学位論文要旨



No 216713
著者(漢字) フロレンティーノ ロダオ
著者(英字) Florentino Rodao
著者(カナ) フロレンティーノ ロダオ
標題(和) フィリピンにおけるスペインコミュニティー(1935-1939年) : その変化とアイデンティティに対するスペイン内戦とフィリピン独立準備開始の影響
標題(洋) La Comunidad Espanola en Filipinas, 1935-1939 : El impacto de la Guerra Civil Espanola y de los comienzos de los preparativos de la independencia de Filipinas en su evolucion e identidad
報告番号 216713
報告番号 乙16713
学位授与日 2007.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16713号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 名誉教授 増田,昭三
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 中西,徹
 茨城大学 教授 深澤,安博
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、1935〜39年のフィリピンにおけるスペインコミュニティーの分析を行う。1575年に開始されたスペイン植民地化を機にフィリピン諸島に数世紀に亘り定住してきたスペインコミュニティーは、スペインの植民地時代の終焉を迎えた1898年、そして本研究の対象期間において、自己の将来を決める事態に直面した。1935年11月にコモンウェルスが設置されると、1946年のフィリピン独立に向けての移行期間が始まった。同じ時期、1936年7月にスペイン内戦が勃発し、スペインコミュニティーは新たな衝撃に苦しむことになった。本研究はスペイン内戦が終結し、そしてフィリピン独立のための主要な法的準備が完了した1939年春までを研究対象とする。

 1898年にアメリカ合衆国のフィリピン支配が始まった後も、スペインコミュニティーはフィリピン諸島で重要な役割を維持した。経済面では、スペインコミュニティーは植民地時代の終焉という変化に順応した。新しい入植移民たちの到来と商業面における特権の喪失に直面したスペイン系企業は、主要な活動対象をアメリカ市場に移した。第一次世界大戦中における対ドイツ植民地政策は、コミュニティーに大きな経済成長をもたらした。社会面では、コミュニティーとその付属施設団体であるCasino Espanolは、フィリピーノコミュニティーの中で重要な位置を占めていた。文化面においては、ヒスパニックアイデンティティーは活気を維持した。このことは、例えば、1930年代末にスペイン語の日刊新聞が80,000部の発行部数を超えた事実に反映されている。当時フィリピンにおいてスペイン国籍を所持していた住民は5,000−7,000人にすぎなかったが、フィリピン社会に強く残存するスペイン文化は、アメリカ化に対抗しうる要素を含んでいた。

 フィリピンにおけるスペイン企業の重要性、フィリピン社会に広くかつ深く入り込んだスペインコミュニティー、そして当地におけるスペイン文化の存続は、スペインコミュニティーの指導者達の影響力がコミュティー外にまで及んだという事実にもみられるように、コミュティーがフィリピンにおいて重要な政治的影響力を持っていたことを説明している。

 しかし、この肯定的な状況は、本論文が研究している二つの出来事をきっかけに崩れ始めた。1935年11月、コモンウェルスの誕生は、スペイン社会の利益にとって大きな脅威となった。なぜなら、コモンウェルスは議会審議の結果、スペインコミュニティーの生活を脅かす、外国人特に土地所有者に不利な法律を制定したからである。1936年7月、イベリア半島でスペイン内戦が勃発すると、フィリピンにおけるスペインコミュニティーは地理的距離にも関わらず、大きな関心をよせた。スペインコミュニティーの中では、スペインマドリッド政府を支持した親共和国派と、反乱を支持する親フランコ派に分かれた。この分裂は長い期間続くことになり、非常に深い傷跡を残した。初めの数ヶ月間で緊張感が高まり、わずか3年という期間で修復不可能な憎悪と対立を生んだのである。フィリピン諸島においての、スペイン内戦の特徴は、第一に、フィリピンの独立へのプロセスと重なった事、第二に、他では南米の小さなコミュニティー社会だけに見られた親フランコ派の絶対的な優位、第三に、スペイン本国と同様に親フランコ派内でのイデオロギーの多様性の三つであった。

 第一に、共和国派は当初から少数派であった。共和国派は、主に活力に欠けた老兵士達によって指導されていたが、雑誌『スペイン民主主義』を通して、フィリピン社会に重要な影響を及ぼした。共和国派は、政治的には、共和主義左派に近いイデオロギーを持った穏健派であり、無政府主義者及び共産党員の存在はそれほど目立つものではなかった。彼らの批判は、スペインでの反乱派を支持したフィリピン国籍であるがイベリア半島出身のメスティーソ、及びカトリック教会に集中した。特に後者に対しては、過激な態度をとった。

