学位論文要旨



No 216842
著者(漢字) 羽山,裕子
著者(英字)
著者(カナ) ハヤマ,ヒロコ
標題(和) エチレンによるモモ果実の軟化制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 216842
報告番号 乙16842
学位授与日 2007.10.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16842号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 准教授 経塚,淳子
 東京大学 准教授 河鰭,実之
内容要旨 要旨を表示する

モモには,成熟に伴う果肉の軟化特性が遺伝的に異なる幾つかのタイプが存在する。我が国の消費者は軟らかい果肉のモモを好むため,現在栽培されている主要品種は成熟に伴い急激に果肉が軟化する溶質タイプと呼ばれるモモである。溶質タイプのモモは,成熟果実の果肉が軟らかいという特性上,収穫作業や出荷後の流通過程において押し傷などがつきやすく,取り扱いの過程で商品性を失う果実の比率も高い。また,収穫後の日持ち性が極めて悪く,販売時における果実廃棄率も高い。このため,モモでは高品質な果実を安定的に供給する上で,果実の軟化制御技術の開発は極めて重要な課題となっている。

モモはクライマクテリック型果実の一つであり,成熟時には果肉の軟化とともにエチレン生成量が増加する。トマトでは,形質転換体を用いた研究によりエチレンが軟化に関与することが示されているが,モモでは形質転換体の作出が難しいこともあり,軟化に対するエチレンの直接的な関与は示されていなかった。一方,モモには成熟期になっても果肉が硬いままで収穫後もほとんど軟化しない硬肉タイプと呼ばれるモモが存在する。近年の研究により,硬肉タイプのモモは,成熟に伴うエチレン生成が遺伝的に抑制されていること,成熟果実にエチレンを処理すると溶質タイプのモモと同様に軟化が認められることが明らかにされた。硬肉タイプのモモは,処理したエチレンの影響が内生エチレンによってマスクされることがないため,その影響を容易に制御することが可能であると考えられる。

そこで,この硬肉タイプのモモを利用し,軟化に関わる遺伝子発現の面からエチレンによる果肉軟化制御機構を解明するとともに,エチレン生成阻害剤等を利用した果肉軟化制御技術の開発を目指して,本研究を実施した。

ペクチンの分解に関与するポリガラクツロナーゼ(PG)およびペクチンメチルエステラーゼ(PME)活性に及ぼすエチレンの影響

モモの成熟果実では,果肉軟化に伴い細胞壁に含まれるペクチンが大量に可溶化するとともに,ペクチンの分解に関与するendo型PG,exo型PGおよびPMEの活性が上昇することが明らかにされている。そこで,硬肉タイプのモモにおけるエチレン処理が,果肉軟化とこれらの酵素活性に及ぼす影響について調べた。

エチレンを処理しない場合,硬肉タイプのモモでは,収穫後も果肉は軟化せず,またendo型およびexo型PGの活性は低いままであった。エチレンを処理した場合には,果肉は急激に軟化し,同時にendo型およびexo型PGの活性が急激に増大した。一方,PMEは,エチレン処理の有無に関わらず一定の活性が認められたことから,エチレンによる影響は受けないものと考えられた。また,果肉軟化は,エチレン処理開始後12時間目以降に認められたが,endo型PGおよびexo型PG活性の上昇も軟化と同様にエチレン処理開始後12時間目以降に認められたことから,これらの酵素活性の増大がモモ果実の軟化において重要な役割を担っていることが示唆された。

成熟果実で発現する細胞壁代謝関連酵素遺伝子の発現に及ぼすエチレンの影響

果肉の軟化には,PGをはじめとする様々な細胞壁代謝に関与する酵素が関係していることが明らかにされている。そこで,軟化過程のモモ果実で発現する5種類の細胞壁代謝関連酵素遺伝子,endo型PG(PpPG),endo型1,4-グルカナーゼ(PpEG4),アラビノフラノシダーゼ・キシロシダーゼ(PpARF/XYL)およびペクチン酸リアーゼ(PpPL1,PpPL2)について,溶質タイプの果実の樹上での成熟過程や硬肉タイプのモモ果実における発現を解析した。その結果,これらの遺伝子は,大きく2つのグループに分けられた。一つは,樹上において成熟期の前半に発現量が増加し,そのまま発現が継続するグループで,本グループの遺伝子は硬肉タイプのモモでも発現が認められたことから,エチレン非依存的に発現するか,非常に微量なエチレンによって制御されていると考えられた。他方は,樹上では成熟後期のやや過熟な果実で急激に発現量が増加するグループで,硬肉タイプのモモではほとんど発現が認められなかったことから,エチレンによって発現が誘導されると考えられた。

