学位論文要旨



No 216770
著者(漢字) 豊川,斎赫
著者(英字)
著者(カナ) トヨカワ,サイカク
標題(和) 丹下健三研究室の理論と実践に関する建築学的研究
標題(洋)
報告番号 216770
報告番号 乙16770
学位授与日 2007.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16770号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 内藤,廣
 東京大学 教授 西村,幸夫
内容要旨 要旨を表示する

本研究は1950年代から世界的な建築家として活躍し、同時に東大建築学科、および都市工学科で教鞭を取った丹下健三の研究室に関する研究である。これまで丹下個人に関する批評、評伝が数多く書かれ、丹下は一個人の建築家として毀誉褒貶にさらされてきた。しかし丹下本人が「建築設計は、もっとも古くからあるシンクタンク」と評すと通り、実際に諸作品の設計を担当して理論展開したのは丹下研究室のスタッフたちであり、研究室内部での理論研究と実際のデザインプロセスの関係、各スタッフの果たした役割、丹下による各スタッフの束ね方こそが諸作品を評価する際に重要な意味を持つ。本研究は丹下研とURTECの所産を「複数人からなる設計行為の結晶」として捉え、それらの中から国土・都市・住宅・レクリエーション・技術・伝統・哲学・象徴・情報といった「9つのキーワード」を取り出し、多角的な視座からの分析を目指した。

本研究は戦後建築史・戦後都市史の範疇に入るが、丹下が1938年に東大建築学科を卒業して1974年の東大教授退官までを研究対象とした。また使用する資料について既往研究で用いられてきたものの他に、約四半世紀にわたる丹下研究室の卒論・修論、丹下研OBへのインタビュー、丹下健三「都市計画」講義ノート、未発表プロジェクト図面などを積極的に活用した。

ここで章立ての構成に触れると、前半の四章では丹下研の卒論・修論から四点のキーワード(国土計画・住宅政策・都市のコアと建築のコア・レクリエーション)を切り出し、その論理展開と実践結果を明らかにしたが、その際の丹下研を「成長を設計する」半官半民のシンクタンクとして位置づけ、多様な建築デザインの展開過程を追った(第1篇アジアに於けるアテネ憲章の実践)。

第一章「国土計画」について、1940年代の丹下研の活動が全総計画の黎明期に及ぼしたインパクトを経済安定本部内部資料から読み起こし、企画院・経済安定本部とも内務省・建設省とも距離を置いた頭脳集団としての国土計画的視野の醸成を整理した。特に丹下研によるダグラス函数を駆使した都道府県別の生産力分析は地域的な拡がりと計量経済を結びっける稀有な視点であったが、km2単位の工業立地分析を行なった下河辺淳(1948年卒)ほどの精度を持つことが出来ず、東京計画1960の立脚点の曖昧さを指摘した。

第二章「住宅政策」について、戦前の住宅営団は最低賃金に呼応した最小限住宅の供給を目指したが、丹下研では富裕層に相応しい住宅規模の算出と物価変動に呼応した住宅費の適正値を編み出そうとした。それと同時に、丹下は土地の私有制と再開発の矛盾に頭を痛めたが、自ら地主兼施主として地面を解放した自邸の設計経緯を追った。

第三章「都市のコアと建築のコア」について、丹下はラベンシュタインや企画院の人口動態分析に強い関心を示し、戦後間もない頃から都市への人口流入を経済発展の必然と見做した。この結果、水平的な人口移動を建築のコアによって垂直変換しつつ、ピロティを駆使して都市のコアを形成するに至った。こうした成果の下敷きになったのが卒論生たちのレポートであり、超高層の規模に応じた公開空地、駐車場の算定モデルが開発され、今日の都市景観に絶大な影響を及ぼしている。

第四章「レクリエーション」について、昭和初期には貧民の福祉的側面の強かった厚生事業は総力戦下において健全な肉体と精神を持つ「国民」の確保に変容し、更に高度経済成長下においては余暇時間の消費を可能な限り内需拡大に繋げることが至上命題となった。こうした中で、丹下研内部で検討された観光=厚生論と実践を整理し、インテリア・デザイナー剣持勇との協働作業から近代建築と芸術が接合される際の問題点を探った。

次いで、中盤の三章では戦前から50年代にかけての丹下の西洋哲学や伝統の理解に対して、丹下研究室内部で展開された創作方法論や技術の応用といった実践を対置させた(第II篇「衛生陶器」を乗り越える冒険性の諸相)。

第五章「哲学論」について、丹下の西洋哲学理解の端緒を「ミケランジェロ頒」に求め、ヴァレリー、シェリング、ベッカー、三木清といった切り口から立原道造や浅田孝による建築芸術論と比較検討し、丹下の造型に対する思想の特殊性を整理した。また既往研究において丹下は言説と造型の原理が弁証法において一致すると指摘されてきたが、本論は丹下によるシェリング自由論の読解がその根底をなすと捉え、弁証法と自由の先にある「空間」の位相について考察した。