 第二に、親フランコ派は、スペインコミュニティー内で最も大きな支持を受けた団体であった。親フランコ派の経済力は、金銭、物資、そして第一線に送られた兵士達という点で、共和国派よりずっと多い援助を可能にした。親フランコ派とフィリピン政府高官の親密な関係ゆえに、ワシントンが求める内政不干渉政策があったにも関わらず、フィリピン政府は、親フランコ派のプロパガンダ運動はもとより、親フランコ派による本国援助を禁じる手段さえもとらなかった。

 フィリピン諸島で最も重要であった事は、時間と共に親フランコ派内において、ファランヘ派と、保守派の間で緊張感が高まったことであろう。直接的な暴力衝突はなかったものの、論争は極端な結果にたどり着いた。すなわち、本国における個々の勝利の際や記念日には別々に祝い、さらにそれぞれ異なる刊行物を発行した。これらは半島への募金収集活動へも影響した。対立は全く異なる考え方や気質の違いから起こった。すなわち、伝統的なイデオロギーを持った昔からの右派と、フランコを崇拝するファランヘ派である。他のヨーロッパ諸国のファシスト運動と同様に、ファランヘ派は、伝統的な寡頭政治の担い手すなわち保守派に挑んだ。多くのエネルギーをフィリピンのスペインコミュニティー対策に費やしたが、それゆえにファランヘ派は保守派からの抵抗を受けた。その結果として1937年後半からフィリピンの親フランコ派は、共和国派との争いよりもむしろ、派内論争に重点を置いた。これらは、スペインやラテンアメリカ地域において、1936年のクーデターを支持した人々の間で内部分裂が生じたことと同様であった。

 これらの出来事がコミュニティーの生活に与えた影響は、大きかった。経済面では、フィリピンの将来の独立へ向けての変化に対して、スペイン人はほとんど準備を行なうことができなかった。そして、スペインの企業は、新しい法律によって、外国人による土地所有及び大多数の企業の維持が禁止されたことにより、大きなダメージを受けた。フィリピン諸島で政府の次に多数の従業員を抱えていたフィリピンタバコ会社は、多大な打撃を受けた。スペインコミュニティーが激しく対立する3つのグループに分裂したことは、あらゆる相互協力を不可能にした。例えば、スペインコミュニティーは、協力してスペイン語を国家言語に推薦することもできたが、内部分裂はそれさえも困難にした。最後に、スペイン内戦は否定的なイメージをもたらした。このことは、フィリピンのアイデンティティ構築におけるスペインの貢献度の評価に不利な影響を及ぼした。ヨーロッパでの暴力的なニュースや大虐殺は、フィリピンではスペインコミュニティー内での暴力的な対立や論争と結びつき、それまで高く評価されてきた文化面や社会的地位などのスペイン人のイメージは、ファシズムと関連して考えられるようになった。フィリピン社会に残る宣教師に対する憎しみは、共和国派の教会批判によって増強されもした。全体的に言って、フィリピン社会の「スペイン」イメージの変化は、フィリピン・アイデンティティへのスペインの貢献に否定的に働いた。

 本研究は、フィリピンのフランコ派内の分裂は基本的にファランヘ派と反動的な保守派との間の対立に見られる勢力争いであり、その他の側面、例えばコミュニティー内における第一、第二世代間の論争などは二次的であったと結論づけた。ファランヘ派はヨーロッパ風のファシスト運動であり、他方、反動・保守派はむしろよりフィリピン的であった。本国スペインにおける類似した対立と比較することによって明らかになるのは、フランコ将軍のリーダーシップの有無の重要性である。つまり、本国においては、フィリッピン諸島とは異なり、フランコ将軍のリーダーシップが強かったために、軍がフランコ派の中心的役割を担ったということである。

 1936〜39年は、フィリピンのスペインコミュニティーにとって岐路となった。この期間を経ると、かつてのスペインコミュニティーの活力はもはや回復することはなかった。その後に生じた出来事――アメリカ合衆国によるファランヘ派の危険性の誇張、1941年の財産保持のための国籍変更、日本による支配、1945年日本軍によるマニラ大虐殺――によりスペインコミュニティーの状況はよりいっそう悪化していった。

