学位論文要旨



No 216877
著者(漢字) 酒井,千絵
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,チエ
標題(和) 境界を越える/境界に生きる:1990年代日本から香港・中国への自発的移住を事例として
標題(洋)
報告番号 216877
報告番号 乙16877
学位授与日 2007.12.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16877号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内田,隆三
 東京大学 教授 山本,泰
 東京大学 准教授 佐藤,俊樹
 東京大学 准教授 瀬地,山角
 上智大学 教授 吉野,耕作
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代の国際移動を人々と国の境界との関わりとして分析し、国の境界に対する帰属を本質化しながら複数化することで可能になる移住の実態を記述する。また国境を越えて広がる階層やジェンダーが、政治的、経済的、文化的な国際移住システムの中で重要な役割を果たし、移住経験や境界との関係に多様性をもたらしていることを明らかにする。

国境を越えて移動する人々の増加は、複数の国籍や文化的背景を持つ人々の混交を促すが、同時に国は法的、文化的に私たちの認識や生活に対する影響を保持し、国の内部を多様化させている。たとえば複数の文化に対する理解と出身国への帰属を本質化し、文化的資源を用いて両者を仲介する役割を担う移住者の増加は、国の変容を代表する事例である。また、移住者と国の境界の関係性は一様なものではない。特にグローバルなジェンダー関係は、国際移動の手段や移住後の職業、生活だけでなく、国の境界に対する認識や期待を多様化している。本論文では、ジェンダーによる経験の相違が顕著に見られる、日本から香港、中国への国際移動を取り上げ、移住によって変容する国とジェンダーの境界と個人の関わりを分析する。

第1章で全体の序を述べた後に、第2章では国際移動研究の動向から、国際移住システムの分析と、国際移動の過程で再編されるジェンダー関係の指摘を重要な論点としてとりあげ、本論文の課題と目的を明確にする。近年、国際移動を二国間の経済関係における個人的な行為とする「プッシュ・プル理論」から分析するのではなく、複数の地域が政治、経済、文化的に関わり合う「国際移住システム」を重視する傾向が強まっている。国際移住システムの分析は、グローバル化によって国家の役割が相対的に低下しているとする議論に対し、国家の法的、政治的な役割を指摘するものであり、国境を越える市民権や居住権の問い直しが新たな論点として発見されるという点でも重要であった。さらに移住者がエスニシティを手段的に用い、資源やネットワークとして再活性化していることが明らかになった

また1980年代以降、労働を目的として移動する男性をモデルとしてきた国際移動研究に対し、家族結合による移住が多い女性が軽視されてきたことが批判されている。ジェンダーに着目する国際移動研究は、単に女性移住者の増加を指摘するだけでなく、移住経験のジェンダー差、市民権の有無やエスニシティによる女性の多様性や権力関係を議論してきた。さらに、ジェンダーを分析に組み込むことで、従来の国際移動研究が移住先社会への永住や同化を前提としてきたことが問題化され、短期的な移住をはじめとする移住経験の変容を議論することが可能になった。また女性の労働力移住の事例を通して、送出元および移住先でのジェンダー分業と、国籍・市民権や滞在ビザの有無によって生じる搾取や階層化が議輪されてきた。他方、国際移住システムの中で、ジェンダー関係が階層や国籍などとともにどのように変容しているのかという問題は、十分に議論されてきたとはいえない。本論文は、移住経験におけるジェンダー差や差別の指摘に加え、国際移住システムのさまざまな局面にジェンダーが与える影響や、移住の過程で生じる変化に焦点を合わせる。

