学位論文要旨



No 216783
著者(漢字) 橋本,雄一郎
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ユウイチロウ
標題(和) バイオ分子分析に向けたRFイオントラップ質量分析装置に関する研究
標題(洋) Research on RF ion trap mass spectrometer for bio-molecule analysis
報告番号 216783
報告番号 乙16783
学位授与日 2007.04.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16783号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 真船,文隆
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 村田,昌之
 東京大学 教授 山崎,泰規
内容要旨 要旨を表示する

1 序

この10年間、質量分析の最も目立ったアプリケーションとして発展したものとして、タンパク質の網羅的解析、いわゆる「プロテオミクス」が挙げられる。プロテオミクスはタンパク質の構造や機能に着目した包括的なタンパク質研究と位置づけることができ、この単語は、ゲノミクスから想起されたものである。ゲノムが殆ど不変であるのに対して、プロテオームは環境により絶えず変化しており、組織により発現が大きく異なる。プロテオミクスの研究により、将来的に様々な疾病のメカニズムが解明されることが期待されている。プロテオームは希少量しか存在しない上、ゲノムのように化学的増幅が不可能であること、また、翻訳後修飾に起因して種類が多い(ゲノム30,000種に対し、タンパク質は2,000,000種と見積もられている)ことから分析が難しいことが知られている。従来、エドマン法などの化学反応を利用した配列解析が主流であったが、解析速度が遅く(1配列/1時間)、タンパクの網羅的な解析は不可能と考えられていた。これに対し、1995年に質量分析でタンパク質の配列を決定する手法が提案された。ここでは10残基配列程度のペプチドが1秒程度で配列決定ができるため、約10,000倍の高速化が可能との見通しが示された。しかし、当時の質量分析技術では、分析できるタンパク質は量的に多いものや翻訳後修飾を受けていない単純な構造のものに限られていたため、この後、様々な質量分析技術の開発が進行した。

一方、このような応用に先立って1980年代後半、ソフトイオン化方法(エレクトロスプレーイオン化(ESI)、マトリックス支援レーザーイオン化(MALDI)など)が開発された。これにより、今まで困難とされていた生体内の高分子のイオン化が可能となった。更にプロテオーム解析に適用するため、質量分析部での同定には今まで以上に高い質量精度(分解能)や高度な解離物分析(MS/MS分析)が必須となった。著者は、プロテオーム解析に必須な質量分析部の諸課題を解決するため、RFイオントラップ質量分析技術に関する下記の研究を行った。

2 四重極RFイオントラップ内での赤外多光子解離の研究

2.1 四重極RFイオントラップにおける衝突励起赤外多光子解離

四重極RFイオントラップ内部での赤外多光子解離は衝突誘起解離に比較し、低質量のフラグメントイオンが検出されるメリットがある反面、感度の著しい低下というデメリットを招いていた。レーザー光のフォーカスと衝突励起を併用することにより、0.1 mTorr以下でしか報告例が無かった多光子解離が、RFイオントラップの標準的圧力である2-8 mTorrでも進行することが分かった。これを利用することより、従来方式より数倍高感度な赤外多光子解離が可能となった。

2.2 四重極RFイオントラップにおける高感度、高ダイナミックレンジをもつ赤外多光子解離

高速スイッチングが可能なソレノイドバルブを利用し、トラップ時と解離時のトラップ内部の圧力を高速(約5 ms)で切り替えることにより、従来方式より10倍程度、感度を向上することができた(図1)。また、共鳴励起を利用して特定質量範囲のイオン軌道を操作することにより、一度解離したイオンの追分解が抑制できることも確認した。

3 RFリニアイオントラップでの電子捕獲解離の研究

電子捕獲解離は一般的な解離手法である衝突誘起解離に対し相補的なフラグメントパターンが得られる。しかし、RFイオントラップ内では電子のヒーティングにより、イオンへの電子捕獲効率が低い問題があった。リニアイオントラップの軸方向に50 mT程度の磁場を印加し、軸方向から電子を入射すること(図2参照)により、低エネルギー(<1 eV)の電子入射を効率的に実現することにより、リニアイオントラップ内での電子捕獲解離が進行することが分かった。

4 RFイオントラップと飛行時間型質量分析計との結合方式の研究

4.1 衝突ダンピング室を用いた直交トラップ飛行時間質量分析計

従来、MS/MS分析可能なRFイオントラップと高質量分解能が可能な直交飛行時間型質量分析計の結合には多くのイオンロスが生じ、感度低下を招いていた。両者の間に50-100 mTorr程度のヘリウム圧力下にRFイオンガイドを配した衝突ダンピング室を設置することにより、イオンが衝突ダンピング室内で位置的にもエネルギー的にも収束する効果を見出し、高感度かつ高ダイナミックレンジを得ることができた。この結果、高感度、高質量分解能なMS/MS分析が可能となった。

4.2 高質量選択性を有する2連リニアイオントラップ直交飛行時間型質量分析計

四重極RFイオントラップをリニアイオントラップに置き換えることにより、10倍の感度向上に成功した。また、この装置構成おいて、リニアイオントラップの圧力を低下させることによりダンピングの影響を抑制し、前駆体イオンの高い質量選択性が得られることを併せて実証した。また、衝突ダンピング室の終端レンズの電圧を制御することにより、数倍の感度向上効果が得られることが分かった。