果肉軟化に関与するエクスパンシン遺伝子の解析

エクスパンシンは,オーキシンによって促進される細胞伸長,いわゆる酸成長において重要な役割を果たすタンパク質と考えられてきたが,近年の研究によりトマト果実の軟化にも関与することが明らかにされた。そこで,モモの成熟果実で発現するエクスパンシン遺伝子を3種類(PpExp1~3)単離し,果肉軟化との関係を解析した。はじめに,溶質タイプのモモと硬肉タイプのモモについて,成熟果実の果肉におけるエクスパンシン遺伝子の発現パターンを比較した。その結果,PpExp1およびPpExp2は両タイプの果肉で発現していたが,PpExp3は溶質タイプの果肉でのみ強く発現し,硬肉タイプの果肉では発現が顕著に抑制されていた。このことから,モモでは,PpExp3が収穫後の急激な軟化に関与している可能性が示唆された。一方,トマトの軟化に関与するエクスパンシン(LeExp1)の抗体を用いてウエスタンブロット解析を行ったところ,エクスパンシンタンパク質の蓄積量は,両タイプの果実で差異が認められなかったことから,軟化はエクスパンシンタンパク質の蓄積のみでは進行しないことが明らかとなった。

エチレンの処理条件が果肉軟化並びに軟化関連遺伝子の発現に及ぼす影響

これまでの研究により,エチレンにより引き起こされる成熟後期の急激な軟化においては,PpPG,PpARF/XYLおよびPpExp3が重要な役割を持つと考えられた。そこで,エチレンが果肉軟化およびこれらの発現に及ぼす影響を詳細に検討するため,硬肉タイプのモモを供試し,エチレンの処理濃度(0.1 u11(-1),1 u11(-1),10 u11(-1),100 u11(-1))および軟化途中におけるエチレン処理停止の影響を解析した。その結果,いずれの処理濃度においても果肉は軟化したが,軟化の速度はエチレン濃度に依存しており,濃度が高いほど速かった。また,エチレン処理を停止すると,処理停止後12~24時間で軟化が顕著に抑制されたことから,軟化が進行するにはエチレンの存在が不可欠であることが明らかになった。一方,PpPG,PpARF/XYLおよびPpExp3の発現量は,エチレン処理開始後12時間以内に増加し,処理停止後12時間以内に減少したことから,これらの遺伝子の発現はエチレンによって制御されていることが明らかになった。特に,PpPGの発現量は処理するエチレン濃度が高いほど多く,発現量と軟化速度との間には正の相関が認められた。これらのことから,エチレンはこれらの遺伝子の発現を制御することにより果肉軟化を促進する可能性が示唆された。

エチレン生成阻害剤および作用阻害剤処理による軟化抑制技術の開発

モモ果実における成熟後期の急激な軟化はエチレンによって引き起こされることから,エチレンの生成または作用を制御することにより抑制できるものと考えられた。そこで,エチレン生成阻害剤であるアミノエトキシビニルグリシン(AVG)とエチレン作用阻害剤である1-メチルシクロプロペン(1-MCP)の処理が溶質タイプのモモにおける果肉軟化に及ぼす影響を検討した。その結果,AVGの単用処理では,果実のエチレン生成量は顕著に抑制されたが,収穫後の急激な軟化が抑制されなかった。1-MCPの単用処理では,収穫後1日目においては軟化抑制効果が認められたが,その後は軟化が抑制されなかった。一方,両剤を併用処理すると,軟化が顕著に抑制され,収穫2週間後においても10 N以上の果肉硬度が維持された。

硬肉モモを活用した軟化制御技術の開発

硬肉タイプのモモは,収穫・流通過程における取り扱いは容易であるが,軟らかいモモが好まれる我が国における商品性は低い。そこで,人為的なエチレン処理により果肉を適度に軟化させる方法を検討した。これまでの研究により,果肉軟化はエチレンの存在下でのみ進行するため,硬肉タイプのモモを食べ頃の硬度まで軟化させるには,2~3日間の継続的なエチレン処理が必要と考えられた。バナナを追熟する際は密閉空間内でエチレンを暴露処理するが,硬肉タイプのモモをこのような長時間密閉すると炭酸ガス障害を起こす。このため,適度なガス透過性を持つ出荷用段ボール箱に,エチレンの発生量と発生期間を改変したキウイフルーツ追熟用エチレン発生剤とともに果実を梱包することにより硬肉モモの果実を簡便に軟化させる方法を開発した。

以上要するに,モモ果実の軟化のうち,成熟後期に見られる急激な軟化が進行するには,継続的にエチレンが存在することが必要であり,また軟化の進行速度はエチレンの濃度に依存することを明らかにした。また,endo型PG(PpPG),アラビノフラノシダーゼ・キシロシダーゼ(PpARF/XYL)およびエクスパンシン(PpExp3)の遺伝子発現は,エチレンによって制御されていることを明らかにした。さらに,溶質タイプのモモにおける果肉軟化は,エチレン作用性阻害剤(1-MCP)とエチレン生成阻害剤(AVG)の併用処理により抑制可能であること,また硬肉タイプのモモは,適度なガス透過性を持つ出荷用段ボール箱とエチレン発生剤を組み合わせることにより簡便に軟化させられることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

