学位論文要旨



No 216741
著者(漢字) 山田,尚之
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,ナオユキ
標題(和) 微量タンパク質の質量分析技術開発とその食品・医薬品への応用
標題(洋)
報告番号 216741
報告番号 乙16741
学位授与日 2007.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16741号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 特任教授 鈴木,榮一郎
 東京大学 助教授 永田,宏次
内容要旨 要旨を表示する

 ゲノム配列解析技術の著しい発展により、近年、多くの生物種で全遺伝子配列解析が進展し、その膨大な配列情報はデータベースとして継続的に蓄積されている。蓄積された遺伝子データベースは、遺伝子あるいはその発現に関する大規模解析から生命現象を解明するゲノミクスという新しいアプローチの発展に大きく寄与している。ゲノムを対象としたゲノミクスに対して、プロテオーム(タンパク質の総和)を包括的に解析する手法はプロテオミクスと呼ばれる。これは、上記遺伝子データベースの他に、質量分析を中心とした微量タンパク質解析技術を基盤としている。生命現象の直接の担い手であるタンパク質を包括的に解析するプロテオミクスは、基礎生命科学のみならず、基礎・臨床医学、創薬、農学即ち発酵等の生物生産、食品科学、酵素学などの幅広い分野で重要な役割を果たし始めている。昨今では、特に医薬品開発や医療分野において、創薬ターゲットタンパク質や疾患関連マーカーの新しい探索方法として期待されている。

 基盤となるタンパク質の質量分析は、1960年のBiemannらのペプチド配列解析研究から始まり、その後日本と米国を中心に発展してきた。申請者が所属する研究室もその一つであり、一次構造解析だけでなく高次構造および相互作用解析の新しい方法論を確立してきた。

 このような微量タンパク質解析技術は、医学・薬学のみならず、健康食品の開発や食品の安全・安心の実現など、幅広く人類のために応用できると考えられる。中でも食物アレルギーを引き起こす抗原タンパク質を高感度に検出する技術は本研究以前には未だなく、微量タンパク質解析技術はこのような食品の安全・安心に貢献できる筈である。

 一方、包括的かつ大規模解析には、高感度であることに加えて耐久性と堅牢性が重要な課題となってきた。また、プロテオミクス等で見出された創薬ターゲットの機能解析や低分子薬剤の設計を行う上で、立体構造及び相互作用解析の重要性が増している。X線結晶構造解析やNMRを用いたタンパク質の構造解析技術は、これを解決する強力な手法であるが、解析に必要な試料量と時間に課題があり、より簡便で高感度の手法開発の必要性が高まっている。

 このような背景のもと、本研究では、(1)食品の安全・安心を支えるための微量タンパク質分析法の開発、(2)微量タンパク質同定のための耐久性と堅牢性の高い質量分析基盤技術およびタンパク断片化技術の開発、(3)タンパク質2次構造および相互作用部位解析技術の開発、の都合項目の研究開発を実施し、食品・医薬品に対して具体的に実用的化することが目的である。食品、医薬品への具体的応用としては、各々、食品用アミノ酸・核酸製品の食品アレルギー対策用分析技術開発、リウマチ治療薬開発基盤としての意義があるサイトカイン、即ち、抗ヒト・インターロイキン−6(ヒトIL-6)中和抗体のエピトープ解析法開発を実施した。特に、タンパク質断片化技術は、立体構造情報や相互作用情報をも含む点で極めて重要である。以下、実施した研究の概略を述べる。

1)食品用アミノ酸・核酸製品中の微量タンパク質分析法の開発

 食品アレルギーの主たる原因物質はタンパク質であり、アレルギー症状を誘発する抗原量に関しては、個人差はあるものの、総タンパク質として数μg/gレベルでは殆ど誘発しないであろうと考えられている。食物アレルギーを持つ消費者保護の観点から、日本国内においては平成14年度より、アレルギー物質を含む食品にはその表示が義務化された。抗原タンパク質の種類については、発症数、重篤度から勘案して特定原材料5品目(卵、乳、小麦、そば、落花生)についてはその表示が義務化されており、その測定手段として、抗原-抗体反応を用いたELISA法が確立されている。しかし、これ以外のアレルゲンについては良い方法がない。一方、日本においても遺伝子組み換え技術を用いた食品が一部で流通するようになっているが、未だに消費者の不安が大きく残っている。抗原性を有する可能性がある遺伝子組み換え体由来のタンパク質の残存が危惧されている。

