学位論文要旨



No 216740
著者(漢字) 佐藤,友紀
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ユキ
標題(和) ゼブラフィッシュ嗅細胞における匂い分子受容体発現と軸索投射に関する研究
標題(洋)
報告番号 216740
報告番号 乙16740
学位授与日 2007.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16740号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 講師 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

 生物は嗅覚を用いることによって外的環境に存在する匂い分子を受容し、その情報を鼻から脳へと伝え、匂いの認識や識別さらには匂いに応答した行動や情動を惹起することができる。主に齧歯類やショウジョウバエを用いた分子生物学的、発生工学的研究から、嗅上皮から嗅球へと至る一次嗅覚神経系は非常に秩序立った神経回路網を備えていることが明らかになった。しかし、嗅覚系の精密な神経接続がどのような分子メカニズムによって形成されるのかについてはいまだ不明な点が多い。

 小型魚類ゼブラフィッシュは、近年発生生物学および神経科学研究において広く利用されるようになった脊椎動物モデルである。ゼブラフィッシュは体外受精であることから発生学的手法を取り入れやすく、また発生が速く胚が透明であるため、特定の神経細胞に蛍光タンパク質を発現させることにより、生きたままの胚個体で軸索の伸長過程をリアルタイムに観察することができる。また嗅覚系に関してはゼブラフィッシュ匂い分子受容体遺伝子数および嗅球の糸球数がマウスに比べ10分の1程度であることから、複雑な嗅覚神経回路網をより単純化して解析できる。このような利点からゼブラフィッシュは嗅覚系神経回路網の形成メカニズムを探る上で非常に有用なモデル脊椎動物である。しかしこれまでのところ、魚類の嗅覚神経回路については一次嗅覚神経系を含めて未解明な部分が多く、本研究ではゼブラフィッシュ嗅細胞の軸索投射に焦点をあて3つのテーマについて解析を行った。

1. 魚類嗅覚系の2つの異なる神経経路

 陸棲脊椎動物の多くは嗅覚器とは解剖学的に異なる鋤鼻器を持っているが、魚類には鋤鼻器がなく単一の嗅覚器に繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞が存在しており、これらは同一の嗅球へと軸索を投射している。第1の研究テーマではこの2種類の嗅細胞の軸索投射様式を詳細に調べた。まずゼブラフィッシュの嗅細胞に発現している分子を探索したところ、繊毛嗅細胞ではolfactory marker protein (OMP)、cyclic nucleotide-gated cation channel、ORタイプ匂い分子受容体が特異的に発現しているのに対し、微絨毛嗅細胞ではtransient receptor potential channel TRPC2とV2Rタイプ匂い分子受容体が発現していた。そこで2種類の嗅細胞を選択的に標識するため、それぞれOMP、TRPC2の遺伝子発現プロモーター制御下に蛍光タンパク質を発現するトランスジェニック系統を作製した。各系統における蛍光タンパク質の発現は内在性遺伝子の発現を厳密に再現しており、OMP系統は繊毛嗅細胞を、TRPC2系統は微絨毛嗅細胞を選択的に標識した。2種類の嗅細胞からの軸索投射様式を同時にかつ区別して可視化するために、異なる波長の蛍光タンパク質を発現するOMP系統とTRPC2系統と交配させたダブルトランスジェニック魚を獲得し、この成魚での嗅球表面の蛍光観察を行った。その結果、繊毛嗅細胞は主に嗅球の背側部や内側部に軸索を投射しているのに対し、微絨毛嗅細胞は嗅球の外側部に軸索を投射している様子が観察された。さらにその軸索投射様式を嗅球上の糸球レベルで解析するために、ダブルトランスジェニック成魚の嗅球切片の免疫染色を行った。その結果、2種類の嗅細胞からの軸索は相互排他的に全く別々の糸球に投射していることが明らかになった。またダブルトランスジェニック胚の経時的観察から2種類の嗅細胞による相互排他的な軸索投射は発生初期からおおよそ形成されていることが分かった。以上の結果から、齧歯類の嗅覚系と同様に魚類の嗅覚系においても繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞はそれぞれ異なる種類の匂いを受容し、異なるシグナル伝達分子、異なる神経経路を介して、異なる機能発現に関与していることが示唆された。