第六章「伝統論」について、丹下が展開した唯物論と伝統論の理解を整理し、それとは無関係に展開された研究室内部におけるモデュロールとモデュールの相克に焦点を当てた。次いで大東亜コンペ、広島、沖縄を通じて、死んだ民衆に対する丹下研による慰霊空間の創出過程を読み解いた。この結果、建築に於ける「上部/下部/外部」(建築家/職人/民衆)という使い古された月並みな構図を「丹下/丹下研/死んだ民衆」として換骨奪胎し・改めて建築と社会の接点を捉え返すことを目的に据えた。

第七章「技術論」について、丹下研とエンジニア(坪井善勝研究室や川合健二、柳町政之助)との協働作業の実態を追った。特に大規模シェルとPCa、空調と外装、スチールからアルミへの展開といった具体的な技術への挑戦の他に、丹下研における仕様書、ディテール集、コスト管理といった技術の組織立てに対する考え方を追った。他の設計事務所に比して丹下研の技術的実銭は冒険的な試みが顕著だが、これは丹下のみならず浅田の能力に負うところが大きく、浅田と川合による南極昭和基地の設計過程も合わせて検討した。

終盤の二章では60年代以降の活動を対象とし、丹下研とURTECが象徴と情報化という問題に対して如何にアプローチしたかを検討する(第III篇 諸技術・諸情報の統合術)。

第八章「象徴論」について、藤森照信は丹下本人との共著『丹下健三』(新建築社2002)の中で丹下研と坪井研のチーフ(神谷、川口)へのヒヤリングをもとに国立屋内総合競技場の設計過程を整理し、コルビュジェ設計のソビエト・パレスにおけるアーチがサーリネン設計のメモリアル・アーチに引き継がれ、丹下研の設計による広島コンペ案に持ち込まれ、国立屋内総合競技場で開花した、という見立てを行う。これに対して本論は実務スタッフへの可能な限りのヒヤリングを通じて両物件の全体構想、ディテールに迫り、それらが遠く海を隔てたソヴィエト・パレスではなく、国立屋内総合競技場の直前まで取り組んでいた戸塚カントリークラブや東京キャセドラルといった多くの中小物件にこそ解かれるべきヒントが隠されており、国立屋内総合競技場の設計チームが解散した後に各スタッフが取り組んだ小さな作業に様々なアイデアが散種=散布された、と考える。言い換えれば、藤森の如く20世紀モダニズム全体を見渡す壮大なディテール論に代わって、本論は60年代のURTECの設計の中に丹下と設計スタッフたちの息遣いを追う狭小なディテール論を目指した。これによりマスターピースは丹下という大建築家の無意識(コルビュジェへの想い)を具現化したものではなく、各スタッフの継続的な経験の蓄積と理論の更新という両輪によって駆動された複合的な産物であり、一方で丹下のハンドル捌きによって一貫性が与えられ、大きく結晶化できた点に丹下の目指した建築設計の「サイエンス・アプローチ」の真骨頂が見出せる、と考える。

第九章「情報化社会論」について、丹下研では国土開発にかかわる諸専門家の素早い共通理解を得るために視覚言語の開発に乗り出し、ノイラートのアイソタイプを叩き台とした国土計画地図を作成している。丹下に関する既往研究の中ではこの問題は全く触れられてこなかったが、丹下研や日本地域開発センターによる情報化社会モデルの試みが国民国家モデルを相対化しえたのか、むしろそれを強化するための道具となって単一民族神話の弊害を助長しているのか、重要な問題が含まれている。これと同時にURTECでは情報理論の建築への応用が盛んに行なわれ、コミュニケーション・コア、ジョイント・コア、道の空間といった切り口が設定されたが、本論はその経緯を整理した。

丹下研と戦前め近代建築に比較すると、第一に分離派はアカデミズムと決別したが、丹下研は都市と建築の問題を真正面から受け止めたアカデミックなシンクタンクであった。

第二に目本の近代建築が下部構造を無視したのに対して、丹下研は国土から住宅までを総力戦の主要な構成要因と見做し、情報化社会に相応しいコミュニケーションツールの創出に取り組んだ。更に卓抜なシンボル配置と造型デザインによって上部・下部の外側に存在する彼岸を大衆に意識させ、戦後社会の統合・持続に貢献した。

第三に日本の近代建築はartとtechneの乖離が指摘されるが、丹下研は両者を巧みに結合して・国立屋内総合競技場を完成に導いた。しかし建築に於けるtechneとは構造学だけが占めるものではなく、空調や電気といった複数の分野を包摂するものであり、ジオメトリーを駆使した意匠・構造・設備の更なる統合の模索こそが建築の自律性(大文字の建築〉を確保する鍵となる。

丹下研は戦前の分離派・社会政策派の対立を自在に乗り越えて現実のデザインとアカデミズムを連関させ、国民国家時代から情報化時代への移行に符合した都市・建築の位相を誰よりも早く切り開き、象徴的建築の創出を通じて日本という共同体を組織し得た稀有な設計集団であった、と結論付けられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論は1950年代から世界的な建築家として活躍し、戦後日本の建築や都市のあり方を一貫してリードしてきた丹下健三が東京大学在職時代に教育・研究活動を行った丹下研究室に関する研究である。従来、丹下そのものに対する研究は一定の蓄積があるが、丹下研究室の歴代構成メンバーを対象とする研究は皆無であり、本研究がその嚆矢となるものである。

