学位論文要旨



No 216883
著者(漢字) 中田,瑞穂
著者(英字)
著者(カナ) ナカダ,ミズホ
標題(和) 「農民と労働者の民主主義」 : 世界恐慌下のチェコスロヴァキア議会制民主主義
標題(洋)
報告番号 216883
報告番号 乙16883
学位授与日 2008.01.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第16883号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 五十嵐,武士
 東京大学 教授 荒木,尚志
 東京大学 教授 川出,良枝
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、1930年代前半、世界恐慌下のチェコスロヴァキアの政治過程を分析することによって、チェコスロヴァキアの「議会制民主主義」が危機の中で示した変容による再均衡の特質を明らかにし、さらにその構造的・理論的限界によって、既にミュンヘン条約以前に、共和国に内在的亀裂が生じていたことを指摘するものである。

これまでの1930年代ヨーロッパ政治史研究は、民主主義が非民主主義的運動・体制から自己を防衛するか、崩壊して権威主義化・ファシズム化するか、という岐路として30年代を描いてきた。この視角では、崩壊しなかった民主主義体制は、無傷のまま、20年代までと変わらず継続したかに見える。実際、第二次世界大戦後に西欧で再生した民主主義体制は、1930年代、戦中のファシズムの挑戦を退けて勝利した民主主義として位置づけられ、その内容的継続性は自明視されてきた。

一方、社会・経済政策上に関しては、1930年代の転換に関する一定の研究蓄積がある。その際の焦点は、経済政策理念の革新とそれを担う社会的連合の形成である。

これに対し本論文は、1930年代における民主主義体制の変容を描き出している点に大きな特徴がある。すなわち、1930年代のチェコスロヴァキア政治を、(1)政策決定過程、(2)政策、(3)政治体制をめぐる言説、という3つのレヴェルに着目し、一次史料を用いてこれを実証的に分析する。そして議会制民主主義の恐慌下の変容を描き出すことによって、民主主義とファシズムを対置する従来の政治史研究とは異なる、新しい1930年代像を提起するのである。また,社会・経済政策に関する研究との関係では、政策理念の革新と連合形成という視点を共有しつつ、政策決定過程と体制をめぐる言説の二つのレヴェルと組み合わせることによって、より具体的かつ包括的な政治体制像を描いている。

具体的には、チェコスロヴァキアの民主主義体制は以下のような大きな変容を遂げた。(1)政策決定過程レヴェルでは、世界恐慌による国内の社会経済的の対立の激化を吸収しうる政策決定過程の構築。(2)政策レヴェルでは、自由主義的社会経済政策の放棄と国家による管理経済社会政策の全面的採用。(3)政治体制をめぐる言説レヴェルでは自由主義的政治体制への批判と国民全体の利益を配慮する政治の要請への対応。ファシズム体制・権威主義体制化に伴う変化とも部分的に共通性を持つ、このような変容によって、チェコスロヴァキアの民主主義は中央ヨーロッパの中で唯一生き延びることができたのである。

まず第一章では、チェコスロヴァキア第一共和国の政治構造の特質を略述し、分析の焦点を明らかにする。第一の特色は、交差する複数の社会的亀裂を反映する多党制である。各政党は大衆社会組織や日刊紙を備え、部分利益ごとに社会を統合していた。殊に特徴的なのは、強力な農業党の存在である。また、共産党を例外としてネイション横断的な投票行動は存在せず、それぞれのネイションは独自の政党システムを有していた。そのため、政党数は15以上にも及んだ。第二の特色は、このような多党制のなかで連合政治が重要な役割を担ったことである。連合政治の帰趨は議会制民主主義の実効性に直結する重要な問題であり、また、ネイションの統合の役割も担っていた。従来の研究のように大統領の役割を最大の特徴とみることは、実態のうえでも理論上も限界がある。

第二章以降は、このような体制の特質を踏まえ、政党の役割、とりわけ農業党と社民党、及びその相互関係に焦点を合わせ、上述の3つのレヴェルにおける変容を分析していく。

第二章と第三章は、新たな問題状況への対応として試みられた、政策決定過程レヴェルの変容を分析する。

上述のような多党制の下で、議会制民主主義はこれらの政党間の妥協と合意による連合政治以外ありえなかった。1920年代には、チェコの主要五政党の有力政治家による非公式な決定機関であるピェトカ(五党委員会)に代表されるように、有力政治家による政党間の取引で政策決定がなされる形が定着していた。政策合意は各政党の要求のアドホックな抱き合わせによって行われ、何らかの原則を直接に反映するものではなかった。