2. 魚類嗅細胞における匂い分子受容体の選択的発現機構

 上述の結果から2種類の嗅細胞による相互排他的軸索投射様式が明らかになったが、各嗅細胞群の中で個々の匂い分子受容体を発現している嗅細胞がどのような様式で各々の糸球に投射しているのかについては不明である。齧歯類では、1つの繊毛嗅細胞は1種類の匂い分子受容体(OR)を発現しており(1細胞-1受容体ルール)、同じORを発現する嗅細胞はその軸索を特定の糸球に集束させて投射している(特定糸球への軸索投射)。そこで第2の研究テーマではゼブラフィッシュの繊毛嗅細胞におけるOR遺伝子の選択的発現とその嗅細胞軸索の糸球投射様式について解析を行った。ある特定の機能的嗅細胞サブセットを選択的に標識するために、2つのOR遺伝子OR111-7とOR103-1のコーディング領域をそれぞれYFPとCFPに置換したOR遺伝子クラスターを持つBACトランスジェニック系統BAC-YCを作製した。BAC-YC胚の嗅細胞を発達段階を追って観察したところ、YFP、CFP蛍光は置換されたOR遺伝子の発現開始時期とほぼ同じく受精後1.5日目から少数の嗅細胞で観察され、受精後5日目までにはYFPまたはCFPで標識された嗅細胞軸索は予定嗅球領域の内側部に位置する同じ特定の糸球群に投射していた。BAC-YC成魚での軸索投射様式を調べるため、ホールマウント嗅球に対し抗GFP抗体を用いた免疫染色を行うことによってYFPとCFPの発現を検出した。その結果、対照のOMP系統では繊毛嗅細胞から投射を受ける嗅球の背側部や内側部の数多くの糸球が染色されていたのに対し、BAC-YC系統ではYFP/CFP発現嗅細胞が嗅球前方内側部に位置する少数の糸球にのみ軸索を投射している様子が観察された。このように発生初期から成魚に至るまでBAC-YC系統のYFP/CFP発現嗅細胞は特定糸球への軸索を投射していることが明らかになった。

 またBAC-YC成魚の嗅上皮切片の解析から、YFP/CFPは繊毛嗅細胞で特異的に発現しており、微絨毛嗅細胞では全く発現していないことが示された。これはBAC-YCトランスジーンにおいてYFP、CFP遺伝子が内在性OR遺伝子と同様の遺伝子発現制御を受けている結果と考えられる。しかしこれまでのトランスジェニックマウスを用いた研究によると、ORコーディング領域を欠失させたトランスジーンを発現する嗅細胞では別のOR遺伝子を発現することが報告されており、BAC-YCトランスジーンでもコーディング領域を置換していることから、YFP/CFP発現嗅細胞がどのOR遺伝子を発現しているかは不明であった。この問題を明確にするために、OR遺伝子のISHと抗GFP抗体染色を組み合わせて解析したところ、YFP/CFP発現嗅細胞で発現されるOR遺伝子は様々な染色体座から無作為に選択されるのではなく、主にOR111サブファミリーとOR103サブファミリーに属するOR遺伝子から選択されていることが判明した。この結果から私は、ゼブラフィッシュの個々の嗅細胞では以下に示す2段階からなる階層的制御によって、発現されるOR 遺伝子が選択されているというモデルを提唱する:(1)個々の嗅細胞はまずOR遺伝子サブファミリーを1つ選択する;(2)続いて嗅細胞は選択されたサブファミリーに属する限られたメンバーの中から1つのOR遺伝子を選択し発現する。また以上の結果をまとめると、BAC-YC系統のYFP/CFP発現嗅細胞では特定のサブファミリーに属するOR遺伝子が発現しており、それらの軸索は特定の糸球へ投射していることから、魚類においても類似したORを発現する嗅細胞は特定糸球へ軸索を集束させていることが示唆された。さらに二重ISH法により各々のOR遺伝子の発現について解析したところ、OR111サブファミリーに属するOR遺伝子は互いに異なる嗅細胞群に発現していたが、OR103サブファミリーのOR103-1は野生型成魚においてもOR103-2 またはOR103-5と共発現していることが判明した。このことから魚類では"1細胞-1受容体ルール"がすべての嗅細胞に当てはまるわけではなく、複数のORを発現する嗅細胞も存在することが示された。

3. 魚類一次嗅覚神経回路形成におけるSlit/Roboシグナルの役割

 一次嗅覚経路の精密な神経回路網の形成には多種多様な軸索ガイダンス分子が関与していることが予想される。軸索反発性因子Slitとその受容体Roboは様々な神経システムで軸索ガイダンスに関わっていることから、第3の研究テーマでは一次嗅覚経路におけるSlit/Roboシグナルの役割について検討した。嗅上皮でのrobo2 mRNAの発現は嗅細胞軸索が予定嗅球領域へ伸長する時期に限られていた。robo2機能欠損変異体を上述のOMP系統と交配して嗅細胞軸索の伸長過程を観察したところ、robo2変異体では一部の軸索が予定嗅球領域に到達できず本来の道筋から逸れて脳の他の部位へ侵入していた。ISH解析からSlit遺伝子は嗅上皮から予定嗅球領域への軸索の道筋を取り囲むように発現していることが判明し、熱ショックプロモーターを用いて全身で均一にSlit遺伝子を発現させると嗅細胞軸索はrobo2機能欠損変異体と同様の表現型を示した。このことから、Slitの濃度勾配がその反発性作用によりRobo2を発現する嗅細胞軸索を本来の道筋から逸脱しないようにガイドしていることが示唆された。robo2の発現は発生初期に限られているが、robo2変異体の糸球配置異常は成魚においても観察されることから、発生初期に形成された神経接続がその後に生まれてくる新しい嗅細胞の足場となって正しい神経回路が構築されるという仮説を提唱する。

