学位論文要旨



No 216841
著者(漢字) 林,伸之
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ノブユキ
標題(和) 遺伝子増幅技術を用いたビール製造における微生物検査方法に関する研究
標題(洋)
報告番号 216841
報告番号 乙16841
学位授与日 2007.10.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16841号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五十嵐,泰彦
 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 准教授 横田, 明
 東京大学 准教授 石井,正治
内容要旨 要旨を表示する

近年、食品製造業において、「食の安全」を保証する事は、以前にも増して重要な課題となっている。ビール製造においては工程中に品質に悪影響を及ぼす汚染菌が存在しないこと、及び製品に汚染菌が存在しないことを消費者に保証することは重要である。ビール自体はアルコールを含むこと、pHが比較的低いこと、細菌、特にグラム陽性菌に対して抗菌活性を持つホップ由来の苦味物質を含むことなどから、ビール中で繁殖する可能性がある微生物の種類は比較的限られている。ビールを汚染する微生物に対して菌種を同定するPCR法等はあったが、同じ菌種に属していても株毎にビールでの増殖能が異なることがあり、正確なリスク評価にはビール混濁能、及びその判定法に関する研究が望まれていた。

第1章 Lactobacillus brevisビール混濁菌株を識別する遺伝子マーカーの取得

ビールに添加されるホップ苦味物質は、イオノフォアとして細胞内のMn(2+)イオンのような二価イオンとH+イオンを交換することにより、感受性菌の細胞膜をはさんだpH勾配を破壊する。しかし、いくつかの種類の乳酸菌は、このような抗菌活性に対抗してビールで増殖することが出来る。製品ビール中で増殖して混濁事故を引き起こす乳酸菌として、Lacfobacillus brevisが広く知られているが、L. brevisには菌株によって混濁能を持つ株と持たない株が存在し、このホップ苦味物質に対する抵抗性がL. brevisのビール混濁能を分けていると考えられている。しかし16SrRNA遺伝子を使ったPCRなどでは混濁菌と非混濁菌を見分けることが出来なかった。

そこでRAPD PCRで混濁菌と非混濁菌を見分けるマーカーを検索した。440のランダムプライマーを使ってスクリーニングした結果、あるランダムプライマーがビール混濁菌に特異的な1.1kbのDNA断片を増幅させることが分かった。塩基配列解析の結果、そこにはORFが存在し、11の膜貫通領域、binding-protein-dependent transport signatureを持つ膜タンパクがコードされていた。また相同性検索からは、この遺伝子はNrampと呼ばれる二価カチオントランスポーターに相同性があり、hitA (hop-inducible cation transporter)と名付けられた。ノーザン解析では、ホップ苦味物質を添加したMRS培地で培養することによってhitA遺伝子の発現が誘導され、ホップ苦味物質に対する抵抗性に関与しているのではないかと考えられた。乳酸菌の増殖にはマンガンは重要な役割を果たしていることから、ホップ苦味物質のようなイオノフォアが培地に存在する場合においてもマンガンを細胞内に維持する機構は、ビール中で増殖するために重要であると推察された。

第2章 多菌種のビール混濁乳酸菌を検出する遺伝子マーカーの取得

乳酸菌のビール混濁を起こす機構はまだ不明な点が多いことから、RAPD PCR解析をさらに拡大し、数多くのランダムプライマーについて混濁菌を識別できるかどうか検討した。600プライマーのスクリーニングの結果、いくつかのプライマーが混濁菌を識別することが新たに分かった。これらのプライマーで増幅された領域の塩基配列解析の結果、いくつかの遺伝子座が見つかり、その中の一つの遺伝子座が特にビール混濁能に深く関与していることが推察された。その遺伝子座にはdolicol phosphate mannose synthase相同遺伝子、teichoic acid glycosylation protein相同遺伝子等をコードするオペロンが存在していた。この遺伝子座の配列を使ったPCRによる評価では、混濁菌を識別する確率がより高く、さらにPediococcus damnosus等他の菌種の混濁菌を見分けていた。当社では、混濁菌を識別する抗血清が取得されており、これらの抗血清はビール混濁菌に特異的な細胞壁外層の糖鎖構造を認識していると考えられている。従って、本研究で発見されたテイコ酸グリコシレーション蛋白等をコードする当該遺伝子座が、乳酸菌の混濁能にかかわっている可能性は非常に高いと考えられた。

