学位論文要旨



No 216847
著者(漢字) 井口,晴久
著者(英字)
著者(カナ) イグチ,ハルヒサ
標題(和) 転写因子SOX6の膵β細胞における機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 216847
報告番号 乙16847
学位授与日 2007.10.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第16847号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 准教授 武田,弘資
内容要旨 要旨を表示する

糖尿病とは、インスリン作用が減弱して糖が細胞に取り込まれず、血液中の糖濃度(血糖値)が高くなる病気であり、発症メカニズムによって1型糖尿病と2型糖尿病の2つに大別される。1型糖尿病は日本人の糖尿病患者の5%程度であり、膵臓ランゲルハンス氏島(ラ氏島)に局在する膵β細胞(インスリン産生細胞)が自己免疫などの機序によって破壊され、インスリンがほとんど作られなくなるために起こる。一方、日本人の糖尿病患者の90%以上を占めるのは2型糖尿病である。2型糖尿病は遺伝的な要因に加えて、過食、運動不足、肥満などの生活習慣が原因で以下に述べるメカニズムで引き起こされると考えられている。まず、肝臓、骨格筋、脂肪等の臓器(インスリン感受性臓器)におけるインスリン感受性が低下することで、相対的なインス.リン供給不足の状態に陥る。このような状態は、インスリン抵抗性と呼ばれている。このインスリン抵抗性状態を代償するために、膵β細胞はインスリン分泌量を増やしてインスリン不足を解消し、血糖値を正常に保とうとする。ところが、この状態が長く続くと膵β細胞は疲弊してしまい、ついにはインスリン分泌量が低下し、糖尿病の発症に至るのである。日本人は欧米人と比較して、膵β細胞のインスリン分泌能が元来低いため、インスリン抵抗性を代償するためのインスリン分泌量が不足しがちである。ゆえに、日本人の2型糖尿病の治療を考える上で、代償的なインスリン分泌増加メカニズムの解明は重要な課題と考えた。

インスリン分泌が増加した膵β細胞はインスリン分泌能が活1生化されているだけでなく、増殖能を強化して細胞数を増加していると言われている。このように細胞の機能を変化させるには、遺伝子の発現パターンを多様に変動させる必要があると考え、膵β細胞に発現する転写因子の中に代償的インスリン分泌増加に関与する因子があると予想した。始めに、代償的インスリン分泌増加が起きている膵ラ氏島と通常の膵ラ氏島の遺伝子発現プロファイルを比較して、発現量が変化する転写因子の選抜を試みた。すなわち、高脂肪食負荷マウスと通常食マウスそれぞれから膵ラ氏島を摘出し、両者の遺伝子発現プロファイルをDNAマイクロアレイ法とQRTPCR法を組み合わせて比較解析した。高脂肪食負荷マウスはインスリン抵抗性が惹起され、通常食マウスに比べてインスリン分泌が増加するモデルマウスである。その結果、両者の発現量に2倍以上の差のある転写因子を17個見出した。次に、選抜した17個の転写因子がインスリン分泌を制御するか調べるために、MIN6細胞(マウス膵β細胞由来培養細胞)にレトロウイルスを用いて該転写因子を強制発現した。その結果、代償的インスリン分泌増加時に発現減少する転写因子であるSex・determiningregionYboxcontaininggene6(SOX6)がインスリン分泌を負に調節することを見出した。

SOX6のインスリン分泌抑制メカニズムを解析するために、グルコース依存性インスリン分泌のキーステップである細胞内ATP合成及びインスリン含量に対するSOX6の影響を検討した。その結果、SOX6は細胞内ATPIADP比を減少させると共に、細胞内インスリン含量も減少させることが明らかとなった。そこで、SOX6強制発現MIN6細胞とコントロールMIN6細胞においてATP合成に関与する遺伝子群及びインス,リン遺伝子の発現量を比較したところ、酸化的リン酸化酵素群の一部と、インスリン遺伝子の発現量が、SOX6強制発現MIN6細胞において約50%減少していることが分かった。そこで、SOX6の転写抑制メカニズムをラットインスリン遺伝子のプロモーターを用いて解析したところ、MIN6細胞においてSOX6はインスリンプロモーター転写活性を抑制することが分かった。更に、非膵β細胞であるBHK21細胞においても、PDX1とE47を共発現することで活性化されたイシスリンプロモーターがSOX6によって抑制された。次に、SOX6がPDX1かE47どちらの転写活性を阻害しているかを、mammaliantwo・hybridアッセイを用いて検討した結果、SOX6はGAL4融合PDX1の転写活性を抑制したのに対して、GAL4融合E47の転写活性には影響しなかった。そこで、以降はSOX6とPDX1に注目して更に解析を進めた。

