学位論文要旨



No 216797
著者(漢字) 髙橋,亨
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,トオル
標題(和) 源氏物語の詩学
標題(洋)
報告番号 216797
報告番号 乙16797
学位授与日 2007.05.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16797号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 聖心女子大学 教授 原岡,文子
 青山学院大学 教授 高田,祐彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』のような物語テクストが、十一世紀初頭の平安朝において、どのようにして生成したのかということを「かな文芸の詩学」の系譜から論じ、その作品としての意義を考察したものである。

『源氏物語』を中心とした平安朝物語文芸の研究は、その物語内容についての意味論的な解釈と、〈語り〉の表現構造などの形態論的な分析によるテクスト論とを、近年の主要な課題としてきた。本書では、それらを統合した〈語りの意味論〉として、ことばの芸術としての平安朝「かな」文芸の生成と展開を捉え、歌や漢詩文を含む多様なジャンルと関わる表現史の過程に『源氏物語』の主題的な展開を位置づけている。こうした開かれた系譜学の根底には、ことばを植物生成の比喩によって認識する「言の葉」の言語観と文学観があり、それによって、西洋のナラトロジーやテクスト理論との共通性をふまえつつも、平安朝文芸の特性を明確化して論じている。

方法論としての「物語の詩学」は、和歌を主とした掛詞や縁語による「かな」文字による修辞法を基底にして、物語などの語り文における表現技法をも対象化し、景情一致や「あはれ」という用語に代表される〈同化〉の美学のみならず、表現対象を批判的に捉えて離れる〈異化〉をも重視したものである。そこでは、〈もどき〉の詩学や〈心的遠近法〉についての考察が中心的な課題となる。

本論文は、序章、第1部の8章、第n部の9章、第皿部の5章、結章として構成されている。序章においては「言の葉としてのテクスト」「貴種流離課と物語の話型」「物語の〈文法〉と心的遠近法」として基本的な視座を示した。第1部「かな物語の生成と和漢の心的遠近法」では、「かな」文字の生成と和漢の心的遠近法との関連を中心にして、『源氏物語』の成立までの表現史を論じている。第1[部「源斥物語の詩学と語りの心的遠近法」では、語りの心的遠近法という視座を基本として、『源氏物語』の主題的な展開にっいて考察した。第皿部「物語論の生成と〈女〉文化の行方」においては、物語の詩学と文化学との架橋を視野に入れつつ、物語文芸史を再考している。

以下、章を追って本論文の要旨を記述していく。

第1部の第1章「かな文字の生成と和漢複線の詩学」においては、漢字と万葉仮名・かな文字で書くことの修得が和歌や和文を生成する過程を捉え、平安朝文芸の基底に和漢の複線の詩学があることを論じた。第2章「掛詞と語源課一一歌と物語の声と文字」では、歌や地名起源謳における掛詞や縁語による技法が、『竹取物語』を生成する物語の詩学と連続していることを検証した。第3章「漢詩文と月一一竹取物語における引用と変換」では、『竹取物語』が漢文作品を引用しつつも、神仙課から羽衣型の物語への主題的な変換を達成し、仏教的な世界観を背景にして異界と訣別する人間の「あはれ」を相対化した文芸の始発たりえていると位置づけた。第4章「〈昔〉と〈今〉の心的遠近法一一初期物語における同化と異化」においては、物語の冒頭における「昔」と「今は昔」と助動詞の「けり」と「き」、また、結末の「とそ」などの伝聞形式による語りの表現構造を通時的におさえ、「蓬莱」や「不死薬」を喩として修辞的に変換した初期物語の位相を論じた。

第5章「うつほ物語の〈琴〉と王権」では、『うっほ物語』において〈琴〉(きん)が超現実的な隠喩として機能しっっ、俊蔭一族と貴族社会との関係において、男系の漢詩文に対する女系におけるく琴〉がより根源的に「王権」と関わる物語の主題を意味づけた。第6章「歳時と類聚一一かな文芸の詩学の基底」においては、十世紀を類聚の時代として位置づけ、歳時意識による表現の分析から、特に『古今六帖』という歌集の重要性を論じた。第7章「〈もどき〉の文芸としての枕草子」では、『枕草子』における異化と戯れの言説や他者の言語への異和、その言語連想の表現の特性を〈もどき〉の文芸として位置づけた。第8章「物語を生成する「涙川」一一歌ことばと語りの連関」では、歌の技法と物語の技法とが交錯する表現史の過程を「涙川」という歌ことばによって捉え、物語の生成と主題的な変換について通時的に展望した。