 一方、調味料や食品素材は多くの加工食品の中に添加されており、天然のうま味成分であるグルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸は世界中で使われている。アミノ酸もサプリメントや医療用途として用いられている。これら食品・医薬用のアミン酸・核酸は、非常に高度に精製されているため、タンパク質はほとんど含まれていないと推察される。

 しかしながら、上述した社会的背景の下、アミノ酸・核酸中の残存総タンパク質量を数μg/gレベルで検出できる測定法を開発することは、食品の安心と安全を支える上で重要である。本研究では、プロテオミクスの技術であるドットブロット法と蛍光染色法を組み合わせること、さらにアミノ酸の溶解度が高い酸性条件にすることにより、アミノ酸・核酸中の残存タンパク質(検出限界1μg/g)分析法を確立し、製品の安全性を保証する技術として実用に供することができた。

2)微量タンパク質同定のための質量分析基盤技術開発

 大規模解析においては、感度と解析スピードと自動化は大変重要である。質量分析によるタンパク質同定は、液体クロマトグラフィー(LC)とタンデム質量分析計(MS/MS)を組み合わせたLC-MS/MSが用いられる。一般的には、研究対象試料となるタンパク質混合物をトリプシンなどのプロテアーゼで消化し、ペプチドとして測定する。高感度化のため内径75-300μmの微細なカラムとそれに対応した流速(50-3000nL/min)のHPLCが使われる。イオン化にはナノエレクトロスプレーイオン化法(ナノESI法)が必須である。ナノESI法では、内径が数十μmのフューズドシリカ製細管(エミッター)が広く使用されている。伝導性を付与するために金属薄膜あるいは伝導性高分子薄膜を被覆するが、物理的な強度が弱いことに加え、イオン化による高電圧印加で皮膜が剥離し、安定したイオン化能を維持することが困難であった。本研究では、伝導性と耐久性を兼ね備えたステンレスで内径30μm細管のナノESI用エミッターを作成した。その結果、従来品と同等以上の感度を持ち、数週間以上の連続測定に耐えうる微量タンパク質同定システムを開発することができた。

3)微量タンパク質同定のためのタンパク断片化技術開発

 タンパク質を酵素消化等の前処理なしに質量分析計(MS)の中で断片化し、迅速かつ高感度に同定しようとする新しい方法論は、"トップダウン・プロテオミクス"と呼ばれ、次世代のタンパク質同定法として期待されているが、断片化できるタンパク質の分子量に制限があることが最大の課題である。ヒト・アポトランスフェリン(79kDa)がこれまで断片化に成功した最大のタンパク質であり、これ以外は30KDa以下の限られたタンパク質の報告しかない。本研究では、独自に開発した金属製ナノESI用エミッターの耐久性を活用し、イオン源付近の温度を250℃以上に加熱し、分子イオンに熱エネルギーを与えることにより、断片化効率を向上させる方法を開発した。その結果、これまで困難であったリゾチームやBSAの断片化の効率が著しく向上するとともに、部分的ではあるがIgG2b(150KDa)の高分子量タンパク質の断片化にも成功した。

4)断片化技術のタンパク質2次構造情報抽出への応用

 立体構造未知のタンパク質アミノ酸配列からその立体構造を予測することは、機能の類推やタンパク質工学に活用されている。しかし、計算化学により構築されたモデル構造や2次構造予測は実験による検証がなされていない。そこで、分解能は低いながらも、簡便に2次構造情報得られる技術には大きな期待があり得る。本研究では、MSでタンパク質を断片化した際に、αヘリックスやβシートなど、しっかりとした構造を持つ部分が切断されにくい傾向があることを複数のタンパク質で見出した。断片化スペクトルを詳細に解析することにより、これらの部分的立体構造情報を抽出できる可能性が示唆され、予測構造の評価に利用できるものと期待している。

