学位論文要旨



No 216861
著者(漢字) 後藤,隼人
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,ハヤト
標題(和) 結晶中の希土類イオンを用いた量子状態制御および共振器量子電磁力学
標題(洋) Quantum-state manipulation and cavity quantum electrodynamics with rare-earth ions in a crystal
報告番号 216861
報告番号 乙16861
学位授与日 2007.11.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第16861号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 村尾,美緒
 東京大学 准教授 島野,亮
 東京大学 教授 末元,徹
 東京大学 准教授 香取,秀俊
 東京大学 准教授 鳥井,寿夫
内容要旨 要旨を表示する

この20年、重ね合わせの状態や非局所相関などに代表される量子力学特有の性質を情報科学へ応用する研究が幅広く行われてきた。この分野は量子情報科学と呼ばれている。量子情報科学のトピックスとしては、量子計算、量子暗号、量子情報理論などがある。特に、大型量子コンピュータの実現は、量子情報科学の中で最も大きな目標と言える。

本学位論文では、結晶中の希土類イオンを用いた量子コンピュータの実現を目指して我々が行ってきた、結晶中の希土類イオンを用いた量子状態制御および共振器量子電磁力学の理論的および実験的研究について発表する。

我々が結晶中の希土類イオンに着目した理由は、それが以下のような特長を有し、量子コンピュータに適しているからである。(1)光学的遷移および超微細遷移のコヒーレンス時間が非常に長い(半導体量子ドットや超伝導回路などの他の固体材料と比較して)。(2)核スピンを光で操作できる(NMR量子計算とは対照的に)。(3)イオンの位置制御が不要である(トラップしたイオンや中性原子を用いる量子計算とは対照的に)。

量子ゲート操作に対する我々のアプローチは、誘導ラマンアディアバティックパッセージ(stimulated Raman adiabatic passage、略してSTIRAP)およびそれと似たアディアバティックパッセージに基づいている。ここで、アディアバティックパッセージ(量子論的断熱過程)とは、ハミルトニアンの時間変化が十分遅く、系が初めハミルトニアンの固有状態にあるとき、その系の状態がそのハミルトニアンの固有状態に留まり続ける過程のことをいう。また、STIRAPとは、複数のレーザーが2光子共鳴している原子系において現れるいわゆる暗状態(dark state)を使ったアディアバティックパッセージのことである。暗状態とは、励起状態を含まないこの系のハミルトニアンの固有状態のことである。暗状態を使うことで、STIRAPは励起状態に起因するデコヒーレンスの影響を受けにくいという特長を持つ。希土類イオン分散結晶を用いた量子計算において、STIRAPを利用することは次の意味で自然である。STIRAPは電磁誘導透過(electromagnetically induced transparency、略してEIT)と密接な関係がある。これらがともに同じ暗状態を利用するからである。そして、固体中のEITの観測はPr3+:Y2SiO5(以下、Pr:YSO)という希土類イオン分散結晶を用いて初めて実現された。よって、希土類イオン分散結晶を用いてSTIRAPを実現できることが期待される。

そこで、我々はPr:YSOを用いてSTIRAPの実験的研究を行った。固体中のSTIRAPの実験的研究は、我々の知る限りこれが初めてである。我々はΛ型と三脚型の2種類のSTIRAPについて調べた。

最も単純なSTIRAPは、Λ型の3準位系におけるSTIRAP(Λ型STIRAP)によるポピュレーション移送である。我々はPr:YSOを用いて、Λ型STIRAPによる高効率なポピュレーション移送の実現を実験で確認した。

我々の1量子ビットゲートの方法は三脚型STIRAP(三脚型の4準位系におけるSTIRAP)に基づいているため、三脚型STIRAPは特に重要である。三脚型STIRAPは、量子力学における非可換な幾何学的位相(non-Abelian geometric phase)が現れる過程という観点からも、物理的にも興味深い。我々はPr:YSOを用いて、三脚型の4準位系における様々なタイプのポピュレーション移送の実験を行った。定性的な議論および数値シミュレーションに基づいた詳しい解析の結果、我々はこれらのポピュレーション移送が主にSTIRAPによるものだと結論した。

我々はまた、結晶中の希土類イオンを用いた量子コンピュータに適用できる、新しい2量子ビットゲート操作の方法を提案した。これの方法は光共振器を利用し、イオンの状態と共振器モードの光子の状態を含む暗状態を使ったアディアバティックパッセージに基づく。よって、この方法はSTIRAPと同じく、励起状態に起因するデコヒーレンスの影響を受けにくいという特長を持つ。我々は新たな暗状態を発見することで、この方法により多量子ビットゲートを基本ゲートに分解することなく直接実行できることも示した。

このように、2量子ビットゲート操作に対する我々のアプローチは共振器量子電磁力学に基づく。そこで、我々は、結晶中の希土類イオンと光共振器の結合を実験的に調べた。Pr:YSO結晶の向かい合った2面を球面ミラーに加工した一体型共振器を用い、それに共鳴するレーザーを外部から照射し、そのレーザー周波数を掃引しながら透過光強度を測定した。その結果、光双安定(optical bistability)および共振器の共鳴周波数のシフトを観測した。我々は、これらの現象が、入射光によるイオンのポピュレーションの再分配を考慮した理論モデルでよく説明できることを示した。

