学位論文要旨



No 216769
著者(漢字) 井上,和人
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,カズト
標題(和) 古代都城制条里制の実証的研究
標題(洋)
報告番号 216769
報告番号 乙16769
学位授与日 2007.04.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16769号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 准教授 早乙女,雅博
 工学系研究科 准教授 藤井,恵介
 史料編纂所 教授 山口,英男
内容要旨 要旨を表示する

日本列島において、方格の都市計画をともなう都城は藤原京を嚆矢とする。持統天皇の694年に、それまで宮室の所在した飛鳥浄御原宮から藤原京への遷都が挙行され、710年までの16年間、首都として機能する。『日本書紀』天武12年12月17日条に、「およそ都城宮室は一処にあらず…」とあるように、天皇の居所である内裏を中心として、国家的儀礼の場である朝堂院、国家レベルの官庁群の所在する藤原宮、平城宮などを「宮室」と称し、その宮域を取り巻く規格的な条坊街区と条坊道路網で構成される京域を「都城」と呼んでいたことが知られる。

都城以前 藤原京以前の中央政治組織の遺跡・遺構としての存在形態については、まだ不分明な点が少なくない。7世紀代の宮室の所在位置や平面構造に関しては、(前期)難波宮や飛鳥浄御原宮の遺跡研究を通じて宮殿や儀礼空間の解明が進んでいるものの、後の都城遺跡で確認されているような官衙などの付帯施設群については、それが宮殿域に直接する地域に集中して配置されていたのか、分散していたのか、あるいは政権を構成する中央氏族の居宅の所在地や分布状況がどうであったかということも十分解明されてはいない。

遷都の世紀 6世紀の終わりに大和飛鳥の西北にあたる場所に推古天皇の豊浦宮が営まれて以後、宮室は飛鳥の狭小な盆地地形の中での造営が繰り返される。そして672年の壬申の乱に勝利を得て即位した天武天皇とその政権により、飛鳥の西北方に展開する広闊な平野域に藤原京の建設が遂行されたのである。

藤原京造営の歴史的動因に関しては後述するが、694年に首都として成立した藤原京も、わずか16年で新都平城京に遷都するに及び、廃絶される。最近の発掘調査の成果は、藤原京が、従前の理解とは逆に、後の平城京よりも大規模であったことを明らかにしているが、それだけに、平城京遷都の歴史上の意味づけの再考が迫られているのである。710年から74年間続いた奈良時代の間、740年代に平城京は一旦放棄され、恭仁京、紫香楽宮、難波京と遷都が繰り返される。平城京に還都して30年足らずで、新たに長岡京が建設され、さらに10年後の794年には平安京に遷都されることになった。このように、694年からちょうど100年の間に、本格的な都城で数えると、藤原京、平城京、難波京(8世紀前半に副都として造営)、恭仁京、長岡京、平安京と、六つの大規模な人工都市の建設と遷都が繰り返されたことになる。

本研究の主旨 古代日本における遷都の理由を、個別の歴史的要因を超えて通底する論理として追究すべきとする研究動向がある。例えば、8世紀以降のわが国の都城の遷都は、天皇を唯一の首長とする国家という幻想の共同体を再構築することで、新王朝が自らの王権としての自己表現をしたのだという。興味深い評言ではあるが、しかし、このようなあまりに端的な論理化は、往々にして個別の歴史要因の理解を妨げかねない。あるいは6世紀末から宮室は大和飛鳥の地に継起的に営まれるようになるが、王権をより荘厳するという意味で、次第に大規模化し、条坊街区を備えた藤原京は、荘厳化の完成形である平城京に至る過渡的な歴史存在であるなどとする説明が行われ、さらには、官人層を集住させることが都城造営の第一義的な目的であったとする見方や、平城京については、国家統一が成就し国家財政力が充実したことを寿ぐべき、皇権隆盛の未曾有のシンボルであるとする評価もあるが、いずれも各都城の形制についての十分な事実理解に基づいたものではなく、当を得た見解とは言い難い。

日本における初期都城として位置付けられる藤原京、平城京は、当時の熾烈な国際的政治情勢に促されて造営されたものであった。国家の存立と維持を図るべく、中央集権支配体制を象徴する、そして皇権を確立する舞台装置としての都城を必要とせざるをえなかった時代の潮流の産物と理解すべきであると考える。本研究ではこうした古代都城の造営の歴史的な意味を、形制分析の側面から実証的に追究し、明らかにした。