4.3 軸方向共鳴励起を用いた質量選択的排出

リニアイオントラップに羽根電極を挿入することにより軸方向に調和DCポテンシャルを形成することができることを電場シミュレーションにより示した。このポテンシャルを利用することにより、従来のリニアイオントラップからの質量選択的排出方式の3倍以上である60 %の高い排出効率が得られた。また、本方式の排出メカニズムについて考察した。

4.4軸方向共鳴励起リニアイオントラップを用いた直交飛行時間質量分析計の感度向上

従来、直交飛行時間実量分析計では、高い感度が得られる質量範囲が制限されていた。先に述べた軸方向共鳴励起リニアイオントラップを直交飛行時間質量分析計に結合し、これと飛行時間型質量分析計の加速タイミングと同期した制御を行うことにより(図3参照)、広い質量範囲(m/z 150からm/z 2000)において高感度な測定(検出効率60 %以上)が可能となった。

5 まとめ

本研究では、RFイオントラップ質量分析装置を用いたバイオ分析手法の開発を行った。RFイオントラップ内部で不可能であった高度なMS/MS分析(赤外多光子解離、電子捕獲解離)を高効率に実現した。また、効率的な反応デバイスであるRFイオントラップと高い質量分解能が得られる飛行時間型質量分析計を極めて効率良く結合する独自手法を開発した。今後、これらの手法が、プロテオームを始めとした生体分子の解析に広く利用されていくものと確信している。

図1 マススペクトル 親イオン[YGGFL+H]+、 (A) 衝突誘起解離 (B) 従来の赤外多光子解離 (C)2.2の方式による赤外多光子解離

図2 電子捕獲解離を実現するRFリニアイオントラップの装置構成図

図3:本手法の装置構成図

審査要旨 要旨を表示する

本論文は9章からなる。第1章では、本研究の背景となるプロテオミクス研究の経緯を述べ、プロテオミクスへの応用に向けた質量分析技術の諸課題について概説している。続いて、第2章から第4章では、RFイオントラップ中で赤外多光子解離および電子捕獲解離を有効に引き起こすための方法論について述べられている。また、第5章から第8章では、このRFイオントラップと飛行時間型質量分析器との効率的な結合方式について議論している。これらを踏まえた結論および研究の展望が第9章にまとめられている。

第2章、および第3章では、従来著しい感度低下を招いていたRFイオントラップ内部での赤外多光子解離を高感度で実現する方法論が纏められている。レーザー光のフォーカスと衝突励起を併用することにより、低真空下での赤外多光子解離を実現するとともに、それらのメカニズムについてイオン軌道シミュレーションを用いて考察した。更に、イオントラップ時と解離時のトラップ内部の圧力を高速で切り替えることにより、感度やダイナミックレンジを損なうことなく赤外多光子解離が進行することを実証した。

第4章では、従来報告例がなかったRFイオントラップ中での電子捕獲解離を実現する方法論について纏められている。電子捕獲解離は衝突誘起解離と相補的なフラグメントパターンを与える点で有用であるが、RFイオントラップでは電子が加速され、イオンへの電子捕獲が難しいという課題があった。本研究では、リニアイオントラップの軸方向に50 mT程度の磁場を印加し、軸方向から電子を入射することにより、RFイオントラップ内での電子捕獲解離反応が進行することを確認した。

第5章、および第6章では、RFイオントラップと飛行時間型質量分析器との効率的な結合方式について纏められている。RFイオントラップと飛行時間型質量分析器との間に約 50 mTorrの衝突ダンピング室を設置して、イオン収束が可能なことをシミュレーションと実験結果により検証した。更にRFイオントラップ、衝突ダンピング室それぞれをリニアイオントラップ化することにより、従来比50倍以上の感度向上を実現した。また、RFイオントラップ内部での圧力低下により、プリカーサーイオンの選択性が向上するメカニズムについても考察した。

第7章、および第8章では、独自なリニアイオントラップの開発と、それを用いることによる直交飛行時間型質量分析器の感度向上について述べている。従来、リニアイオントラップからの排出効率は低い(<20%)課題があったが、本論文では新たなイオン排出方式(軸方向励起リニアイオントラップ)を開発することによりその課題を解決した。羽根状の挿入電極にDC電圧を印加することで軸方向に調和ポテンシャルを形成し、従来より3倍以上高い効率でイオン排出が可能なことを実証し、更に、この軸方向励起リニアイオントラップと直交飛行時間型質量分析器の加速タイミングを同期制御することにより、従来、直交飛行時間型質量分析器では不可能であった広い質量範囲での高感度な測定を実現した。

第9章では、上記の結果を踏まえた本論文の結論および研究の展望が纏められている。最後に、本論文で述べられた手法がプロテオームを始めとした生体分子の解析に広く利用されることを示唆して全体を纏めている。

現在、プロテオーム分野において質量分析技術の果たしている役割は非常に大きく、新たな解離手法を高感度、高分解能で実現した本研究の意義は大きい。また、本研究の開発技術の一部は既に市販の分析装置に実装されているなど実用上の有効性も示している。なお、本論文第2章から第8章は、いずれも他研究者との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験と解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。また、すでにこれらの研究結果は学術雑誌で公表され、高い評価を得ている。よって、本論文は博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。

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