学位論文要旨



No 216792
著者(漢字) 張,馳
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,チ
標題(和) 洪水氾濫・土砂崩壊シミュレーションの安定性・信頼性改善手法の開発
標題(洋)
報告番号 216792
報告番号 乙16792
学位授与日 2007.05.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16792号
研究科 工学系研究科
専攻 地球システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 登坂,博行
 東京大学 教授 大久保,誠介
 東京大学 教授 玉木,賢策
 東京大学 教授 徳永,朋祥
 東京大学 講師 定木,淳
 東京大学 教授 宮本,邦明
内容要旨 要旨を表示する

日本は世界有数の地震・火山国であること,急峻な地形や脆弱な地盤が多く,気象的には梅雨や台風などによってしばしば豪雨がもたらされること,などから自然災害(津波,洪水氾濫,地震やそれに伴う土砂災害など)への対策は,歴史的に国や自治体の最重要施策の一つと位置づけられてきた。世界的に見ても,近年,欧米先進国・途上国を問わず非常に大きな自然災害が頻発する状況もあり,その対策は各国行政の共通の課題でもある。

行政が行う自然災害対策(防災施設建設,ハザードマップ作成・避難計画など)の起案・調査・施工においては,不確定性が強く大きなスケールの自然現象に対する十分な科学的評価を実施し,それを市民へ説明することが常に求められる状況がある.このための手段として数値シミュレーション技術があり,将来の水文変動などを想定した多数のケーススタディや対策優劣の判定・リスク評価を行うための不可欠の道具でもある。今後ともコンピュータ技術の進展と合わせて,評価信頼性向上のための一層の技術開発が必要と考えられる。

以上のような背景から,本論は洪水氾濫や斜面崩壊・地すべりなどの土砂災害に関する数値予測を主題として種々の角度から検討を行い,新たな数値手法およびモデルの提案を行ったものである,本文は二つのテーマで構成されている。第一のテーマは「洪水氾濫に関する高速安定化数値解析手法の開発j,第二のテーマは「安定化数値解析による崩壊土塊の到達範囲予測」である。以下に,個々のテーマに関する研究内容および成果を示す。

1.洪水氾濫に関する高速安定化数値解析手法の開発

洪水氾濫の非定常数値解析を安定に行うためには浅水長波方程式に対するCFL条件を満足する必要があるが,それを満足しても氾濫計算では水量の連続性に問題が生じることが知られている。特に,地形が大きく変化している場所などでは,洪水氾濫流の速度が速く水深が急激に変化する。こうした場合,従来の解析法では時間ステップが大きいと負の水深が生じやすく,水の質量が保存されない。また,それにより計算の不安定が問題となる。負の水深が生じないようにするには時間ステップをかなり小さく設定する必要があるが,広範囲で長時間の洪水氾濫の数値計算を行う場合,処理時間が膨大となる。また,氾濫水の水際線が時々刻々に変化するため,どの程度の時間ステップが適当かを判断することは難しい。このような状態に鑑みて,本研究では質量保存を守ることにより計算精度を高め,それにより安定性の向上と計算時間の短縮を可能とする格子流出量修正法を提案した。

1)本研究では平面2次元浅水長波方程式の解法として,未知量をstaggeredに配置する1eap frog法を採用した。運動量方程式の差分化は時間に関しては前進差分,移流項には一次精度風上スキーム,圧力項には中心差分,抵抗項にはVasilievの不安定を避けるため陰的な取り扱いを用いた。また,連続式の差分化は時間に関して前進差分,空間に関して中心差分を用いた。

2)解析中に負の流動深が生じる場合,提案した格子流出量修正法では次の修正を行う。まず,計算格子の流出フラックスを修正して格子の水深を0にする修正係数を求め,それにより流出フラックスを修正した後,もう一度全体解析領域の水深を計算する。負の流動深が生じた格子の流出フラックスを修正すれば隣の格子の流入量が減少するために,そこの流動深が負となる可能性があるため,全域で負の流動深がなくなるまで反復修正し,次の時間ステップへ移る。以上の手続により,質量は常に保存されることになる。本研究では,デカルト座標系と一般座標系による氾濫解析プログラムを作成すると共に,この方法を両者に組み込んだ。

3)報告されている単斜面氾濫台での実験結果と計算結果との比較によって,開発したプログラムの解析精度を検証した。また,傾斜を変えた数値実験により,格子流出量修正法を使わない場合には,氾濫台の勾配が大きいほど質量保存誤差が大きくなること。逆に格子流出量修正法を適用した場合は質量が完全に保存され,解析精度も保たれることを示した。

4)急勾配地形の洪水の例として1858年の常願寺洪水の観測記録に基づき再現解析を行い,大規模洪水氾濫解析における提案手法の特性を質量保存誤差,安定性,精度,CPU時間の観点から検討した。

