学位論文要旨



No 216805
著者(漢字) 牛尾,宗貴
著者(英字)
著者(カナ) ウシオ,ムネタカ
標題(和) 平衡障害の代償と代用に関する研究 : 一側末梢前庭障害症例および深部知覚障害症例を中心に
標題(洋)
報告番号 216805
報告番号 乙16805
学位授与日 2007.05.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16805号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,信彦
 東京大学 教授 齊藤,延人
 東京大学 准教授 郭,伸
 東京大学 准教授 玉置,泰裕
 東京大学 講師 伊藤,健
内容要旨 要旨を表示する

平衡覚は、末梢前庭系、視覚系、深部知覚系からの入力を大脳、脳幹網様体、小脳が統合することによりコントロールされており、これらの一つあるいは複数が障害されると平衡障害を生じる。その一方、平衡覚は末梢前庭系、視覚系、深部知覚系の障害によりいったん障害されても、通常は中枢性前庭代償および代用により高度に再調整される。前庭代償とは、姿勢制御に対する左右からの入力の比重を中枢前庭が変化させることにより左右の前庭および筋緊張の不均衡を軽減させることを意味している。また、代用とは、一側末梢前庭障害後に視覚系、深部知覚系からの入力が末梢前庭入力の一部を代行することや、末梢前庭系、視覚系、深部知覚系の相対的な比重を変化させることを意味している。こうした前庭代償および代用は、多くの場合ほとんど完全なものであると考えられているが、実際には、末梢前庭系あるいは深部知覚系の障害が一定以上に高度であると前庭代償および代用も不完全に終わるのではないかと考え、本研究では一側性末梢前庭障害症例および深部知覚障害症例を中心に検討した。

まず、末梢前庭機能のうち主に卵形嚢機能を評価する検査である自覚的視性水平位検査を用いて、一側性末梢前庭機能障害症例について検討した。急性一側性末梢前庭機能障害が生じると眼球が患側下がりに傾斜、回旋し、それに伴って自覚的視性水平位も患側下がりの異常を示すが、その後、末梢前庭機能の回復あるいは前庭代償により自覚的視性水平位は正常化する。本研究では、一側性末梢前庭機能障害症例として前庭神経炎症例、聴神経腫瘍症例を対象とした。前庭神経炎は、典型的には数日から1週間程度の回転性めまいを生じ、末梢前庭機能の高度低下を示す疾患である。また、聴神経腫瘍は、典型的には上または下前庭神経に由来する神経鞘腫であり、一般的には緩徐に増大するため経過中に強度のめまいを自覚することは少ないが、腫瘍の増大に伴って聴覚、末梢前庭覚は緩徐に障害され、長期的には一側内耳機能の高度障害をきたしうる疾患である。これらの疾患の自覚的視性水平位について検討した結果、急性末梢前庭機能障害をきたす前庭神経炎症例においてのみならず、緩徐に末梢前庭機能障害をきたす聴神経腫瘍症例においても、自覚的視性水平位が正常化している症例と患側下がりの異常を示す症例が混在していた。これらの結果から、末梢前庭機能障害の程度により最終的な前庭代償の達成度が異なる可能性などが推察された。

そこで、末梢前庭機能障害の程度と最終的な前庭代償についてさらに詳細な知見を得るため、一側末梢前庭機能が完全に廃絶している症例について検討した。現在に至るまで、ゲンタマイシン鼓室内注入後の症例、前庭神経切断術術後、聴神経腫瘍術後の症例、未治療の聴神経腫瘍症例などが一側性末梢前庭機能障害モデルとして検討されてきたが、いずれも末梢前庭機能が残存していることがある。一方、中耳、外耳悪性腫瘍に対して側頭骨亜全摘術を施行された症例は、内耳道で蝸牛、前庭、顔面神経を切断され、末梢前庭器を含む患側内耳が完全に摘出されているため、患側末梢前庭機能は確実に廃絶しているといえる。本研究では術後30ヶ月以上経過した5症例を対象としたが、いずれの自覚的視性水平位も患側下がりの異常を示し、3症例は現在もふらつきを自覚していた。原因としては、側頭骨亜全摘術術後の症例には、自覚的視性水平位の回復に寄与すると考えられている前庭神経線維の残存がないこと、左右の前庭神経核の耳石器系に関する交連線維が余り発達していないことなどが考えられた。患側末梢前庭機能が残存していれば中枢性前庭代償により平衡障害はほとんど完全に解消されるが、患側末梢前庭機能が完全に廃絶すると代償不全をきたしやすく、その結果、慢性平衡障害を生じやすいのではないかと推察された。