5)タンパク質断片化技術の相互作用部位解析への応用

 タンパク質は単独で静的に存在するだけで機能することはなく、低分子あるいはタンパク質などの生体高分子と動的に相互作用することで機能を発現する。創薬ターゲットタンパク質の機能や低分子薬剤の設計を行うためには、相互作用部位を明らかにする必要がある。最も有効な手段は、X線結晶構造解析やNMRによる複合体の構造解析である。一方、H/D交換反応とMSを用いた手法は、情報は少ないものの簡便かつ迅速な手法である。一般的な方法は、複合体を形成させた後、H/D交換を行い、経時的にpepsin消化、あるいはMS内での断片化により、断片ペプチドの質量変化を追跡する方法である。しかし、高分子量のタンパク質複合体の場合、得られるデータが膨大となり、解析が非常に困難になることが課題であった。本研究ではこれを解決するために、一方のタンパク質をゲルに固定化し、複合体形成とH/D交換反応をアフィニティーカラム内で行い、その後、酸性溶媒を用いて、H/D交換速度を低下させるとともに、複合体を解離させる手法を開発した。これにより、データ解析を軽減することが可能となった。この手法をリュウマチ治療薬創製に関わるヒトIL-6とその中和抗体の相互作用部位解析で検証・応用した。その結果、抗IL-6中和抗体は、ヒトIL-6のC末端付近を認識することで、受容体gp80との結合を阻害し、中和活性を持つことが示唆され、実用性があることを示すことが出来た。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、タンパク質の包括的解析法であるプロテオミクスの質量分析基盤技術開発とその食品・医薬品への応用研究を行ったものであり、8章からなる。

 第一章では、タンパク質の質量分析の歴史とこれを発展させたプロテオミクスの現状について述べている。

 第二章では、食品アレルギーに対する安心と安全を保証するためのアミノ酸・核酸製品中の微量タンパク質分析法の開発において、アレルゲンである抗原タンパク質の分析に関する課題とこれを解決する分析手法開発について詳細を議論している。プロテオミクスの技術を応用し、ドットプロット法と高感度タンパク質蛍光染色試薬(SyproRuby)により、標準試料(牛血清アルブミン、卵白リゾチーム、ユビキチン、牛インスリン、酸化型インスリンB鎖)を0.1ppmで検出できる検出法を確立した。さらに、アミノ酸の溶解度が高い1N塩酸を用いることにより、アミノ酸重量あたり1ppmの検出下限で残存タンパク質の検出を行うことを可能とした。実試料として食品用アミノ酸及び核酸25品目を測定した結果、全て検出下限以下であることを明らかにした。本法の検出下限は、アレルギー症状を誘発すると危惧される数ppmよりも低く、アミノ酸・核酸製品に対する食品アレルギーの懸念を除くに十分な性能を持つ手法であると結論づけた。

 第三章では、質量分析による微量タンパク質同定の基盤技術であるナノエレクトロスプレーイオン化(ナノESI)において、現状の課題である脆弱性を克服するためのエミッターの設計・製作とその性能について詳細を議論している。強度と耐久性が低いフューズドシリカ製のエミッターに対し、導電性と耐久性を併せ持つステンレスを用いて内径30ミクロンのストレート細管を作成した。50-200nl/minの低流量域でESIの効率を高めるために、内径を可能な限り細くすること、先端をテーパー加工すること、また、目詰まりを回避するために直管の形状にするなどの鋭意工夫をしている。質量分析計に搭載し、タンパク質の酵素消化物測定で感度と耐久性を評価し、フーズドシリカ製と比較して感度を維持したまま、高い耐久性を獲得していることを実証した。膨大な試料を分析する必要のあるプロテオミクスにおいて、長期間連続測定に耐えうる技術であると結論づけた。