1929年に始まる世界恐慌は、チェコスロヴァキアの議会制民主主義にも変容を迫った。第一に、これまでになく広範な社会経済利益が代表された大連合政権が作られ、経済的困難に対応することになった。第二に、連合政権における政治決定は、議会や政府内に設けられた連合政党間交渉の場へと移され、有力政治家の個人的能力に依存しない制度化が図られた。1932年末に形成されたマリペトル政権は、緊縮予算という政策方針が先に合意された上で連合政権が作られた初めてのケースとなり、政策面での原則的協調が目指された。

しかし、緊縮予算のもとで諸経済社会利益の要求を調和させることは困難を極めた。さらに、ドイツとオーストリアでは議会制民主主義からの離脱が生じた。この状況下で、チェコスロヴァキアでもついに、経済問題に関して政府の政令に法的効力を与える授権法が導入される。だが、一見すると議会制民主主義の後退と評価されるであろうこの方法が、民主主義を強化し守る手段として位置づけられたのである。すなわち授権法導入に際しては、一方で、独裁に対抗するために、独裁が手に入れているような迅速化の手段を民主主義にも与える必要があり、授権法はその手段であると主張された。しかし他方で、可能な限り多くの集団が政府に代表され、合意形成に加わることが望ましいとされ、多くの集団の代表されている場である政府に大きな権限を与えることの正統性がそこから導かれていた。このように、議会での議論は軽視されているものの、可能な限り多くの政党が直接政権連合に参加して合意形成に加わることが重視されたのであり、20年代の政党間妥協の政治からの連続性が見られる。政党間妥協の政治に迅速化の手段を与え強化することが、チェコスロヴァキアの政党政治家たちの導き出した民主主義の危機への対応策であった。

第四章、第五章では、体制の変容が政策の内実や体制をめぐる言説にまで波及し、新たな均衡が確立される過程とその特質が分析される。

第四章では、まず経済政策レヴェルの転換を扱い、それが他のレヴェルに波及していく過程を分析する。政策決定過程の変容にもかかわらず連合内の利益対立は続いていたが、34年初頭のコルナ切下げによって状況は変化した。経済再生に向けて政府が積極的な介入を図る可能性が開けたのである。

これと並行して、体制をめぐる言説レヴェルにも大きな変化が見出せる。世界恐慌による諸利益間の対立の激化と、議会における調整の困難の問題という1930年代における課題に対しては、専門家や職能身分制に基づく経済議会構想や、国民利害の統一性の強調などの改革構想も次々生まれていた。但し、農業党と社会民主党は、あくまで政党に部分利益の代表を担わせる点で、また議会にこだわらず、政府や委員会での政党間合意を重視する点で、共通しており、体制の変更は必要ないという立場では一致していた。

その中で、経済政策レヴェルの変化がもたらした影響は小さくなかった。穀物専売制の導入とその他の社会経済政策の政策決定過程の分析から明らかになるように、農業党と社民党が国家の経済介入を積極的に進めることが可能となったのである。しかし、経済政策の転換をめぐって、連合政権を離脱した国民民主党は、農業党と社民党の政策決定方式を強く批判し始めた。これは、これまで革新を遂げ世界恐慌にも対応力を見せたチェコスロヴァキアの政策決定方式に対する重要な挑戦となった。

第五章では、このような体制批判の高まりと政権連合の対応を検討する。国民民主党の動きは、体制変革の諸構想とも呼応しつつ、国民統合を掲げた体制批判へと変化する。これを受けて農業党は、政治体制についての新しい言説を提示するに至る。経済の計画化、国家管理を進め、農業者のみならず、労働者、商工業者も含めたすべての勤労人民へ労働への報酬を保障し、社会的公正を実現する新経済政策、経済民主主義の主張であった。漸進的な政策決定レヴェルから始まった、チェコスロヴァキア民主主義の対応は、いまや体制レヴェルの言説の再編にまで至った。そして、農業党と社民党はこの構想を共に掲げて選挙に臨み、農民と労働者を議会制民主主義につなぎとめることに成功したのである。

しかし、この「農民と労働者の民主主義」はドイツ人の間では敗北する。ドイツ人は、国民結集の政治を主張するズデーテンドイツ人党を支持した。チェコの農業党は部分利益妥協のなかにズデーテンドイツ人党やフリンカスロヴァキア人民党をも組み込むことも模索したが、ズデーテンドイツ人党の1935年選挙での大勝は、そのような形での統合を困難にした。チェコスロヴァキア第一共和国がミュンヘン協定によって終焉を迎えるにはなお3年の時間があるが、1935年選挙でその道筋は既につけられていたのである。

