学位論文要旨



No 216812
著者(漢字) 山本,英史
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,エイシ
標題(和) 清代中国の地域支配
標題(洋)
報告番号 216812
報告番号 乙16812
学位授与日 2007.07.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16812号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 総合文化研究科 教授 並木,頼寿
 東洋文化研究所 教授 高見澤,磨
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、これまでの清代中国の〈国家と社会〉についての理解が中国特有の史料のあり方に大きく規定されたものであったことを鑑み、そのような史料が有する独特に屈曲した覗き窓から〈国家と社会〉を垣間見る難しさを熟知した上でなおかつそこに見られる「虚像」に「実像」を見出そうとした一つの試みである。

清代史料と付き合うに当たっては次の三点を留意すべきである。第一は、その「当為と実態」の仕組みをいかに会得するかという問題である。そのためには史料の発信する情報がいかなる「当為」の反映であるかを見極め、そこからどういった「実態」が掘り起こされるかを常に意識しなければならない。第二は、清朝の中国支配が確立する十八世紀前半までの百年余りの時期の特性をいかに考慮するかという問題である。清朝統治下の厳しい言論統制の中で著された史料をどう読み解くかは清初史の明末史とは異なる難しさである。第三は、州県よりもさらに基層にある郷村地域の支配実態をいかに復元するかという問題である。それには一次史料の質と量との両方からの開拓がなお必要であり、その成否が大きな影響を与えると考えられる。

それゆえ本研究ではこれらの留意点を強く意識し、それらを踏まえた上で清代中国の地域支配の実態を《徴税機構の再編》《清朝と在地勢力》《郷村管理と地方文献》の三つの方向から考察した。内容は次の通りである。

第一篇《徴税機構の再編》では、清朝の徴税機構が里甲制の解体に伴い、事実上、税糧包攬と呼ばれる請負慣行によって維持されるようになったことを実証し、徴税機構という王朝支配の根幹に関わる制度を通して清朝の地域支配の構造を明らかにした。第一章〈税糧包攬の展開〉では、税糧包攬の行為が十六-十七世紀の里甲制に基づく徭役による徴税機構の残存期からその後の消滅期にかけてさらに一層の展開を示し、十八世紀においては事実上の新たな徴税機構として機能するに至った過程を跡づけた。第二章〈自封投櫃制の構造〉では、清朝が里甲制による徴税に代わる制度として提唱した自封投櫃の制度的構造を分析し、自封投櫃制と税糧包攬とが互いに矛盾することなく清朝の徴税機構を形成したことを明らかにした。第三章〈紳衿による税糧包攬と清朝国家〉では、税糧包攬の主要な担い手である紳衿と呼ばれる在地勢力の徴税請負行為に焦点をあて、その特徴を挙げるとともに清朝の対応のあり方について論じた。第四章〈黄六鴻の編審論〉は一地方官が書き残した賦役論をもとに徭役に重きを置く北方地域の賦役制度の構造と税糧包攬との関係を指摘し、併せて田賦に重きを置く南方地域との制度的な相違について言及した。

第二篇《清朝と在地勢力》では、清朝が江蘇・浙江の各地域にその支配を確立する過程において、いかにしてその地域の在地勢力に対応したかという問題を追究し、清初における〈国家と社会〉の関係を地域支配の面から考察した。そして王朝国家の「独裁政治」を地域において実現しなければならなかった地方行政官たちは、そのためには在地勢力と妥協しその協力を求めなければならないという矛盾があったことを明らかにした。第五章〈清朝の江南統治と在地勢力〉では、清朝が江南統治を開始した時期の政治過程をたどり、その地域における在地勢力と地方官僚の対応のあり方を、档案、奏議、公牘、筆記といった系統の異なる諸史料から多角的に分析した。第六章〈康煕年間の浙江在地勢力〉では、康煕年間を中心に浙江において地方官僚から「豪」や「蠹」と目されていた在地勢力の実態を主として公牘を用いて解明した。第七章〈雍正紳衿抗糧処分考〉では、雍正年間、江蘇の紳衿を中心とする在地勢力の税糧未納行為に対して清朝がいかなる規制を実施しえたかという専題を探求し、それを通して清朝の国家体制のあり方を明らかにした。第八章〈浙江観風整俗使の設置について〉では、浙江観風整俗使というポストが雍正年間に設置された背景を、雍正政治のいわゆる「独裁支配」における原則と、その原則が末端において適用される地方行政の実情との関連において再検討した。

第三篇《郷村管理と地方文献》では、清代における郷村基層地域とその支配実態についての復元をめざし、地方文献のそれぞれの特徴を指摘した。第九章〈地方志の編纂と地域社会〉では、地方志の地方文献としての有用性とその史料としての限界性を明らかにした。第一〇章〈郷村組織再編の一過程―蘇州呉江・震沢の場合を例にして―〉では、里甲制解体後の郷村組織の再編成の過程を呉江・震沢という特定の地域において検証し、併せて地方志の描く制度史のあり方について言及した。第一一章〈郷村組織と地方文献―蘇州洞庭山の郷村役を例にして―〉では、地方档案をはじめとする地方文献を用いて里甲制解体後の郷村役の特定地域における実態の再構成を試み、併せて地方文献の史料的価値を検討した。第一二章〈浙江天台県の図頭について〉では、『天台治略』という特定の公牘に描かれた郷村役に関する情報を手がかりとして康煕末年における浙江天台県の郷村地域における支配実態を描き出した。