分析研究の対象としたのは日本にあっては藤原京、平城京であり、また同時代に東アジア世界を構成していた渤海の都城である上京龍泉府や統一新羅の都城、慶州王京についても言及した。いうまでもなく、7、8世紀代の東アジア世界の歴史は中国大陸に成立した隋唐帝国の動向に常に大きな影響を受けながら推移した。周辺の各国における都城の建設もそうした国際関係上の政治情勢と決して無縁ではなく、むしろ極めて鋭敏に反映しているとみられるのである。

なお、従来、日本における古代都城を論じる際に、「条坊制」という用語を使用するのが常であった。しかし、中国大陸や朝鮮半島などの同時代の都城との比較検討を行おうとする時、「条」という呼称のない長安城や、呼称の実態の不分明な、たとえば渤海の諸都城などに「条坊制」という用語を使うことは適当ではない。そこで、都城の都市域や宮殿域それに道路や街区のありようを、さらにその背後にある制度なども含めた考え方として、「形制」という用語を使用することを提唱している。

研究の方法 平城京や飛鳥、藤原京の発掘調査を主軸とする調査研究が継続されてほぼ半世紀を閲しようとしている。この間の研究の蓄積には膨大なものがあるが、少なくとも形制の側面にあっては、確かな分析手法を欠いていたことから、正当な歴史理解に至ることに必ずしも成功していない。本研究では、都城遺跡に関する発掘調査の成果と遺存地割の解析を主軸として、従来誤って援用されていた古代度制についての正当な理解に基いた精緻かつ徹底的な分析を通じて、都城の形制の実態を明晰にし、古代都城造営の歴史的意義を鮮明にした。

研究の成果 7世紀代に天皇政権の宮室が継続的に営まれた大和飛鳥の地に、都城の条坊制の前提となる方格地割が存在するとするいくつかの学説が喧伝されて久しい。しかし、狭小な飛鳥盆地には、いかなる方格地割も実在しないことは、すでに実証的に明らかにしたところである。従って、飛鳥から藤原京へという都城の段階的な発展観は成立しえない。

670年代に天武政権により企図された新城、藤原京(新益京)は、周礼の考工記に基づいて設計された、正方形の都城域をもつ未曾有の大規模な人工都市であった。形制の分析を通じて、後続する平城京以降の諸都城よりも大規模であることもほぼ確定した。飛鳥の宮室域から藤原京への推移は、試行的な前段階を基礎にして、より高次の段階に至ったというべきものではなく、都城という全く新たな事象の突発的な出現と評価しなければならない。それまでのわが国の歴史にはなかった都城の建設は、6世紀末に始まり、7世紀半ば前後から逼迫化する、隋唐帝国の東方への軍事的脅威に対応を迫られたわが国の政権が講じた諸施策の帰結点ともいうべき歴史事象であった。この隋唐の推進した膨張策は華夷思想に基づく中華体制の充実を追求してのものであったことは言うまでもない。

藤原京の建設は、分裂状態にあった朝鮮半島諸国が唐の勢力下に置かれ、日本列島が危機的状況に直面する中で、性急に推進された、さまざまな中央集権国家構築政策の中心的事業として位置付けられる。すなわち、当時の東アジア世界にあっては、国家とは華夷思想に基づく国家体制に存立し、維持されるべきものとの国家統治観が支配的であった。その唯一のモデルである大陸国家のありようを導入して国家体制構築を実現することによってのみ、国家の存続を図らざるをえなかったことの最も象徴的な歴史事象が藤原京建設であったのである。

天皇政権の支配下にあった日本列島各域の平野部に条里制が施行されたのも、おそらく藤原京の建設事業が進められた7世紀末葉のことであった。農業生産の基盤である水田の管理、支配を確実にし、また農地の方格地割施工という大規模な造成事業を、列島の広範囲に及ぶ官道の整備と連動させることにより、中央政権の権力を誇示する役割も期待されたと判断している。

