学位論文要旨



No 216905
著者(漢字) 原,宏之
著者(英字)
著者(カナ) ハラ,ヒロユキ
標題(和) 言語態分析 : コミュニケーション的思考の転換
標題(洋)
報告番号 216905
報告番号 乙16905
学位授与日 2008.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16905号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石田,英敬
 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 山田,広昭
 東京大学 教授 北田,暁大
 早稲田大学 教授 伊藤,守
 東洋大学 教授 山中,桂一
内容要旨 要旨を表示する

言語態分析は、英訳で<Praxis of Language>とされる「言語態」の分析である。今日の言語態の実践は、自然言語による書字や口話にとどまらず、映像や音声による表現を含み、メディアもコンピュータによるインターネット、放送テレビ、映画、CDなど、電子/電気/光学の機器に拡大されている。このような新たなメディア・テクノロジーの実践を、現代の「言語態」と捉えて、包括的に分析する方法論が必要である。実践をアーカイヴとして記録した後に、この記録を分析することは、一種のメタ実践であり、文字通りのアナリシスである。だが、言語態分析にとり基盤となるのは、ミシェル・フーコーがディスクール分析(知の考古学)で前提とした「アーカイヴ」の発想なのである。ある種の全体性が、特定のテーマについての言語態(言説編成の集合)となり、その集合の要素となる各発話の分析と、全体としての言語態の分析を、理論的に橋渡しする必要がある。

本論文の真の目的は、これからの歴史学にとって、映像や音声の史料を扱うにはどうしたらよいかと道標を示し、またぜひともそれらマルチモーダルな情報を取り込むべきだと提唱することにある。この目的のために、まずは発話の分析としてエミール・バンヴェニストの言語理論からはじまり、語用論や発話の言語学に発展してゆく系譜、またその近くに属しながらもフーコーの「ディスクール」概念をつねに意識していたドミニック・マングノーの「ディスクール分析」などの知見を借りた(スピーチ・アクトの問題とアーカイヴの問題)。そこから論理学(真偽の問題)と詩学(リズムの問題)に発想を借り、会話分析や相互行為論などことばと対人間のインタラクションに関するあらゆる知見を再検討しながらことばの問題を設定し、その上で映画研究などから映像分析の方法を借りて、テレビや雑誌など情報のマルチモダリティを分析する初歩を確立し、さらに都市の語りやナショナリズムの言説について、「創始のディスクール」(E.ヴェロン)を特定する方法の有効性を例示した。

1.[コミュニケーションを情報伝達と考えることの不十分さについて]

わたしたちが相手にするコミュニケーションは、自然界の現象ではなくて、「社会」を構成する営みに限定したものである。そこでのコミュニケーションはまず主体による他なる主体に対する己の承認の要求として現れる。BによるAの生存の承認はCの証言を通して成立する。この第三項の必要性から、社会は政体や経済、共同体などあらゆるレベルに複雑化してゆく。テクノロジーの介入によりメディア・コミュニケーションと、<交通>(移動)の拡大の登場により、コミュニケーションは対人間のインタラクションにとどまらず、社会を構成するネットワークそのものになっている。

そこに現れる、諸行為としてのコミュニケーションの軌跡(痕跡)を<言語態>と呼ぶことができる。そして言語態の特定の瞬間の「かたち」をアーカイヴとして分析することから、段階的(系譜学的)な歴史研究を行うことができる。これが本論文で述べる言語態分析である。

2.[発話行為と発話内容]

1.で触れたコミュニケーション行為を、わたしたちは方法論的に、発話行為/発話内容の二層から捉える。前者は、「そのものが話すときの歴史的出来事としての行為」であり、後者はそうした発話行為から「観察される諸現象の総体(テクスト)」である。

本論文で用いた「ディスクール」の語はフーコーによるものとほぼ同義で、発話内容相互の内的連関・秩序・序列・調整により形成されるものであるが、これを1.で述べた<特定の瞬間のかたち>(資料)として扱う決定要素は、第一に時間(歴史的時間)であり、第二にテーマ(共有されるトピックがいかに効果として後に力を残すか)である。

