学位論文要旨



No 216888
著者(漢字) 康永,秀生
著者(英字)
著者(カナ) ヤスナガ,ヒデオ
標題(和) 乳がんマンモグラフィー検診における偽陽性が受診者の支払意思額に与える影響についての分析
標題(洋)
報告番号 216888
報告番号 乙16888
学位授与日 2008.01.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16888号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 小山,博史
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 客員教授 山崎,力
 東京大学 准教授 青木,則明
内容要旨 要旨を表示する

目的

保健医療サービスの経済評価は,投入される費用と,産出されるアウトカムを定量化し,両者を比較・分析することを主眼とする。費用効果分析ないし費用効用分析は,費用を貨幣価値によって,アウトカムを質調整生存年などの指標によって評価する方法であり,保健医療サービスの経済評価の主流を為している。一方,費用便益分析は,費用とアウトカムの双方を貨幣価値に換算する手法である。便益を推計する手法として,仮想評価法(contingent valuation method, CVM)が知られる。CVMとは,自由主義市場では取り引きされない財・サービスの経済的価値を評価するために,アンケート調査を用いて被験者の支払意思額(Willingness to Pay, WTP)を質問するという手法であり,厚生経済学に依拠した理論的にきわめて正当なアプローチである。CVMは環境経済学の分野では古くから頻用されているが,保健医療サービスへの応用は歴史が浅く,1990年代以降から海外において次第に増加傾向にある。しかし,本邦ではいまだ僅かしか実践されていない。

本研究では,特に乳がんマンモグラフィー検診に焦点を当て,CVMを用いてその便益を評価した。がん検診の存在意義は,早期発見により生命を救うことである。マンモグラフィー検診は,特に50歳以上における死亡率減少効果が海外における複数の無作為化比較試験によって証明されている。しかし,マンモグラフィー検診は女性たちに良い結果ばかりを与えるわけではない。主たる不利益の1つが偽陽性である。

これまでマンモグラフィーの便益を評価した海外のCVM研究はいくつかある。しかし,検診における偽陽性などの不利益に関する情報がWTPに与える影響について明らかにした研究はこれまでにない。

本研究の主たる目的は,(1)CVMを用いてマンモグラフィー検診の便益評価を行うこと,(2)マンモグラフィー検診について良い結果に関する情報のみを与えられた群と,不利益に関する情報も加えた十分な情報を与えられた群とでWTPの推計値を比較することによって,インフォームド・コンセントの内容がサービス利用者に与える影響を定量的に明らかにすることである。

方法

マンモグラフィー検診に関するエビデンスに基づく客観的事実(乳がんの疫学,検査時の疼痛,被爆リスク,乳がん発見率,死亡率減少効果,偽陽性,精密検査の内容とリスク)によって構成されたInformation sheetを作成した。日本に在住する50-59歳の一般女性を調査対象として,CVMのためのアンケート調査を実施した。予備調査では,Information sheetの内容を一般女性が理解できるかどうかをチェックする質問を行った。また,支払カード法(payment cards)を用いてWTPの分布の概略を把握した。本調査では,理解度チェックの結果に沿ってInformation sheet を改訂し,支払カード法によるWTPの分布に基づいて二段階二肢選択法(double bound dichotomous choice)における妥当な提示額を決定した。対象集団を2群にランダムに振り分け,グループAには乳がんの疫学,検査時の疼痛,被爆リスク,乳がん発見率,死亡率減少効果に関する情報のみを提示し,グループBにはさらに偽陽性および精密検査の内容とリスクに関する追加的情報も提供した。すべての対象者に,世帯年収,入院歴,がんの家族歴,マンモグラフィー検診受診歴,健康状態の自己評価,健康への関心度について質問した。

アンケート調査にあたって,約218,000人の一般男女が登録されているインターネット調査会社の協力を得た。50-59歳女性約5,000人から,予備調査では無作為に210人を抽出して2005年12月21日にアンケート協力をemailで依頼し,68人から回答を得た。本調査では,予備調査の対象者を除いた1,200人に2006年1月17日にemailで依頼し,397人の回答を得た。

サンプル集団のWTPの平均値を,ターンブル法および生存分析法を用いて推計した。グループAとグループBの別,および回答者の属性別にWTPの平均値および95%信頼区間を求め,ターンブル法による平均値の比較を行った。さらに,回答者の属性とWTPの関連を明らかにするため,ワイブル回帰分析を行った。