本論はこうした丹下を取り巻くさまざまな人々を群像として捉え、そこから浮かび上がる新たな丹下健三像の構築を試みている。具体的には丹下健三に関する著作・論文・インタビュー記事などはもとより、丹下研究室に所属した歴代のメンバーの卒業論文、修士論文、博士論文を基礎的な資料とし、さらに可能なかぎり多くのメンバーに対するインタビューを実施し、その全体像にアプローチしている。

論文は大きく分けてIII篇からなる。第I篇「アジアに於けるアテネ憲章の実践」は4つの章から構成される。すなわち、第一章「丹下研究室における国土計画論:総力戦下の生産力と全国総合開発計画」では丹下研究室OBの下河辺淳、大林順一郎の経済安定本部での展開を丹下研究室での理論形成と関係づけて、全国総合開発計画が丹下研究室における研究活動と密接な関係にあったことを跡づける。

第二章「丹下研究室における住宅経済論:総力戦下の再生産と標準生計費」では、戦後の住宅政策における基礎部分をなす「現実的標準生計費」などの住宅経済論について、丹下研究室が深い関心をよせていた事実を発掘している。

第三章「丹下研究室における「都市のコア」と「建築のコア」:都市と建築の有機的総合」は、丹下の建築論・都市論あるいは実作の中心をなす「コア」について、総力戦下の都市の圏域分析から説き起こし、人口統計学・都市地理学・都市計画の分野を広く渉猟したうえで、丹下の理論が構築されていくプロセスが示されている。

第四章「丹下研究室の観光=厚生論:総力戦から高度経済成長に至るリクリエーションの変遷」は、戦後の不安定な時期からようやく経済的に立ち直った日本の次なる課題として浮上してきたリクリエーション理論について、丹下研究室は早くから独自に着目していたが、一定の限界を露呈していたことを指摘している。

続く第II篇「「衛生陶器」を超える冒険性の諸相」は丹下の創作活動の思想的背景を探るもので、次の3つの章からなる。

第五章「丹下健三の西洋哲学論:「ミケランジェロ頌」から空間論へ」は、戦前の丹下の「ミケランジェロ頌」から戦後の「象徴論」に至る思想形成について、丹下が沈潜していたとみられる美学・哲学の諸思想を洗い直し、とりわけ立原道造らと同様、19世紀ドイツ・ロマン派の芸術論・観念論に深く傾倒していたこと、そしてそれは丹下の代表作である代々木国立屋内総合競技場および東京キャセドラルの空間に投影されている可能性があることを述べている。

第六章「丹下健三の伝統論と丹下研究室の創作方法論:慰霊、庭園、モデュロール」は、戦後の丹下を取り扱っている。丹下は確信的な唯物論者であって、丹下の伝統論は上部構造、下部構造という明快な枠組みによって形成された。本章ではこうした伝統論が慰霊、庭園、モデュロールへと昇華されてゆく過程を追う。とりわけモデュロールは丹下研の共通言語として定着していた事実を発掘している。

第七章「丹下研究室とエンジニアの協働論:50年代の意匠、構造、設備の自立と連関」は、一転して丹下研の技術論と意匠論の関連をみる。丹下は構造や設備の自立性を認めつつも、それらの有機的な連関をつねに頭に描いており、丹下研究室もまた丹下のそうした考えを共有していた。丹下研究室の実質的なマネジメントを行っていた浅田孝の存在がこうした協働に欠かせなかったことが指摘されている。

第III篇「諸技術・諸情報の統合術」は、上記の2篇の考察を前提に具体的な作品がどのようなプロセスで作られたかを明らかにしたものである。

第八章「実務作業から読み解く丹下健三の象徴論:国立屋内総合競技場と東京キャセドラル」は第五章で取り上げた2作品をより具体的な設計プロセス、実務作業を通して分析した章である。50年代の実験的創作を経て、完成度の高いシェル構造の名品が生まれるためには、丹下研で醸成された諸技術の統合があった。

第九章「丹下研究室とURTECの情報化社会論:国土開発地図と建築のアクティビティ」は1970年にURTEC、丹下研によってまとめられた『21世紀の日本』は、丹下研のひとつの総括といってよく、戦後の国土全体の生産力分析と都市のモビリティに着目しつづけたグループの成果と限界が読み取れるという。

以上、本論は従来まったく明らかにされなかった丹下健三を取り巻く一群の専門家集団の多様な実践活動とその理論的背景をあらゆる角度から分析し、その全体像を浮き彫りにした力作である。丹下研究室の諸活動は戦後の日本の重要な部分を規定したわけで、そのような意味で本論は戦後日本建築・都市史のメインストリームを描いた作品ということもできる。

卒業論文、修士論文の精緻な分析や膨大なインタビューにもとづく論の構築には説得力があり、既往の丹下研究および戦後研究を大きく押し広げることに成功したと評価できる。よって、本論は博士(工学)の学位にふさわしい業績として認められる。

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