審査要旨 要旨を表示する

 フロレンティーノ・ロダオ氏の博士論文「フィリッピンにおけるスペインコミュニティー(1935-1939年)――その変化とアイデンティティに対するスペイン内戦とフィリピン独立準備開始の影響」は、フィリピンが10年後の独立を前提とした自治政府(コモンウェルス)に移行した1935年から、スペインで内戦が始まり終わった1936-39年までの時期に、フィリピンのスペイン系コミュニティーが被った変容を、豊富な資料で跡づけた力作である。

 本論文はスペイン語で書かれ、本文424頁、文献目録27頁、付属資料28点154頁から成っている。さらに本文は、序論と結論に加え5部14章によって構成されている。

 序論で著者は、1935年段階のフィリピンのスペイン系コミュニティーは、経済的にも文化的にも活力に満ちており、独立フィリピンにおいて重要な役割を果たす可能性があったが、スペイン内戦が終わった1939年には内部分裂と抗争によって消耗し、フィリピン社会への影響力を決定的に弱めていたと主張し、その原因がスペイン系コミュニティーのフランコ派内部の醜い抗争と、その結果としてのスペイン・アイデンティティの衰退、および独立へ向けた努力の欠如にあったとの仮説をたてる。

 その上で第一部の3つの章では、1898年以後衰退するかと思われたフィリピンのスペイン系コミュニティーが、アメリカ政府の寛大な政策とアメリカ市場への特恵的な接近によって経済的繁栄を維持したこと、本国からの新たな移民も迎え入れてスペイン人としてのコミュニティーとアイデンティティを維持したこと、各種の宗教行事やスペイン人クラブの催しなどを通して、フィリピン社会に対しても文化的影響力を維持したことを明らかにする。

 続く第二部の3つの章では、イベリア半島での内戦勃発によってフィリピンでも共和国派と反乱派の争いが起こり、それが後者に圧倒的に有利に進んだことが明らかにされる。それは、元々スペイン系コミュニティーが保守的であったこと、フィリピン政府もアメリカ当局も口では中立遵守であっても実際には反乱派寄りであったこと、本国からあらたに派遣された共和国派の公使の活動が適切ではなかったことなどによるとされる。

 しかしスペイン内戦の影響は反乱派の勝利で終わったのではなかった。第三部は、反乱派内部での伝統的保守派とファランヘ党派の分裂と抗争を描く3つの章から成っている。「フィリピン煙草総合会社」をはじめとするスペイン系主要企業を握る財閥系人脈のリーダーであるアンドレス・ソリアーノと、本国のファランヘ党から派遣されたマルティン・ポウの確執が描写の中心となる。当初はソリアーノらフィリピンに根を下ろした上流階級のリーダー達とファランヘ党は、本国の反乱派を支援すべく、募金やプロパガンダ活動で協力するが、やがて既存の上流階級への批判を秘めたファシズム政党としてのファランヘとソリアーノ派は暴力抗争寸前の対立に至る。この抗争は、フランコ将軍の支持を得たソリアーノらがポウ解任を勝ち取った後までも続いた。

 第四部の3つの章では、内戦時代に共和国派と反乱派が本国に送った経済支援の詳細な内容と、やはり両派から本国の戦線に参加した義勇兵の数や素性が明らかにされると同時に、内紛に明け暮れたスペイン系コミュニティーが、フィリピン独立へ向けて影響力確保の努力をするどころか、経済活動を鈍化させ、同時にフィリピン社会におけるスペイン的なるものの評判をおとしてしまったことが指摘される。

 第五部の2つの章は、スペイン系コミュニティーの内紛の本質について、またそれが同コミュニティーのフィリピン社会内での地位に与えた影響について、分析的にまとめている。著者によれば、反乱派内部の抗争は、ファランヘ党派が予想以上に支持を集めたことで激しくなったが、それは、スペイン系コミュニティーを牛耳っていた古い財閥系家族に対する新興の富裕層や、階級的に財閥系家族に及ばない混血やスペイン志向フィリピン人が、社会的認知を求めたところに本質的原因がある。その意味でフィリピンのファランヘ党は、ヨーロッパのファシズム運動と類似しているという。他方、反乱派をスペイン統治時代の教会や軍による抑圧と結びつける共和国派の言説や、反乱派内部の激しい抗争は、スペイン文化に対するフィリピン人の憧れの気持ちに水を差し、スペインのイメージを決定的に低下させた。結果としてスペイン・アイデンティティとフィリピン・アイデンティティが半ばしたスペイン系コミュニティーやその周辺にいたスペイン志向フィリピン人のアイデンティティは、後者に傾き、スペイン人のフィリピンへの帰化の波をも生むことに繋がったとされる。