SOX6とPDX1の間の相互作用をGSTプルダウンアッセイにより調べた結果、PDX1のN末端がSOX6のHMG領域と結合することが分かった。更に、クロマチン免疫沈降法を用いることで、SOX6とPDX1が細胞内においても結合し、インスリンプロモーター上に共存していることを確認した。以上の結果から、SOX6は転写因子PDX1と結合しその転写活性を抑制することによって、インスリンプロモーター活性を抑制していることが示された。

sox6のインスリン分泌抑制メカニズムの解析結果から、sox6がPDX1のレプレッサーとして働くこと、酸化的リン酸化酵素群の一部及びインスリン遺伝子の発現を抑制することで、細胞内ATP/ADP比、インスリン含量を減少させることが示された。

一方、代償的インスリン分泌増加のメカニズムにおいて、インスリン分泌能の増強に加えて、膵β細胞の細胞増殖活性の上昇も重要である。そこで、SOX6の膵β細胞増殖に対する影響を検討した結果、sox6強制発現細胞の細胞増殖が著明に抑制されることが分かった.逆に、siRNAを用いて膵β細胞由来細胞であるINS-1E細胞のSOX6の発現を抑制したところ、細胞増殖が促進された。そこで、筆者はSOX6の膵β細胞増殖抑制メカニズムの解析に取り組んだ。

まず、SOX6強制発現細胞のEACS解析を行った結果、SOX6はG1期からS期への移行を妨げていることが分かった。次に、SOX6強制発現細胞とコントロール細胞において、G1期からS期への移行を制御する遺伝子群の発現変動をQRT-PCR法を用いて検討した。その結果、sox6強制発現NIH-3T3細胞において、サイクリンD1、D2、D3、E1の減少が認められた。特に、サイクリンD1の発現抑制は顕著であり、70%以上抑制されることが分かった。これらサイクリン遺伝子群はβ一カテニンという転写活性化因子により転写制御されることが知られている。そこで、筆者はSOX6とβ一カテニンの関係に着目して以降の解析を進めた。

サイクリンD1プロモーター活性に対するSOX6とβ-カテニンの影響を調べたところ、β-カテニンはサイクリンD1プロモーター活性を増加させるが、SOX6を共発現させると増加した活性が減少することが分かった。続いて、SOX6とβ-カテニンのサイクリンD1プロモーター上の結合様式をクロマチン免疫沈降法を用いて検証した結果、SOX6はβ-カテニンを介してサイクリンD1プロモーターに結合し、その転写活性を抑制していると考えられた。

更に、ヒストンデアセチラーゼ(HDAC)の阻害剤の一種であるスクリプタイドを培地中に添加することで、SOX6強制発現により減少したサイクリンD1プロモーター活性が回復することが分かった。このことから、SOX6はHDACをサイクリンD1プロモーター上にリクルートすることでピストンの脱アセチル化を引き起こし、その転写活性を抑制していることが示唆された。次に、SOX6がどのRDAC分子種をサイクリンD1プロモーター上ヘリクルートするかをクロマチン免疫沈降法を用いて調べたところ、HDAC1がSOX6を強制発現することによりサイクリンD1プロモー一ターヘリクルートされることが分かった。更に、β-カテニン、SOX6、HDAC1の3者が複合体を形成しているかを免疫沈降法を用いて検討した結果、SOX6を橋渡し役とするβ-カテニン/SOX6/HDAC1の3者の複合体が細胞内で形成されていることが分かった。

