学位論文要旨



No 216874
著者(漢字) 仲野,武志
著者(英字)
著者(カナ) ナカノ,タケシ
標題(和) 公権力の行使概念の研究
標題(洋)
報告番号 216874
報告番号 乙16874
学位授与日 2007.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第16874号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 碓井,光明
 東京大学 教授 小早川,光良
 東京大学 教授 宇賀,克也
 東京大学 教授 田中,信行
 東京大学 教授 石川,健治
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、行政実体法を私人の国家に対する主観的権利の複合体として把握する<主観的構成>によっては、行政法学が本来対象とするはずの「権利に至らない利益」を保障しえないことに対する問題意識から出発している。「権利に至らない利益」を正面から位置づける理論構成としての<客観的構成>の存立条件を解明することが、本論文の主題である。

本論文は<主観的構成>の淵源となった19世紀後半のドイツに遡り、<客観的構成>との対立軸という観点から学説史を分析することによって、上記課題に取り組んでいる。すなわち本論文の中心的素材は、19世紀後半から20世紀初頭に至る独・仏・伊の古典的公法体系及びそれと補完・対抗関係にある諸理論である。かくして本論文は、序章、第1章「有機体」、第2章「制度」、第3章「法秩序」及び終章から編成される。

序章における課題設定を踏まえて、第1章ではラーバントが「主観的公権の体系」を確立する前後におけるドイツの諸学説、とりわけギールケの有機体(Organismus)理論が取り上げられる。第2章及び第3章では、フランス及びイタリアにおける古典的行政法体系の完成者であるオーリウ及びロマーノの制度(institution)理論及び法秩序(ordinamento giuridico)理論が、<客観的構成>の2つのヴァージョンとして考察される。終章では、美濃部達吉の学説から最近に至るまでの<客観的構成>の系譜を辿った後、それを実定行政実体法に即して展開することが試みられる。

序章第1節では、わが国の従来の方法論が行政法を国家・私人間の個々的な権利関係の束に還元してゆこうとする点で共通していたと指摘される。これによると、行政法の体系は、保護規範に基づく個別権に対する侵害行為を物権的妨害排除さながらに排除しうるという権利関係の集まりとしての実体法と、これに対応する保護規範説に立脚した訴訟法から構成される。しかしながら、そこでは凝集させれば公益と関連する私益であっても、個々的分解が不可避となるがゆえに、法的考察の埒外へと放逐されざるをえない結果となる。つまり<主観的構成>は、当事者の権利主張に還元されにくい利益状況を引き受けるという行政活動の存在理由に合致しない。さらに<主観的構成>は、「公権力の行使に関する不服」を当事者訴訟・民事訴訟によって争うことを封じた訴訟法システムにもそぐわない。当該システムは、公益実現過程を権利関係に置き換えるのではなく、逆に公益実現過程を個々的権利主張から保全する思考形式を含意しているからである。以上に鑑み、個別主体の意思に基づかないという意味において「客観的」な、権利段階より上位にある、行政法上の秩序・制度段階における分節を主眼とする<客観的構成>を可視化することが、本論文の目標とされる。

序章第2節では、主観的権利の体系としての客観法理解が現れる以前における法状況が概観される。そして前近代と近代とを繋ぐ位置づけにあるシュタールとサヴィニーが取り上げられ、<客観的構成>へと展開しうる可能性を秘めた諸因子が素描される。

第1章第1節では、ドイツにおける古典的公法体系の先駆者であるゲルバーの学説が俎上に載せられる。全体と部分の相互規定という、初期の有機体理論は<客観的構成>に外ならなかったが、それが内包していた意思主義的契機によって必然的に、後期の「主観的公権の体系」へと変質していった点が検討される。

第2節は、「主観的公権の体系」を確立したラーバントと初期ゲルバーの系譜を引くギールケとの論争を再評価することに当てられる。全体人格と分肢人格との間の権利関係というギールケの有機体理論は、意思関係である以上、結局のところ「主観的公権の体系」に帰一してしまうことが示される。法の世界に「個」以外の実在を導入したにもかかわらず、それを再び「個」にしてしまった点が、挫折の理由である。