第3章 LAMP法を利用したBrettanomycesl Dekkera属野生酵母の同定と検出

微生物の検出、同定法はPCRを基本に検討してきたが、近年LAMP法と言う新しい遺伝子増幅技術が報告されている。LAMP法は栄研化学によって開発され、等温で反応が進む、特異性が高い、増幅効率が高く、短時間に増幅が可能である、増幅産物量が多く、簡易検出に適している等の特徴を有している。そこでLAMP法をビール有害微生物検出・同定系へ応用すべく検出用プライマーの開発を行った。検討対象として、野生酵母であるDekkera属酵母を選択した。

lTS領域を標的にしてDekkera属酵母4菌種(Dekkera anomala、D.bruxellensis、D.cusfersiana、Brettanomyces naardenensis)を菌種レベルで識別できるLAMP法プライマーセットを開発した。これらのプライマーセットを用いた際に、ビール、ワイン、清涼飲料水等の様々な由来のDekkera属酵母から標的遺伝子領域を増幅することが出来、また検出対象の菌種以外の酵母から特異的に識別することができた。このプライマーセットを使ったLAMP法は、非常に高感度であり、蒸留水、ワイン、ビールに懸濁した101cfuレベルのDekkera属酵母を検出できた。また、LAMP法によるコロニー形成数の定量は、1×101cfuから1×107cfuの範囲で可能であると考えられた。ワインやビールにSaccharomyces属酵母を多量に懸濁した場合でも、同程度の感度でDekkera属酵母を検出できた。LAMP法はリアルタイムPCRやnested PCRのようなPCR改変法と同等の感度を持つと考えられるが、LAMP法では電気泳動・DNA染色は必要なく、反応1時間で結果が確認できる。このように特異性、作業効率、検出感度の面から、本研究で開発したDekkera属を検出するLAMP法は、ビール工場をはじめとして、ワイナリー、清涼飲料工場においても非常に有用な微生物検査手法となると考えられた。

まとめ

RAPD PCR解析により、ビール混濁乳酸菌を特異的に識別できる遺伝子マーカーが取得でき、中には菌種の範囲を超えた混濁能判定が可能なマーカーもあった。これらのマーカーには、マンガン輸送、細胞壁糖鎖構造など従来からホップ苦味物質への耐性機構に重要とされている要因と関わりが推察される遺伝子がコードされており、このようなアプローチがビール混濁能に関連する遺伝子取得に有効であることが示された。

さらにビール有害微生物の効率的で精度の高い検出のために新しい遺伝子増幅法であるLAMP法を評価した。本研究で作成したDekkera属酵母検出用LAMPプライマーは、特異性・検出感度が高く、ワインやビールからも直接対象菌株を検出できた。これらの技術を製造工場に導入することで、詳細で正確なデータを迅速に工程に提供できるようになり、品質保証体制のさらなる高度化が期待される。

審査要旨 要旨を表示する

近年、食品製造業において、「食の安全」を保証する事は、以前にも増して重要な課題となっている。ビール製造においては工程中に品質に悪影響を及ぼす汚染菌が存在しないこと、及び製品に汚染菌が存在しないことを消費者に保証することは重要である。ビール自体はアルコールを含むこと、pHが比較的低いこと、細菌、特にグラム陽性菌に対して抗菌活性を持つホップ由来の苦味物質を含むことなどから、ビール中で繁殖する可能性がある微生物の種類は比較的限られているが、ある種の乳酸菌や酵母はこのような環境下でも増殖する能力を持つ。本論文では、ビール工場において微生物の危害性を迅速に評価し、工程全体に渡って微生物レベルを抑制し、微生物事故を未然に防ぐことを目的として、微生物によるビール混濁の機構に関連した遺伝子マーカー、及び迅速かつビール工場で実施が容易な遺伝子増幅技術について検討した。