格子流出量修正法を適用しない場合,急勾配地形での氾濫数値計算では,CFL条件を満足しても時間ステップが大きくなると質量保存誤差が大きくなり,それによる数値発散が生じることが認められた。格子流出量修正法を適用した場合,格子流出量修正法を適用しない場合の数倍~数十倍の大きな時間ステップでも,十分な実用精度が得られ,また,計算時間の大幅な短縮が可能であることが分かった。

5)河川周辺の地形や人工物を表現する柔軟性の観点から,一般座標系における氾濫解析プログラムの有効性を検討した。豊岡市における破堤氾濫の事例を用いて数値モデルを作成した結果,デカルト座標系モデルで必要な格子数を一般化座標系モデルにより大幅に減らすことが可能であり,計算結果は定性的にほぼ同様であることが判明した。また,一般座標系モデルの数値計算では,デカルト座標系モデルの場合より時間ステップを小さくする必要があり,修正法の繰り返し回数も増える傾向があるが,格子数の減少により,計算時間を大きく短縮できる可能性が示された。

今後,種々な洪水氾濫事例を解析し,本計算手法の汎用性を検討する予定である。また,広域水循環モデルと結合したリアルタイム洪水氾濫予測の開発につなげて行きたい。

2.安定化数値解析による崩壊土塊の到達範囲予測

日本では,集中豪雨や地震等に伴う土石流,地すべり,崩壊等の土砂災害が,過去10年の年平均で約1000件発生しており,国民の生活に多大な被害を与えている。これら土砂災害の防止あるいは被害の軽減には移動土塊の到達範囲を把握することが重要である。本研究では従来の崩壊土塊運動モデルにおける問題点を改善し,再現性と実用性を高めた解析手法を提案した。

1)本研究では崩壊土塊の発生・流動・堆積のメカニズムを踏まえ,土のクーロン摩擦と間隙水圧の効果を考慮したクーロン混合モデルの採用,深度平均理論に基づき土塊の運動停止前後での底面クーロン摩擦の不連続な挙動を考えた運動の開始・停止条件の考慮,さらに移流項の三次精度風上スキームと格子流出量修正法を導入し,崩壊土塊運動のシミュレーション手法を開発した。

2)斜面模型実験や既報実験データを用いて提案手法でシミュレーションを実行し,その再現性・安定性・有効性を検証した。まず,著者の模型実験で得られた斜面・水平面上の土塊(乾燥砂)の運動・堆積の実測結果が,測定されたパラメータを用いた計算により比較的良好に再現された。また,Denlingerら,およびHutterらの乾燥粒子流による小型模型実験結果と計算結果の比較を行った結果,崩壊土砂流の先端部と後尾部の速度,位置,長さの経時変化,堆積状況が比較的良好に再現されることがわかった。一次風上差分による計算結果との比較,崩壊土砂の底面摩擦と内部摩擦を変える数値実験などから,採用した三次風上法や運動開始・停止条件の適切さが示唆された。

3)三つの土砂災害事例を利用し,提案手法の妥当性を検討した。まず,弘前市郊外で発生した斜面崩壊をシミュレーションした結果,堆積範囲に関しては,地形モデルの精度および樹木の影響等により一部再現性の悪い部分があるが,おおむね現地の実測結果を再現可能であった。三陸南地震による築舘町で発生した流動型地すべりの解析結果は,実測結果と比較して堆積範囲の再現性が良好であった。

さらに,鳥取県A地区の数度の土砂崩落事例に関して解析し,最後の崩壊時の堆積範囲を,それ以前の崩壊時に対し実験的・試行錯誤的に求められたパラメータにより良好に再現可能であることを示した。

また,格子流出量修正法の効果により,それを使用しない場合より大きな時間ステップでの安定な計算が可能であることが明らかとなった。

今後,土塊の流動中における間隙水圧の変化と粒子間衝突損失の評価および流動に影響を与える構造物,樹木などの抵抗モデルの評価,土塊運動の物理定数の決定手法などの検討も進めてゆく必要があろう。

審査要旨 要旨を表示する

近年,欧米先進国・途上国を問わず非常に大きな自然災害(地震・豪雨時の斜面崩壊や洪水氾濫,津波など)が頻発する状況があり,その対策は各国行政の共通の課題でもある。筆者は,このような状況に鑑み,行政の自然災害対策(防災施設設計・施工,ハザードマップ作成など)における科学的評価の不可欠の道具として,実用性・信頼性の高い新たな数値解析技術の提案を行っている。

本研究は二つのテーマで構成されており,第一のテーマは「洪水氾濫に関する高速安定化数値解析手法の開発」,第二のテーマは「安定化数値解析による崩壊土塊の到達範囲予測」である。

