学位論文要旨



No 216790
著者(漢字) 宮谷,慶一
著者(英字)
著者(カナ) ミヤタニ,ケイイチ
標題(和) 明治期組積造建築における接合剤及び混和材に関する研究
標題(洋)
報告番号 216790
報告番号 乙16790
学位授与日 2007.05.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16790号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 野口,貴文
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、明治期組積造建築において使用された結合材及び混和材について、その使用実態を明らかにすることであり、その方法として2つの側面からの検討を試みた。

1つ目の側面は、明治期における結合材及び混和材を、それらの生産状況から把握するという試みであり、本論分の前半、第1~3章がそれに該当する。

第1章「石灰の生産について」では、接合材の一つである石灰を取り上げ、関東地方の主な生産地であった「八王子石灰」、「野州石灰」、「江戸蛎殻灰」における生産状況を、自治体史等を元に述べた。いずれもその生産は江戸期に遡ることができるが、もっとも古くまた幕府の御用石灰を生産していた八王子石灰は、江戸中期以降石灰が次第に商品化して行くに従い、江戸商人資本に支配されるようになって行き、明治維新後は次第に廃れ大正期には完全に消滅した。

野州石灰は維新後も生産を続けたが、同業者の乱立やその結果としての粗製乱造、乱売に苦慮しており、「同業組合」が設立されたが、その効果が発揮されるのは明治末期以降のことであった。また生産方法(焼成窯)も、「七輪窯」と称する改良窯が導入される明治中期までは、薪を使用する江戸期以来の「谷窯焼」により生産が続けられていた。

江戸蛎殻灰は、江戸期には会所の実権を掌握し、また八王子石灰の金主として窯元を支配していた。明治維新後も「仲間組合」を組織し商売を続けていた。また蛎殻灰の生産も維新以降、東京府下において続けられていたが、その後の様子については今のところ不明である。

石灰は完全に国内で自給可能な建設材料であるため、外国製品との競争はなく、かつ生産量も豊富であったため、供給不足による値段の高騰といった現象も起こらなかった。ゆえに石灰の生産状況が、建築活動に直接影響を与えるといったことはなかったと思われる。また明治中期まで続いた前近代的な生産、流通の遺制が限界を示すのは、外的な要因というよりもむしろ供給者側自身の問題であったと言える。

第2章「セメントの生産について」では、もう一つの接合材であるセメントを取り上げ、その生産の始まりとその後の展開について、主なメーカーであった「浅野セメント」と「小野田セメント」の社史および既往の研究等に依拠して述べた。

明治期における国産セメント生産量及び輸出入量の推移から、好不況の波による国内需要の増減に対しては、輸出入量の増減により対処していた様子が伺われ、また企業にとって追い風であった需要増の時期に、増産体制が採れずむしろ違約金を払ってまで注文を断るケースもあった。このような状況が改善されるのは、「回転窯」が導入される明治末期以降のことであった。

生産方法に関しては、不連続な生産方式である「竪窯(徳利窯)」が主であったが、次第に連続生産が可能な「回転窯」が導入され、それは生産効率の向上をもたらす以外に、徳利窯生産をとる限りにおいて不可避であった先発メーカーの技術的優位性を無効とする事態を招き、それによりメーカー間の技術的格差が急激に解消され、国産セメントの飛躍的な増産の引き金となった。

このように、大きな技術革新による大量生産体制が確立するのは明治末期以降であり、それ以前においてセメントと併用して石灰や火山灰が、コンクリートや目地モルタルに使用されていた理由について、このような供給側の状況を見ることにより、一層具体的に理解できることを明らかにした。

第3章「火山灰その他について」では、混和材の一つである火山灰と、天然セメント及び風化花崗岩について、当事の『建築雑誌』等の記事及び既往の研究に依拠して述べた。

コンクリートの混和材としての火山灰の利用は、幕末期にすでに見られるが、その後の利用状況については定かでない。明治末期に再び混和材としての利用に注目が集まるが、その要因として、第2章で見た輸入セメント量の急増とセメント価格の急騰の時期と重なることを指摘した。また天然セメントの利用についても、火山灰と同様、輸入セメント量の急増とセメント価格の急騰の時期に、その利用が図られていることを明らかにした。

なお、風化花崗岩については、その利用が主に土木工事に限られているため、既往の研究を紹介する程度にとどめた。

このように、セメントの生産及び性能が確立されるまでは、さまざまな結合材、混和材が利用されており、また国内のセメント需要量が急増し、国内生産が追いつかない時期には、その活用を企図する動きが活発になったことを明らかにした。

