学位論文要旨



No 216788
著者(漢字) 加藤,久美子
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,クミコ
標題(和) 日本の柴犬における隅角形態異常と原発性緑内障多発に関する研究
標題(洋)
報告番号 216788
報告番号 乙16788
学位授与日 2007.05.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16788号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 名誉教授 小川,博之
内容要旨 要旨を表示する

人の緑内障は、失明の3大原因の一つに挙げられる重大な疾病である。本症は、眼内圧(IOP)が上昇することにより視神経が損傷し、これにより視野狭窄を生じる疾患と定義されてきた。しかし、10Pの上昇を伴わずに、進行的な視神経障害を生じる病態(正常眼圧緑内障)が数多く報告されているため、近年では、網膜神経細胞やそれらの神経軸索が進行性に傷害される疾病で、機能的構造的異常の本態は、緑内障性視神経症であると、定義されている。人における緑内障は、隅角(ICA)の内側に存在する線維柱帯に目詰まりを生じ、眼房水の排出に障害が起きて生じる原発性開放隅角緑内障(POAG)、虹彩基部がICAを塞ぎ、眼房水の排出が極度に障害されるために生じる原発性閉鎖隅角緑内障(PCAG)、眼や全身性の何らかの基礎疾病があり、それが原因となり、ICAの開放・閉鎖の有無に関わらず、10Pが上昇して生じる続発性緑内障、ならびに先天的にICAに異常があるために生じる先天性緑内障の4つに大きく分類される。これらの中で、人ではPOAGが最も一般的なタイプの緑内障である。

犬の緑内障の分類は、人のそれと同様にPOAG、PCAG、続発性緑内障、先天性緑内障と区別される。しかし、PCAGは人のそれと同一語であるが、病態は全く異なる。犬では、ICA形態が先天的に狭い、あるいは閉鎖しており、これによって時間の経過とともに小柱網から線維柱帯に目詰まりを生じ、緑内障を発症するものをPCAGと呼称している。さらには、犬のPOAGでも病態が進行するにつれ、小柱網構造が崩れて行き、緑内障が悪化することが明らかにされている。したがって、犬のPCAGは、人における狭いICAを持つPOAGと同じ病態ではないかと考えられる。

犬の緑内障では、その好発犬種が知られている。1957年にアメリカン・コッカー・スパニエルの緑内障の発表を皮切りに、ビーグル、バセット・ハウンド、イングリッシュ・コッカー・スパニエル、スプリンガー・スパニエルなどの好発犬種が報告されてきた。1988年には、米国獣医眼科専門医のデータを集中管理して、それにより犬の遺伝性眼科疾患の撲滅を目的とした財団が設立され、この機関から1999年までに、上述の犬種を含め48犬種が好発犬種と認定されている。しかし、本邦では、緑内障の好発犬種のみならず、罹患頭数さえも研究・把握されていないのが現状である。また、著者の臨床経験から、日本では柴犬にICA形態異常を伴うPCAGが多いように感じられているが、これに関してもデータは全くない。

これらを背景として、本研究ではまず日本における緑内障犬の現状を調査し、日本の犬における好発犬種を検討した。さらに、PCAGの好発犬種と示唆された柴犬における緑内障発生病態と1CA異常との関連について調査した。またこの緑内障の原因が、遺伝性の病態である可能性が高いため、人の緑内障病因遺伝子といわれているmyocilin遺伝子に着目し、まず犬における当該遺伝子配列を確定して、その変異の有無と柴犬の緑内障との関連を検討した。

第2章では、1998年6月から2003年7月までの間に、東京大学大学院農学生命科学研究科附属動物医療センター(VMC)に来院し、眼科検査を受けた1244頭の犬を対象として緑内障の診断を行い、各犬種における緑内障発生率ならびにICA形態異常の有無との関連を検討した。

その結果、この間にVMCに来院した71犬種中、29犬種において緑内障が認められ、そのうち3頭以上の緑内障発症を認めた犬種(9犬種)の中では、柴犬が42頭と最も多く、次いでシーズ21頭、アメリカン・コッカー・スパニエル8頭、ビーグル5頭、ゴールデン・レトリーバー5頭であった。この調査期間中にWCに来院した各犬種の総頭数1こ対する総緑内障頭数の比率では、柴犬が17.6%と圧倒的に高く、次いで、アメリカン・コッカー・スパニエル7%、シーズー3.1%、トイ・プードル1.9%、ビーグル1.8%、マルチーズ1%であった。これらの柴犬の緑内障に対し、Ekestenらの分類に基づいてICA形態分類を観察した結果、Closedが655%、Narrowが25.9%、SlightlyNarrowが8.6%であり、Openの症例はなく、全ての眼が狭いICAを呈していた。また、過去に緑内障の報告がされていない犬種(パピヨン、アイヌ犬、ブル・テリア、フレンチ・ブルドック、オールド・イングリッシュ・シープドック、ポメラニアン)も認められた。一方、シーズー、アメリカン・コッカー・スパニエル、ビーグルは、今回の調査の中で緑内障好発犬種に認定されているが、これらのICA形態や原発性と続発性緑内障の比率などは、過去の報告とほぼ同様であった。以上の結果から、日本における柴犬はPCAGの発症率が高い犬種であることが明らかとなった。