結果

本調査における回答者の平均年齢(±1SD)は53.7歳(±2.7 歳),世帯年収の平均値(±1SD)は743.95万円(±403.79万円)であった。サンプル全体のWTPの平均値[95%信頼区間]は1,634円 [1,455-1,812円]となった。

グループA(n=200),グループB(n=197)におけるWTPの平均値[95%信頼区間]はそれぞれ1,850円[1,563-2,136円],1,418円[1,209-1,627円]となり,前者が有意に高値であった(p=0.020)。回答者属性別のWTPの平均値[95%信頼区間]について,マンモグラフィー受診歴「有り」および「無し」の群では,それぞれ1,264円[1,063-1,465円],2,251円[1,933-2,570円]となり,後者が有意に高かった(p=0.000)。がん家族歴「有り」および「無し」の群では,それぞれ1,883円[1,604-2,164円],1,408円[1,188-1,628円]となり,前者が有意に高かった(p=0.010)。年収500万円未満の群および年収500万円以上の群では,それぞれ1,337円[1,073-1,599円],1,761円[1,538-1,984円]となり,後者が有意に高かった(p=0.020)。

ワイブル回帰分析の結果,グループの別,がん家族歴,マンモグラフィー受診歴,健康への関心度の4項目が5%水準で有意となり,世帯年収は10%水準で有意となった。

考察

A.CVMにおけるバイアスなどの問題点

CVMによるWTP測定は数多くのバイアスにさらされる危険を内包しており,バイアスをいかにコントロールできるかが研究の質を大きく左右する。

アンケート調査の方法として,本研究ではインターネット調査法を用いた。同法の長所として,重層的な設問が可能であるため二段階二肢選択法には向いていること,無回答や無効回答を排除できることなどがある。本研究では年齢層をあらかじめ50代に絞ることにより,インターネット調査における年齢分布の偏りという問題は回避した。しかし,インターネット利用者は非利用者よりも相対的に学歴が高く年収も高い傾向にある点は考慮すべきである。また,自己選択バイアスが不可避的に存在すると考えられる。

本研究では二段階二肢選択法を用いたことにより,範囲バイアス,開始点バイアス,戦略バイアスはほぼ回避された。また,受容バイアスも回避された。回答者に対する理解度チェックの実施によって,シナリオの伝達ミスによるバイアスも排除された。また,ランダム割付によってサブグループ間の属性の偏りが最小化された結果,受諾率曲線はいずれも単調減少となる妥当な結果が得られた。

B.乳がん検診の便益

本邦における乳がん死亡数の増加を背景に,2005年に「マンモグラフィー緊急整備事業費」として約40億円の国家予算が措置された。多くの自治体でマンモグラフィー検診が導入されているが,厚生労働省が目標とする受診率50%には程遠い。乳がん死亡減少のために,マンモグラフィー検診の受診率を今後さらに向上させなければならない。

一方で,がん検診のインフォームド・コンセントのあり方も検討を重ねる必要がある。本邦におけるマンモグラフィー検診の啓蒙活動の現状は,一般女性に乳がんの危険性を知らしめ,マンモグラフィーの認知度を高め,乳がん検診に対する心理的バリアを排除する,という段階にとどまっている。しかし,がん検診の受診者に対する十分なインフォームド・コンセントは不可欠である。今後,本邦でも乳がんに対する女性たちの意識が成熟し受診率も向上した場合に問題となりうるのは,今日の米国で取り沙汰されている乳がん検診のインフォームド・コンセントの内容である。検診の方法や有効性だけでなく,検診の限界,陽性となった場合の精密検査の内容とリスクについて,検診を受診する前に説明することが必要となろう。

本研究では,マンモグラフィー検診の不利益に関する情報がWTPを有意に低下させることが実証された。良い結果に関する情報のみを与えられたグループのWTP値は,マンモグラフィー検診の真の便益を過大評価したものと考えられる。一方で,不利益に関する情報を与えられたグループのWTP値こそ,マンモグラフィー検診の便益をより正確に計測したものと言える。両者の差は,偽陽性に起因する女性たちの不安(anxiety)がもたらす便益の低下に相当する。しかしながら,不利益に関する情報が死亡率減少効果による便益をすべて損なうものではない。女性たちは偽陽性などの不利益に対する不安があっても,一定程度の価値をマンモグラフィー検診に見出すものと言える。