2つ目の側面は、明治期における結合材及び混和材を、それらの使用事例から把握するという試みであり、本論分の後半、第4~6章がそれに該当する。

第4章「幕末明治初期における事例 -横須賀製鉄所の場合-」では、幕末明治初期の事例として、横須賀製鉄所建設を取り上げ、そこで使用された結合材及び混和材について述べた。

まず、『横須賀造船史』の資料から、結合材としては石灰が主であり、混和材として火山灰も使用されていたこと、セメントの使用量は比較的わずかであったことを指摘した。また、木骨煉瓦造が主である建築物と、海水に接する土木構築物では、セメントの使用に違いがあったことも指摘した。

次に、石灰及び火山灰の採掘、運搬に関しては、石灰については、在来の産地、運搬ルートを検討しつつ有利なものを採用したこと、しかし火山灰については新規にそれらを開拓せねばならず、運搬費の問題から途中で採掘地を変更していることを明らかにした。

また横須賀製鉄所の工事が、セメント国産化を企図する契機となったという逸話については、検討する余地があることを指摘した。

第5章「地業工事における事例」では、明治期組積造建築において、結合材及び混和材の主な使用部位である地形コンクリートに着目し、その仕様を文献資料をもとに収集し分析を試みた。

地形の仕様については、明治期を通じて特に大きな変化は見られなかったが、明治末期になって、鉄筋コンクリート造の基礎が現れていることを明らかにした。

地形コンクリートに関しては、調合法について見ると、骨材(砂利)間の空隙量を基準に容積比で調合されており、標準仕様的な調合法は未だ確立されていなかったことを明らかにした。また、今回調査した事例における調合比を検討した結果、特に有意な傾向は発見できなかったことを指摘した。

次に、使用されている結合材及び混和材に関しては、結合材としては、明治期を通じて石灰及びセメントが使用されており、それ以外の結合材は見られなかったが、混和材に関しては、明治末期より火山灰の使用が見られ、また明治初期には石炭糟の使用も見られることを明らかにした。

年代的な傾向としては、明治中期までは石灰の使用が多く見られ、それ以降はセメントの使用例が増えていることを指摘したが、既往の研究でもすでにその要因として濃尾地震の影響が指摘されているが、それを可能にした条件として、国内セメント生産量の漸増もあげられることを指摘した。

また、明治末期に混和材として再び火山灰に注目が集まった要因として、当事の国内セメント需要の急増と、価格急騰があげられることを第3章で指摘したが、本章で取り上げた事例においても、同時期に火山灰の使用が確認できた。

第6章「組積用モルタルにおける事例」では、地形コンクリートと並んでもう一つの主要部位である目地モルタルに着目し、その仕様を第5章と同様、文献資料をもとに収集し分析を試みた。

まず、モルタルの種類については、「石灰モルタル」、「石灰入セメントモルタル」、「セメントモルタル」の3種類があり、またモルタルの表記については、明治中期頃に「灰泥」から「膠泥」に変化したことが指摘できた。その理由としては、モルタルの概念が「石灰モルタル」から「セメントモルタル」へと変化したことによると考えられ、その要因の一つとして、当事の国内セメント供給量の増加を指摘した。

次に、結合材及び混和材については、結合材としては石灰及びセメントが使用されておおり、混和材として火山灰の使用が1例確認できた。石灰については、実際に建物に使用されたモルタルの分析を見ると、その成分にかなりばらつきがあっことがわかった。セメントについては、外国産セメントの使用例が1例あった以外に、特に指摘しうる事象は確認できなかった。火山灰については1例のみ確認できたが、第5章で指摘した地形コンクリートにおける火山灰利用の進んだ時期(明治末期)と同じ現象を、モルタルでも確認できた。

モルタルの製法及び調合については、石灰の消化に着目すると、当事は生石灰を購入し現場で消化するのが一般的であったこと、消化方法に「乾式」と「湿式」があり、前者からは「粉状」石灰が、後者からは「糊状」石灰ができることを指摘した。またモルタルの混練方法も、「手練り法」と「機械練り法」があり、前者では「粉状」石灰あるいは「糊状」石灰を使用する場合があるが、後者では「粉状」石灰のみを使用することを指摘した。

調合については、第5章と同じく骨材(砂)間の空隙量を根拠とする容積比であり、調合比については、生石灰と消石灰の区別、あるいは「粉状」か「糊状」かの区別がない限り、実際の調合比については断定できないことを明らかにした。また当事の仕様書に、工事で実際に使用する消石灰ではなく生石灰の比が記されている理由として、仕様書の中には注文書に近いものもあり、その場合実際に注文する生石灰の量を示す必要があったことを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