上記の共振器を用いた実験では、イオンと共振器の結合は比較的弱い。我々の次のステップはイオンと共振器の強結合を実現することである。共振器からの透過光の光子統計の研究は、原子と共振器の強結合を確認するのに役立つ。この光子統計を計算する標準的な理論的手法としては、Fokker-Planck方程式による方法と純粋状態の方法(pure-state approach)がある。純粋状態の方法は、任意の原子数および任意の結合強度に対して適用できるという意味で、Fokker-Planck方程式による方法よりも一般的である。しかし、純粋状態の方法は、原子の純粋な位相緩和がある場合には適用できない。ここで、結晶中の希土類イオンではイオンの状態の純粋な位相緩和が無視できないほど大きい、ということに注意すべきである。我々は、この光子統計を計算する新たな手法を提案した。我々の方法は演算子の期待値の方程式を用いる。原子の純粋な位相緩和がない場合、この期待値の方法は純粋状態の方法と厳密に一致する。一方、期待値の方法は、原子の純粋な位相緩和がある場合にも比較的簡単に適用できる。よって、期待値の方法は、結晶中の希土類イオンを用いた共振器量子電磁力学において有用であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、結晶中の希土類イオンを用いた誘導ラマン断熱通過法(STRAP)による量子状態制御および共振器量子電磁気学の実験的および理論的研究であり、全9章からなる。第1章から第3章まではイントロダクションであり、第1章は全体の総覧、第2章は量子計算に関するイントロダクション、第3章は結晶中の希土類イオンの特性に関するイントロダクションとなっている。第4章から第8章が本論文の主な研究成果であり、第4章が結晶中の希土類イオンを用いた量子計算機の実現方法についての理論的提案、第5章がΛ型の3準位系STIRAPによる高効率な状態遷移の実験報告、第6章が三脚型STIRAPにおける4準位系の状態遷移についての実験報告、第7章が結晶中の希土類イオンと光共振器との結合についての実験報告、第8章が共振器電磁力学における光子統計の推定方法に関する理論的提案である。第9章が全体の概要となっている。

第4章では、希土類イオン分散結晶であるPr3+:Y2SiO5(Pr:YSO)を用いた誘導ラマン断熱通過法を用いた1量子ビットゲートの説明に加えて、論文提出者らが新たに提案した2量子ビットゲートについての理論が述べられている。この方法は、光共振器を利用しイオンの状態と共振器モードの光子の状態を含む暗状態を使った断熱通過法に基づくものであり、従来提案されていた2量子ビットに比べて単純な方法での実現が可能である。また、この方法を用いれば、多量子ビットゲートを基本ゲートに分解することなく直接実行することができるため、より量子計算機の効率が上がると考えられる。

第5章では、まずPr:YSOを用いて最も単純なΛ型の3準位系におけるSTIRAPにおける高効率の状態遷移の実験結果が示されており、量子計算機の基本ゲートとして最小限満たすべき性質の確認がされている。Pr:YSOにおいてはこれまでに電磁誘導透過現象(EIT)などの現象が確認されてはいるが、固体を用いたΛ型STIRAPによる状態遷移を確認したのは、本研究成果が初めてであり、希土類イオン分散結晶の量子計算機への利用の今後の発展可能性について重要な意義がある重要な結果であると考える。

第6章では、1量子ビット実現のために必要となる三脚型4準位STIRAPによる状態遷移の実験的研究が示されている。この状態遷移の実験結果は、数値シミュレーションに基づいた詳細な解析結果により、光学ポンピングではなくSTIRAPによるものである、ということが確認された。この結果、結晶中希土類イオンの微細構造の基底状態を量子ビットとした1量子ビット回転にSTIRAPの方法が適用できることが示された。一方、この実験における回転の忠実度は低いため、より精度の高い回転を行うためには、外部磁場をかけるなどのさらなる改良が必要であるとの重要な知見を得ることができた点も高く評価する。

第7章では、2量子ビットゲート実現に関係する基礎実験として、Pr:YSO結晶の向かい合った2面を球面ミラー加工した一体型共振器を用い、それに共鳴するレーザーを外部から照射して、そのレーザー周波数を掃引しながら透過光強度を測定した実験報告が示されている。その結果、光双安定および共振器の共鳴周波数のシフトを観測し、理論解析の結果、共振器量子電磁力学における基本的な無次元パラメータであるcooperativityについては、従来研究の結果と比べて2桁の向上を得た。この結果は、2量子ビットゲート実現において必要とされる結晶中の希土類イオンと共振器の強結合の実現には及ばなかったものの、結晶中の希土類イオンを用いた共振器量子電磁力学の発展に貢献するものである。

第8章では、結晶中希土類イオンと共振器との強結合を目指した実験を解析するために、演算子の期待値の方程式を用いて共振器からの透過光の光学統計を評価する理論提案を行っている。この方法は、原子の位相緩和がある場合にも適用が可能であり、結晶中の希土類イオンを用いた共振器量子電磁力学の解析に有用であると考えられる。

本論文は、結晶中の希土類イオンを用いた量子計算機を目指した基礎要素の開発という挑戦的なテーマを扱っている。この系における量子計算機の提案は比較的新しく、イオントラップによる量子計算機等とは異なり先行研究が少ない。この状況で本論文では、基礎理論の定式化から基本要素実現のための予備実験までの、幅広く独創的な研究成果を出しており、この分野の今後の研究発展に対して大きな貢献を行うものであると考える。

なお、本論文の第4章から第8章までは市川厚一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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