学位論文要旨



No 216873
著者(漢字) 鉄野,昌弘
著者(英字)
著者(カナ) テツノ,マサヒロ
標題(和) 大伴家持「歌日誌」論考
標題(洋)
報告番号 216873
報告番号 乙16873
学位授与日 2007.12.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16873号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 准教授 大津,透
 フェリス女学院大学 名誉教授 森,朝男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、萬葉集の末四巻を中心に、大伴家持の歌、あるいはその配列が、何を語るかを明らかにしようとするものである。その際、家持が、いかに歌を構成して、それを語ろうとするか、すなわち家持の作歌方法と、その展開を、主たる観点として設定する。

かつて家持については、伝記研究が主流であった。家持の歌は、彼の官人生活や、大伴氏一族の動向と深く関わっているので、そうした研究も有意義である。しかし、萬葉集でたどられる家持の生活は、あくまでも、家持自身の語るところであって、史書その他から知られるそれとは相違する可能性が常に存する。その検証のために、歌の正確な理解が必要であることは言うまでもない。そして、それ以上に、歌と、その配列によって、それが語られることの意義を考えなければならないだろう。

歌そのものが問題にされることが少なかったのは、家持作歌に、萬葉集歌、就中山上憶良との類歌・類句が多く、模倣ばかりの稚拙な作と見られがちであったことにも因る。しかし出典研究は、家持作歌に対する漢籍の影響の強さを描き出してきた。それもまた、語句の借用乃至「唐風趣味」とも言われるが、それによる表現が、近代に秀歌と評価される歌の根幹をなしていることを見る時、影響関係は、表現方法の摂取のレベルにあると見るべきである。そうした見方に立つ時、萬葉集歌との類歌・類句関係も、同様に方法的摂取という側面から見直されよう。それは、漢籍の影響と包み合っている。憶良を初め、萬葉歌人たちは漢籍からの表現摂取によって新たな歌境を開いてきたのであったし、先行の詩文を踏まえつつ創作することは、漢詩文の伝統的なあり方だったからである。

本論文は、概ね、以上のような問題意識に立っているが、具体的な論述は、三部、一九章に分って進めている。以下、それぞれについて略述する。

第一部は、「詠物歌の方法」と題する。詠物歌は、六朝・初唐に盛行した詠物詩に倣うものであるが、家持作歌においては、物を詠むことが抒情の方法となっていることが看取される。その典型となるのが、第一章で扱う巻十九巻頭歌群、所謂「越中秀吟」である。そこでは題詞の漢語が「翻訳語」として取り込まれ、桃や帰雁など詩の素材が詠じられるなど、漢詩文の影響が露であるが、それ以上に、詩の対句部分に顕著な、鋭敏な感覚による描写が学ばれていると見られる。そのことによって、夷の地で、孤独に三月上巳の佳節を迎えようとする家持の、揺れる心情が浮き彫りにされるのである。

こうした感覚的な描写法は、青年時代から家持を特徴付ける。しかしそれが趣味の域を脱するには、家持自身の境遇の変化を必要とした。内舎人任官後、恭仁京にいる際、平城京に残る弟書持との間に交わした「霍公鳥を詠む」贈答は、廃都に残される悲しみや、山中に一人ある退屈と望郷の念を、霍公鳥に託して歌う(第二章)。そしてその転換は、家持が越中赴任後間もなく体験した大病によって決定的になる。その時は、下僚大伴池主とともに、漢詩文を交えた贈答を交わしている。その中で、書簡文の対句の文言と、歌句とを対照させる試みも行われた。先述の「越中秀吟」は、その試みの延長線上にあり、かつこの贈答を深く回想しながら歌われている。ただし、この贈答の中では、短歌の方法として詩文の描写法を用いることよりも、述志の器として、長歌を再生することへと関心が赴いて行った。病中の情を長歌に託することは、憶良に学びつつ、「臥病詩」の伝統により接近するものである(第三章)。孤独の中で低回する情を、長歌の言葉として敷き陳べてゆく方法は、京への憧憬を慰撫するための景物を恣に歌う、所謂「花鳥諷詠長歌」へと展開する。それは夷の地越中に閉塞されている鬱屈を隠微に表わす(第四章)。更に、「詠物」の長歌という点では、伝統的な讃歌の形で任地の山を歌うことによって、官人集団やその歴史へと連なろうとする「二上山の賦」も、それを引き継ぐと言ってよい(第五章)。