以上のように、チェコスロヴァキアの「民主主義」においては、政治的な自由は最低限しか制限されず、政治的多元性も保たれていた。しかし、自由主義との決別には、1935年の段階でほとんど決着がついていた。この体制は政治的意味でも経済的意味でもリベラリズムからは遠いところにあったのである。チェコスロヴァキア第一共和制が示したのは、この「ポスト・リベラル」な時代状況の中で、いかに「民主主義」を維持するか、という問題に対する答えの一つであった。そして、中央ヨーロッパにおいて1930年代を生き延びた唯一の民主主義はこのような性格を持つことを踏まえるならば、そこには、東西の中央ヨーロッパにおける戦後民主主義体制や人民民主主義体制に至る一つの道筋が見えてくるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1930年代前半、世界恐慌下のチェコスロヴァキア第一共和国の政治過程を分析することによって、戦間期「東欧」――著者の観点からは、(独墺を含む)「中央ヨーロッパ」――において唯一存続していた「議会制民主主義」が危機の中で示した変容の特質を明らかにしようとするものである。

これまで戦間期ヨーロッパの政治体制を扱う研究は、民主主義が非民主主義的運動・体制から自己を防衛するか、あるいは崩壊して権威主義化・ファシズム化するか、の岐路として30年代を描いてきた。この視角では、崩壊しなかった民主主義体制は、ナチ・ドイツの軍事力によって転覆されるまで、20年代と変わらぬ姿で継続したかの如くに見なされる。その一方、政治体制研究から社会・経済政策研究に目を転ずると、多くの論者が1930年代に生じた転換に注目している。その際の焦点は、経済政策理念の革新とそれを担う社会的連合の形成である。

本論文は、存続した民主主義においても、1930年代の大恐慌期に(程度の差こそあれ)内実・特質が変化したのではないかという仮設から出発して、その顕著な例として当該時期のチェコスロヴァキアの政治を、(1)政策決定過程、(2)社会経済政策、(3)政治体制をめぐる言説、という3つのレヴェルに分けて分析する。

具体的には、チェコスロヴァキアの民主主義体制は以下のような大きな変容を遂げたと著者は主張している。(1)政策決定過程レヴェルでは、世界恐慌による国内の社会経済的対立の激化を吸収しうる政策決定過程の構築。(2)社会経済政策レヴェルでは、自由主義的政策の放棄と国家による管理経済政策の全面的採用。(3)政治体制をめぐる言説レヴェルでは、自由主義的政治体制への批判と国民全体の利益を配慮する政治の要請への対応。ファシズム体制・権威主義体制化に伴う変化とも部分的に共通性を持つ、このような変容によって、チェコスロヴァキアの民主主義は「中央ヨーロッパ」の中で唯一生き延びることができたのである。

以下、本論文の概要を述べる。

まず第一章では、チェコスロヴァキア第一共和国の政治構造の特質を略述し、分析の焦点を明らかにする。第1の特色は、交差する複数の社会的亀裂を反映する多党制である。各政党は大衆社会組織や日刊紙を備え、部分利益ごとに社会を統合していた。殊に特徴的なのは、強力な農業党の存在である。また、共産党を例外としてネイション横断的な投票行動は存在せず、それぞれのネイションは独自の政党システムを有していた。そのため、政党数は15以上にも及んだ。第2の特色は、このような多党制のなかで連合政治が重要な役割を担ったことである。連合政治の帰趨は議会制民主主義の実効性に直結する重要な問題であり、また、ネイションの統合の役割も担っていた。従来の研究はネイション統合における大統領の役割を最大の特徴とみてきたが、この見方には実態の上でも理論の上でも限界があることが指摘され、連合政治への注目の意義が明らかにされている。

第二章以降は、このような体制の特質を踏まえ、政党の役割、とりわけ農業党と社民党、及びその相互関係に焦点を合わせ、上述の3つのレヴェルにおける変容を分析していく。

第二章と第三章は、新たな問題状況への対応として試みられた、政策決定過程レヴェルの変容を分析する。

上述のような多党制の下で、議会制民主主義の運営はこれらの政党間の妥協と合意による連合政治以外ありえなかった。1920年代には、5つの主要なチェコ人政党の代表による非公式な決定機関であるピェトカ(五党委員会)のように、有力政治家による政党間の取引で政策決定がなされる形が定着していた。政策合意は各政党の要求のアドホックな抱き合わせによって行われ、何らかの原則を直接に反映するものではなかった。