710年に遷都される平城京は、少なくとも京域南面の全域には、高さの点で唐長安城の外城壁に匹敵する羅城が設けられており、平城京の南面正門である羅城門も唐長安城の外城正門の明徳門とさまざまな面で共通する様相を示している。また平城京の朱雀大路は幅員210大尺(約75m)と、際だって大規模であり、長安城の中央南北道路である朱雀街のちょうど2分の1の幅に設定されている。また平城京は、東西にやや長い長方形をした長安城の正確に4分の1の矩形を90度回転させた南北に長い京域形態をとっている。限られた条件の中で、朱雀大路を、より長大に設定しようとしてのことと推測される。平城京と唐長安城に関するこれらの事実関係は本研究において新たに明らかにしたものであるが、いずれも、平城京の建設計画の背後に唐との国家間の情報の伝授が介在していることを明示していると同時に、唐帝国に対する天皇政権の示した恭順の姿勢が如実に表現されている。長安城の形制において強調されている明徳門や朱雀街などの巨大性は、皇帝権力を顕示するための舞台装置に他ならなかった。国家としての存立を確実なものにするために、藤原京には欠落していた羅城、羅城門、大規模な朱雀大路など、華夷思想を表徴する都城形制の重要な要素を具現するべく、新たに建設されなければならなかったのが平城京であった。藤原京の廃替と新都の建設を決断する契機となったのは、702年に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使の見識によるものであるとみている。

なお、本研究で採用した分析手法は、日本古代の都城だけでなく、例えば三重県斎宮遺跡で確認されつつある8、9世紀代の方格道路遺構や都市構造の解明にも有効に機能し、また平城京とほぼ同時代に中国東北地域を中心にして勃興した渤海王国の首都、上京龍泉府の形制に関する新たな理解を導出した。そこでは8世紀代に、それぞれが華夷思想のもとで国家の建設と維持を図っていた渤海と新羅、唐、日本との複雑で苛烈な国際関係が都城形制の中に表現されている状況を明確にした。また時代はやや下るが、東南アジア文化圏でのクメール王朝の都城遺跡として重要なアンコール遺跡群の分析にも極めて興味深い研究成果をもたらし、都市、都城遺跡の分析研究に普遍的な意義をもつものであることを実証している。

審査要旨 要旨を表示する

井上和人氏の論文『古代都城制条里制の実証的研究』は、平城京や大和の条里制などを中心とする日本古代の都城制・条里制の形制過程とその実像について、これまでの発掘調査成果をふまえ、新説を展開した研究成果である。研究の特徴は、長年発掘調査に従事してきた経験を活かし、発掘調査成果の再吟味と国土座標にもとづく遺跡実測データの精密な分析によって、諸通説を批判しつつ遺跡の解釈に新説を提示したところにある。

都城制をめぐっては、まず、これまで諸説がとなえてきた飛鳥地方における七世紀代の方格地割りを発掘調査成果の再検討により否定するとともに、大宝令に定められた度地尺としての「大尺」(高麗尺)が、和銅六年(七一三)に「小尺」(唐尺)に統一されるまでの七世紀後期から八世紀初頭にかけて実用されたことを、藤原京(六九四~七一○)・平城京(七一○~七八四)の条坊遺構などの実測分析から明らかにした。平城京については、平城京が藤原京とは異なり唐の長安城を忠実に模倣するプランをもつことを指摘し、羅城門が朱雀門より大規模であったこと、存在しないとされてきた羅城が平城京南辺には全面存在したこと、さらに諸説に分かれる平城京北辺坊の施工時期を奈良時代後期の西大寺造営にともなうとすることなど、多くの新説を提示している。

条里制については、奈良盆地にみられる大和統一条里の施工時期を、多くの発掘調査事例の詳細な分析から七世紀後半に行なわれたとし、平安時代後期施行説に反論する。

本論文では、日本古代の都城制や条里制の形制時期とその具体的な在り方について、実測データの厳密な検討の上に、一貫した見通しを展開することに成功しているといえよう。高麗尺や平城京羅城の存在、平城京北辺坊・条里制の施工時期などについてはなお有力な異説もあり、今後も議論が必要であろうが、個々の論点を越えて、本論文によって有力な一説が示されたことは間違いない。さらに詳論と説得力強化が望まれる点もあるものの、発掘調査成果にもとづき古代の都城制・条里制に意欲的な展望を示したところは、今後の研究に有益な基礎をもたらしたことは評価できる。

したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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