1.洪水氾濫に関する高速安定化数値解析手法の開発

洪水氾濫解析は,浅水長波方程式をリープフロッグ法などの陽的差分解法により2次元的に解くことが一般的である。また,解の安定化のために風上差分の導入や,クーラン数がCFL条件を満足するように時間ステップが設定され,計算が進められる。しかし,地形変化(人工物含む)のある広い領域の長時間の洪水氾濫計算では,水際線は時々刻々変化し,特に速度や水深が急激に変化する場所では流入より流出が過大となり所々に負の水深が生じやすい。この現象が起こる場合には、十分小さな時間ステップを設定するか、負の水深を単純に限界流動水深に戻し計算を続行することが一般的である。しかし、時間ステップの縮小は計算時間の大幅な増大をもたらし,また,単純な補正操作は質量保存誤差の累積,解の非物理性,数値的不安定性を引き起こす可能性がある。

筆者はこの問題に対処するため,質量を厳密に保存しながら安定性の向上を可能とする格子流出量修正法を提案している。この方法では,解析中に負の流動深が生じた格子に対し,まず水深をゼロにする流出フラックス修正係数を求めて当該ステップのフラックスを修正する。さらに,その修正が引き起こす周辺格子への影響を次々に補正し,全域で負の流動深がなくなるまで反復修正した後,次の計算ステップへ移る。以上の手続は物理的には明確で質量保存も厳密に保たれるが,収斂性や安定性に関しては理論的な検討は難しく,実際の適用例から検討する必要がある。

筆者は本提案手法の有効性を明確化するため,実験室スケールでの数値実験やいくつかの実際の大規模洪水事例を使い,質量保存誤差,安定性,解の精度,CPU時間の観点から詳細に検証している。その結果,特に,天然ダムの決壊による扇状地の大規模洪水氾濫解析から、従来の方法では質量保存誤差の蓄積が急激に起こり計算が発散するような時間ステップを使う場合でも,格子流出量修正法では完全に質量を保存しながら安定な計算が可能であることが示されている。この計算例では,計算効率は数十倍に向上可能であり,大きな時間ステップの計算水深分布は細かい時間ステップの計算結果と実用的に差のないことが示されている。さらに,筆者は一般座標系による氾濫解析プログラムの開発と格子流出量修正法の組み込みを行い,地形・人工物表現の柔軟性による計算格子数の大幅な減少と本手法による安定化が,計算時間の大幅な短縮に繋がることを示している。

以上の計算手法は,今後の洪水氾濫のリアルタイム予測,氾濫危険度の多数の試行錯誤計算,ハザードマップ作成のための精細解析,などに大きく寄与するものと考えられる。

2.安定化数値解析による崩壊土塊の到達範囲予測

筆者は,集中豪雨や地震時の斜面崩壊に伴う土砂災害の対策立案に資するため,斜面から平地を移動する土塊の運動および到達範囲(被害範囲)の予測信頼性向上を目指した新しい解析手法を提案している。

筆者の解析手法は,既存研究を参考に土塊間隙中の水圧効果を考慮したクーロン混合モデルの導入,崩壊土塊の運動開始・停止に関する物理的に正確な条件の計算方法の導入を行うと共に,三次精度風上スキームの導入,負値の流動深に起因する数値不安定性を防止するための格子流出量修正法の導入を行い,従来実用評価に利用されている数値モデルの再現性を大きく向上したものとなっている。

提案手法の有効性は,斜面模型実験や既報実験データ,さらに実際の土砂崩壊事例を利用して検証されている。まず,著者の行った模型実験で得られた斜面・水平面上の土塊(乾燥砂)の運動・堆積の実測結果が,測定されたパラメータを用いて本手法により良好に再現されている。また,いくつかの他研究者の斜面模型実験や乾燥粒子流実験等の再現計算から,崩壊土砂流の速度,堆積範囲の経時変化,最終堆積状況が良好に再現されることが示されている。

実際の土砂災害の再現解析では,3つの事例が検討されている。青森県で発生した斜面崩壊の事例では,堆積範囲に関しては,地形や植生の影響等の不確定性があるものの,おおむね現地の実測結果を再現可能であることが示されている。宮城県で発生した流動型地すべりの事例では,計算堆積範囲は実測結果と比較し再現性が良好であることが示されている。さらに,鳥取県における数度の土砂崩落事例に関しては,最後の崩壊時の堆積範囲が,それ以前の崩壊時に対し実験および試行計算により求められたパラメータにより良好に再現可能であることが示されている。また,従来実用に供されているモデルより再現性が大幅に改善していることを示すと共に,導入した格子流出量修正法が土砂崩壊の計算でも安定性向上に大きな効果を有することを定量的に示している。

この解析手法は,今後の斜面崩壊対策策定や砂防施設設計,ハザードマップ作成などにおいて,実用性・信頼性のある予測を行う上で非常に有用なものと考えられる。

以上の内容から,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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