第3節では、ギールケ以外の<客観的構成>に親和的な論者として、ベルナツィク及びヘーネルの学説が検討される。

第4節では、有機体理論を摂取することによって「主観的公権の体系」を集大成したイェリネクの学説が考察される。彼が地位から派生すると考えた"請求権"が結局は地位に帰一するものであったことが示され、当該"請求権"が実体権ではなく訴権に外ならないがゆえに、「主観的公権の体系」が根本的矛盾を孕むことになった点が指摘される。

第5節では、マイヤーの古典的行政法体系が取り上げられる。フランス法の継受に際して多くのドイツ化(Umdeutschung)を伴ったとはいえ、彼の体系が基本的には<客観的構成>にあった点、それにもかかわらず、次世代の行政法学者によって「主観的公権の体系」へと換骨奪胎される契機が内包されていた点が主張される。

第2章のうち、第1節、第3節及び第5節は、初期・中期・後期オーリウにおける制度理論と行政法体系との連関の分析に当てられる。制度理論は法の世界に「個」でない"団体"を取り込もうとする試みであるが、意思に基づかない法的地位を措定する点に有機体理論との相違がある。すなわち、制度とは諸statusによって編制されたStatusであり、そこでは個別的(行政)行為も対世効を有するがゆえに一般的(行政)行為と相対的とされ、地位を保障することによって制度全体を保障する越権訴訟は占有訴訟に擬えられる。このような中期オーリウの体系は、<客観的構成>の一つの姿を示すものである。しかしながら、占有が本権に転ずる如く、後期オーリウにおいては法人化の性向が顕著となる

第2節では、初期・中期オーリウを媒介する位置づけにあるミシュー及びサレイユの法人論が検討される。

第4節では、中期オーリウと対抗関係にあるバルテルミー、ボナールの公権論及びデュギーの権利否認論が考察される。フランス公権論は、ドイツでは公権の自己否定とされる法律執行請求権であることを承知の上で主張された。このことは、一般処分を行政行為の特殊類型と考えるドイツとの思想的基盤の相違を示すものとして注目に値する。またデュギーの体系はその外見にもかかわらず、<客観的構成>ではないことが明らかにされる。

第6節では、"事実"と"法"という、後期オーリウにおいて均衡していた2契機の一方に傾斜することにより、制度理論を衰滅に導いていった論者が取り上げられる。

第3章第1節では、法秩序理論に至るまでの初期ロマーノの行政法体系及び初期・中期ロマーノを媒介する位置づけにあるロマーノ及びマヨラーナの公権論及びボナウディの集合利益論が俎上に載せられる。イタリア公権論は、<主観的構成>から出発しつつも、その帰結において<客観的構成>に至る点において、過渡的主張として位置づけられる。初期ロマーノの行政法体系もまた、両者の狭間を揺れ動くものであった。この点、ボナウディの集合利益論は「権利に至らない利益」の実体法上の構成を模索した業績であり、ロマーノを始めとする多くの論者に影響を与えた。

第2節では、ロマーノの法秩序理論が俎上に載せられる。制度理論にあっては制度から法が生ずるとされていたが、法秩序理論にあっては制度すなわち法とされる。このように制度理論から社会学的色彩を払拭した点に法秩序理論の眼目がある。制度における地位の位置づけが明瞭な法律構成を与えられなかったのに対し、法秩序における地位の位置づけは"法的関連性"の概念に基づいて法実証主義的に可視化される。

第3節は、ロマーノの法秩序理論と行政法理論の連関の分析に当てられるが、結論からいえば法秩序理論が直ちに彼の行政法理論とりわけ行政訴訟学説に活用されているわけではない。その各論的展開は、ロマーノを継承するミーレ、ザノビーニ及びアモルトに委ねられた。

終章では、比較法研究の成果を直截に日本法に当てはめるのではなく、一定の距離をとりつつ、20世紀初頭から現在に至るわが国の学説・判例を省察するという手法がとられている。

