学位論文要旨



No 216716
著者(漢字) 保城,広至
著者(英字)
著者(カナ) ホシロ,ヒロユキ
標題(和) アジア地域主義外交の展開と蹉跌 : 1952-66
標題(洋)
報告番号 216716
報告番号 乙16716
学位授与日 2007.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16716号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 助教授 内山,融
 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 名誉教授 渡邉,昭夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論が分析対象とするのは、1950、60年代において日本政府がアジア地域枠組みの形成を訴えかけた試み -アジア地域主義外交- である。この時代、日本はアジアの中では最も精力的に、いくつかの地域枠組みをつくることを望んだが、そのうち一つを除いたすべてが構想倒れに終わり、唯一1966年に実現した「東南アジア開発閣僚会議」もまた、実質的には何の役割も果たさぬまま、9年という短命に終わっている。すなわち、この時代の日本政府によるアジア地域主義外交は、悉く蹉跌する運命を辿ったのである。なぜ日本は戦後間もないこの時期、アジア地域主義を唱えたのだろうか。それを出現せしめた要因は何だったのか。日本がつくろうと試みた地域枠組みには、どのような政策意図が込められていたのだろうか。そしてまた、日本の諸構想が最終的に蹉跌する要因は何だったのか。アジア地域主義外交を展開するに至った日本政府の政策形成過程を追い、日本の構想が投げ込まれたアジア・太平洋の国際関係を分析することによって、上記の疑問点を明らかにすることが、本論の目的である。

 「米国とアジアの狭間」というフレーズに象徴されるように、米国を中心とする西側先進国と、独立後間もないアジアの途上国との間に存在する、対立的な緊張関係の間を揺れ動く日本外交の姿は、多くの研究によって論じられてきた。「対米協調」と「対米自主」、「反共経済圏」路線と「コロンボ・プラン重視」路線、といった二分法がそれである。ただしこれらの研究は、戦後日本のアジア地域主義外交を通史的に系統だって実証分析したものではなく、また、日本の政策決定過程をほとんど追うことなく結論を下してきた。

 それに対して本研究が採用するのは、15年という期間を時系列に沿って、各政権によるアジア地域主義構想の政策形成過程を、日米英豪の一次資料に基づいて実証的に分析する手法である。幸い、2001年4月に施行された情報公開法によって、日本政府内部の文書が閲覧可能になり、我々は従来ブラックボックスであった省庁内部の動きを、ある程度把握することができるようになった。本研究は、日本の情報公開法を大いに活用することで、従来の日本外交史研究が到達し得なかった水準の、緻密な実証分析が可能になったと考えている。本論が明らかにしたのは、次の諸点である。

 この時代における日本が望んだ地域協力枠組みは、一つの例外を除いて、アメリカの大規模資金を想定した、「開発援助枠組み」あるいは「貿易決済枠組み」だった。日本政府によるそれらアジア地域主義外交推進の必要条件は、米国の対アジア政策が、地域枠組みの形成に積極的になり、かつ援助が増額の方向へ政策転換するという「期待」の存在であった。米国の政策転換の実現可能性が高ければ高いほど、日本はより具体的で大胆な地域主義構想を推進し、逆に可能性が低ければ低いほど、目立たない形で小規模な構想を水面下で探ったのである。そして「期待」が全く存在しなければ、日本政府は地域主義外交を推進することはなかった。換言すれば、日本のアジア地域主義外交は、アメリカのアジア政策への期待の関数だった。それは、先行研究の主張するような二分法で捉えられるものではなかったのである。