第3章では、1980年代後半以降増加した日本から香港・中国への移住・滞在を分析する意義と、この事例に対して有効な研究方法を示している。日本は国際移動の活発化とは無縁な社会として描かれる傾向が強く、日本からの移住に関しては特に、明治期以降の政策的な移住と、高度経済成長以降に増加した企業派遣駐在員とその家族の海外滞在に限定され、他の地域と比較されることもまれだった。こうした観点では、本研究が対象とする事例は、欧米の日本人社会よりもさらに均質・閉鎖的な在アジア日系企業社会、あるいは女性による個人的な自己実現と見なされてきた。しかし、この事例は国際移動研究の前提を問い直すとともに、国際移動経験の中でジェンダー関係を議論しうる点で重要である。まず、1990年代の「ブーム報道」や、それ以前のOL留学のイメージにみられるように、女性の海外移住は日本のジェンダー関係に対する違和感から行われる行為と描かれてきた。他方で、特にアジアへの海外移住は、派遣駐在員と現地採用社員とをジェンダー分業と一致する階層関係の中におく、二重化された雇用システムの中で行われてきた。このようなジェンダー関係について矛盾した語りから、アジアと日本との経済関係が深化する中で形作られるジェンダー関係を反映した移住システムが、人々の選択に影響を与える過程を分析することができる。

本論文は、主要な資料として移住者自身が語るライフストーリーを用い、これに政府統計、マスメディアで流通する海外移住の表象を併せて分析する。政府統計は国際移動の全体的な傾向を示し、マスメディアの言説・表象は、人々が共有する海外移住、移動のイメージを代表している。これらに加えてライフストーリーを用いる利点の一つは、移住による生活や仕事の移住の変化、交友関係や余暇などについて、語りからのみ知りうる情報を含む点にある。また1996年から2002年にかけて複数回行った調査を対比することで、滞在の長期化に伴う変化を明らかにする。同時に本論文では、当事者の語りを他の資料と対立させるのではなく、人々が社会に共有されている移住のイメージと関連づけ、あるいは対抗させながら、自分の移住経験を語っている点に注目する。つまり移住者が、一方でマスメディア等に流通する移住イメージから情報を得ながら、他方でイメージと自らの経験を対置して、移住に意味を与えていることを分析していく。

第4章から第7章では、それぞれ異なる性質を持つ複数の資料を用いて、日本から香港・中国への移住を分析する。第4章では、政府統計、政策文書、政府関連機関による公的な移住史から、現在の移住や海外渡航を語る枠組を検討する。公的な移住史は、日本からの移住・移民を「個人的な選択」と「集団的な利益」、「一時的滞在」と「永住」を対置する軸に位置づけてきた。この中で政策的な移住は、時代を経る中で集団的な利益に基づき、永住を志向する行為とされ、日本における移民イメージを規定してきた。その結果、一時的かつ個人的な行為とされる現代の移住と比較する視点が共有されにくかったと考えられる。他方で、統計資料は1980年代以降海外へ移住・滞在する日本人の増加と、滞在数や目的などに見られる顕著な地域差を示している。アジアでは日系企業に勤める男性の一時滞在が主だが、1990年代以降女性の単身移住者が増加傾向にあり、女性の多くが留学を目的として滞在する欧米とは異なり、民間企業に勤務する単身女性の割合が高いという特徴がみられた。

第5章では、主に1980年代以降テレビや雑誌などに流通した国際移動の表象とその変遷を分析する。海外出国が大衆化しはじめた1980年代には、海外滞在は日本と異なる制度や社会関係のもとで、国際的なライフスタイルを享受する個人的選択として描かれてきた。また海外滞在の長期化には、異文化への適応によって日本的な感覚を失うという否定的イメージが付与された。そのため、海外移住によって職務やキャリアにジェンダー差がある日本的雇用システムから距離をとる女性と、日本社会の価値観を保持しようとする男性とで、海外滞在のイメージに相違が生じることになった。だが、1990年代半ばより、日本の経済状況を反映して、マスメディアでも終身雇用や年功序列など日本的雇用システムへの批判が現れ、自発的移住の肯定的イメージが男性にも波及した。

また、アジア地域との経済関係が深まった1990年代以降、「アジア就職ブーム」の報道や記事が雑誌やテレビに現れた。これは、アジアで生活したい人々の増加を反映しているだけでなく、人材紹介会社がこれらの地域で日系企業社会の求人に応え、就労市場を活性化する目的を持っていた。そのため香港やシンガポールは、日本より女性が働きやすいというイメージとともに、日本の本社に所属し、管理業務を担う派遣駐在員と現地採用者との階層的な分業が実質的にジェンダー分業と一致している日系企業社会の現状を受容させるイメージが示された。