第1節では、「取消訴訟手続の排他性」は私人の法的手段を縮減するのではなく、むしろ拡張するのだという行訴法立案時の見解を導きの糸として、当該<上乗せ部分>に対応する実体法が探究される。そして行政法を「『権利に至らない利益』を組み込む利害調整法」と把握する立場に焦点を絞り、戦前及び戦後の学説・判例に、かかる思想的系譜が見出される。その結果、法律上の外延をもった不特定者の利益としての"凝集利益"の概念が抽出され、実定法制の精査を通じてその総目録を作成することが最終課題として提示される。

第2節において筆者は、(旧)森林法の確認的規定を梃子として、不利益処分申請・意見提出規定を備えた"凝集利益"が出訴適格を基礎づけるというテーゼを裏付けた後、千を超える制定法を博捜することによって、かかる"凝集利益"のリストを提示するとともに、それらに共通する特質を要約している。

最後に第3節では、行政上の二極的利害調整を私権相互間、私権と特定者の私権でない利益間、私権と凝集利益間、特定者の私権でない利益相互間、特定者の私権でない利益と凝集利益間、凝集利益相互間の6通りの組合せに分類し、それぞれの特徴を論じた後、かかる一体的法律状態の層とこれに組み込まれない私権の層から成る、行政実体法の多元的・重層的構造を示して、本論文の結論としている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の長所としては、以下の点が挙げられる。

第1に、本論文は、行政法を特徴付けるものとされてきた「公権力の行使」概念について再考の必要があるとの認識のもとに、行政法の構成の仕方における2つの立場、すなわち、個別主体に帰属する主観的権利を基本単位として実体法を構成していく「主観的構成」と、権利の段階よりも上位にある行政法上の秩序・制度を基本とし、全体的制度とその部分たる地位の相互規定として実体法を構成していく「客観的構成」の対立について考察するものであるが、そこでは、この主観的構成・客観的構成の理論展開が、独仏伊の3国にわたって、かつ、一貫した視点で精緻に分析されており、まずその点が高く評価される。特に、わが国ではほとんど研究がされていなかった、サンティ・ロマーノを中心とするイタリアの公法理論の本格的研究にまで踏み込んだことの意義は大きい。

第2に、本論文においては、著者の明確な問題意識に基づく主張が展開されており、読者にとって、その主張を全面的に肯定するかどうかはともかく、論文のモチーフを明瞭に認識しうるものとなっている。すなわち、行政実体法を主観的権利の複合体として把握する主観的構成によっては、行政法において重視されるべき「権利に至らない利益」を保障することができないという問題意識のもと、主観的構成に対するアンチテーゼとしての客観的構成の成立条件を解明すべく、一貫した論旨が展開される。最近のドイツおよび日本で有力に説かれているいわゆる法関係論に対するポレミークとなっていることも注目されよう。

第3に、単なる比較法理論研究にとどまらず、その成果を踏まえて、わが国の実定法について、法律上の一定の外延を持った不特定者の利益としての「凝集利益」概念の提唱など、具体的な主張が展開されていることも、長所として挙げられよう。本論文に示されたところは、日本の実定法解釈論としての新たな展開の可能性を示唆するものとなっており、今後の一層の研究の進展が期待される。

もっとも、本論文にも、問題点がないわけではない。

第1に、わが国の実定行政訴訟制度の前提条件とそれをめぐる議論の分析においてやや手薄な観がある。すなわち、憲法および裁判所法における司法権ないし法律上の争訟の概念についての著者の見解が、必ずしも明瞭な形で提示されていない点は惜しまれる。また、凝集利益が事前の参画手続を媒介として事後の争訟を基礎付けることを個別立法例に即して論じている部分も、行政訴訟制度と行政手続法制との関係の総論的な検討が加味されればいっそう厚みを増したであろうと思われる。

第2に、全体的に、論旨を進めることに意識が集中し、周辺事情の解説が十分とはいえないという問題がある。たとえば、フランス行政法学の展開においては行政裁判所の判例が重要な位置を占めており、本論文でも多数の判例への言及があるが、それぞれについての説明が必ずしも丁寧とはいえない箇所がみられる。

しかし、このような問題点も、本論文の価値を大きく損なうものとはいえない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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