学位論文要旨



No 216780
著者(漢字) 坂本,幸士
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,タカシ
標題(和) 抗甲状腺剤メチマゾール投与によって誘発されるラット嗅細胞障害の障害機序に関する研究
標題(洋)
報告番号 216780
報告番号 乙16780
学位授与日 2007.04.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16780号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新家,眞
 東京大学 准教授 川原,信隆
 東京大学 講師 石尾,健一郎
 東京大学 講師 門野,岳史
 東京大学 講師 椎名,秀一朗
内容要旨 要旨を表示する

嗅覚をつかさどる嗅上皮は、嗅細胞、支持細胞、基底細胞、Bowman腺などによって構成されている。末梢受容器として働くのは双極性ニューロンである嗅細胞であり、末梢側には鼻腔内に向かって一本の樹状突起を伸ばしており、中枢側には長い軸索をのばし、頭蓋内の嗅球に達している。このように嗅細胞は鼻腔内という外的環境に直接暴露されているため、細菌やウイルスによる炎症、化学物質などの障害を受けやすい状況にある。これに対する適応機序として嗅細胞は、障害の結果として失われた細胞を、基底細胞より分化再生し代償するという特徴的な性質を有している。

嗅覚障害はウイルス感染、慢性炎症、薬剤の副作用などの様々な原因により生じ、治療としては、手術適応例では原疾患の治療を行うのが原則である。手術不適応例や原因不明例では薬物療法が中心となるが、治療抵抗性の症例に遭遇することも多く、嗅細胞障害の機序の解析に基づいた新しい治療薬の開発が望まれる。

実験動物においてこれまでに確立された、嗅細胞障害モデルとしては以下のものがある。I:嗅球切除術、II:軸索切断術、III:鼻腔内細菌感染、IV:鼻毒性を有する薬剤の鼻腔内局所投与、V:鼻毒性を有する薬剤の全身投与

細胞死の様式は、古典的には生理的な死であるアポトーシスと病的な死であるネクローシスに大別されているが、IとIIは外傷性嗅覚障害の状態を反映しており、嗅細胞障害がアポトーシスによることが証明されている。IIIは副鼻腔炎による嗅覚障害の状態を反映しており、これも嗅細胞障害がアポトーシスによることが証明されている。IVとVは薬剤性嗅覚障害の状態を反映しており、IVによる嗅細胞障害はネクローシスによるという説が有力であるが、Vに関しては詳細な検討を行った報告はない。細胞死の様式が、アポトーシスとネクローシスのどちらが優位かを解析することは、細胞死の抑制を試みる場合、阻害点を決定する上で重要である。

本研究では薬剤性嗅覚障害の実験モデルとして、人においても嗅覚障害の報告のある抗甲状腺剤メチマゾールを採用し、ラットに全身投与(腹腔内投与)した。そして、その際の嗅細胞障害の機序を検討した。

まず、予備実験としてメチマゾール投与後の嗅上皮の障害の程度、及び再生による代償を経時的に検討した。体重100 g前後の雄のSprague-Dawleyラットを対象とし、各時点につきコントロール群とメチマゾール 300mg/kg 投与群、それぞれ2匹を用いた(各時点n = 4)。実験群にはPBSに溶解した300 mg/kgのメチマゾール溶液を腹腔内に投与した。コントロ-ルにはPBSのみ投与した。投与12時間後、1日後、3日後、7日後、14日後の鼻腔組織のホルマリン固定・パラフィン包埋冠状断切片を作成した。ヘマトキシリン-エオジン染色による形態学的評価をするとともに、成熟嗅細胞のマーカーであるolfactory marker protein (OMP)に対する抗OMP抗体による免疫染色を行い、OMPの染色性を指標にして障害の程度、再生による代償の程度を検討した。

ヘマトキシリン-エオジン染色では、メチマゾール投与12時間後では、まだ嗅上皮の形態的変化は明らかではなかった。1日後では、多数の剥離細胞を認め、一部の剥離細胞ではアポトーシスの形態学的特徴とされている核の濃縮像と細胞の収縮像を認めた。3日後においても剥離細胞の痕跡が認められ、その部位に核の濃縮像と細胞の収縮像を認めた。7日後では剥離細胞は認められなかったが、嗅上皮の厚さはコントロールと比較して菲薄化していた。14日後でも剥離細胞は認められなかったが、嗅上皮の厚さはコントロールと近いレベルまで回復していた。

