学位論文要旨



No 216742
著者(漢字) 林,幹朗
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ミキロウ
標題(和) アミノ酸生産菌 Corynebacterium glutamicumのトランスクリプトーム解析系の開発と応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 216742
報告番号 乙16742
学位授与日 2007.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16742号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 正木,春彦
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 西山,真
 東京大学 助教授 田中,寛
 東京大学 助教授 日高,真誠
内容要旨 要旨を表示する

背景

 アミノ酸生産菌Corynebacterium glutamicum は1957年にL-グルタミン酸生産菌として見出され、その後の育種研究により各種アミノ酸発酵へ適用・拡大が進められた産業上重要な細菌である。しかしながら、生産菌の多くはランダムな変異処理と高生産株の選抜を繰り返すことにより育種されているため、これまでアミノ酸高生産の仕組みは十分に理解されていなかった。ゲノム情報を利用した新たな育種法、「ゲノム育種」では生産菌のゲノム解析を行ない、アミノ酸生産に有効な変異(有効変異)を特定し、それらを野生株に積み上げて行くという戦略で、最少の有効変異のみから構成される変異株を育種する。この方法より、野生株並みの生育速度、糖消費能を保持した生産菌を造成できる。同時にランダム変異により育種された生産菌の生産機構を理解できる。

 ゲノム育種を進める上では生産菌に導入された多数の変異点の中から有効変異をいかに効率的に見つけるかがポイントとなる。しかし、未知の制御機構に絡む予想外の有効変異が存在すると、その抽出は容易ではない。そこで、アミノ酸生産に関わる未知の制御を探る1つの手段としてC. glutamicum のDNAマイクロアレイを独自に開発し、代謝制御のトランスクリプトーム解析とゲノム育種への応用に関する研究を行なった。

1.変異育種された生産菌と親株の野生株で塩基配列を比較して生産菌ゲノム上の変異を同定する

2.野生株にその変異を導入し、生産に対する有効性を判定する

3.生産に対して有効であった変異のみ野生株に積み上げる

トランスクリプトーム解析系の構築

 まずC. glutamicumのゲノム配列情報を基に、糖の資化に関わる解糖系、ペントースリン酸経路、TCA回路などの中央糖代謝とアミノ酸合成経路の約120遺伝子でDNAマイクロアレイを作製した。次いで、最初の応用例として、C. glutamicumの一部遺伝子でノーザン解析が報告されている酢酸代謝のトランスクリプトーム解析を行なった。

 酢酸またはグルコースを単一炭素源とする最少培地でC. glutamicum 野生株ATCC 13032を培養し、発現プロファイルを比較した。酢酸で誘導発現が報告されている各遺伝子(pta、ack、aceA、aceB) で、既知データと符号する結果が得られ、DNAマイクロアレイの実用性が検証された。酢酸を単一炭素源とした場合、生育に必要なアミノ酸、核酸などを合成するために糖新生が促進されているはずである。TCA回路から糖新生に向かうルートとして、一般に、リンゴ酸からピルビン酸を介してホスホエノールピルビン酸に進むルートと、オキサロ酢酸から直接ホスホエノールピルビン酸に向かうルートの2つが知られる。酢酸培養では、前者のルートに与るmalE が0.3倍に下がっているのに対し、後者のルートに与るpck は10倍以上に上昇していた。この結果は、C. glutamicumの酢酸代謝においては後者のpck のルートが優勢であることを示唆している。

 ゲノム解析の結果から、C. glutamicum にはグリセルアルデヒド-3-リン酸デヒドロゲナーゼ遺伝子が既知のgapA の他にもう1つ存在することが明らかになった(gapB)。本研究におけるトランスクリプトーム解析では、酢酸培養時にgapA は0.4倍に下がっているのに対し、gapB は4倍に上昇していた。2つのgap遺伝子の発現が逆方向に制御されていることがわかり、解糖と糖新生の新たな制御ステップの存在が示唆された。以上、C. glutamicum のDNAマイクロアレイを独自に開発し、その有用性を示した。

L-リジン生産菌のトランスクリプトーム解析

 C. glutamicum のL-リジン発酵を題材にゲノム育種を進める中で、L-リジン生合成の末端経路と中央糖代謝の有効変異を集めても工業レベルに耐えうるL-リジン生産性は得られないことが分かった。この結果は従来知られていない機構がL-リジン生産に寄与していることを示唆していると考えられた。そこで、多段階の変異育種を経て造成されたL-リジン生産菌B-6株を遺伝子発現の観点から解析することとした。L-リジン生合成経路上の遺伝子に関してノーザン解析を行ない、野生株とB-6株での転写レベルを比較した。その結果、L-リジン生合成の鍵酵素アスパルトキナーゼをコードするlysC の転写レベルがB-6株では数倍程度に上昇していることを見出した。C. glutamicum においてlysC の転写抑制による制御は知られていないことから、未知の制御によりlysC の転写レベルが上昇していることが示唆された。そこでB-6株のトランスクリプトーム解析を行なった。