発話から言語態へと分析のレベルを上げるときに問題となるのは、現代社会のコミュニケーションは言語だけではなく、映像や音声によるものも重要であるのに、これらの分析法が確立されていないことである。この橋架のために、本論文では非言語コミュニケーションの分析の先行研究のうち、とくにゴフマンの対面的な相互行為の分析から考えはじめることにした。たとえば公共の場での身体関与(ツメを噛むなど)が、いかにタブーとなり、どのように場への他の参加メンバーに影響を与え、この他者たちをつぎなる相互行為へとうながすか、などの初歩的な現象から考察をはじめた。

相互行為の分析に、会話分析を応用して会話とジェスチャー、視線などを記述することは簡単である。だが発話は、それだけの問題に還元されるものでもない。たとえばダイクシスの問いがある。「のどが渇いた」(数分)/「彼女は重病だ」(数週間)というように、発話そのものに内在する時間性がある。また、本論文では「ネオリベラリズム」について素描し、「ネオナショナリズム」について分析したように、<ことばの効果>の問題には、それが<発せられるタイミング>が重要である。なぜならば、その発話はどれか他の発話(群)に向けてつねに行われているからであり、このことは論壇や報道、政治演説などに顕著である。だから本論文では、言語態内における発話相互の関係をはかるために、初歩的な論理学の知見に頼り、タイミングだけではなく、ことばと事実の整合性がとりわけ事後的には影響力に関与することを明らかにした。

3.[分析1:証言映画/政治バラエティ]

会話分析と論理分析を中心に、太平洋戦争南方戦線での終戦後の部下銃殺の有無をめぐる証言映画である『ゆきゆきて、神軍』を分析した。この映画では、関与した元兵士たちのところを巡り証言を積み重ねてゆくことで、前の証言の嘘や語らずにいられたことが明らかになり、そこからまたつぎの証人へと、論証が試みられてゆく。ここで重要なのは都合の悪い話題が出たり、嘘をついたりするときの証言者たちの心理が、「視線」や「言いよどみ」などから露呈していることである。

また同様の試みを政治バラエティ番組『TVタックル』でも行った。ここでは司会者、コメンテーター、政治家などの間で、明瞭な「役割分担」があること、テロップや会話の組み立て、あらゆるモンタージュから「与党vs野党」の構図が立てられていることなどを明らかにした。

4.[分析2:ネオナショナリズム]

本論文では、突出した発話群にはその突起部分を削ぐような発話があり、そうしてバランスのとれた状態であることが、自然のリズムであるとしている。それにも拘わらず、ひとつの言語態内部である一定の偏向した言説編成が生じることもある。ここではネオナショナリズムを題材に、その偏向の理由を「創始のディスクール」にはじまる「偽の系譜」の確立に求めた。

2006年北朝鮮の核実験により、発足まもない安部内閣の周囲で「日本の核武装」が話題にのぼるようになり、集団的自衛権は既定路線、集団安全保障は湾岸戦争以降の既定事実という、憲法の原則から見れば異常と思われる言語態が違和感なく受けいれられるようになっている。少なくとも2000年の段階では森首相の「神の国」発言が問題視される時代をわたしたちは生きていた。だが、その後の政治変化というよりも、1996年の「新しい歴史教科書をつくる会」周辺のディスクールこそが「創始のディスクール」であり、これが政界内外で学問界や経済界もとりこみながらいかに広範な影響を与えたのか、なぜそれが自然化されたのかを検証した。

5.[分析3:小泉元首相の言語態]

まず言語と映像がどのように異なるのかを整理した。方法的に、小説や新聞記事の自然言語を映像に変換するとどうなるのか(破綻する)を見ながら、言語特有の「イメージ構成」を明らかにした。