審査要旨 要旨を表示する

 嗅覚系は匂い情報を鼻から脳へと伝え、匂いの認識や識別を行う神経システムである。主に齧歯類を用いた研究により嗅上皮から嗅球へと至る一次嗅覚神経系の秩序立った神経接続様式についてはかなりの部分が解明されてきた。しかし、その精密な神経接続がどのような分子メカニズムによって形成されるのかについてはいまだ不明な点が多い。本論文では小型魚類ゼブラフィッシュをモデル脊椎動物として用い、魚類一次嗅覚神経系における軸索投射様式およびその神経回路網形成に関与する軸索ガイダンス分子について解析を行っている。

 第一章の序論、第二章の方法に続き、第三章では魚類の嗅上皮に存在する二種類の嗅細胞の軸索投射様式について詳細な解析を行っている。魚類には鋤鼻器がなく単一の嗅覚器に繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞が存在している。ゼブラフィッシュの嗅細胞に発現している分子を調べたところ、繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞ではそれぞれ異なる嗅覚受容体やシグナル伝達分子が発現していることが明らかになった。そこで、それぞれの嗅細胞に選択的な遺伝子発現プロモーターを用い、繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞を異なる蛍光タンパク質で標識したダブルトランスジェニック魚を作製している。蛍光標識された嗅細胞軸索の投射様式を観察した結果、繊毛嗅細胞は主に嗅球の背側部や内側部に軸索を投射しているのに対し、微絨毛嗅細胞は嗅球の外側部に軸索を投射しており、その軸索投射様式は相互排他的であることが判明した。また生きたままのダブルトランスジェニック胚の経時的観察では二種類の嗅細胞による相互排他的な軸索投射様式は発生初期からおおよそ形成されていることが明らかにされている。以上の結果は、魚類嗅覚系において繊毛嗅細胞と微絨毛嗅細胞がそれぞれ異なる種類の匂い情報の処理に関与していることを示唆するものである。

 第四章では魚類嗅細胞における匂い分子受容体(OR)遺伝子の選択的発現とその嗅細胞軸索の糸球投射様式についての解析を行っている。ゼブラフィッシュのOR遺伝子クラスターを含む大腸菌人工染色体(BAC)において、二つのOR遺伝子のコーディング領域をそれぞれ異なる蛍光タンパク質遺伝子に置換したコンストラクトを作製し、それを用いて特定の機能的嗅細胞サブセットを蛍光標識したBACトランスジェニック系統を作製した。蛍光標識された嗅細胞軸索は嗅球上の特定糸球に集束している様子が観察されたことから、魚類でも齧歯類と同様に類似の機能を持つ嗅細胞はその軸索を特定糸球へ集束させることが示唆された。またBACトランスジェニック系統の嗅上皮切片の解析から、蛍光タンパク質は繊毛嗅細胞選択的に発現しており、その蛍光標識された嗅細胞で発現するOR遺伝子は特定のサブファミリーに属するOR遺伝子にほぼ限定されていることが判明した。このような結果から、個々の嗅細胞では発現されるOR遺伝子が階層的制御によって選択されているというモデルを提唱している。さらに、魚類の一部の嗅細胞では二種類のOR遺伝子が発現していることを新たに見出している。

 第五章では魚類一次嗅覚神経回路形成過程における軸索ガイダンス分子Slit/Roboの役割について検討を行っている。ゼブラフィッシュの嗅上皮では嗅細胞軸索が予定嗅球領域へ伸長する時期に合わせてrobo2遺伝子が一過性に発現していることが明らかになり、robo2機能欠損変異体では一部の嗅細胞軸索が本来の道筋から逸れて予定嗅球領域とは異なる部位に投射している様子が観察された。Robo2のリガンドであるSlitは嗅上皮から予定嗅球領域への軸索の道筋を取り囲むように発現していることが判明し、熱ショックプロモーターを用いてSlit遺伝子を過剰発現させたところrobo2変異体と同様の嗅細胞軸索投射異常を示した。これらの結果から、Slitの濃度勾配がその反発性作用によりRobo2を発現する嗅細胞軸索を本来の道筋から逸脱しないようにガイドしていることが示唆された。またrobo2遺伝子の発現は発生初期に限られているが、robo2変異体では成魚においても糸球配置異常が観察されることから、発生初期に形成された神経接続がその後に生まれてくる新しい嗅細胞の足場となって正しい神経回路が構築されるという仮説を提唱している。

 本論文は、魚類一次嗅覚神経回路における匂い情報のコーディング様式を解明し、その神経回路網形成に関わる分子メカニズムの一部を明らかにしたものである。これらの知見は魚類のみならず脊椎動物全般の嗅覚神経回路網の形成メカニズムや嗅覚機能の解明に貢献するものと期待される。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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