I.研究目的及び意義

本論文の目的は、明治期組積造建築において使用された結合材及び混和材について、その使用実態を明らかにすることであり、その方法として2つの側面からの検討を試みている。

1つ目の側面は、明治期における結合材及び混和材を、それらの生産状況から把握するという試みであり、本論分の前半、第1~3章がそれに該当する。

2つ目の側面は、明治期における結合材及び混和材を、それらの使用事例から把握するという試みであり、本論分の後半、第4~6章がそれに該当する。

第1章「石灰の生産について」では、接合材の一つである石灰を取り上げ、関東地方の主な生産地であった「八王子石灰」、「野州石灰」、「江戸蛎殻灰」における生産状況を、自治体史等を元に述べた。いずれもその生産は江戸期に遡ることができるが、もっとも古くまた幕府の御用石灰を生産していた八王子石灰は、江戸中期以降石灰が次第に商品化して行くに従い、江戸商人資本に支配されるようになって行き、明治維新後は次第に廃れ大正期には完全に消滅した。

野州石灰は維新後も生産を続けたが、同業者の乱立やその結果としての粗製乱造、乱売に苦慮しており、「同業組合」が設立されたが、その効果が発揮されるのは明治末期以降のことであった。また生産方法(焼成窯)も、「七輪窯」と称する改良窯が導入される明治中期までは、薪を使用する江戸期以来の「谷窯焼」により生産が続けられていた。

江戸蛎殻灰は、江戸期には会所の実権を掌握し、また八王子石灰の金主として窯元を支配していた。明治維新後も「仲間組合」を組織し商売を続けていた。また蛎殻灰の生産も維新以降、東京府下において続けられていたが、その後の様子については今のところ不明である。

石灰は完全に国内で自給可能な建設材料であるため、外国製品との競争はなく、かつ生産量も豊富であったため、供給不足による値段の高騰といった現象も起こらなかった。ゆえに石灰の生産状況が、建築活動に直接影響を与えるといったことはなかったと思われる。また明治中期まで続いた前近代的な生産、流通の遺制が限界を示すのは、外的な要因というよりもむしろ供給者側自身の問題であったと言える。

第2章「セメントの生産について」では、もう一つの接合材であるセメントを取り上げ、その生産の始まりとその後の展開について、主なメーカーであった「浅野セメント」と「小野田セメント」の社史および既往の研究等に依拠して述べた。

明治期における国産セメント生産量及び輸出入量の推移から、好不況の波による国内需要の増減に対しては、輸出入量の増減により対処していた様子が伺われ、また企業にとって追い風であった需要増の時期に、増産体制が採れずむしろ違約金を払ってまで注文を断るケースもあった。このような状況が改善されるのは、「回転窯」が導入される明治末期以降のことであった。

生産方法に関しては、不連続な生産方式である「竪窯(徳利窯)」が主であったが、次第に連続生産が可能な「回転窯」が導入され、それは生産効率の向上をもたらす以外に、徳利窯生産をとる限りにおいて不可避であった先発メーカーの技術的優位性を無効とする事態を招き、それによりメーカー間の技術的格差が急激に解消され、国産セメントの飛躍的な増産の引き金となった。

このように、大きな技術革新による大量生産体制が確立するのは明治末期以降であり、それ以前においてセメントと併用して石灰や火山灰が、コンクリートや目地モルタルに使用されていた理由について、このような供給側の状況を見ることにより、一層具体的に理解できることを明らかにした。

第3章「火山灰その他について」では、混和材の一つである火山灰と、天然セメント及び風化花崗岩について、当事の『建築雑誌』等の記事及び既往の研究に依拠して述べた。

コンクリートの混和材としての火山灰の利用は、幕末期にすでに見られるが、その後の利用状況については定かでない。明治末期に再び混和材としての利用に注目が集まるが、その要因として、第2章で見た輸入セメント量の急増とセメント価格の急騰の時期と重なることを指摘した。また天然セメントの利用についても、火山灰と同様、輸入セメント量の急増とセメント価格の急騰の時期に、その利用が図られていることを明らかにした。

なお、風化花崗岩については、その利用が主に土木工事に限られているため、既往の研究を紹介する程度にとどめた。

このように、セメントの生産及び性能が確立されるまでは、さまざまな結合材、混和材が利用されており、また国内のセメント需要量が急増し、国内生産が追いつかない時期には、その活用を企図する動きが活発になったことを明らかにした。

