学位論文要旨



No 216759
著者(漢字) 越水,正典
著者(英字)
著者(カナ) コシミズ,マサノリ
標題(和) 発光測定によるイオン飛跡近傍における非平衡状態のダイナミクスの解析
標題(洋)
報告番号 216759
報告番号 乙16759
学位授与日 2007.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16759号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 関村,直人
 東京大学 助教授 工藤,久明
 大阪大学 教授 谷村,克己
 東北大学 教授 浅井,圭介
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 固体中に入射したイオンの飛跡近傍において、局所的に高密度励起状態が誘起されることは既に知られている。イオンビームは、この特性を利用し、様々な材料の物性改質に利用されてきており、より高度な利用のために、高密度励起状態における物性改質過程についての基礎的研究も、盛んに行われている。しかし、これまでの研究は、物性改質の度合いと、イオンビームや試料の様々なパラメータとの相関を明らかにしたに留まり、高密度励起領域における電子・格子のダイナミクスを定量的に明らかにした研究はほとんどない。

 本研究では、発光測定により、電子や格子のダイナミクスそのものを明らかにすることを試みた。本論文では、特に、励起状態の空間的挙動と励起キャリアと格子との相互作用に焦点を当て、様々な現象を観測するために適切だと思われる試料を準備し、実験を行った。本研究により、イオンと物質との相互作用における基礎過程の解明が飛躍的に進むことが期待される。

2.半導体中でのイオン飛跡近傍における高密度励起状態および励起キャリア拡散過程の解析

 イオン照射下の半導体において観測される高密度励起効果を解析することにより、高密度励起下におけるキャリア拡散過程を定量的に論じる。また、実験により得られた拡散距離と、フォノンとの相互作用断面積を計算することによって得られた拡散距離との比較を行う。

 GaAsを試料とした時間積分スペクトルは、東京大学大学院工学系研究科原子力専攻の重照射研究設備にて測定を行った。測定装置にはOMAを用い、波長分解能は0.1 nm程度であった。また、CdSを対象とした時間分解スペクトルは、理化学研究所の重イオンリニアックにて測定を行った。測定系を図1に示す。Fast secondary electron detector (FASD)を用いて単一イオンが試料に入射した信号を得、試料から放出される単一光子の信号との時間差を測定し、各波長における発光強度の減衰曲線を測定する。様々な波長において減衰曲線を測定することにより、時間分解発光スペクトルを得る。この測定系の時間分解能は80 ps程度であった。

 まず、励起キャリアの拡散過程を理論的に解析した。初めに、TRIMコードを用いて、イオンの単位飛跡長さ当たりに付与されるエネルギーの大きさ(LET)を求めた。次に、イオンによって励起されたキャリアの平均エネルギーを考慮し、W値(電子-正孔対を一つ生成するのに消費されるエネルギー)を求め、単位飛跡当たりに生成される電子-正孔対の数を求めた。

 次に、励起後の時間の関数として、キャリアの平均エネルギーと密度を求めた。励起キャリアのエネルギー分布がボルツマン分布であると仮定し、キャリアの平均エネルギーを計算した結果、励起後1-2 ps後には格子温度付近まで熱化することが分かった。また、拡散係数は、Einsteinの関係式や、移動度とフォノン散乱頻度との関係を用いることによって求めた。キャリア密度は、キャリアが、半径が拡散距離に等しい円筒中に一様に分布しているとして求めた。計算されたキャリア密度は、電子-正孔プラズマを形成する閾値となるモット密度を大幅に上回っているため、各イオンの飛跡近傍において、輻射再結合時には、電子-正孔プラズマが形成されると期待される。

 図2に、1.0 MeV H照射下、20 KにおけるGaAsの発光スペクトルを示す。自由励起子や浅い束縛準位によると思われる1.515 eVのピークに加え、1.497 eVと1.460 eVに発光ピークが観測された。1.497 eVのピークは、上に示す拡散過程の解析結果より、またピーク位置より、電子-正孔プラズマの自発放出によるものであると考えられる。この実験で得られたピーク形状は、単一の密度、温度を用いた理論式では表されなかった。これは、輻射再結合時においても、拡散によるキャリア密度の減少が無視できないためであると考えられる。還元バンドギャップがキャリア密度の減少関数であることを考慮すると、ピークの高エネルギー側をキャリア密度が小さい場合の形状で、低エネルギー側を密度が大きい場合の形状で表されると考えられる。この解析法により求められたキャリア密度は、拡散過程の計算結果と非常によく一致した。