第3章では、第2章の調査期間を延長して1998年6月から2004年5月までにVMCに来院し、緑内障の有無に関わらず、眼科検査によりICAと櫛状靭帯(PL)の両者の評価を行うことの出来たll4頭の柴犬を対象として、ICA形態異常の程度と緑内障発症の関連性を検討した。114頭中、緑内障の柴犬は46頭、非緑内障の柴犬は68頭であった。

緑内障柴犬の年齢は8.7±3.6歳、非緑内障柴犬の年齢は5.7±3,8歳であり、両者の年齢には統計学的有意差が認められた。ICAのグレード別における緑内障発症の比率は、Closedが85.7%、Narrowが45%、Slightly Narrowが12.1%、Openが0%で、ICA形態異常が強いほど、緑内障の発生率が高かった。一方、非緑内障柴犬でもICAの狭いものが81%と多く、緑内障の有無に関わらず、日本の柴犬はICA異常を伴う率の高いことが認められた。PL形態は、ICA異常の程度に比例して、形成異常が認められ、Closedの犬においては、PLの形態は完全に消失していた。

さらにこれらのうち、両眼性緑内障の症例は17頭であり、片眼から両眼への進行が、1年未満であったものがll頭(65%)と多く、これらのICAはClosedが5頭、Narrowが5頭、Shghtly Narrowが1頭であった。1-3年で進行したものが5頭(29%)で、これらのICAはClosedが4頭、Slightly Narrowが1頭であった。また、非緑内障の柴犬のうち、この調査期間中に3頭が緑内障を発症した。以上のことから、日本における柴犬はICA形態異常が強く、その緑内障は両眼への進行が比較的早い原発性緑内障であることが示唆された。しかし、ICA異常は緑内障の発症危険率を高めるが、ICAの高度な異常があっても緑内障を発症していないものがあることから、発症にはその他の要因が関与していることが示唆された。

第4章では、人のPOAGにおいて有力な緑内障原因遺伝子と考えられているmryocilin遺伝子に着目した。この遺伝子の犬における遺伝子配列は同定されていなかったため、まずその解析を行った。健常ビーグルの毛様体からmRNAを抽出し、cDNAを作成してPCRを行い、シークエンスを行って、〃ryocilin遺伝子配列を決定した(GenBank登録番号DQ303878)。このアミノ酸配列と人、猫、牛、ネズミのアミノ酸配列との一致率は、それぞれ83.6%、89.2%、85.5%、79.4%であった。その配列と、柴犬のDNAから抽出したmryocilin遺伝子配列とを比較し、緑内障発症および非発症の柴犬、さらにICA形態とmyocilin遺伝子変異の有無との関連を検討した。使用した検体は、緑内障でICAがClosedの5頭、非緑内障でICAがClosedの2頭、非緑内障でICAがOpenの3頭、計10頭である。なお、緑内障犬のみに認められた遺伝子発現異常を"変異"、非緑内障犬にも認められたものを"多型性"とした。

その結果、緑内障犬およびICAがOpenとClosedの非緑内障犬において、いずれもmyocilin遺伝子の様々な変異/多型性が認められた。しかし、今回はサンプル数が少なかったこともあり、myocilin遺伝子変異と緑内障、非緑内障の発症との間には明確な関連性がみられず、ICAグレードにおいても同様に明らかな関連性は認められなかった。柴犬における変異/多型性の認められたmyocilin遺伝子の部位は、Exon lとExon 3であったが、Exon 1の部位により多くの変異/多型性を認めた。人の緑内障におけるmyocilin遺伝子変異の結果は、90%がExon 3に変異を認めているため、柴犬のPCAGと人のPOAGにおけるmyocilin遺伝子変異との間には多少異なる傾向にあった。

近年の研究から、myoeilin遺伝子のExon lは、細胞外マトリックスと細胞表面の構造に重要な影響を及ぼし、Exon 3はmyocilin蛋白の分泌に重要な役割を持つことが明らかとなっている。このことから、今回柴犬にみられたexonl領域の変異/多型性は、小柱網の組織構造の崩壊を生じさせ、眼房水の流出障害を生じ、さらには緑内障へとつながる可能性を示唆するとも考えられた。

以上の結果から、日本で飼育される柴犬では、ICA形態異常を伴うPCAGが高率に発症し、かつ非緑内障柴犬においてもICA異常が広範に見られることから、柴犬はICAの異常を伴うPCAGの好発犬種であると考えられた。しかし、人のPOAGで関連すると考えられるmyocilin遺伝子変異との関連は必ずしも明確ではなく、今後さらに詳細な解析を行うことが必要と考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