SOX6による膵β細胞増殖抑制メカニズムの解析結果から、SOX6はβ-カテニン転写複合体に且DAC1をリクルートすることでその転写活性を阻害し、サイクリンD1等の細胞周期を調節する遺伝子群の転写を抑制することが分かった。

本研究成果から、SOX6は膵β細胞の細胞増殖とインスリン分泌の両方を抑制する機能を持った転写因子であること、インスリン分泌充進状態の膵β細胞において発現が減少することが分かった。このことから、SOX6がインスリン抵抗性を代償するためのインスリン分泌増加メカニズムの一端を担っている可能性が示唆された。インスリン感受性臓器へ十分にインスリンが供給されている糖代謝が正常な状態では、膵β細胞においてSOX6はブレーキ役として働きインスリン分泌量を適正に調節しているが、インスリン分泌を充進させる必要が生じた場合は、膵β細胞はSOX6の発現を抑制して、言わばブレーキを外すことでインスリン分泌、細胞増殖を活性化し、インスリン需要に応えていると考えられる。

日本人ρ糖尿病患者は、欧米人のような極度の肥満患者は少なく、軽度の肥満やインスリン抵抗性にインスリン分泌不足が重なっていることが多い。日本人の糖尿病治療には、軽度のインスリン抵抗性を代償するために十分なインスリン量を膵β細胞に分泌させることは、効果的な手段であると考えられる。本研究から、代償的インスリン分泌充進の分子メカニズムの1つとしてSOX6発現減少によるPDX1、β-カテニンの活性化が示唆された。今後、PDX1、β-カテニンを活性化する低分子化合物が得られれば、日本人に向いた2型糖尿病治療薬となる可能性があると考える。

審査要旨 要旨を表示する

糖尿病とは、インスリン作用が減弱して糖が細胞に取り込まれず、血糖値が高くなる病気であり、発症メカニズムによって1型糖尿病と2型糖尿病の2つに大別される。1型糖尿病は日本人の糖尿病患者の5%程度であるのに対して、日本人の糖尿病患者の90%以上を占めるのは2型糖尿病である。2型糖尿病は遺伝的な要因に加えて、過食、運動不足、肥満などの生活習慣が原因で以下に述べるメカニズムで引き起こされると考えられている。まず、肝臓、骨格筋、脂肪等の臓器におげるインスリン感受性が低下することで、相対的なインスリン供給不足の状態に陥る。このインスリン抵抗性状態を代償するために、膵β細胞はインスリン分泌量を増やしてインスリン不足を解消し、血糖値を正常に保とうとする。ところが、この状態が長く続くと膵β細胞は疲弊してしまい、ついにはインスリン分泌量が低下し、糖尿病の発症に至るのである。日本人は欧米人と比較して、膵β細胞のインスリン分泌能が元来低いため、インスリン抵抗性を代償するためのインスリン分泌量が不足しがちである。ゆえに、日本人の2型糖尿病の治療を考える上で、代償的なインスリン分泌増加メカニズムの解明は重要な課題である。本研究では、インスリン分泌増加、膵β細胞の増殖に関与する因子としてSex-determiningregionY-boxcontaininggene6(SOX6)という転写因子を見出し、その作用メカニズム解析を行った。

第1部転写因子SOX6とPDX1によるインスリン分泌調節機構

SOX6は高脂肪食負荷マウス、ob/obマウス等の高インスリン血症モデルマウスの膵ラ氏島において、mRNAレベル及びタンパクレベルで発現減少することを示した。また、膵β細胞特異的遺伝子であるPancreatic-duodenalhomeoboxfactor-1(PDX1)との2重蛍光免疫染色の結果から、SOX6は確かに膵ラ氏島のβ細胞に発現していることを確認した。更に、SOX6をMIN6細胞(マウス膵β細胞由来培養細胞)にレトロウイルスを用いて強制発現した結果、SOX6強制発現細胞においてグルコニス依存性インスリン分泌が抑制されることを見出した。