 CdSについても、時間分解スペクトルについて、同様の解析を行った。励起後0-1.2 psにおけるCdSの発光スペクトルを図3に示す。理論式を用いたフィッティングの結果、得られたキャリア密度は、拡散過程の解析結果とよく一致した。

3.低次元量子閉じ込め構造を利用したイオン飛跡近傍における局所温度の測定

 有機無機ペロブスカイト型化合物は、有機部をバリア層、無機部を井戸層とする多重量子井戸構造を持ち、その中の励起子は、300meVという大きな束縛エネルギーを持ち、その輻射緩和が非常に高速であることが知られている。本研究では、イオン飛跡近傍における過渡局所高温状態を捉えるため、イオン照射によって飛跡近傍に生成する励起子自身をプローブとして用いた。

 試料はSi基板上に当該化合物のスピンコート膜であり、その厚さは100 nm程度であった。ここでは、有機層を形成するアミンの炭素数が3および4の化合物を用いた。それぞれの試料について、以下ではC3およびC4と略記する。

 図4に、室温における光励起および1.0 MeV H照射下におけるC3の発光スペクトルを示す。光励起の場合と比較し、イオン励起の場合では、励起子発光帯の低エネルギー側に、非常に長い裾が観測された。この裾を定量的に解析し、局所温度を得るために、Urbach則を用いた。異なるLETのイオンに対して局所温度を求めた結果を図5に示す。C3を試料とした場合には、観測された局所温度は、励起密度の増加関数となっている。しかし、2.0 MeV Hの場合と1.0 MeV Hの場合に比べ、2.0 MeV Heの場合には、LETの増加に対する局所温度の増加が鈍くなっている。さらに、C4を試料とした場合には、C3の場合と非常に対照的に、LETを変化させても観測される局所温度の値は変化しなかった。

 上記のような、局所温度とLETとの関係については、局所的な融解が起きていることを仮定することにより、説明することが可能である。即ち、局所温度が、局所的な相転移温度に達すると、それ以上に与えられたエネルギーは融解の潜熱として消費されるため、LETが増加した場合においても一定の局所温度が保たれる。つまり、図5より、C3およびC4の局所的な相転移温度はそれぞれ、1500 Kおよび970 Kとなる。C3とC4の差は、その有機部のみにあり、有機部の構造相転移温度はアミンの長さによって異なることが知られており、この仮説が支持される。

4.重イオン励起時間分解発光スペクトルの測定による絶縁体の高密度励起効果の研究

 絶縁体であるMgOとアルミナについて、真空紫外領域での時間分解発光スペクトルを測定した。図6に、6 KにおけるMgOの時間分解発光スペクトルを示す。2.0 MeV/n Nイオンの場合には162 nmに自由励起子発光が見られるが、励起密度の増大とともに強度が減少し、Xe照射の場合には全く見られなくなっている。この自由励起子発光の消光は、高密度プラズマ中における静電遮蔽によって説明することが可能である。一方、180nmの発光帯については、その寿命が短いことや、発光強度の励起密度依存性を考慮すると、非常に高密度な電子-正孔プラズマに類似した状態からの発光であると考えられる。また、この発光帯のストークスシフトについては、励起キャリア間相互作用のみでは説明できないほどの大きさであり、何らかの格子緩和を伴っていると考えられる。

 また、3.3Kにおいて2.0 MeV/nのXeによって照射されたアルミナの時間分解発光スペクトルを図7に示す。170nm付近に高速な発光帯が出現した。この発光帯の減衰曲線は2成分で構成されており、100ピコ秒程度の高速成分と、1ナノ秒以上の低速成分とに分けられた。この高速成分は、より励起密度の低い場合には観測されなかった。また、発光帯強度が励起密度に対して線形以上の増加速度を示したため、この高速発光成分についても、電子-正孔プラズマに類似した高密度励起状態からの発光であり、何らかの格子緩和を伴っていると考えられる。

5.結言と今後の課題

 第2章では、半導体中でのイオン飛跡近傍における高密度励起状態を考慮する上で、hot carrierの拡散が非常に重要な過程であることが明らかとなった。また、その挙動は、フォノン散乱頻度を考慮することにより、定量的に解析可能であることも示された。また、第3章では、熱スパイクモデルのカギを握る、局所高温状態および局所相転移現象を、初めて実験により観測することに成功した。また、第4章では、半導体の場合とは対照的に、絶縁体であるMgOやアルミナにおいて、電子-正孔プラズマに類似した高密度励起状態からの高速発光帯が観測された。また、そのストークスシフトから、この励起状態が格子緩和を伴うことが示された。