第6章では、聞き取り調査を用いて日本から香港・中国への移住が、人々の仕事や生活を変化させていく過程を記述する。マスメディアに描かれたイメージと同様、香港や中国への自発的な移住者の多くは女性であり、日本社会のジェンダー分業に不満を持ち、香港・中国を能力や経験が評価される場所と見なしていた。しかし、自発的移住者の多くは、ジェンダー分業による雇用の二重化を維持した日系企業社会で現地採用として就労しており、男性が多くを占める派遣駐在員と比べて給与や待遇が低く、仕事上の決定権も限定されている。また、求人に関わる人材紹介会社が、ジェンダー差を前提とした雇用システムを維持する役割の一端を担っている。他方で、自発的移住者は日系企業社会と現地社会の間にあると考えられている言語や文化的な差異を仲介する役割を担うことで、滞在を安定させている。日系企業に勤務する現地採用者だけでなく、外資系企業の日本人スタッフや小規模なサービス業を担う起業者も、現地社会や香港・中国に進出した欧米企業と日本を仲介する仕事に就いている。

第7章では、滞在の長期化と香港・中国と日本の関係変容による経験の変化を分析する。移住者の多くは香港や中国への同化や永住を最終目的とはしていない。調査対象者には数年の滞在を経て日本へ帰国する者に加え、日系企業社会で複数の文化を仲介してきた経験を資源として滞在を続ける者、欧米や中国の大都市へ再移住する者がみられた。また、当事者は移住経験を語る際に、第5章で述べた「就職ブーム」のイメージに言及し、またメディアを通じてブームを作り出してきた人材紹介会社を情報収集や実際の求職活動に利用している。他方で、調査対象者たちは人材紹介会社やその情報に依存する人々に対し否定的な態度をとり、情報収集力や職場にとって有益な人材かといった基準から日本人同士の差異化を図る傾向がある。これも日系企業社会内で、本質化された日本と多文化への理解を資源とした仲介的役割をめぐって、競争が行われているためである。このように、現代社会において国際移動が活発化している要因として、複数の文化を仲介する職業領域が増大するという経済的、文化的な背景が重要な意味を持っていることが明らかになる。1990年代以降の香港や2000年代以降の中国は、まさにこうした場として、多くの日本人移住者を引きつけたのである。

第8章では、ここまでに分析してきた事例から、国際移動研究への理論的貢献を整理する。まず本論文は、国際移動の過程で国の境界を再編し、国の文化や制度を本質化しながら、境界に対する自分の位置を二重化し、移住後の生活を安定させるという移住者の戦略を明らかにしている。つまり移住者自身が、閉鎖的で均質なものとして日本文化を本質化し、自分が日本に帰属しているために、香港・中国人の同僚には担えない仕事やサービスを行う能力を保持しており、待遇を相対的に上昇させていると考えている。同時に彼/女たちは、異文化に対する理解や語学力を、日本文化の内部にある人々が獲得していない文化的資源と見なし、日本と異文化を仲介する役割の重要性を主張する。つまり、彼/女たちは、複数の文化の中で仲介者の役割を担うことで滞在を安定させ、これらの仕事を通じて多文化を仲介しうる能力を高めていると主張することで、さらなる移住やキャリアの向上を可能にしている。

他方で、複数の言語や文化を仲介するという役割は周縁的なものであり、海外の日系企業社会では、ジェンダー化された雇用形態である現地採用者や小規模なサービス業を経営する起業者に担われている。同時に、日本の雇用システムにおいて周縁化されてきた移住者自身は、周縁性を利用しうる仲介者の役割を引き受けて、移住を実現していた。そのため、現地採用という不安定な雇用形態を柔軟なキャリアと読み替え、あるいは、日本社会が求めるジェンダー化された行動様式を受容して香港・中国人の同僚と差異化を図るなど、ジェンダーの境界を再構築している。このように、これまで個人的な選択として描かれる傾向があった、女性を中心とする日本からの自発的移住は、日本社会と移住先の双方に国境を越えて広がるジェンダー関係と強く関わる行為なのだ。