 野生株と比較した場合、B-6株の転写プロファイルの特徴は以下の2つであった。(1) ペントースリン酸経路の遺伝子の高発現とTCA回路の遺伝子の発現レベルの低下。(2)アミノ酸生合成遺伝子の全般的な発現上昇。(1)の中央糖代謝系遺伝子の発現変動は報告されているL-リジン生産菌の代謝フラックス解析の結果と一致している。一方、(2)のアミノ酸合成系遺伝子全般の発現上昇はこれまでC. glutamicum で知られていない制御である。野生株と比べて50倍に発現上昇していたL-ロイシン合成系のleuCD を除くと、その他の多くのアミノ酸合成系遺伝子の発現上昇は10倍以下の比較的低いレベルであった。アミノ酸生合成系の全般的な発現上昇は大腸菌などで知られる(p)ppGppを介した緊縮応答を想像させる結果である。そこでC. glutamicum において緊縮応答を引き起こすことが報告されているセリンヒドロキサメートを添加した場合の野生株の転写プロファイル変動を解析した。その結果、一部のアミノ酸合成遺伝子については転写上昇が認められたものの、B-6株の転写変動結果とは異なる点もあり、他の制御系の関与も示唆された。以上、多段階に渡り変異育種されたL-リジン生産菌B-6株では、lysC を含む多くのアミノ酸合成系遺伝子の発現レベルが上昇していることを明らかにした。

トランスクリプトーム解析のゲノム育種への応用

 C. glutamicum L-リジン生産菌B-6株では緊縮応答を起こしたかのようにアミノ酸合成系遺伝子全般の転写レベルが上昇していた。この結果からB-6株のアミノ酸合成系遺伝子に変異が入り、L-リジン以外のアミノ酸合成能が弱まることで緊縮応答が引き起こされ、それがL-リジン生産に有効に働いている可能性を考えた。B-6株はL-ロイシンの部分要求性を示す。そこでL-ロイシン合成経路上の遺伝子に着目し、野生株と比較することで変異を探索した。解析で明らかになった変異の評価は、C. glutamicum野生株ATCC 13032にL-リジン合成末端経路の2つの有効変異(lysC 、hom)を導入したAHD-2株を宿主とし、ゲノム上に相同組換えにて各々の塩基置換変異を導入し、表現型を評価することで行なった。L-ロイシン合成経路の複数の変異の中で、イソプロピルリンゴ酸デヒドラターゼ大サブユニットをコードするleuC の変異(456番目のGlyがAspに置換)をAHD-2株に導入したところ、最少培地での生育がAHD-2株と比較して遅くなり、L-ロイシンを添加するとこの生育遅延は回復した(lysC、hom、leuC の3点変異株はADL-3株と命名した)。この結果からleuC 変異がB-6株のL-ロイシン部分要求性の原因変異であると考えられた。

 5Lジャー培養でL-リジン生産に対するleuC 変異の導入効果を検証したところ、L-リジン力価はAHD-2株と比較してADL-3株では約14%向上した。トランスクリプトーム解析の結果、ADL-3株ではL-リジン合成の鍵酵素遺伝子lysC を含む多くのアミノ酸合成系遺伝子の転写レベルが上昇していることが明らかになった。この結果はL-ロイシン部分要求性を付与するleuC 変異が転写レベルの変動を引き起こすことでL-リジン生産性の向上に関わっている可能性を示している。

 さらにleuC 変異によるL-ロイシン制限効果と緊縮応答との関連を調べた。C. glutamicum で(p)ppGppの合成・分解に関わり、その破壊により(p)ppGppが蓄積できなくなることが報告されているrel 遺伝子の破壊効果を検証した。AHD-2株、ADL-3株でrel を欠失させ、5Lジャー培養でL-リジン生産、転写変動への影響を調べた。その結果、rel 欠失株ベースでもrel +ベースでの効果と変わらずleuC 変異はL-リジン生産性向上と転写変動をもたらすことが明らかになった。以上、L-リジン生産菌のleuC 変異はrel 依存の緊縮応答とは異なる、従来知られていない機構でlysC を含むアミノ酸合成系遺伝子の発現上昇を引き起こしていることを明らかにした。

まとめ

 本研究ではまず、アミノ酸生産菌Corynebacterium glutamicum において、DNAマイクロアレイを利用したトランスクリプトーム解析系を構築した。工業レベルに育種されたL-リジン生産菌をトランスクリプトームの観点から解析することでアスパルトキナーゼ遺伝子lysC の発現上昇を含むグローバルな転写変動が起きていることを見出した。この結果をもとに生産菌の有効変異leuC G456D 変異を同定した。同変異がrel 依存の緊縮応答とは異なる、従来知られていない機構でlysC を含むアミノ酸合成系遺伝子の発現上昇をもたらしていることを明らかにした。C. glutamicum のL-リジン発酵研究の長い歴史の中で、このような制御の存在はこれまで知られていなかった。以上、アミノ酸生産菌育種研究におけるトランスクリプトーム解析の有用性が示された。