 そしてアメリカの対東南アジア政策が反共イデオロギーに囚われているあまり、軍事的なアプローチに傾斜しており、アジア諸国の反感を買っているという認識を、日本の政策決定者は持っていた。つまり日本としては、援助政策に積極化しつつある米国の資金をアジアへ導入することを望んでいたが、米政府がそれを直接行えば、アジア諸国の反発を招くことは必至であると考えられた。そこで日本の政策決定者が訴えたアプローチは、「アジアによるアジアのための経済開発」であった。このスローガンには、「アジアの一員」でもあり、米国を始めとする「西側先進国の一員」でもある日本が、いわゆる「橋渡し」を行う形でアメリカの資本をアジアへ導入し、開発を行うという考えが内在されていたのである。本論では、このアプローチを出現せしめた日本のアジア認識を、分析概念として「戦後アジア主義」と呼ぶ。以上のようなアプローチを唱えて日本政府は、アジア地域主義外交を展開する。しかしながら、それは悉く頓挫するのであった。なぜならば、日本の「戦後アジア主義」から発した「アジアによるアジアのための経済開発」というアプローチは、日本以外の国と共有されることは無く、結局のところ、米国・東南アジア双方に受け容れられることはなかったからである。日本のアジア認識、アメリカのアジア認識、アジアのアジア認識は、この時代、ほとんどかみ合うことがなかった。

 論文の構成は以下の通りである。本論は序章と終章を含めると、9章構成になっている。導入部の序章、概論的記述を行っている第1章、そして結論部の終章を除けば、各章が、先行する研究群に対応する構成となっている。従って、必ずしも1つの事例が1章に対応しているわけではない。例えば第3章では4つの事例が取り上げられている一方、第2章及び5章で分析するアジア地域主義外交の事例はない。

 第1章では、戦後直後から1953年における日本とアジアの関係を概観する。この8年という間に、日米経済協力の一環としての東南アジア開発という、後のアジア地域主義外交の素地が形成されていった。その背景を論じると共に、日本の政策決定者によるアジア認識が、米国を含めることによってどのように変化するのかという点も考察している。第2章では、戦後日本による初の地域主義構想と考えられている「アジア・マーシャル・プラン」構想を検証し、その事実がなかったことを明らかにする。すなわち本章では吉田茂の外遊を分析することによって、多くの研究が論じているような、膨大な額のアメリカ援助を東南アジア開発に投入するという計画は、ジャーナリズムと後世史家の作り上げた幻想に過ぎなかったことを実証する。従って、戦後日本のアジア地域主義構想は、吉田ではなく、鳩山一郎政権になって初めて出現するのである。第3章では、その鳩山政権期におけるアジア地域主義外交を分析する。この2年間は、日本がアジア地域主義に最も精力的だった時期である。具体的には、米国政府高官に提出した「東南アジア経済開発基金」および「アジア決済同盟」構想、コロンボ・プランのシムラ会議における「地域開発基金」、「短期決済金融機構」の設置提案、また米国に提示した「アジア開発金融機関」と「アジア開発基金」の設立構想があった。これらは、米政府内部の援助増額派の言説、あるいは実際の米国によるアジア援助増額という動きに触発されたものであったが、日本政府の見通しは甘過ぎた。これらの諸構想は、アジア諸国にも受け入れられず、また米政府内部で十分な検討もされることなく、全て頓挫するのである。しかしながら、その蹉跌にも関わらず岸信介政権は1957年、同様の地域主義構想を提唱する。第4章では、岸内閣の「東南アジア開発基金」構想の政策立案からその挫折に至る過程を検証する。その分析を通じて、従来「対米自主」と言われてきた本構想が、米国のアジア政策と密接に繋がっていたことを明らかにする。