抗OMP抗体による免疫染色では、メチマゾール投与12時間後では、まだ嗅上皮の障害は明らかではなかった。1日後では、剥離細胞が顕著となり、剥離細胞の大部分にはOMPの染色性が認められた。3日後においても剥離細胞の痕跡が認められた。7日後になると剥離細胞は目立たなくなるが、OMPの染色性は、コントロールよりも減少していた。14日後ではOMPの染色性は3日後、7日後よりも回復していたが、コントロールよりも減少していた。

これらの結果から、300 mg/kgのメチマゾールの腹腔内投与により24時間後には、嗅細胞に細胞障害が誘発されること、細胞傷害はアポトーシスが関与している可能性が高いこと、再生による代償は14日後の時点では完成されていないことが示された。また、嗅細胞障害の急性期の評価対象として、投与1日後と投与7日後を象徴的な2点として着目しても合理的と考えられた。

次にアポトーシスが優位な場合、嗅球切除術で証明されているのと同様に、メチマゾールの場合もカスパーゼ-9活性化からカスパーゼ-3活性化による経路によりアポトーシスが誘発されているか否かを検討するために本実験を行った。

96匹の体重100g前後の雄のSprague-Dawleyラットを対象とし、ラットは無作為に以下の4群に割当てられた。(各群のn = 24)

グループ1 (vehicle + vehicle)

ラットにvehicleである PBSを腹腔内注射し、30分後に、同様のPBSを2腹腔内注射した。

グループ2 (vehicle + methimazole)

ラットにvehicleである PBSを腹腔内注射し、30分後に、300 mg/kgのメチマゾール・PBS溶液を腹腔内注射した。

グループ3 (caspase-3 inhibitor + methimazole)

ラットに9 mg/kgの細胞透過性カスパーゼ-3阻害剤(Ac-DEVD-CHO)・PBS溶液を腹腔内注射し、30分後に、300 mg/kgのメチマゾール・PBS溶液を腹腔内注射した。

グループ4 (caspase-9 inhibitor + methimazole)

ラットに9.6 mg/kgの細胞透過性カスパーゼ-3阻害剤(Ac-LEHD-CHO)・PBS溶液を腹腔内注射し、30分後に、300 mg/kgのメチマゾール・PBS溶液を腹腔内注射した。

メチマゾール投与1日後と7日後に、各群12匹(各時点のn = 6)のラットから鼻腔組織のホルマリン固定・パラフィン包埋冠状断切片を作成した。また、各群12匹(各時点のn = 6)のラットから未固定のまま、鼻腔組織を採取した。冠状断切片を用いてヘマトキシリン-エオジン染色、抗OMP抗体・抗活性化カスパーゼ-3抗体・抗活性化カスパーゼ-9抗体・抗活性化カスパーゼ-8抗体・抗 cleaved poly (ADP-ribose) polymerase(PARP)抗体による免疫染色、TUNEL染色を行った。特に細胞障害が顕著な群に関しては抗活性化カスパーゼ-3抗体と抗OMP抗体の二重染色を行った。未固定鼻腔組織より細胞質分画の蛋白質を抽出し、各種カスパーゼ活性の測定、ウエスタンブロットによる細胞質分画中のチトクロームcの測定を行った。また、嗅覚の機能的評価として投与1日後から7日後にかけてバニリンを用いた嗅覚行動検査を行った。

ヘマトキシリン-エオジン染色では投与1日後のグループ2で多数の剥離細胞を認め、一部の細胞ではアポトーシスの形態学的特徴とされている核の濃縮像を認めた。その他のグループでは形態的な変化はなかった。投与7日後ではグループ2 では嗅上皮の厚みの減少を認めたが、他のグループでは形態的な変化はなかった。抗OMP抗体による免疫染色ではグループ2で予備実験と同様の染色性を示したが、他のグループ間では染色性に有意差はなかった。抗活性化カスパーゼ-3抗体・抗活性化カスパーゼ-9抗体・抗 cleaved PARP抗体による免疫染色とTUNEL染色では投与1日後のグループ2のみで剥離細胞に一致して染色性の亢進を認めたが、その他のグループ、及び投与7日後の全てのグループ間では染色性に有意差はなかった。抗活性化カスパーゼ-8抗体よる免疫染色では投与1日後と投与7日後の両方で、全てのグループ間で染色性の有意な差認められなかった。抗活性化カスパーゼ-3抗体と抗OMP抗体による二重免疫染色では投与1日後のグループ2でOMP陽性の剥離細胞に一致して、活性化カスパーゼ-3を多数認めた。