1929年に始まる世界恐慌は、チェコスロヴァキアの民主政にも変容を迫った。第1に、これまでになく広範な社会経済利益が代表される大連合政権が作られ、経済的困難に対応することになった。第2に、連合政権における政治決定は、議会や政府内に設けられた連合政党間交渉の場へと移され、有力政治家の個人的能力に依存しない制度化が図られた。1932年末に形成されたマリペトル政権は、緊縮予算という政策方針が先に合意された上で連合政権が作られた初めてのケースとなり、政策面での原則的協調が目指された。

しかし、緊縮予算のもとで諸経済社会利益の要求を調和させることは困難を極めた。さらに、隣接するドイツとオーストリアでは、議会制民主主義からの離脱が生じた。この状況下で、チェコスロヴァキアでもついに、経済問題に関して政府の政令に法的効力を与える授権法が導入される。だが、一見すると議会制民主主義の後退と評価されるであろうこの方法は、当事者たちにとって、民主主義を強化し、守る手段として位置づけられたのである。すなわち授権法導入に際しては、一方で、独裁に対抗するために、独裁が手に入れているような迅速化の手段を民主政にも与える必要があり、授権法はその手段であると主張された。しかし他方で、可能な限り多くの集団が政府に代表され、合意形成に加わることが望ましいとされ、多くの集団の代表されている場である政府に大きな権限を与えることの正統性が、そこから導かれていた。このように、議会での議論は軽視されているものの、可能な限り多くの政党が直接政権連合に参加して合意形成に加わることが重視されたのであり、20年代の政党間妥協の政治からの連続性が見られる。政党間妥協の政治に迅速化の手段を与え強化することが、チェコスロヴァキアの政党政治家たちの導き出した民主主義の危機への対応策であった。

第四章、第五章では、体制の変容が政策の内実や体制をめぐる言説にまで波及し、新たな均衡が確立される過程とその特質が分析される。

第四章は、まず経済政策レヴェルの転換を扱い、それが他のレヴェルに波及していく過程を分析する。政策決定過程の変容にもかかわらず連合内の利益対立は続いていたが、34年初頭のコルナ切下げによって状況は変化した。経済再生に向けて政府が積極的な介入を図る可能性が開けたのである。

これと並行して、体制をめぐる言説レヴェルにも大きな変化が現れる。世界恐慌による諸利益間の対立の激化と、議会における調整の困難という1930年代における課題に対しては、専門家や職能身分制に基づく経済議会構想や、国民利害の統一性の強調などの改革構想も次々と生まれていた。但し、農業党と社会民主党は、あくまで政党に部分利益の代表を担わせる点で、また議会にこだわらず、政府や委員会での政党間合意を重視する点で共通しており、体制の変更は必要ないという立場では一致していた。

その中で、経済政策レヴェルの変化がもたらした影響は小さくなかった。穀物専売制の導入とその他の社会経済政策の政策決定過程の分析から明らかになるように、農業党と社民党が国家の経済介入を積極的に進めることが可能となったのである。しかし、経済政策の転換をめぐって、連合政権を離脱した国民民主党は、農業党と社民党の政策決定方式を強く批判し始めた。これは、これまで革新を遂げ世界恐慌にも対応力を見せたチェコスロヴァキアの政策決定方式に対する重要な挑戦となった。

第五章では、このような体制批判の高まりと政権連合の対応を検討する。国民民主党の動きは、体制変革の諸構想とも呼応しつつ、国民統合を掲げた体制批判へと転じたが、こうした事態をうけて、農業党は政治体制についての新しい言説を提示するに至る。経済の計画化、国家管理を進め、農業者のみならず、労働者、商工業者も含めたすべての勤労人民に労働への報酬を保障し、社会的公正を実現する新経済政策、経済民主主義の主張であった。漸進的な政策決定レヴェルから始まった対応は、いまや体制レヴェルの言説の再編にまで至った。そして、農業党と社民党はこの構想を共に掲げて選挙に臨み、農民と労働者を議会制民主主義につなぎとめることに成功したのである。

しかし、この「農民と労働者の民主主義」はドイツ人の間では敗北する。ドイツ人は、国民結集の政治を主張するズデーテン・ドイツ人党を支持した。農業党は部分利益妥協のなかにズデーテン・ドイツ人党やフリンカ・スロヴァキア人民党をも組み込むことも模索したが、ズデーテン・ドイツ人党の1935年選挙での大勝は、そのような形での統合を困難にした。第一共和国がミュンヘン協定によって終焉を迎えるには尚3年の時間があるが、1935年選挙でその道筋は既につけられていたのである。