そして以上の分析を通して本研究が導き出した結論はおよそ以下のようなものである。すなわち、清朝の王朝支配とは、皇帝による集権的な支配権力が中国各地域の末端にまで広汎に浸透していたと見る、ないしはそうあるべきだと見なす「当為」とは別に、地域における在地勢力を排除しえず、逆にその地域における既存の支配力に相当部分を依拠した「実態」が存在し、むしろそれによって維持・実現しうるものであった。しかし、清朝はそのような「実態」を観念の世界においては容認することなく、国家としての制度や言辞については常に「当為」を前提としなければならなかった。そして、そのためには現実に存在する「実態」を「当為」の中にいかにして矛盾なく編み込むかに腐心した。後世に遺された清代の史料、とりわけ官撰の史料の記載にはそうした実情が色濃く反映されていた。その結果、「当為」が前に押し出されて記載された場合には時として王朝権力の強さが必要以上に強調されたし、反対の場合には王朝権力の強さは抑制された。従って、そうした史料の記載がどう現れ、それがいかに解釈されるかによって「清朝の地域支配」のイメージはいかようにも態様を変えたのである。こうした史料の特有の性質が中国における〈国家と社会〉の問題をより一層複雑にした原因だったのではなかろうか。

本研究は右のような結論を導く意義を以下の三点に求めている。

第一は、清代史に特徴的に現れる「当為」としての制度とは性質を異にする「実態」としての制度が存在し、そうした実態的な制度の下に王朝支配が事実上機能し、維持されていたことを税糧徴収機構や在地勢力に対する具体的な統治のあり方を通して実証的に明らかにしたことである。これまでの清代史研究、とりわけ制度の解明に力点を置いた研究は、史料に示された内容における互いの整合性を追及することに多大な精力を注ぐ傾向があり、その制度が実際にどこまで機能していたかを明らかにすることを怠ってきたように感じる。本研究はそうした傾向を克服し、いわば「血の通った」制度史の分野を開拓したと理解している。

第二は、地域の実態的な支配の構造を研究するために必要な新史料を少なからず発掘し、研究実践を通してその文献としての固有の価値を示したことである。筆者は今日に至るまで中国大陸、台湾、アメリカなどの海外における中国古籍図書館や文書館に収蔵されている清代史料の収集活動を行い、それらの史料を活用することによって日本国内に収蔵されている史料だけからでは知りえない新事実の掘り起こしに努めてきた。その結果、地域の実態的な支配の構造を研究するためには、地方の役所が実際に取り交した行政文書である地方档案、地方行政官が発行した公文書を集めた公牘、さらには地方人士が著した筆記などの、「地方文献」として一括りにできる史料群が極めて有用であると認識するに至った。本研究はその成果を豊富に採り入れ、新史料の利用の意義についても明らかにした。

第三は、文献には示されることが少ない郷村基層地域とその支配のあり方について多少なりとも復元し、その実像の一部を明らかにしえたことである。既知の文献史料では十分な情報を持ちえず、かといってフィールドワークによる聴き取り調査では類推はできても実証しえない清代前期のこうした対象の研究空白を「地方文献」をもってわずかながらも埋めることのできた意義は大きいと思っている。この結果、従来官撰史料からは負のイメージでしか捉えられてこなかった郷村役の概念をいくぶんかは実態に近づけることができたのではないかと考える。

以上の三点はいずれもみな今後の中国史研究が克復しなければならない特有で、かつ重要な課題であり、本研究はその一端を示したにすぎない。

審査要旨 要旨を表示する

山本英史氏の論文『清代中国の地域支配』は、日本のみならず中国大陸、台湾、アメリカ合衆国など世界各地の図書館・文書館に所蔵されている稀覯の刊本や未公刊の文書を活用して、清朝の地方支配の実態を明らかにしようとした研究である。全体は大きく三篇に分かれる。第一篇「徴税機構の再編」では、明末清初における里甲制の解体の後、「税糧包攬」と呼ばれる請負慣行が展開し、事実上の新たな徴税機構として機能するようになった状況を、詳細に分析する。第二篇「清朝と在地権力」では、清代における郷紳や胥吏層など在地勢力の具体像を描写し、これら在地勢力に対する清朝地方政府の対処法において、取締りと妥協との両側面が複雑にからみあっていたことを実証する。第三篇「郷村管理と地方文献」では、地方志や地方政府文書など様々な地方史史料の特色に留意しつつ、地保・図頭など地方ごとに多様な名称をもつ郷村役の発生と展開の過程を分析する。一般に清朝統治の特色としてその集権的な性格が強調されることが多いが、本論文では、克明な実証研究を通して、清朝統治下の在地勢力の根強さ、及び清朝官僚と在地勢力との関係の複雑さが解明されている。

本論文の優れた点は、従来ほとんど用いられてこなかった新史料を多数発掘するとともに、既存の史料をも含めて、清代の地方社会関連史料の性格を総合的に問い直そうとしている点にある。むろん、従来の研究でも史料の性格については一定の注意が払われてきたが、本論文では一貫して、史料の背後にある史料作成者の「当為」の観念、及び「当為」と「実態」を矛盾なく結びつけようとする史料作成者の苦心、といった側面に慎重な分析が加えられている。本論文の扱う主な対象は賦役制度や地方統治制度であるが、史料作成者の意図や動機に留意する著者のこのような姿勢によって、これらの制度の展開が地方社会の政治対立や人間関係などの社会的文脈のなかで生き生きとした形で位置づけられることとなった。

各章の分析の深度にばらつきがある点、他の時期との比較の視点がやや不明瞭である点など、若干の問題点は残されるものの、本論文は、広範な史料調査に基づき、清代地方社会研究を一段と深化させた業績として評価できる。

以上より審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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