以上のような「詠物歌の方法」は、しかし家持の独力で学び取られたのではない。先には亡妻の悲しみを霍公鳥に成り代わって歌う父旅人の詠があり(補論一)、書持は「梅花の宴」を追慕することで自己の孤独を歌う作を残す(補論二)。そして「二上山の賦」の長歌の試みは、池主にも共有されて、「越中五賦」また家持送別の贈答へと展開する(補論三)。

第二部は、「『名』と無常」と題した。「二上山の賦」に見られる「永続」の観念は、讃歌に伝統的に歌われてきた事柄であるが、家持の特徴は、それが棒状・直線状ではなく、繰り返し現れる同質のものの連鎖として表象される点にある。それは自己をその鎖の一つとして現在ある者と認識していることを表わす。特に越中時代の雄編である「陸奥国出金詔書を賀する歌」では、原初以来、皇室の承継とともにあった大伴氏の連鎖に対する誇りと、その当代として天皇の側近で忠誠を尽くしたいという志が歌われている。それは、譲位という政界の大きな節目にあって、地方にしばりつけられている鬱屈と表裏するものであった(第一章)。一方、最末期の「族に喩す歌」では、同様の認識が、現役を退く者の立場で歌われている。鎖の一つという自己認識は、自己の有限性を前提とする。したがって、それは容易に「病に臥して無常を悲しむ」情、更には「寿を願う」情へと移行するものであった。「族に喩す歌」に強調される「大伴のナ(名)」の保持は、自己の生を、そのような形でこの世に留めたいという願望に基づくものだったと考えられる(第二章)。

氏族のナを失わず、天皇に忠誠を尽くせ、というのは、家持のみならず、律令制下、ウヂが官僚の出身母体へと変質する中で、かえって喧伝されるようになった理念である。それは、「立名」によって父母の名を顕すという中国の観念を換骨奪胎したものであり、天皇が万民の姓名を与奪する制度として具体化されていた。実際には新たに賜姓された新興氏族に有利に働く体制であったが、家持にとっては、大伴氏がどの氏族よりも古く輝かしい来歴を持つことこそが支えであった(第三章)。しかし、そのようなあり方では、個の立てた功業もウヂの名に包摂されて伝えられることになる。越中時代、出挙の任務をこなしながら、世の無常を思い、憶良が歌った本来の「立名」に対する共感を歌う家持には、それだけでは満たされない思いがあったと思われる(第四章)。

その自己固有の生を記し留めたいという願望が、「歌日誌」という形で実現されるのだと考えられる。その具体相を問うのが、第三部「『歌日誌』配列の方法」である。「族を喩す歌」や出挙の歌の歌群にも顕著であるが、家持「歌日誌」の歌は、配列された歌同士の関係にも、心境の揺らぎや触発といった意味が持たされている。「越中秀吟」のごとく、数日間にわたって短歌を連ねるのも同様である。巻十九巻末の三首は、その巻頭歌群との対照をなしつつ、孤絶の極致へと進んでゆく。三首は近代、「絶唱」と評価されるが、それはその特異な造形によるもので、春景にすら同調しえない孤独を描出する。それは、巻十九巻末記と一体であって、巻をしめくくる心情がそれであったことを示す。越中からの帰京後の苦境が、そのような形で表現されるのであった(第一章)。

末四巻においては、そのように題詞・左注が作品の重要な一部として機能する。それは歌巻の編纂の技術と言えようが、そうした技術もまた、憶良などから学ばれたとおぼしい。特に七夕歌において、日付や詠出の場を記すことで、七夕説話に託する自己の心情を暗示させる方法が、憶良から家持へと継承されていることが観察される。それとともに、家持が憶良とは異なるものを作り出そうとしている点にも注意すべきだろう(第二章)。それは、「越中諸郡巡行」の歌群についても同様である。国司の巡行に際しての作歌は、旅人・憶良らに見ることができるが、旅人らの「松浦川に遊ぶ」の如く遊覧にするのではなく、また憶良の「嘉摩三部作」のように、民衆の教化から人生論へと展開させるのでもなく、家持は諸郡での経験を一つ一つ歌ってゆく(第三章)。

