、台湾領有後も長く残存し、植民地政策に大きな影響を与えた。また、台湾事件をめぐる様々な言論は、台湾を表現することで、台湾観を形成したのみならず、日本と台湾の関係、さらには国際社会における日本の位置をも浮彫りにしたことを、指摘しておきたい。その自己認識を通して、いっそう近代国家の建設へと邁進することになったのも、日本が台湾事件を通して得た大きな成果の一つである。これについては、残念ながら本論文では多く言及できなかった。今後の研究で展開したい、大きなテーマの一つである。

 また本論文では、台湾事件の研究に関して、きわめて重要な要素である、西洋人の言論、及び清国の記録を十分に取り上げることができなかった。今後の展望として、西洋人の事件をめぐる言論に注目し、そこに描かれた台湾、事件についての見方、及びその見方が日本に与えた影響を明らかにしたいという希望、また、清国の事件に関する記録を取り上げ、日本に与えた影響を含めて、日本の言論との相似、相違を明確にして、それぞれの台湾観を検証したいという希望を、記しておきたい。

審査要旨 要旨を表示する

 陳萱氏の「明治日本と台湾像の形成―明治七年「台湾事件」の波紋」は、明治5年(1872)12月、荒天により台湾南部東海岸に漂着した琉球船乗組員六十六名のうち五十四名が、現地人により殺害されるという出来事を発端に、明治7年5月、日本政府が台湾に出兵し、12月に撤兵するまでの経緯を「台湾事件」として捉え、この事件をきっかけに日本人が形成するにいたった台湾観、台湾イメージを、多くの資料を博捜して実証的に論じた労作である。

 日本政府にとって「台湾事件」は、琉球船乗組員を殺害した現地人への報復行為というレベルにとどまらず、琉球の帰属問題、対清認識、台湾東部に対する領土的野心、植民地獲得と経営の可能性の認識、そして文明国としての責務の自覚、といったきわめて広範な問題に波及することがらであった。それは、近代化に邁進する明治国家の自己認識という、より大きな文脈にも関わっていた。陳氏は、こうした点を十分に認識しつつ、論述の対象を日本人の台湾認識という問題に絞って、きわめて広範な角度から検討を加えている。

 本論文は、四部に分かれる。以下、論文の構成にしたがって内容の概略を記す。

 第一部は「台湾事件」の概略、すなわち事件の発端、出兵計画の具体化と実行、対清交渉と撤兵までの経過を簡略に記す。日本政府は、当初琉球船の遭難にそれほど大きな関心を寄せていなかったが、後の台湾総督樺山資紀をはじめとする鹿児島県士族の働きかけや、駐日米国公使デ・ロング、及びデ・ロングの推薦をうけた米人ル・ジャンドルの献策などにより、次第に出兵の可能性を探りはじめる。日本政府内には出兵に慎重な意見も根強く、ヨーロッパ列強の圧力もあったが、台湾東部を「無主の地」する認識のもと、出兵は強行され、日本政府は事態への事後的対応を迫られる。ただし「蕃地」攻略ののち兵力の駐留に困難を覚えた日本政府は、駐清英国公使ウェードの調停もあって、清国から賠償金を得た上で撤兵するのである。ここでの記述は、多くの先行研究及び歴史記述に依拠するが、第二部以下の叙述についての予備知識を提供するものとなっている。

 第二部は、政府及び軍関係者の公式文書・記録等をとりあげ、そこに表れた台湾観を紹介する。具体的には、外務省出仕となったル・ジャンドルの六つの覚書・意見書、清国との外交交渉にあたった副島種臣について記す『副島大使適清概略』、後に初代台湾民政長官となる水野遵(当時海軍省通弁)の『台湾地誌草稿』と「台湾征蕃記」、樺山資紀の『台湾記事』、軍医落合泰蔵の『明治七年征蕃討伐回顧録』、全権辨理大使として対清交渉にあたった大久保利通について記す『使清辨理始末』、蕃地事務局編纂の『処蕃趣旨書』等に各一章をあてて、各文書の性格と、それらのうちに立ち現れてくる台湾イメージを紹介する。この第二部においては、まずル・ジャンドルによって、台湾東部が国際法上清国の領有権の及ばない「未開の地」として提示され、清国によって「化外ノ民」とされる現地人たちに「生蕃」の用語が用いられはじめることが指摘される。日本政府関係者たちは、台湾東部に関する「蕃地」「化外ノ地」といったイメージを受け入れ、さらに「無主ノ地」という一歩踏み込んだ認識を持つようになり、やがて植民地として領有されるべき対象と見なすようになるのである。また、現地人については、漢族の文明になずんだ「熟蕃」と区別される「生蕃」の野蛮さが強調され、気候風土については「瘴癘」の地としてのイメージが広められもした。