 以上の研究成果は、イオン飛跡近傍における電子-格子ダイナミクスを解明する上において、非常に重要な位置を占める知見である。とりわけ、絶縁体と半導体における発光挙動の大きな違いは、自己束縛の有無を対象としたSumiダイヤグラムに沿った形での照射効果の解明が有効であるとの示唆を与える。

図1 時間分解発光スペクトル測定系

図2 1.0 MeV H 照射下、20 K におけるGaAs の発光スペクトル

図3 CdS のイオン誘起発光スペクトル

図4 光励起およびイオン照射下でのC3の発光スペクトル

図5 LETと局所温度およびフォノン占有数変化

図6 6Kにおける時間分解発光スペクトル

図7 3.3 Kにおける2.0MeV.n Xe照射下におけるアルミナの時間分解発光スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

 固体中に入射したイオンの飛跡近傍において、局所的に高密度励起状態が誘起されることは既に知られている。イオンビームは、この特性を利用し、様々な材料の物性改質に利用されてきており、より高度な利用のために、高密度励起状態における物性改質過程についての基礎的研究も、盛んに行われている。しかし、これまでの研究は、物性改質の度合いと、イオンビームや試料の様々なパラメータとの相関を明らかにしたに留まり、高密度励起領域における電子・格子のダイナミクスを定量的に明らかにした研究はほとんどない。第一章では、本論文で取り扱う対象として、電子や格子のダイナミクスそのものを明らかにすることを試みた、と述べている。特に、励起状態の空間的挙動と励起キャリアと格子との相互作用に焦点を当て、発光測定によって、電子や格子ダイナミクスそのものを明らかにすることが本研究の目的であることを述べている。

 第二章では、GaAsおよびCdS中の、イオン飛跡近傍における高密度励起効果の解析結果が述べられている。両者とも、EHPによる発光帯が観測された。スペクトル形状の解析により、輻射再結合時のキャリアが求められた。得られたキャリア密度は、キャリア拡散過程の解析結果とよく一致し、イオン飛跡近傍における励起キャリアの空間挙動が、hotなキャリアと光学フォノンとの散乱を考慮することによって、定量的に解析可能であることが明らかとなったと述べられている。

 第三章では、層状ペロブスカイト型化合物である (C3H7NH3)2PbBr4と(C4H9NH3)2PbBr4を用いた、イオン飛跡近傍における局所高温状態の測定結果を述べた。(C3H7NH3)2PbBr4においては、測定された局所温度はLETの増加関数であったが、一方、(C4H9NH3)2PbBr4では、大幅に異なるLETに対して同じ局所温度の値が得られた。観測された局所温度のLETに対する依存性は、イオン飛跡近傍における局所的な相転移によって説明された。この相転移温度は、有機層を構成するアルキルアミンや、無機層の類似物質であるPbBr2の融点よりもはるかに高かったにも関わらず、励起子発光ピークが確認されたことより、2次元構造が保たれていることが分かった。これは、フォノンの非平衡な分布により、説明可能である。即ち、観測された温度が、あくまでも有効温度であるということになる、と述べられている。

 第四章では、MgOおよびAl2O3について、その高密度励起状態での時間分解発光スペクトルの解析結果を述べた。両者に共通するのは、電子や正孔単独での自己束縛が起きない一方、励起子や電子-正孔対の自己束縛によって、STEやSSEが生成するとされる点である。これらの特徴は、イオン照射下における時間分解発光スペクトルにも現れ、高密度な電子-正孔対に特有の発光帯が、STEやSSEと同様の格子緩和を伴うことが示された。これは、トラック内における格子緩和の様相が、STEやSSEに類似していることを示しており、照射効果探究における大きな手がかりとなるとされている。

 第五章では、得られた結果をもとに、本研究の更なる発展の指針として、電子および正孔と格子との相互作用を示す相図であるSumiダイヤグラムを用いることの有用性を論じている。

 以上要すれば、イオン飛跡近傍における電子励起状態と格子のダイナミクスを、発光測定という手段によって解析し、照射効果に関わる現象を発見し、定量的な解析がなされた。これは、放射線照射効果研究における新た展開を開拓するものであり、システム量子工学の発展に大きく寄与すると判断した。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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