そうした関係は、むしろ先行歌を読んだ上で、末四巻の歌を読むことを求めているのではなかろうか。本論文の言う「歌日誌」とは、作歌のおのずからの集積ではなく、周到に編纂されたものである。題詞や左注で他の人物をどう遇するかについても、細かい注意が払われている(補論一)。歌に付された日付や時間帯は、単に作歌時点なのではなく、歌がその時の家持を語るということのマークである。時々の景物の変化とともに、それに照らし出される家持の心情も変化する。それを記録する「歌日誌」を末四巻として持つ萬葉集とは、どのような歌集なのか。それがこれからの課題である(第四章)。

本論文は、大伴家持という人物に寄り添う形で考えてゆく。そうした動機主義的な読み方は、あるいは反動的でもあろう(補論二)。しかし時の政治情勢といったテキスト外の出来事も読み込まなければ、末四巻の正確な理解は難しい。政治家家持と歌人家持とを区別して考えることも困難だろう。本論文では、歌や題詞の理解において、客観性・実証性を追求しようと努めたことは無論であるが、方法的に厳密を欠く憶測にも踏み込んでいる(補論三)。その当否については、大方の批正を乞いたいと思う。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『万葉集』の末四巻を大伴家持の「歌日誌」として把握することで、そこに現れた家持の作歌方法をさまざまな角度から具体的に明らかにしようとした論である。末四巻の形成過程については、家持の関与のありかたをめぐって諸説あるが、本論文は末四巻全体を統御する家持の意志が明確に存在したことをつよく主張している。

全体の構成は、「第一部詠物歌の方法」「第二部「名」と無常」「第三部「歌日誌」配列の方法」の全三部十四章からなる。なお、冒頭に「総論家持「歌日誌」とその方法」を置き、第一部と第三部にそれぞれ三篇ずつの補論を配する。

第一部は、従来、先行歌の表現の踏襲・模倣が目立つとして、低い評価しか与えられていなかった家持の作の再評価を意図する。先行歌の表現を摂取する中にも、家持独自の方法が現れており、とりわけ六朝・初唐の詠物詩の手法を積極的に取り入れたところに斬新さが現れていることを、細部にわたる徹底した読みを通じて具体的に明らかにしている。「叙景による好情」が、家持の内面といかに深く関わって達成されていったのかが、これによってあらためて明確になった。これまでの否定的な評価に大きく襖を打ち込む、きわめて刺激的な考察といえる。

第二部は、「賀二陸奥国出金詔書一歌」「喩・族歌」などに頻出する「大伴の名」「祖の名」の根底にある家持の意識について論ずる。従来、佐保大納言家の嫡流である家持の氏族意識の発現として論じられることが多かったが、本論文は、「名」の無限の継承を歌うことが、実はそれを継承する個々の有限性への自覚を前提にしており、それゆえに作中にしばしば露呈する「世間無常」の観念とも矛盾しないことを明らかにしている。これまで、「大伴の名」への徹底したこだわりと「世間無常」の観念とが同一歌群中に併存することの不思議さがしばしば問題とされてきたが、本論文はそれに対する見事な解答を呈示しており、今後の研究に稗益するところまことに大きい。とくに「古代のナをめぐって」という一章を設け、歴史学の成果を参照しつつ、古代における「名」の意味の検討を根本から行っていることは、本論文の推論の確かさを側面から保証するものといえる。

第三部は、「歌日誌」配列の方法に説き及んだ論だが、とりわけ巻十九を対象として、巻頭歌群と巻末歌群との照応の様態を明らかにした点が注目される。すなわち、巻十九に歌われた内容は、巻末の「春愁三首」に示された孤愁に至るまでの軌跡を描いており、そこに「歌日誌」を編纂する家持の意志が明確に現れているとする。きわめて卓抜な把握であり、末四巻の形成をめぐる議論に大きな示唆を与えるものと評価しうる。さらに、「春愁三首」の分析の中から、「興」の問題が引き出されていることも注意される。家持歌の題詞や左注に見える「興」については様々な議論があるが、本論文ではそれを景物に感じ惹起される心とし、その時節によって刺激・触発されて発動するものと捉える。異論の余地はあるものの、これまでの見方を一歩進める意味をもつ理解といえる。

本論文は、先行研究への充分な目配りをもち、また中国詩文の影響も、資料の博捜を通じて丹念に跡づけられている。作品の分析も緻密かつ犀利で、全体としてきわめて重厚な論に仕上げられている。考察の対象を末四巻に限定したため、相聞歌を中心とする私的な歌々に言及できなかった点は惜しまれるが、本論文の成果は、今後の家持研究を導くすぐれた指標となりうる。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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