 第三部は、当時ようやく発達しはじめていた新聞メディア、および出版メディアに表れる台湾観を跡づける。「台湾事件」に関する新聞報道は、政府による情報統制もあって、当初は十分なものとは言い難かった。政府は「太政官達書」「蕃地事務局録事」等を通じて事件の概要を公表してはいたが、情報は不十分で国民の不満が高まった。人々はわずかに外字新聞の翻訳記事を通じて、渇を癒すほかなかったのである。そうしたなか、日本最初の従軍記者となった岸田吟香の活躍は特筆すべきものがあった。吟香が記事を寄せた『東京日日新聞』は、そのために発行部数を飛躍的に伸ばしたほどである。台湾での体験を「台湾信報」「台湾手藁」に連載した吟香は、ジャーナリズムを通じての日本人の台湾観の形成に多大な影響を及したのである。吟香はさらに、18世紀のイエズス会フランス人宣教師ド・マイヤの記録を英訳したThe Early History of Formosaを重訳し「台湾誌」として『東京日日新聞』に連載したが、同じ時期には島邨泰がメイヤースのThe Treaty Ports of China and Japanを『台湾風土記』として訳出・出版していたし、当時上海で出版された著者不明Is Aboriginal Formosa a Part of the Chinese Empire? が、立嘉度によって『蕃地所属論』として出版されてもいた。これら新聞・出版メディアによって流通した台湾イメージには多様なものがあった。「生蕃」について食人、裸体、文身等々、その未開さを強調するような言説がみられ、多くの兵士が病に倒れる瘴癘の地としての気候風土が指摘される一方、野蛮とみなす現地人を日本の僻陬に住む人々の連想で理解しようとし、美しい島「フォルモサ」としての肥沃で物産の豊かな熱帯の土地を、植民地として経営する可能性が探られてもいた。また、台湾への漢族の定着が歴史的には比較的最近のことで、それ以前に日本人やオランダ人による植民の歴史があったことも確認される。

 第四部は「台湾事件」を題材にして明治7年から8年にかけて出版された実録物『台湾軍記』『台湾戦争記』『台湾事略』『台湾戦争記』等にみられる台湾観を紹介する。ここでは、各作品に共通して取りあげられる鄭成功に関する言説、日本軍の攻撃対象となった牡丹社や、現地で拘束され東京に送られた爾乃少女についての描写が検討される。とくに鄭成功についての言説においては、日本人を母とする鄭成功が一時的に支配した台湾と日本の類縁性が強調され、爾乃少女をめぐる描写においては、台湾現地人を文明国日本が教化するという自覚が確認されるのである。

 以上のように要約される陳萱氏の論文に対し、審査委員からは以下のような評価、批判が寄せられた。

 まず外交史、明治近代史において多くの研究が蓄積されている「台湾事件」について、日本人の台湾像の形成という面から新たな光をあて、資料を博捜した点が高く評価された。ジャーナリズムにおける報道を丹念に跡づけ、台北中央図書館所蔵の文献等、これまで日本国内の研究において看過されてきた資料を発掘し、不明とされていた岸田吟香の「台湾誌」の原本を確定するなど、調査対象は広い範囲に及んでいる。本論文は「台湾事件」を契機とする日本人の台湾像形成というテーマに関して、今後しばらくは基本文献としての地位を失うことはないであろう。ただし、この時形成された台湾像が、1895年の日本による台湾領有以後の植民地統治にどのような影響を及ぼしたのかという点に関する考察は、今後の大きな課題となるであろう。

 一方、難点としては、論文の叙述が資料ごとに行われているため、指摘される台湾像、台湾イメージに繰り返しの多いことがまず挙げられた。また、日本側の資料の充実に比して、清国側の資料の検討が不足している点は問題とされなくてはなるまい。さらに、論文の構成上難のある第一部の叙述は序論に含め、本文における先行研究への言及を更に明確にすべきであるとの指摘もなされた。

 個々の叙述、史料の読み方への疑問・疑義も、審査員から提出された。現地人の野蛮性の強調と日本の国威発揚の関連性、現地人についてのイメージと古来中国にあった南方についてのステレオタイプとの関係等々に関し種々議論があった。また、漢文の引用に対する訳文の必要性、文献表、図版の不備について指摘があった。ただし、これらは小さな瑕疵というべきものであって、陳氏の挙げ得た功績を本質的に損なうものではない。

 したがって、本審査委員会は、ここに陳萱氏に対し博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定することに、全員一致で合意した。

UTokyo Repositoryリンク