第ll部の第1章「謎かけの文芸としての源氏物語」では、作者と読者、語り手と聞き手、作中人物たちとの相互関係から、『源氏物語』における謎かけの手法を類型化して時代准拠論や光源氏にまっわる占いや予言の物語を分析し、解かれた謎が新たな謎を生成する主題的な方法にっいて論じた。第2章「〈ゆかり〉と〈形代〉一一源氏物語の統辞法」においては、短編的な「数珠繋ぎ」の構成が「因果論的構・成」を成立させる過程について・〈ゆかり〉と〈形代〉という『源氏物語』の女君たちの系譜による統辞法が、絵や雛遊びの想像力と結合した物語の方法であることを論じた。第3章「光源氏の物語と呼称の心的遠近法」では、外的な呼称と内的な呼称、また無呼称による呼称の意義づけにより、光源氏の物語を主題的に生成し展開していく心的遠近法を考察した。第4章「明石入道の「夢」と心的遠近法」においても、特異な「夢」に賭けた明石入道の呼称の外部性から出発し、異界としての〈明石〉の『源氏物語』における内部化と物語の多声法を論じた。

第5章「源氏物語の〈琴〉の音」においては、光源氏を中心とする『源氏物語』の〈琴〉の演奏が幻想の〈王権〉を象徴し、「末の世」意識を基底として、六条院の女楽では調和の幻想を破綻させて物語世界の主題的な解体に向かうことを考察した。第6章「源氏物語における横笛の時空」では、柏木の血統をめぐる和琴から横笛への変換が、換喩的に詩的言語による〈異化〉と〈同化〉を生成し、語りの主体が多元的な解体を進めて作中人物たちも自立した語り手の様相を示して、ディスコミュニケーションが深まることを論じた。第7章「源氏物語の歳時意識」においては、『古今集』に象徴される「ことばの秩序の自立」が『源氏物語』における「をり」の美学を形成しつつも、〈同化〉のみならず〈異化〉の物語を形成していると考察した。また、「かり(雁/仮)」の物語の詩学として、『源氏..物語』における表現を分析し、ここでも『古今六帖』の重要性を指摘した。第8章「〈反悲劇〉としての薫の物語」では、出生の秘密をめぐる薫の物語が、語りのパロディ性による〈反悲劇〉としての展開を示していることを論じた。第9章「愛執の罪一一源氏物語の仏教」においては、浮舟の罪と出家をめぐる物語における横川の僧都の役割とその意味を考察し、〈中有〉の思想というべき物語の思想を生成していると論じた。

第皿部の第1章「物語論の生成としての源氏物語」では、本居宣長の「もののあはれ」論を検討して批判し、『源氏物語』蛍巻の物語論の構造を捉え、そのテクスト引用関連から詳細に読み解くことにより、物語の虚構の修辞論と思想を考察した。第2章「物語作者のテクストとしての紫式部日記」においては、『紫式部日記』の物語関連の言説の分析からパラテクストとしての〈紫式部〉論の可能性を探り、『紫式部集』と『紫式部日記』と『源氏物語』とのインクーテクスト関連から、『源氏物語』の成立過程を推定した。第3章「物語と絵巻物一一源氏物語の時空」では、物語と絵巻物の表現に共通する〈文法〉としての〈心的遠近洗〉の立場から・『源氏物語』の物語世界内における物語絵と雛と人形の表現機能を考察し、後世における源氏絵の聖典化と王朝〈女〉文化の伝統との関連についても論じた。

第4章「王朝〈女〉文化と無名草子」においては、鎌倉時代に成立した『無名草子』を『枕草子』の系譜にある批評文芸としての「草子」として捉え、その中心をなす『源氏物語』とそれ以後の物語についての批評を分析することによって、〈同化〉とともに〈異化〉の「物語の詩学」が示されていると考察した。『無名草子』は失われた王朝女性文化の規範として『源氏物語』を位置づけ、その「末ρ世」意識を基底にしつつ、藤原定家のような歌人による〈男〉文化との差異を明確に示している。第5章「「世継」と無名草子の系譜一一語りの場の表現史」では、『栄花物語』や『大鏡』のような「世継」の物語の系譜に『無名草子』を位置づけた。そして、平安朝の後期から中世にかけての語りの場の表現史の展開の中で、『今鏡』を承けて、末世観と狂言綺語観と葛藤しつつも、物語を肯定する〈女〉文化の伝統を確立したことを論じた。