モモには,果肉の成熟,軟化の特性が遺伝的に異なる幾つかのタイプが存在する。現在栽培されている品種の大部分は成熟に伴い急激に果肉が軟化する溶質タイプと呼ばれるモモであるが,軟らかいために取り扱いが難しく,収穫後の日持ち性も悪い。したがって,高品質なモモ果実を安定供給するため,果実の軟化制御技術の開発が重要な課題となっている。

モモは,クライマクテリック型果実の一つであり,成熟時には果肉が軟化し,エチレン生成量が増加するが,軟化に対するエチレンの直接的な関与は示されていない。本研究は,成熟期になっても果肉が硬く,収穫後もほとんど軟化しない硬肉タイプと呼ばれるモモを利用し,軟化に関わる遺伝子発現の面からエチレンによる果肉軟化制御機構を解明するとともに,果肉軟化制御技術の開発を目指した研究である。

1.ポリガラクツロナーゼ(PG)およびペクチンメチルエステラーゼ(PME)活性に及ぼすエチレンの影響

通常のモモでは軟化に伴い細胞壁に含まれるペクチンが大量に可溶化し,エンド型PG,エクソ型PG,およびPMEの活性が上昇するが,硬肉タイプのモモでは,エチレンを処理しないと,果肉は軟化せず,エンド型,エクソ型PGの活性は低いままであった。しかし,エチレンを処理すると,果肉は急激に軟化し,エンド型とエクソ型のPG活性も急増したが,PMEは変化しなかった。したがって,PG活性の増大がモモの軟化において重要な役割を果たしていると考えられた。

2.細胞壁代謝関連酵素遺伝子の発現とエチレン

軟化過程のモモ果実で発現する5種類の細胞壁代謝関連酵素遺伝子,エンド型PG(PpPG),エンド型1,4-グルカナーゼ(PpEG4),アラビノフラノシダーゼ・キシロシダーゼ(PpARF/XYL)およびペクチン酸リアーゼ(PpPL1,PpPL2)の発現を溶質タイプと硬肉タイプのモモ果実で比較したところ,樹上において成熟期の前半に発現量が増加し,そのまま発現が継続する遺伝子(PpEG4,PpPL1,PpPL2)と樹上では成熟後期のやや過熟な果実で発現量が急増する遺伝子(PpPGとPpARF/XYL)に分けることができた。また,硬肉タイプのモモでは後者はほとんど発現しなかった。

3.果肉軟化に関与するエクスパンシン遺伝子の解析

モモの成熟果実から3種類のエクスパンシン遺伝子(PpExp1~3)を単離し,果肉軟化との関係を解析したところ,PpExp1およびPpExp2は溶質,硬肉,両タイプのモモで発現したが,PpExp3は溶質タイプでのみ強く発現した。このことから,モモでは,PpExp3が収穫後の急激な軟化に関与している可能性が示唆された。しかし,ウエスタンブロット解析を行ったところ,エクスパンシンタンパク質の蓄積量は,溶質タイプと硬肉タイプで差がなかったので,軟化はエクスパンシンタンパク質の蓄積のみでは進行しないと考えられた。

4.エチレン処理条件が果肉軟化と軟化関連遺伝子の発現に及ぼす影響

硬肉タイプのモモにおいて,エチレン処理濃度および軟化途中のエチレン処理停止がPpPG,PpARF/XYLおよびPpExp3の発現に及ぼす影響を調査した。その結果,いずれの濃度でも果肉は軟化したが,軟化の速度は濃度が高いほど速かった。また,エチレン処理を停止すると,12~24時間後には軟化が顕著に抑制されたことから,軟化の進行にはエチレンの存在が不可欠であると考えられた。一方,PpPG,PpARF/XYLおよびPpExp3の発現量は,エチレン処理開始あるいは停止後12時間以内に,それぞれ増加,減少したことから,エチレンはこれら遺伝子の発現を制御することによって軟化を促進していると考えられた。

5.軟化抑制技術の開発と硬肉タイプの利用技術

エチレン生成阻害剤であるアミノエトキシビニルグリシンを単用処理すると,溶質タイプの果実のエチレン生成量は顕著に抑制されたが,軟化は抑制されなかった。一方,エチレン作用阻害剤の1-メチルシクロプロペンを単用処理すると,収穫後1日目のみ軟化抑制効果が認められた。両剤を併用処理すると,軟化が顕著に抑制された。また,硬肉タイプのモモを軟化させるには,2~3日間の連続したエチレン処理が必要であることを明らかにし,エチレンの発生量と発生期間を調節したエチレン発生剤を利用して硬肉モモを簡便に軟化させる方法を開発した。

以上要するに,モモ果実の成熟後期の急激な軟化には,連続的なエチレンの存在が不可欠であること,またエチレンはエンド型PG,PpARF/XYLおよびPpExp3の遺伝子発現を制御することによって軟化を引き起こすことを明らかにしたもので,学術上,応用上,学術上,応用上価値があると認められた。よって,審査委員一同は,本論文が博士(農学)を授与されるに相応しいと認めた。

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