第1章では、ビール工場で頻繁に分離されるLactobacillus brevisについてビール混濁菌株と非混濁菌株を識別する遺伝子マーカーを取得するため、RAPD PCRによる解析を行った。440のランダムプライマーについて混濁菌と非混濁菌を見分けるプライマーをスクリーニングした結果、一つのランダムプライマーがビール混濁菌に比較的特異的な1.1 kbのDNA断片を増幅させることが分かった。塩基配列解析の結果、そこにはORFが存在し、膜タンパクがコードされており、hitA と名付けられた。また相同性検索からは、この遺伝子はNrampと呼ばれる二価カチオントランスポーターに相同性があった。ノーザン解析では、ホップ苦味物質を添加したMRS培地で培養することによってhitA遺伝子の発現が誘導され、ホップ苦味物質に対する抵抗性に関与しているのではないかと考えられた。乳酸菌の増殖にはマンガンは重要な役割を果たしていることから、ホップ苦味物質のようなイオノフォアが培地に存在する場合においてもマンガンを細胞内に維持する機構は、ビール中で増殖するために重要であると推察された。

第2章では、RAPD PCR解析をさらに拡大し、ビール混濁を起こす機構に関わる未知の遺伝子マーカーが取得出来るかどうか検討した。600プライマーのスクリーニングの結果、いくつかのプライマーが混濁菌を識別し、これらのプライマーによって増幅される領域が4つの遺伝子座にまとまることが分かった。その中の一つの遺伝子座が特にビール混濁菌株を見分ける確率が高く、その遺伝子座にはdolicol phosphate mannose synthase相同遺伝子、teichoic acid glycosylation protein相同遺伝子等をコードするオペロンが存在していた。この遺伝子座の配列を使ったPCRによる評価では、L. brevis混濁菌が高い確率で識別され、さらにPediococcus damnosusの混濁菌も見分けていた。これまでにL. brevis混濁菌、P. damnosus混濁菌を識別する抗血清が取得されており、これらの抗血清はビール混濁菌に特異的なテイコ酸を含む細胞壁外層の糖鎖構造を認識していると考えられている。従って、本論文で発見されたテイコ酸グリコシレーション蛋白等をコードする当該遺伝子座が、乳酸菌の混濁能にかかわっている可能性は非常に高いと考えられた。

第3章では、従来微生物の検出・同定法に用いて来たPCRに替わって、作業現場での利用に向いているとされているLAMP法と言う新しい遺伝子増幅技術のビール有害微生物検出・同定系への応用について検討した。検討対象として、野生酵母であるDekkera属酵母を選択した。ITS領域を標的にしてDekkera属酵母4菌種(Dekkera anomala、D. bruxellensis、D. custersiana、Brettanomyces naardenensis)用のLAMP法プライマーセットを開発したところ、反応1時間以内にこれら菌種を特異的に識別出来た。このプライマーセットを使ったLAMP法は、蒸留水、ワイン、ビールに懸濁した101 cfuレベルのDekkera属酵母を検出できた。また、ワインやビールにSaccharomyces属酵母を多量に懸濁した場合でも、同程度の感度でDekkera属酵母を検出できた。このように特異性、作業効率、検出感度の面から、本研究で開発したDekkera属を検出するLAMP法は、ビール工場の他、ワイナリー等においても非常に有用な微生物検査手法となると考えられた。

以上、本研究は、ビール混濁乳酸菌を特異的に識別できる新規な遺伝子マーカーや特異性・検出感度の高いDekkera属酵母検出用LAMPプライマーを用いることで、ビールやワインから直接対象菌株を検出でき、工程内での微生物検査に有用であることを示したものであり、学術的さらには産業応用的に貢献するところが多い。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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