 結論において著者は、フィリッピン独立において実質的な影響力を残せなくなったという意味において、共和国派も反乱派の2派も含め、スペイン系住民は皆が敗者になったことを確認した後、自分の論文の最大の貢献が反乱派内部の分裂と確執をあきらかにし、またファランヘ党派の性格を分析したことであると結んでいる。

 以上のような内容をもつロダオ氏の博士論文については、多くの優れた点を指摘できるが、特に次の四点に注目すべきであろう。

 第一にこの論文は、フィリピンのスペイン系コミュニティーについて、その構成と活動を総体として明らかにした点が指摘されるべきである。1898年以降のフィリピンにおいて、スペイン系の人々がどのような状況に置かれ、どのような活動をしていたのかについては、これまで断片的に知られているだけであったが、ロダオ氏はフィリピンの古い人口センサス類、当時存在したスペイン系企業が遺した資料、アメリカ当局の文書、同時代人の伝記などからの情報を元に、再構成することに成功した。それだけでもフィリピン史に対する大きな貢献であると言える。

 第二に本論文は、個人レベルにまで分析のメスを入れて、埋もれていた多くの個人の伝記的事実を発掘した。ロダオ氏は、共和派と反乱派双方が発行していた新聞や雑誌の記事、スペインとアメリカの外交文書、遺族などとのインタビューによって、1936-39年に活動した多くの個人を特定し、その人間関係や紛争への関与の性格について明らかにした。スペインへの熱い思いから紛争に参加しながら、友人や知人との抗争の中で深く傷つき、ついには忘却へ逃れようとする人々の困惑をうまく描き出している。

 第三に、筆者自らも主張しているように、これまで共和国派と反乱派の対立という図式でとらえられていたスペイン系コミュニティーの内紛が、実際には反乱派内部の抗争が中心であったことを明らかにした点がある。スペイン系コミュニティーのリーダーであったアンドレス・ソリアーノが従来言われたようなファランヘ党派ではなく、むしろそれと対立する伝統的保守派のリーダーであったことの発見も特筆されるべきである。またフィリピンのファランヘ党がヨーロッパ・ファシズムと似た性格をもっていたという指摘も、ロダオ氏がしたような詳細な運動の分析無しには不可能であったろう。

 第四に、上で述べた第一点とも関連するが、フィリピンにおけるスペイン系コミュニティーの衰退が1898年ではなく、1930年代後半に始まったことを指摘した点がある。これは、1930年代はじめまでは、スペイン系コミュニティーが経済的にも文化的にも、フィリピン社会の中で活発に活動し、フィリピン人の中にもスペインの文化的・宗教的遺産に親近感をもつ者も多かったこと、しかし内戦が終わる1939年以降になると、スペイン系アイデンティティを積極的に主張する動きが見られなくなったことの観察からくる興味深い結論である。

 ロダオ氏の博士論文は、以上のように質の高い論文であるが、問題点がないわけではない。最大の問題は、フィリピン自治政府の資料が未公開であったり、紛失したりしたこともあって、フィリピン社会側の分析が不十分な点であろう。内戦期の内部抗争によってスペイン系コミュニティーの連帯が崩壊し、アイデンティティが薄れたことは、この論文によって明らかにされたと言えるが、それをフィリピンの市民と政治指導者が、どのように受けとめたのかが分析されていないために、内戦を決定的なきっかけとしてスペイン系コミュニティーの影響力が衰えたとする著者の議論が十分な説得力をもつに至っていないのである。アメリカ当局の政策変更、日本軍による占領、独立に伴う法体系の変更やナショナリズムの高揚などが与えたインパクトも考えられるので、分析の射程を1946年の独立まで伸ばす必要があるかもしれない。他方、独立後もスペイン語やスペイン文化が上流階級の表象ととらえられていたことを見ると、スペイン系コミュニティーの影響力の評価も慎重におこなう必要がある。

 論文の形式に関わる点としては、論文の本筋に関係しないのに過剰な描写がおこなわれている箇所が一部に見られる。

 しかし上であげた問題点は、スペイン内戦期のフィリピンにおけるスペイン系コミュニティーの動向の分析という本論文の中心的貢献からすれば、周辺的な問題であり、むしろ、新しい資料の発掘も含め、著者の次の仕事として期待すべきことであろう。総合的に言って、本論文のフィリピン史への寄与は非常に大きいと結論づけることができる。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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