こうした移住戦略は、国やジェンダーの境界が実体的な相違によって設定されるのではなく、具体的な経験の中で意味を与えられていること、また移住や就労にあたって相違や帰属が利用されていることを示唆している。香港・中国で働く日本人は、日本人同士が実態として維持している紐帯ではなく、日本人は特殊な文化やコミュニケーション方法を共有しているという言説を利用して移住を行う。また、海外日系企業社会は日本におけるジェンダー関係を反映しており、女性は、日系企業社会において仲介という周縁的な役割を担いながら、日本にいたときよりも職務上の役割や待遇を向上させている。つまり香港・中国への移住事例は、人々が国とジェンダーの境界を本質的なものとして再構築するとともに、複数の文化の中で国を相対化、脱本質化し、再編することで文化的な資源を引き出すという、複数の境界との関わりを戦略的に利用する行為を明らかにするのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1990年代以降増加した、日本から香港・中国への移住・滞在という経験を事例とし、(1)当事者が語るライフストーリー、(2)政府統計から読み取れる移住の実態、(3)政府や公共機関による移住史、(4)マスメディアに流通する表象などを比較対照しながら、移住の経験に意味を与えた「社会的な語り」と「移住者個人の経験」との関連を実証的に分析した労作である。資本や人や文化・情報が国境を越えて移動することが一般化した現代社会では、複数の言語能力やジェンダーを利用して移住を試みる人々が存在するが、彼らはその移住の経験において、政治的、経済的、文化的に、国の境界に関与し、また自らその境界を再編する過程に入っていく。本論文は、このような「境界の再編」の実態を、ジェンダーやエスニシティにかんする諸理論を援用しながら分析することを通じて、現代の移住経験がもつ独自な意味を明らかにし、現代において重要なイッシューとなっている「国への帰属」という問題にも新たな認識の視角を提示したものといえよう。

本論文の第1章~第3章では、研究対象と目標の設定、方法論的な検討による分析枠組の設定、調査の設計に関する検討が行われている。先ず、本論文は、研究対象として日本から香港・中国への自発的移住を取り上げ、この国際移動の様式が、グローバリゼーションのなかにある政治・経済・文化のさまざまな側面で国の境界に拘束されながら、国の境界を利用する両義的な経験となっていることに着目し、そこで人々が国の境界と具体的に関わりながらどのような選択をし、どのような営みを行っているのかを明らかにすることを研究目標として設定する。

次いで、本論文は、(1)国際移動の経験を二国間の関係性に対する個人的な行為として分析する従来のプッシュ・プル理論ではなく、複数の地域が政治的、経済的、文化的に関わり合う「国際移住システム」という視点を援用する、(2)移住者がエスニシティを拘束条件というよりも資源として利用している側面を重視する、(3)男性労働者をモデルとしてきた従来の研究に対してジェンダーの視点から問い直しをする、(4)日本社会の文化変容とジェンダー関係のなかに国際移動の経験を位置づけ直す、といった分析枠組を立てる。

そして調査の設計としては、現代日本から香港・中国への移住という研究対象の特異性を考慮する。香港・中国への移住は、ジェンダーやその動機によって移住経験のありようが多様であり、他の移住候補となる地域と比較しながら選択・決断されたものである。そこにはさまざまな「社会的な語り」の媒介がある。それゆえ、本論文は、移住者自身のライフストーリーを聴き取り、それらを政府統計やマスメディアによる表象などの社会的なストーリーとの相互作用において分析するように調査を設計する。

第4章から第7章はこうして調査された資料にもとづき、日本から香港・中国への移住の実態を分析したものである。第4章では、従来、日本からの移住は政策的、永住的、集団的な移住の形態に力点をおいて考えられてきたが、1980年代以降日本人のアジア地域への出国、滞在、移住が大きく増加していること、そしてそれらが個人的で一時滞在的な形態を帯びていることが示され、その意味を探る必要性が提示される。第5章では、こうした移住の経験に影響を与えたマスメディアの作用を捉えるために、テレビや雑誌などの資料から国際移動のイメージとその変遷が分析された。

第6~7章では、著者が香港・中国で蒐集した移住日本人のライフストーリーが分析される。第6章では、自発的移住者のほとんどが女性であることから、ジェンダー関係に焦点を置いて移住先の選択、仕事や生活の変化、企業社会への適応の実態が分析された。第7章では、人々の長期滞在化や香港・中国及び日本の変化を踏まえて、移住の形態の変化、つまり香港や中国への移住を最終目標としない新たな選択が行われていることが示された。