カスパーゼ-3とカスパーゼ-9の活性は投与1日後のグループ2で活性の有意な亢進を認めたが、その他のグループ、及び投与7日後の全てのグループ間では活性に有意差はなかった。カスパーゼ-8の活性は、投与1日後と投与7日後の両方で、全てのグループ間で有意な差はなかった。

ウエスタンブロットによる投与1日後の細胞質分画を用いたチトクロームcの半定量ではグループ1 (vehicle + vehicle) と比較してグループ2、グループ3、グループ4では増加していた。また、グループ2、グループ3、グループ4間では統計学的に有意な差はなかった。

嗅覚行動検査ではグループ2において嗅覚の感度が有意に低下していたが、その他のグループ間では有意な差はなかった。

以上の結果より、メチマゾ-ルによる嗅細胞障害は細胞質へのチトクロムcの放出→カスパーゼ-9の活性化→カスパーゼ-3の活性化の経路で誘発されるアポトーシス優位に生じていることが示唆された。さらにカスパーゼ-3阻害剤、カスパーゼ-9阻害剤の事前の投与により嗅細胞障害が形態的にも機能的にも抑制されたことは、嗅細胞障害が上記の経路で誘発されるアポトーシスであることの間接的な証明でもあり、カスパーゼ阻害剤による薬剤性嗅覚障害の新たな治療法の可能性を示唆した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は代表的な薬剤性嗅細胞障害モデルにおいて細胞障害の機序を明らかにするため、ラットに抗甲状腺剤メチマゾールを腹腔内投与する系にて嗅細胞障害がアポトーシス優位かネクローシス優位であるかの解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.ラットにメチマゾール 300 mg/kgを腹腔内投与することにより、投与1日後に、嗅上皮に顕著な細胞障害を誘発することができた。障害を受ける細胞成分は嗅細胞と支持細胞の両方であった。形態学的・免疫組織化学的評価では、細胞障害はアポトーシス優位である事が示唆された。投与7日後の時点でも、嗅細胞に関しては、完全には代償されておらず、細胞障害の急性期にあると考えられた。

2. メチマゾール 300 mg/kg投与1日後に、免疫染色で活性化カスパーゼ-3、活性化カスパーゼ-9、cleaved PARPの嗅細胞における発現亢進を認め、核染色型のTUNEL染色性を有する陽性細胞数の増加を認めた。また、カスパーゼ-3、カスパーゼ-9活性の増加を認め、細胞質分画のチトクロームcの増加も認められた。これらのことから、メチマゾ-ルによる嗅細胞障害はカスパーゼ-9、カスパーゼ-3の活性化経路で媒介されるアポトーシス優位に生じている事が示唆された。

3. 前述の変化はメチマゾール投与7日後にはコントロールレベルに回帰しており、アポトーシスは終焉していると考えられた。

4. メチマゾール 300 mg/kgを腹腔内投与するに先立って、カスパーゼ-3阻害剤、カスパーゼ-9阻害剤を投与することにより投与1日後だけでなく投与7日後においても、形態的な細胞障害は抑制された。免疫染色での活性化カスパーゼ-3・活性化カスパーゼ-9・cleaved PARPの発現亢進、TUNEL染色陽性細胞数の増加、カスパーゼ-3・カスパーゼ-9活性の増加も抑制された。また、機能的にも嗅覚障害は抑制された。これらの事実も、メチマゾールによる嗅細胞障害はアポトーシス優位であることを示唆した。

以上、本論文はメチマゾールによって誘発される嗅細胞障害がカスパーゼ-9、カスパーゼ-3の活性化経路によるアポトーシスであることを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった薬剤性嗅細胞障害の障害機序の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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