図 ゲノム育種の方法論

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、Corynebacterium glutamicumのアミノ酸発酵に関わるトランスクリプトーム解析系を開発し、実用株のリジン高生産性の原因を解析した研究をまとめたものである。アミノ酸生産菌C.glutamicumは各種アミノ酸発酵に用いられる産業上重要な細菌である。C.glutamicumのゲノム情報を利用した「ゲノム育種」では、生産菌のゲノム解析に基づいてアミノ酸生産に有効な変異を特定し、それらを野生株に積み上げて最少の有効変異のみから成る変異株を目指して育種してきた。しかし、未知の制御機構による有効変異が存在するとその抽出は容易ではない。本論文では、アミノ酸生産に関わる未知の制御を探る1つの手段として、C.glutamicumのDNAマイクロアレイを開発し、代謝制御のトランスクリプトーム解析とゲノム育種への応用に関する研究を行なった。本論文は5章から構成されている。

 本研究の背景と目的を述べた第1章に続き、第2章では、C.glutamicumのトランスクリプトーム解析系の開発を行なった。まず、ゲノム情報をもとに、解糖系、ペントースリン酸経路、TCA回路などの中央糖代謝とアミノ酸合成経路の約120遺伝子に関してDNAマイクロアレイを作製した。次いで、野生株を用い、酢酸代謝のトランスクリプトーム解析を行なった。酢酸を単一炭素源とした場合、生育に必要なアミノ酸、核酸などを合成するために糖新生が促進されているはずである。TCA回路から糖新生に向かうルートとして、オキサロ酢酸からホスホエノールピルビン酸に向かうルートで働くpckの転写レベルが酢酸培養で10倍以上に上昇しており、このルートが糖新生で機能することが示唆された。C.glutamicumに2つ存在するグリセルアルデヒド-3-リン酸デヒドロゲナーゼ遺伝子のうち、酢酸培養時にgapAは0.4倍に下がっているのに対し、gapBは4倍に上昇していた。2つのgapの発現が逆方向に制御されていることがわかり、解糖と糖新生の新たな制御ステップの存在が示唆された。

 第3章では、変異育種された従来型リジン生産菌B-6株のトランスクリプトーム解析を行なった。ノーザン解析により、L-リジン合成の鍵酵素アスパルトキナーゼをコードするlysCの転写レベルが、B-6株では野生株として比較して数倍に上昇していることを見出した。これは従来知られていない知見である。さらにトランスクリプトーム解析の結果、B-6株ではlysCのみならず、アミノ酸生合成遺伝子が全般的に発現上昇していることを見出した。

 第4章では、トランスクリプトーム解析の結果をもとに、リジン生産のための有効変異の探索を行なった。アミノ酸生合成系の全般的な発現上昇は、大腸菌で知られる(p)ppGppを介した緊縮応答を想像させる結果である。そこで、B-6株のアミノ酸合成系遺伝子に変異が入り、あるアミノ酸の飢餓状態になることで緊縮応答株の制御が誘起されている可能性を考えた。B-6株はL-ロイシンの部分要求性を示すことからL-ロイシン合成経路上の変異を探索したところ、イソプロピルリンゴ酸デヒドラターゼ大サブユニットをコードするleuCの変異、G456DがL-ロイシン部分要求性に関わっていることを見出した。

 5Lジャー培養でこのleuC変異の導入効果を検証したところ、L-リジン力価は約14%向上した。トランスクリプトーム解析の結果、leuC変異株ではアスパルトキナーゼ遺伝子lysCを含む、多くのアミノ酸合成系遺伝子の転写レベルが上昇していることが明らかになった。そこでleuC変異によるL-ロイシン制御効果と緊縮応答との関連を調べる目的で(p)ppGppの合成・分解に関わるrel遺伝子の破壊効果を検証した。その結果、rel欠失株でもrel+ベースでの効果と変わらず、leuC変異はL-リジン生産性向上と転写変動をもたらすことが明らかになった。以上、L-リジン生産菌のleuC変異はrel依存の緊縮応答とは異なる、従来知られていない機構でlysCを含むアミノ酸合成系遺伝子の発現上昇を引き起こしていることを明らかにした。

 最後の第5章において全体の総括と今後の展望を記している。

 以上、本論文ではC.glutamicumの代謝酵素群に関するDNAマイクロアレイを開発し、これまでフィードバック阻害の解除が重要だとされてきたC.glutamicumのリジン発酵において、転写レベルの制御の重要性を示した。さらに本菌のアミノ酸発酵にグローバルな制御が関与することを示し、これがrel遺伝子に依存しないことを示唆したことは、当該分野の新知見として学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学術論文としての価値あるものと認めた。

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