第4章「幕末明治初期における事例 -横須賀製鉄所の場合-」では、幕末明治初期の事例として、横須賀製鉄所建設を取り上げ、そこで使用された結合材及び混和材について述べた。

まず、『横須賀造船史』の資料から、結合材としては石灰が主であり、混和材として火山灰も使用されていたこと、セメントの使用量は比較的わずかであったことを指摘した。また、木骨煉瓦造が主である建築物と、海水に接する土木構築物では、セメントの使用に違いがあったことも指摘した。

次に、石灰及び火山灰の採掘、運搬に関しては、石灰については、在来の産地、運搬ルートを検討しつつ有利なものを採用したこと、しかし火山灰については新規にそれらを開拓せねばならず、運搬費の問題から途中で採掘地を変更していることを明らかにした。

また横須賀製鉄所の工事が、セメント国産化を企図する契機となったという逸話については、検討する余地があることを指摘した。

第5章「地業工事における事例」では、明治期組積造建築において、結合材及び混和材の主な使用部位である地形コンクリートに着目し、その仕様を文献資料をもとに収集し分析を試みた。

地形の仕様については、明治期を通じて特に大きな変化は見られなかったが、明治末期になって、鉄筋コンクリート造の基礎が現れていることを明らかにした。

地形コンクリートに関しては、調合法について見ると、骨材(砂利)間の空隙量を基準に容積比で調合されており、標準仕様的な調合法は未だ確立されていなかったことを明らかにした。また、今回調査した事例における調合比を検討した結果、特に有意な傾向は発見できなかったことを指摘した。

次に、使用されている結合材及び混和材に関しては、結合材としては、明治期を通じて石灰及びセメントが使用されており、それ以外の結合材は見られなかったが、混和材に関しては、明治末期より火山灰の使用が見られ、また明治初期には石炭糟の使用も見られることを明らかにした。

年代的な傾向としては、明治中期までは石灰の使用が多く見られ、それ以降はセメントの使用例が増えていることを指摘したが、既往の研究でもすでにその要因として濃尾地震の影響が指摘されているが、それを可能にした条件として、国内セメント生産量の漸増もあげられることを指摘した。

また、明治末期に混和材として再び火山灰に注目が集まった要因として、当事の国内セメント需要の急増と、価格急騰があげられることを第3章で指摘したが、本章で取り上げた事例においても、同時期に火山灰の使用が確認できた。

第6章「組積用モルタルにおける事例」では、地形コンクリートと並んでもう一つの主要部位である目地モルタルに着目し、その仕様を第5章と同様、文献資料をもとに収集し分析を試みた。

まず、モルタルの種類については、「石灰モルタル」、「石灰入セメントモルタル」、「セメントモルタル」の3種類があり、またモルタルの表記については、明治中期頃に「灰泥」から「膠泥」に変化したことが指摘できた。その理由としては、モルタルの概念が「石灰モルタル」から「セメントモルタル」へと変化したことによると考えられ、その要因の一つとして、当事の国内セメント供給量の増加を指摘した。

次に、結合材及び混和材については、結合材としては石灰及びセメントが使用されておおり、混和材として火山灰の使用が1例確認できた。石灰については、実際に建物に使用されたモルタルの分析を見ると、その成分にかなりばらつきがあっことがわかった。セメントについては、外国産セメントの使用例が1例あった以外に、特に指摘しうる事象は確認できなかった。火山灰については1例のみ確認できたが、第5章で指摘した地形コンクリートにおける火山灰利用の進んだ時期(明治末期)と同じ現象を、モルタルでも確認できた。

モルタルの製法及び調合については、石灰の消化に着目すると、当事は生石灰を購入し現場で消化するのが一般的であったこと、消化方法に「乾式」と「湿式」があり、前者からは「粉状」石灰が、後者からは「糊状」石灰ができることを指摘した。またモルタルの混練方法も、「手練り法」と「機械練り法」があり、前者では「粉状」石灰あるいは「糊状」石灰を使用する場合があるが、後者では「粉状」石灰のみを使用することを指摘した。

調合については、第5章と同じく骨材(砂)間の空隙量を根拠とする容積比であり、調合比については、生石灰と消石灰の区別、あるいは「粉状」か「糊状」かの区別がない限り、実際の調合比については断定できないことを明らかにした。また当事の仕様書に、工事で実際に使用する消石灰ではなく生石灰の比が記されている理由として、仕様書の中には注文書に近いものもあり、その場合実際に注文する生石灰の量を示す必要があったことを指摘した。

以上、本論文は日本二おける建築の近代化を支えた材料の製造・工法の基礎を研究したもので、斯界の発展に寄与するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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