犬の緑内障の分類は、人と同様に原発性開放隅角緑内障(POAG)、原発性閉鎖隅角緑内障(PCAG)、続発性緑内障、先天性緑内障と区別される。しかし、犬のPCAGは人のそれとは病態は全く異なる。すなわち、犬では、隅角(ICA)形態が先天的に狭い、あるいは閉鎖しており、これによって時間の経過とともに小柱網から線維柱帯に目詰まりを生じ、緑内障を発症するものをPCAGと呼称している。一方、人でもっとも多く認められるPOAGにおいても、病態が進行するにつれ、小柱網構造が崩れて行き、緑内障が悪化することが明らかにされており、犬のPCAGはむしろ人のPOAGと同様の病態を持つのではないかと考えられる。

犬の緑内障では、その好発犬種が知られており、現在までに48犬種が好発犬種と認定されている。しかし、本邦で飼育される犬に関しては、緑内障の好発犬種や発生頭数も十分に把握されていない。また、著者の臨床経験から、日本では柴犬にICA形態異常を伴うPCAGが多いように感じられるが、これに関しても十分な解析がなされていない。

本研究ではまず日本における犬の緑内障発生状況を調査し、好発犬種を検討した。さらに、PCAGの好発犬種と示唆された柴犬における緑内障発生病態とICA異常との関連について調査した。またその緑内障の原因が遺伝性の病態である可能性が高いため、人の緑内障病因遺伝子といわれているmyocilin遺伝子に着目し、その変異の有無と柴犬の緑内障との関連を検討した。

第1章の序論に続き、第2章では、1998年6月から2003年7月までの間に、東京大学大学院農学生命科学研究科附属動物医療センター(VMC)に来院し、眼科検査を受けた1244頭の犬を対象として緑内障の診断を行い、各犬種における緑内障発生率ならびにICA形態異常の有無との関連を検討した。

その結果、126頭(71犬種中、29犬種)の162眼に緑内障が認められた。そのうち3頭以上の緑内障発症を認めた犬種(9犬種)中、柴犬は42頭と最も多く、次いでシーズ21頭、アメリカン・コッカー・スパニエル8頭、等であった。この調査期間中にVMCに来院した各犬種の総頭数に対する総緑内障頭数の比率では、柴犬が17.6%と圧倒的に高かった。これらの柴犬の緑内障に対し、Ekestenらの分類に基づいてICA形態分類を観察した結果、Closedが65.5%、Narrowが25.9%、Slightly Narrowが8.6%であり、全てが狭いICAを呈していたことから、日本における柴犬はPCAGの発症率が高い犬種であることが明らかとなった。

第3章では、緑内障の有無に関わらず、眼科検査によりICAと櫛状靭帯(PL)の両者の評価を行うことの出来た114頭の柴犬(緑内障46頭、非緑内障68頭)を対象として、ICA形態異常の程度と緑内障発症の関連性を検討した。

その結果、ICAのグレード別では、Closedで85.7%、Narrowで45%、Slightly Narrowで12.1%が緑内障であり、ICA異常形態が強いほど緑内障の発生率が高かった。一方、非緑内障柴犬でもICAの狭いものが81%と多く、緑内障の有無に関わらず、日本の柴犬はICA異常を伴う率の高いことが認められた。さらに、ICAに高度な異常があっても緑内障を発症していないものがあることから、発症にはその他の要因が関与していることが示唆された。

第4章では、人のPOAGの有力な緑内障原因遺伝子と考えられているmyocilin遺伝子に着目した。まず、犬におけるこの遺伝子配列を同定した。健常ビーグルの毛様体からmRNAを抽出し、cDNAを作成してPCRを行い、myocilin遺伝子配列を決定した(GenBank 登録番号 DQ303878)。このアミノ酸配列と人、猫、牛、ネズミのアミノ酸配列との一致率は、それぞれ83.6%、89.2%、85.5%、79.4%であった。その配列と、柴犬のDNAから抽出したmyocilin遺伝子配列とを比較し、緑内障発症および非発症の柴犬、さらにICA形態とmyocilin遺伝子変異の有無との関連を検討した。

その結果、緑内障柴犬およびICAがOpen とClosedの非緑内障柴犬において、いずれも特にExon 1の領域でmyocilin遺伝子の様々な変異/多型性が認められた。しかし、今回はサンプル数が少なかったこともあり、myocilin遺伝子変異と緑内障、非緑内障の発症との間には明確な関連性がみられず、ICAグレードにおいても同様に明らかな関連性は認められなかった。しかし、最近の研究から、myocilin遺伝子のExon 1は、細胞外マトリックスと細胞表面の構造に重要な影響を及ぼすことが知られており、今回柴犬にみられたExon 1領域の変異/多型性は、小柱網の組織構造の崩壊を生じさせ、眼房水の流出障害を生じ、さらには緑内障へとつながる可能性を示唆するとも考えられた。

以上要するに、本研究は従来報告されていなかった日本の柴犬における原発性緑内障の発生率、隅角異常の程度との関連、さらには、明確な関連は見られなかったが、人の原発性緑内障の関連遺伝子myocilinの本症との関連を追及したものであり、臨床上その貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の論文として価値あるものと認めた。

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