 第5章以降は1960年代を扱っている。50年代とは異なり、高度成長を果たしたこの時期、基本的に日本のために地域協力を行う必要性は薄れていたはずである。それにも関わらず日本は地域主義外交を展開した。なぜだろうか。その疑問を解くことが5章以降の目的である。第5、6章では、池田勇人政権がアジア地域主義外交に積極的ではなかった、という通説に対する反論を試みている。第5章では、はじめに米国の対アジア政策と池田政権との関係を検証し、次にECAFEが提案し、日本が消極的だった地域主義構想について簡単に触れ、前政権との比較を行う。その結果、米国がアジアにおける地域主義に好意的であったなら、池田政権もそれ以前と変わらない地域主義構想を提案していた可能性を示唆するとともに、日本の望んだ地域枠組みは、「貿易枠組み」ではなかったことを確認する。そして第6章では、従来ほとんど実証研究の対象にならなかった、池田政権の「西太平洋友好帯」構想を取り上げ、その内容、政策意図、そして挫折するに至った原因を分析する。実はこの構想は歴代政権のうちで最も政治的であったことを明らかにするとともに、そのために米国・アジア双方からの反対に遭って結局は日本からの正式な外交政策となることはなく、葬り去られる過程を実証する。そして最後の事例を扱う第7章では、佐藤栄作政権期に開催された「東南アジア開発閣僚会議」を分析する。従来、経済大国となった日本の援助増大表明と考えられてきたこの会議が、実はアメリカの大規模資金を導き入れるための受け皿として意図されていたことを明らかにする。しかしながら、アメリカとアジア諸国は日本の実質的貢献を期待しており、このような各々の認識の相違が、すでに9年後の閣僚会議の自然消滅を運命付けていたことを指摘する。すなわち、池田の「西太平洋友好帯」構想を唯一の例外として、1950年代から60年代にかけての日本のアジア地域主義構想は、すべてが、アメリカの資金を東南アジアへと導入するための地域枠組みとして考案されたのであった。

 最終章では、先行研究を批判する形で、本論の実証分析が明らかにした諸点を鳥瞰して行く。戦後日本によるアジア地域主義外交展開の要因、「戦後アジア主義」の多様性、そして日本の政策が悉く失敗に終わった理由を、各事例を比較検討することによって抽出し、結びとする。

審査要旨 要旨を表示する

 保城広至氏の提出した「アジア地域主義外交の展開と蹉跌:1952-66」と題する論文は、第2次世界大戦後に日本が主権を回復した1950年代から高度成長期に入る60年代にかけて、日本政府が幾度も試みながらもなかなか日の目を見なかったアジア地域協力枠組み構想について網羅的に分析し、従来の戦後日本外交に関する類型論的通説を根本的に修正するとともに、1990年代以降になって初めて注目され始めた日本のアジア地域主義外交についての研究を時期的に大きく遡らせたものである。論文は全9章から構成され、A4用紙で約220ページ、400字詰め原稿用紙に換算して約800枚の分量である。

 本論文の目的は、なぜ日本は戦後間もない時期にアジア地域主義を唱えたのか、それを出現せしめた要因は何だったのか、日本が作ろうと試みた地域枠組みにはどのような政策意図が込められていたのか、そしてまた、日本の諸構想が最終的に蹉跌する要因は何だったのか、という問いに、アジア地域主義外交を展開するにいたった日本政府の政策形成過程を追い、日本の構想が投げ込まれたアジア・太平洋の国際関係、特に米国との関係を分析することによって、答えることである。

 具体的には、まず序章「「戦後アジア主義」と日本の地域主義外交」では、問題の所在を明らかにし、先行研究批判を展開する。第2次大戦後の日本外交は、もっぱら首相の政治的志向性と連動させて歴代内閣の外交姿勢を対米協調か対米自主かという2項対立的に捉え、後者に傾いた内閣がアジア地域主義外交を展開するという図式で理解されてきた。しかし、このような図式が実際に日本政府の進めてきた外交の現実とは異なる、という事実が保城氏の研究の出発点であり、本論文では、対米協調外交とアジア地域主義外交とが両立しうることを説明する理論的枠組みとして、戦前とは異なる「戦後アジア主義」とも呼ぶことのできる日本外交の特質を提示する。

 第1章「アジア地域主義外交展開の背景:1945-1953」では、中国や朝鮮の内戦、分断を踏まえて、米国主導による日本の戦後復興が当時の用語法でいう東南アジア(今日の通常の理解では「南アジアおよび東南アジア」、最近の外務省用語では「南部アジア」)を取り込むようになったことにより、アジア地域主義外交の必要性が生まれたことが指摘される。その大きな流れの中でアメリカと強く結びついた日本と他者としてのアジアとの関係が強く意識されるようになった一方で、アメリカを他者として、日本を含み、日本を盟主とするアジアというまとまりも強く意識されるようになった過程が実証的に明らかにされる。