終章にわいては、本論を総括して今後の研究のための課題にもふれた。「王朝かな文芸の詩学」は、〈テクスト志向型〉ないし〈表現志向〉の文化のタイポロジーに積極的な意味であてはまる。その基底には「かな文字による表現と和漢の複線の詩学」があり、和歌や物語や日記などの創作行為を中心として、中世から近世にかけての研究もまた、実作と結びついた注釈が主流である。初期物語における話型は〈文法〉として機能したが、『源氏物語』に至る物語テクスト生成の表現史の過程において、語りの〈心的遠近法〉はプレテクストの引用と変換、つまりは一〈もどき〉の表現行為によって〈同化〉と〈異化〉の詩学を形成した。『源氏物語』において〈心的遠近法〉が最も有効に作用しているのは、作品テクストの内と外どを繋ぐ複数の語り手がトポロジカルに設定され、「物のけ」のような語り手の想像力の転移が達成されているからであった。意味生成の「物語の詩学」は、作者〈紫式部〉論や、流動する諸本の考察へと開かれたテクスト学の可能性を示すものでもある。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』のような物語テクストが11世紀初頭の平安朝において生まれるに至る過程を、物語の起源にまで遡って通時的に考察したうえで、『源氏物語』自体の思想と表現の詩学を徹底的に究明し、さらにその思想と表現が後の時代にどのように継承されたかを、近世までをも視野に入れて追尋したものである。論文の構成は、第1部「かな物語の生成と和漢の心的遠近法」、第ll部「源氏物語の詩学と語りの心的遠近法」、第皿部「物語論の生成と〈女〉文化の行方」の三部からなる。

『源氏物語』を織りなすテクストは、近代の通常の散文とは異なり、縁語・掛詞の修辞が成り立っ和歌と同質の言葉によって生成されたテクストである。その思想と表現を考究する本論文が「源氏物語の詩学」と題されるゆえんであるが、そのテクスト生成の機微を分析するために、本論文では「同化と異化の心的遠近法」という概念が用いられている。これは、主として二つの位相の分析に適用される。一つは、「引用の織物(バルト)としてのテクストの、そのテクスト相互関連性の分析に、いま一つは語りの分析にであるが、この二っの位相を有機的に結びつけつつ、物語の思想と表現の不可分なありようを彫り深く浮かび上がらせたところに、本論文の最大の成果がある。

第1部では、漢文で綴られた記紀の伝承や神仙課を母胎として『竹取物語』のような初期物語が生まれてきたとき、かなによる自在な表現を得た語りの心的遠近法によって、漢文の神話や神仙諌との交渉を内在させつつも(同化)、現世の人間に焦点化する決定的な変換(異化)が起こったとする。また、『古今集』の規範的な季節の美意識を基底にしつつ、それを異化し豊饒化する『古今六帖』や『枕草子』『うっほ物語』等め歳時意識が、『源氏物語』ゐ時間を織りなしていることを指摘した意義も大きい。

第ll部では、主語の省略や敬語の有無、多様な人物呼称等によりいっそう精錬された『源氏物語』における語りの心的遠近法が、作中人物に対する共感的な同化とアイロニカルな異化との間をしなやかに往還しつつ、仏教的な彼岸や、琴に象徴される超越的な世界との緊張的な関係を保ちながら、現世を超脱し得ない人間のありようを陰窮深く描出している様相を克明に明らかにしている。

第皿部では、『紫式部日記』に描かれた作者の精神のありようが、上記のような『源氏物語』の世界ときわめて深い親縁性を有することを丹念に析出し、後の『無名草子』のなかに、『源氏物語』を歌道の正典化した藤原俊成や定家らとは異なる、王朝〈女〉文化の継承があることを指摘している。

本論文には、論述がやや抽象的に過ぎて難解になっている箇所もないではないが、審査委員会は上述のような諸点を高く評価し、本論文が博士(文学)の学位に十分に値するものとの結論に達した。

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