以上のように、チェコスロヴァキアの「民主主義」においては、政治的な自由は最低限しか制限されず、政治的多元性も保たれていた。しかし、自由主義(リベラリズム)との決別という観点からすれば、1935年の段階でほとんど決着がついていた。チェコスロヴァキア第一共和国が示したのは、この「ポスト・リベラル」な時代状況の中で、いかに「民主主義」を維持するか、という問題に対する答えの一つであった。そして、「中央ヨーロッパにおいて1930年代を生き延びた唯一の民主主義」がこのような性格を持つことを踏まえるならば、そこには、東西の中央ヨーロッパにおける戦後民主主義体制や人民民主主義体制に至る一つの道筋が見える、と著者は述べている。

以下、本論文の評価に入る。

本論文の長所の第1は、その実証性である。一般に第二次世界大戦後の「東欧」社会主義国では、戦前の歴史について対象選択や研究方法に関わる学問上の制約が多く、また史料の面でも、散逸や未整備、あるいは意図的滅却にさらされた部分がかなりある。社会主義体制時代にも学問の自由の幅がある程度存在していたポーランドやハンガリーと異なり、チェコスロヴァキアの場合は、「プラハの春」の一時期を除いて、歴史研究、なかんずく現代史研究への締め付けは極めて厳しく、また戦間期の国家機関や政治団体の内部史料はほとんどが消滅している。こうした状態の中で、著者は残存している利用可能な史料、特に政党系の新聞・雑誌を徹底的に渉猟して本論文を書き上げた。英・独語で書かれた研究書と比べても、ドキュメンテーションの点で本論文に勝るものは現れていない。

第2の長所は、リーダビリティの高さである。極めて多数の政党・団体が連合の駆け引きを展開し、内政と国際環境が密接に絡み合う錯綜した状況を著者は巧みに整理し、議会制民主主義体制が変容していく過程を明快に描き出した。この点は高く評価すべきである。

第3に、分析のオリジナリティが挙げられる。著者は既に第1作「チェコスロヴァキア第一共和制の形成(1918ー1920)」(1995年)で、チェコスロヴァキアを「中央ヨーロッパ」の一部として見る視角の重要性を説いているが、この立場は本論文でさらに深められている。つまり、階級・宗教・民族(言語)・都市‐農村関係など社会的亀裂が幾重にも走り、しかもそれらの亀裂に添った政治的組織化と動員が高度に進んだ戦間期「中央ヨーロッパ」諸国では、独墺に見られるように、議会制民主主義は1930年代の危機を乗り切れなかった。チェコスロヴァキアの民主政は唯一この危機を乗り切ったが、それは政治的・経済的リベラリズムを否定する「農民と労働者の民主主義」に変貌することによってであった。著者のこの主張は(良い意味で)「挑発的」であり、政治体制の比較的・歴史的分析に新局面を切り開く可能性を秘めている。

付言すれば、本論文は歴史の通念に対するチャレンジングな主張をも秘めている。上記の「農民と労働者の民主主義」がドイツ系住民の不参加という代償を払って実現したものである点からすれば、共和国は、ミュンヘン協定にいたる「ズデーテン危機」の勃発前に解体を始めていたと解釈しうるであろう。また、著者は「農民と労働者の民主主義」と戦後の「人民民主主義」との間の連続性を示唆しており、これは共産党独裁の形成に関する一般的理解への挑戦に繋がるであろう。ただし、これらの点は主要論点として実証されているわけではなく、むしろ今後の課題と考えられる。

次に、本論文の弱点と考えられるのは、以下の点である。

第1に、政治体制論の観点からすると、「農民と労働者の民主主義」の内実に関してはなお詰めが足りない。特に政策決定過程・社会経済政策・政治言説という3つのレヴェルがどのように絡み合って政治体制を構成するのか、また、そもそもこの3つを措定する論理的根拠は何か、といった点について著者の考察は不十分に感じられる。さらに体制変化の最大の契機として描かれる授権法の性格についても、他国の類例と比較しつつ、より精緻な点検が欲しいところである。

第2に、本論文では経済問題と並んでネイションないしエスニシティの問題が重要視されているが、それだけに、ネイションに関わる当事者たちの言葉遣いが充分に対象化されておらず、時として論述中の「ネイション」の意味内容がそれに引きずられて曖昧になっているのは問題である。

第3に、史料上の制約もあろうが、連合政治の場に登場しない諸勢力、例えば各民族を横断する唯一の全国政党で、しかもかなりの議席を有していた共産党、また農業党以外のスロヴァキア人政党(特にフリンカ人民党)があまり論じられていないことは、当該時期のチェコスロヴァキア政治史としては物足りない。

以上のような弱点はあるが、それらは本論文の価値を損なうものではない。本論文は、その筆者が高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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