そこで、グルコース依存性インスリン分泌のキーステップである細胞内ATP合成及びインスリン含量に対するSOX6の影響を検討した。その結果、SOX6は細胞内ATP/ADP比を減少させると共に、細胞内インスリン含量も減少させることを明らかとした。次に、SOX6強制発現MIN6細胞とコントロールMIN6細胞においてATP合成に関与する遺伝子群及びインスリン遺伝子の発現量を比較したところ、酸化的リン酸化酵素群の一部と、インスリン1、II遺伝子の発現量が、SOX6強制発現MIN6細胞において約50%減少していることを示した。そこで、SOX6の転写抑制メカニズムをラットインスリンII遺伝子のプロモーターを用いて解析したところ、SOX6はPDX1という転写因子の転写活性を抑制することで、インスリン発現を抑制していることが分かった。また、GSTプルダウンアッセイやクロマチン免疫沈降法により、SOX6とPDX1が直接結合し、インスリンプロモーター上に共存していることを確認した。この結果から、SOX6は転写因子PDX1と結合しその転写活性を抑制することによって、インスリンプロモーター活性を抑制することが示された。

以上の解析から、SOX6がPDX1のレプレッサーとして働くこと、酸化的リン酸化酵素群の一部及びインスリン遺伝子の発現を抑制することで、細胞内ATP!ADP比、インスリン含量を減少させることが示された。これらの結果、SOX6がインスリン分泌を抑制すると考えられた。

第2部転写因子SOX6とβ-カテニンによる細胞増殖調節機構

次に、SOX6の膵β細胞増殖に対する影響を検討した結果、SOX6強制発現細胞の細胞増殖が著明に抑制されることが分かった.逆に、siRNAを用いて膵β細胞由来細胞であるINS-1E細胞のSOX6の発現を抑制したところ、細胞増殖が促進された。

そこで、SOX6強制発現細胞の細胞増殖が細胞周期のどの段階で止まっているかを調べるためにEACS解析を行った結果、SOX6はG1期からS期への移行を妨げていることが示された。次に、SOX6強制発現細胞とコントロール細胞の遺伝子発現変動を調べたところ、サイクリンD1、D2、D3、E1の減少が認められた。これらサイクリン遺伝子群はβ-カテニンという転写活性化因子により転写制御されることが知られているので、以降はSOX6とβ-カテニンの関係を解析した。

サイクリンD1プロモーター活性に対するSOX6とβ-カテニンの影響を調べたところ、β-カテニンはサイクリンD1プロモーター活性を増加させるが、SOX6を共発現させると増加した活性が減少することが分かった。続いて、SOX6がβ-カテニンと結合しサイクリンD1プロモーター上にリクルートされることをクロマチン免疫沈降法を用いて確認した。更に詳細にSOX6のβ-カテニン転写抑制メカニズムを解析するために、ヒストンデアセチラーゼ(HDAC)の阻害剤の一種であるスクリプタイドを用いた検討を行った。スクリプタイドを添加することで、SOX6強制発現により減少したサイクリンD1プロモーター活性が回復することが分かった。このことから、SOX6はHDACをサイクリンD1プロモーター上にリクルートすることでピストンの脱アセチル化を引き起こし、その転写活性を抑制していることが示唆された。また、免疫沈降法によりRDACファミリーの1つであるHDAC1がβ-カテニン、SOX6と複合体を形成していることが分かった。

以上の解析結果から、SOX6はβ-カテニン転写複合体にHDAC1をリクルートすることでその転写活性を阻害し、サイクリンD1等の細胞周期を調節する遺伝子群の転写を抑制することが示された。

本研究結果は、SOX6が膵β細胞の細胞増殖とインスリン分泌の両方を抑制する機能を持った転写因子であること、インスリン分泌亢進状態の膵β細胞において発現が減少することを示したはじめての知見である。このことから、SOX6がインスリン抵抗性を代償するためのインスリン分泌増加メカニズムの一端を担っている可能性が示唆された。今後、SOX6の活性を調節することで、新たな糖尿病治療薬の開発が期待される。以上のことから本研究は博士(薬学)の学位に充分値するものと判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50276