 第2章「「アジア・マーシャル・プラン」の幻想:1954年」では、通説では戦後日本による初の地域主義外交と位置付けられてきた「アジア・マーシャル・プラン」構想について、実際には、その事実がそもそもなかったことを明らかにする。すなわち、本章では、膨大な額のアメリカ援助を東南アジア開発に投入するという計画を吉田茂首相が米国側に提示したものの拒否されたという通説は、ジャーナリズムと後世史家の作り上げた幻想に過ぎなかったことを実証する。

 第3章「アジア地域主義構想の不用意な乱発:1955-1956」では、鳩山政権期におけるアジア地域主義外交を分析する。この時期、米国政府高官に提出した「東南アジア経済開発基金」および「アジア決済同盟」、コロンボ・プランのシムラ会議で提案した「地域開発基金」、「短期決済金融機構」、また米国に提示した「アジア開発金融機関」と「アジア開発基金」などの設立構想があった。これらは米政府内部の援助増額派の言説、あるいは実際の米国によるアジア援助増額という動きに触発されたものであったが、全て頓挫する。その理由として、アジア諸国にも受け入れられず、また米政府内部で十分な検討もされなかったことを明らかにし、日本政府の見通しの甘さを指摘する。

 第4章「「対米自主外交」という神話:1957」では、岸内閣の「東南アジア開発基金」構想の政策立案からその挫折に至る過程を検証する。従来「対米自主」と言われてきた本構想は、米国の反対で頓挫したと説明されてきたが、本章の分析を通じて、実は、第3章で分析した諸構想の運命と同工異曲であること、つまり米国のアジア政策と密接に繋がって具体化されたものの、米国政府の動向に対する読みの甘さで挫折したことを明らかにする。

 第5章以降は1960年代を扱っている。50年代とは異なり、高度成長を果たしたこの時期、日本のために地域協力を行う必要性は薄れていたはずである。それにも関わらず日本は地域主義外交を展開したのは、なぜなのか。その疑問を解くことが第5章以降の目的である。第5章「池田政権期のアジア地域主義外交論再考:1961-62」では、米国の対アジア政策と池田政権との関係を検証することにより、ECAFEが提案したものの日本が消極的だった地域主義構想について、米国がアジアにおける地域主義に好意的であったなら、池田政権もそれ以前と変わらない地域主義構想を提案していた可能性を示唆する。

 第6章「西太平洋友好帯構想の出現と挫折:1963」では、従来ほとんど実証研究の対象にならなかった、池田政権の「西太平洋友好帯」構想を取り上げる。この構想が歴代政権が打ち出した構想のうちで最も政治的であったことを明らかにするとともに、そのために米国・アジア双方からの反対に遭うことになり、結局は日本からの正式な外交政策となることはなく、葬り去られる過程を実証する。

 そして最後の事例を扱う第7章「東南アジア開発閣僚会議のイニシャティヴとその限界:1965-66」では、戦後初の日本政府主催の「東南アジア開発閣僚会議」が開催される経緯を分析する。通説では経済大国となった日本の援助増大表明と考えられてきたこの会議が、実はアメリカの大規模資金を導き入れるための受け皿として意図されていたことを明らかにする。他方で、米国政府もアジア諸国も日本の実質的貢献を期待しており、このような関係国間の認識の相違が、閣僚会議の自然消滅(1974年)を運命付けていたことを指摘する。

 最終章「結論」では、先行研究を批判する形で、本論の実証分析が明らかにした諸点を鳥瞰して行く。すなわち、対米協調外交を推進したとされる池田勇人による「西太平洋友好帯」構想がもっとも自主的であり、これを唯一の例外として、1950年代から60年代にかけての日本のアジア地域主義構想は、すべてが、アメリカの大規模資金を想定した、開発援助枠組みあるいは貿易決済枠組みとして考案されたことが再確認される。換言すれば、日本のアジア地域主義外交は、アメリカのアジア政策への期待の大小の関数であり、そしてこのことは「対米協調」と「対米自主」という通説が採用してきた二分法では説明できないことが指摘される。