C.本研究の限界と今後の研究について

本研究結果から計算される「暗示された生命価値(implied value of life)」は約322万円となり,WTPの絶対値(1,418円)そのものが低いことが示唆された。本研究結果は,海外の先行研究におけるマンモグラフィー検診に対するWTPの値と比較しても,相対的に低くなっている。本邦におけるマンモグラフィー検診のWTPを計測した研究はこれまでに存在しないが,他のがん検診のWTPを調査した先行研究(武村ら,2001)によれば,日本人のがん検診に対するWTPは1,000円前後程度であり,本研究結果との乖離はさほど大きくない。

日本人のがん検診に対するWTPが相対的に低くなる要因として,社会保障に対する税や保険料などの経済的負担感が既に強いことや,実際にサービスを受ける際の低自己負担に既に慣れてしまっている,などの仮説が想定され,今後の研究によってより詳細に検証すべきと考えられた。

また本研究は,乳がんマンモグラフィー検診の利用価値についてCVMを用いた便益評価のみにとどまっており,完全な経済評価(full economic evaluation)には該当しない。今後の研究課題として,さらに費用の定量化を行なった上で,費用便益分析を行なうことも必要となろう。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,仮想評価法(contingent valuation method, CVM)を用いて乳がんマンモグラフィー検診の便益評価を行い,マンモグラフィー検診について良い結果に関する情報のみを与えられた群と,不利益に関する情報も加えた十分な情報を与えられた群とで支払意思額(willingness to pay, WTP)の推計値を比較した論文である。仮想評価法を用いて乳がんマンモグラフィー検診の便益を測定した研究は本邦ではこれまでに例が無く,日本人を対象にした調査は本研究が初の試みである。また本研究のように,保健医療サービスにおけるインフォームド・コンセントの内容がWTPに与える影響について明らかにした研究は,本研究がほぼ初めてである。

がん検診の重要性やインフォームド・コンセントのあり方について,国際的にも国内的にも重視されている状況で,本研究のテーマは時宜を得ている。また,本邦ではまだほとんど実施されていない仮想評価法という手法を用いている点も意義が深い。本法におけるバイアスや限界についての検討も,検討されている。研究結果から導かれた結論も十分に妥当である。

研究により判明したのは以下の諸点であった。

(1)日本人50歳代一般女性の乳がんマンモグラフィー検診に対するWTPの平均値[95%信頼区間]は1,634円 [95%信頼区間1,455-1,812円]と推計された。

(2)乳がんマンモグラフィー検診における偽陽性などの不利益情報を与えられた群のWTPの平均値が1,418円[1,209-1,627円]であったのに対し,それらの情報を与えられなかった群のWTPの平均値は1,850円[1,563-2,136円]となり,統計的な有意差を認めた(p=0.020)。

(3)ワイブル回帰分析の結果,情報量の多寡,がん家族歴,マンモグラフィー受診歴,健康への関心度,世帯年収が,WTPに影響を与える有意な要因であること示された。

本研究では仮想評価法におけるバイアスなどの問題点について文献的考察に基づき検討されており,それらバイアスを回避するために研究デザインの段階から工夫を凝らし,可及的にバイアスを最小化することに成功している。その意味で,この手法を用いた先行研究の中でも類を見ない質の高いWTP評価結果が得られている。

良い結果に関する情報のみを与えられたグループのWTP値は,マンモグラフィー検診の真の便益を過大評価したものと考えられる。一方で,不利益に関する情報を与えられたグループのWTP値こそ,マンモグラフィー検診の便益をより正確に計測したものと言える。両者の差は,偽陽性に起因する女性たちの不安(anxiety)がもたらす便益の低下に相当する。しかしながら,不利益に関する情報が死亡率減少効果による便益をすべて損なうものではない。女性たちは偽陽性などの不利益に対する不安があっても,一定程度の価値をマンモグラフィー検診に見出すものと言える。

乳がん死亡減少のために,マンモグラフィー検診の受診率を今後さらに向上させなければならない。一方で,がん検診のインフォームド・コンセントのあり方も検討を重ねる必要があることが,本研究では示唆されている。

以上,本論文は,乳がん検診に対する経済評価において新しい手法を応用している点で独創的であり,その学術的意義は高く,本邦での医療経済評価に関する研究の今後の発展に貢献するものと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる。

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