 第四章では、タンパク質を酵素消化等の前処理なしに質量分析計の中で断片化し、迅速かつ高感度に同定する新しい方法論"トップダウン・プロテオミクス"の要素技術である高分子量タンパク質の断片化法について、熱エネルギーを付与することにより、断片化効率を向上させる新たな手法を開発し、そのメカニズムと効果について詳細に議論している。フーリエ変換イオンサイクロトロン質量分析計(FT-MS)に耐久性の高いステンレス製ナノESIエミッターを搭載し、イオン化領域を250〜350℃に加熱することにより、ユビキチンや牛血清アルブミンにおいて従来よりも断片化効率が向上し、タンパク質同定が可能であることを明らかにしている。さらに、ジスルフィド結合を有するリゾチームや高分子量タンパク質であるIgG2bといったこれまで断片化が困難なタンパク質においても良好なスペクトルを得ることができ、測定限界分子量を大きく更新した。

 第五章では、質量分析計でタンパク質の断片化した場合、αヘリックスやβシートなど、しっかりとした構造を持つ部分が切断されにくい傾向を見出し、断片化スペクトルからの2次構造情報取得の可能性について、詳細に議論している。データ解析ソフトを作成し、FTMSを用いたノズルスキマーCID法およびIRMPD法で得られたタンパク質の断片化イオンを詳細に帰属したところ、αヘリックスやβシートは、断片化を受けにくい傾向があることを複数のタンパク質(インターロイキン-6(IL-6)、ユビキチン、ウシミオグロビン、carbonic anhydrase)で見出した。タンパク質断片化スペクトルを解析することにより、2次構造を形成している部位の情報を抽出できる可能性があると結論している。

 第六章では、タンパク質断片化法に、水素/重水素(H/D)交換法およびアフィニティークロマトグラフィー法を組み合わせることによるタンパク質-タンパク質相互作用解析法の開発し、さらにこの手法を活用し、リウマチ治療薬開発基盤としての意義がある抗ヒトIL-6中和抗体のエピトープを明らかにし、その中和活性の機構について詳細に議論している。相互作用部位のみをD化させるH/D逆交換反応の反応条件の検討とアフィニティークロマトグラフィーの至適条件設定を行っている。抗体を固定化することにより、質量分析の対象をIL-6のみとすることでデータ解析を容易にしている。さらに、複合体を形成していないIL-6分子を排除することでノイズデータを削除している。質量分析に適した溶媒を用いるなどの工夫を行い、H/D逆交換反応後、溶出したIL-6をノズルスキマーCID法及びIRMPD法で断片化、スペクトルを帰属し、D化率を求めている。その結果、Val 11 - Asp 26, Leu 126 - Lys 131, Asp 160 - Met 184の3つの領域においてD化率が高く、IL-6と中和抗体MH166の相互作用部位であることを明らかにした。IL-6の立体構造と多くの変異体研究の知見から、MH166はIL-6の受容体IL-6R (gp80)との結合を阻害することで中和活性を発揮していると結論づけている。

 第七章では、全体を通したディスカッションを行い、質量分析技術を中心としたプロテオミクス技術開発研究の成果と意義、そして今後の展望について述べている。

 第八章では研究の全体を総括している。

 以上、本論文は、プロテオミクスの技術的発展と応用拡大を示したものであり、具体的には、(1)食品の安全・安心を支えるための微量タンパク質検出法の開発、(2)微量タンパク質同定のための耐久性の高い質量分析基盤技術およびタンパク断片化技術の開発、(3)タンパク質2次構造および相互作用部位解析技術の開発を実施し、具体的応用として、アミノ酸・核酸製品の食品アレルギー対策用分析、リウマチ治療薬開発基盤としての意義があるIL-6中和抗体のエピトープ解析を実施した。特に、タンパク質断片化技術は、立体構造情報や相互作用情報をも含む点で極めて重要であり、将来的なプロテオミクスの発展に向けて、基礎的な研究として貢献し得るものである。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/49015