次に、深部知覚と重心動揺の関係について検討した。深部知覚系は末梢前庭系、視覚系と共に体平衡に関係しているが、その評価法は確立していない。そこで、まずは深部知覚のひとつである振動覚の閾値検査を用いて健常者の深部知覚を評価した。その結果、上下肢の振動覚閾値は加齢に伴って緩徐に上昇することが明らかとなった。加齢により振動覚閾値が上昇する原因としては、振動覚レセプターの変性や減少、神経伝導速度の低下、皮膚の硬化などが考えられている。また、上下肢で比較すると、加齢による振動覚閾値上昇は下肢でより顕著であった。原因としては、下肢のレセプターから脳までの距離が上肢のレセプターからの距離よりも長く、加齢による神経伝導速度の低下が下肢でより著明であること、また、手掌より足底の方が歩行などによる強い機械的刺激を受ける機会が多いため、足底の皮膚の方がより硬化していることなどが考えられた。さらに、今回検討した64Hz、125Hz、250Hzの周波数の中では、特に250Hzの振動刺激に対する振動覚における加齢による閾値上昇が著明であった。手掌、足底にはslow-adapting type I、IIおよびfast-adapting type I、IIレセプターという4種類の振動覚レセプターが存在し、周波数別に振動を受容していることが知られている。特に250Hz付近の周波数の振動刺激を受容するのはfast-adapting type IIレセプターであるため、他のレセプターより加齢による影響を受けやすいものと考えられた。本研究では、加齢により振動覚閾値が上昇していたにも関わらず閉眼時の重心動揺が有意に増大していなかったが、これは、深部知覚障害が数十年に渡って緩徐に進行したため、末梢前庭覚、他の固有受容体などによる代償あるいは代用が充分に達成されていたためではないかと考えられた。足底の感覚低下が緩徐に進行し、かつそれが高度な障害でない場合には代償あるいは代用が十分に達成され、平衡障害には帰結しない可能性が示された。

最後に、深部知覚障害による平衡障害をきたした症例と健常者の振動覚閾値、重心動揺を比較し、どの程度振動覚が低下したら、ふらつき感や身体動揺に帰結するのか検討した。その結果、63Hz、125Hz、250Hzの各周波数において、深部知覚障害による平衡障害をきたした症例の方が有意に高い振動覚閾値を示し、身体動揺の程度も有意に大きかった。また、解析の結果から、125Hzの振動刺激に対する下肢(第1趾)の振動覚閾値が28dB以上であること、閉眼時の総軌跡長(重心動揺計検査のパラメーターのひとつ)が10cm2以上であることが、深部知覚障害による平衡障害に関して有意な因子であった。深部知覚障害による平衡障害症例においては、振動覚レセプターや末梢神経の変性、神経伝導速度の低下、皮膚の硬化といった加齢変化が健常者より高度で、そのため各感覚器からの入力が不十分となり、平衡障害が生じているものと考えられた。また、振動覚閾値上昇が高度でない健常者とは異なり、一定以上に振動覚閾値が上昇している場合には末梢前庭、他の固有受容体などによる代償、代用が充分に達成されず、これが平衡障害に帰結するのではないかと推察された。

一般に、末梢前庭障害、深部知覚障害により平衡障害が生じても、長期的には中枢性代償、代用により平衡障害はほとんど完全に消失すると考えられている。しかし、一側末梢前庭機能が完全に廃絶した場合、あるいは深部知覚障害が一定以上高度になった場合には中枢性代償、代用が完全には達成されず、そのため慢性的な平衡障害に陥る可能性が示された。これらの結果は、今後のめまい、平衡障害症例へのアプローチに際して有用な情報になると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、一側末梢前庭機能が完全に廃絶すると代償が完全には生じないこと、および深部知覚障害が一定以上高度になると代用が完全には生じないことを示したものである。

現在まで、一側末梢前庭機能が完全に廃絶しても、特に静的状態での代償はほぼ完全に生じると考えられてきた。これに対して、本研究では、一側末梢前庭機能が完全に廃絶している側頭骨亜全摘術術後症例の自覚的視性水平位を測定して、末梢前庭機能障害により生じる眼球傾斜反応が従来考えられていたほど完全には正常化しないことを示した。従来より自覚的視性水平位検査は末梢前庭障害後の代償過程を評価するのに有用であると考えられてはいたが、これに加え、末梢前庭障害後に長期間経過した症例においては末梢前庭機能が完全に廃絶しているか否かを示し得る検査のひとつになることが示された。

また、末梢前庭覚、視覚とともに身体の平衡を司る深部知覚については、その定量的評価法自体があまり報告されていなかった。これに対して、本研究では、深部知覚のひとつである振動覚の閾値検査を応用することにより加齢による深部知覚の変化を詳細に検討し、さらに深部知覚障害による平衡障害をきたした症例の振動覚閾値ならびに重心動揺についての検討を加えることにより平衡機能検査としての振動覚閾値検査の有用性を示した。従来より深部知覚障害が平衡障害の原因のひとつであることは知られていたが、簡便かつ定量的な検査についてはあまり報告されていなかった。本研究は、平衡障害の評価に振動覚閾値検査を導入した点に新規性、独自性がある。

自覚的視性水平位検査については、聴神経腫瘍症例など様々な程度の前庭障害をきたす症例についても詳細に検討することにより、障害後の治癒過程との関連のみならず障害の程度との関連についてさらに有用な情報が得られる可能性がある。また、振動覚閾値検査については、さらに症例を重ね、末梢神経伝導速度検査や体性感覚誘発電位検査と組み合わせることにより標準的な平衡機能検査のひとつになる可能性がある。

以上、本論文は一側末梢前庭機能が完全に廃絶した症例の代償、および深部知覚障害による平衡障害に対する代用について述べたものである。これらの結果は、今後のめまい、平衡障害症例へのアプローチに際して有用な情報になると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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