第8章では、第4~7章での分析にもとづき、日本から香港・中国への移住における経験の多様性とその両義的な構造が分析される。第一に注目されるのは、自発的移住者は日本企業の派遣駐在員との待遇の格差や異なる動機において移住の多様性を示していることである。第二に、これらの移住者はその動機とは別に日本特殊論や文化的ナショナリズムを資源として利用していることである。女性を中心とする自発的移住者も、日本社会のジェンダー関係に距離を取りながら、他方では日系企業社会がもっているジェンダー関係を利用しているのである。こうした自発的移住者は、国やジェンダーの境界を一方で非本質的なものとして相対化しつつ、他方では本質的なものとして構築するという両義的な経験を通じて、それらの境界を再編していく過程に身を晒している。

以上が本論文の結構であるが、その独自の学術的価値として次の諸点を挙げることができる。第一に、本論文の研究対象にかかわることだが、日本では、高度経済成長期以前の政策的・永住志向的な移住を除くと、近年の増加の割に日本からの移住に対する関心は少なく、国際移動研究の文脈でも十分な研究が行われてきたとは言いがたかった。このような状況のなかで、本論文は、(1)日本からの自発的移住、(2)香港・中国への移住という、新しい事例を取り上げ、(3)それを国際移動システムという枠組みのもとで分析するという点で独自の業績となっている。

第二に、本論文はこれまでの日本からの移住史や、国際移動にかんする先行研究を踏まえて、国際移動システムという視点を採用するとともに、1996年から2002年にかけて、著者がインタビュアーとなり、当事者による移住経験の語りを一次資料として丹念に蒐集し、分析したこと、またその資料価値という点においても貴重な労作となっている。また、当事者の語りを扱うに際しても、メディアやエージェントに対する当事者の距離の取り方に焦点を当てることにより、それらの語りの独自な位置を浮かび上がらせることに成功しているといえよう。

第三に、本論文は、今日のグローバリションの趨勢のなかで、ナショナリズムとジェンダーの変容にかんする議論に貢献した点も評価されるべきである。本論文は、移住者が日本という国や文化の境界を本質的なものとして構築しながら、他方でその境界をまたぐ仲介者として機能することを通じて、国や文化の境界を利用し、相対化する経験を浮かび上がらせている。またそれが、移住者が日本文化にあるジェンダー関係を利用可能な資源として戦略的に組み込むことを通して可能となっているという主張も説得的である。

第四に、従来、日本から欧米への移住経験では、ジェンダー関係から自由になるという理想主義的な側面が強調されながら、実際にはそうでなかったという面があったのだが、この矛盾した構造自体はあまり語られてこなかった。それとの対比でいえば、本論文は、香港・中国への自発的移住において、当事者がジェンダー・フリーを志向しながらも、移住先でジェンダー関係を自ら再生産する捩れたメカニズムが生成することを実証的に明らかにした点で、独自な価値をもっているといえよう。

他方、本論文には次のような問題点があることも指摘されねばならない。

第一に、本論文が取り上げた自発的移住者には、移住に際して自分の独自性を主張しながら、じつはその独自性を崩すような生き方を強いられるという屈折した構造があり、その屈折自体が境界の見え方や境界という資源の拘束/利用の仕方にどういう影響を与えているのかが必ずしも明らかでないところもあり、この点は今後の課題となるだろう。

第三に、本論文では、個人のライフストーリーの語りがメディアの語りなどの社会的なストーリーとの相互作用において分析されるが、メディアの語りは商業主義やモードの論理に影響されて構築されている面があり、それが十分に見えにくいところもある。

しかしながら、これらの問題点は本論文の結構や第二に、本論文はジェンダーとそれに絡む階層性ないし周縁的な地位を背景にして発生する問題に分析の焦点を当てており、その意味では、変数として階層性をもっと組み込んだ分析が期待されるところだが、被調査者の多くがある程度同質的な人々のグループから成っているという点で一定の制約があるといえよう。

全体の業績からみればマイナーなものにとどまっており、本論文の叙述の一貫性や学術的な価値の高さを損なうものではない。したがって、本審査委員会は、本論文を、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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