 以上のような内容の本論文は、第2次世界大戦後の日本外交に関する従来の研究を実証面でも理論面でも塗り替える力作である。

 特に実証面での貢献が顕著であり、従来は個別的・断片的に議論されてきたアジア地域主義外交について、一貫した視点から体系的・網羅的に分析したことにより、先行研究の事実認識や解釈に大きな修正を迫っている。先行研究が日本の政策決定過程を実証的にほとんど追うことなく結論を下してきたことの背景には、日本側資料の不足という実態が横たわっていた。しかし2001年4月に施行された情報公開法によって、日本政府内部の文書が閲覧可能になり、従来ブラックボックスであった省庁内部の動きを、ある程度把握することができるようになった。本研究は、日本の情報公開法を大いに活用することで、従来の日本外交史研究が到達し得なかった水準の、緻密な実証分析が可能になったと言えよう。付言すれば、外務省内部の政策形成過程のみならず、首相はもちろん通産省や大蔵省の役割も絡ませることに成功している。また、従来から依拠せざるを得なかった米国政府の公文書を再調査して見直したり、イギリスやオーストラリアの公文書を活用したりして、日本の対外政策決定過程と外交とをマルチアーカイヴァル・アプローチにより有機的に結びつけるのに成功している。

 理論面の貢献としては、実証分析を踏まえて、通説化している「アメリカとアジアの狭間」に置かれた日本という捉え方、そして「対米協調」と「対米自主」の間を揺れ動く歴代内閣による外交という捉え方に対して、根本的な修正を迫っている。そして「戦後アジア主義」という分析概念を提示して、一方ではアメリカと一体化した日本対アジアという軸と他方ではアジアと一体化した日本対アメリカという軸とが少なくとも当事者にとっては矛盾無く両立している自己イメージが、1950,60年代の日本によるアジア地域主義外交を生み出す深層構造にあったことを示した。

 要するに、本論文が見事に描き出したように、「アジアの一員」でもあり、米国を始めとする「西側陣営の一員」でもあると自らを位置付ける日本は、アメリカとアジアとのいわゆる「橋渡し」を試みる外交を展開し、その結果、提唱した構想は悉く頓挫する。それは、日本の「戦後アジア主義」に基礎づけられた「アジアによるアジアのための経済開発」というアプローチが、結局米国・アジア双方に受け容れられることもなく、日本以外の国と共有されることはなかったことによる。このことは、ある意味で戦前のアジア主義とも通じる側面がある一方、1990年代から現在にかけて展開している日本のアジア地域主義外交にとっても他山の石になりうる指摘であり、本論文の示唆するところは広範である。

 以上のような力作ではあるが、論じ足りない点も残っている。実証面では、日本内部の政策形成過程の詳細さと日米外交の立体的な描き方と比べ、政策の対象となったアジア諸国の反応についての実証分析が物足りない。たしかに、構想のいくつかは日米関係のみで流産したものの、いくつかは実際にアジア諸国政府に打診されているからである。理論面では、通説の2分法理解では現実が説明できないことはきわめて説得的に展開されているが、国内の政策形成過程に関する通説と本論文の説明様式の相違についてはあまり十分に論じられていない。すなわち、通説の背景には首相のリーダーシップを強調する視点があるが、本論文では官僚主導論をとっているように思われる。それらの間の関係やその優劣は必ずしも明らかではない。また、保城氏の定義する「戦後アジア主義」に彩られた日本の外交は、米国政府のアジア政策(特に資金提供)に対する日本側の期待の大小の関数として捉えることができるという保城氏の結論に、一層の理論的・思想的説明が欲しかった。しかし、このような点は、本論文の欠点というよりは、さらなる研究で解明されるべき課題とみなすべきである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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