その上で、小泉元首相の在任前期の言語態を分析した。写真集などイメージを多様したPR戦略、とりわけ読むよりも眺めるメディア(週刊誌ならより大衆詩にPRを絞り込む)中心のPRにより人気を博した。演説や答弁を見ると、論理的な説得力に欠くことが多い。たとえば、「フセイン大統領は見つかっていない」、「それだからといってフセイン大統領が存在していなかったといえるのか」、「いえないでしょう」という類の贋の論証である。

これらの問題をイメージによるスピーチ・アクトと位置づけて分析した。

本論文は、やや冗長ではあるものの、筋はごく簡潔なことであり、それは以下のとおりである。

(1)マルチモダリティの取り込み

(2)発話レベルの分析と言説レベルの分析の接合

(3)その総合としての言語態分析の提案

ひとりの研究者がこれら全般的な問題を扱うには限界がある。そのことは理論的な面、つまり方法論的の提唱の部分にもいえることで、より多分野の研究者の参加が待たれる。

また具体的な分析例は、恣意的な選択にもとづくものであり、例の数も豊富とはいいがたい。

つまり本論文の目的は、今後「言語態分析」がどのように発展してゆく可能性があるのか道標を立てて、より多数者の参加により追加や変更、修正をまじえながら、豊富な量の分析例を求める、そのようなひとつの契機をつくることにある。

そのために慎重に話題を選択し、ごく基本的な部分を、とりわけフランスでの動向など、一般的に馴染みのない点を強調しながら、論文としてまとめたものである。

審査要旨 要旨を表示する

博士学位請求論文『言語態分析 - コミュニケーション的思考の転換』(慶應義塾大学出版会2007年4月30日刊行、436頁)は、「言語態分析」を行うために、理論史から説き起こし、関連領域の諸理論を探索し、分析対象、方法および事例を提示し、適用領域と分析の射程を画定し、独自の理論的総合を試みた著作である。

全般的な問題設定を述べた序章「コミュニケーションの問いとしての言語態分析」において、著者は「言語態分析」研究の課題と展望を描き出している。

著者のいう「言語態分析」とは、東京大学総合文化研究科「言語態分析」大講座に謳われた言語および記号の社会的・文化的実現の研究のことであり、 1.ディスクール、2.コミュニケーション、3.技術との関係、4.かたち、5.創発性、という五つを理論的な軸として展開されるものとされる(pp.27-28)。社会的機能としてことばの問題を考えることを、著者は「(音声・音韻・文法・認知機能の研究である)言語学」と区別して「言語理論」と呼んでいる。その言語理論には三つの潮流があるとされ、その一つがエスノメソドロジーから出発した「会話分析」であり、その二が、イギリスではCritical Discourse Analysis、フランスではAnalyse du Discoursと呼ばれる「言説分析」であり、その三が、視聴覚メディアや記号論などの周辺分野を取り込んだ「マルチモーダル言説の分析」である。著者のいう「言語態分析」は、そのうち二つ目の「言説分析」に依拠しつつ第三のマルチモーダル分析の視点をも取り入れた企てであるとされる。フーコーの『知の考古学』を手がかりに、「言説編成」、「ディスクール」、「コミュニケーション」の諸概念を再検討し、「記号の次元」と「支持体の次元」を歴史的視野に収め、コミュニケーション社会の具体的現象に照準することが、言語態分析の課題であるとされる。

理論的な見取り図を提起した序に続いて、本論の前半においては、コミュニケーション論(第1章「コミュニケーション的思考の転換」)、意味論(第2章「言語学の偉大なる異端をめぐって:意味論とダイクシスの問い」)、発話行為論(第3章「言語態分析へ:言説編成と発話行為の間」)、リズム論(第4章「かたちとしてのリズムの導入」)、マルチモダリティ論および会話分析(第5章「映像・文字・会話、マルチモダリティとしてのテレビ番組」)の理論諸領域が探求され、おもにミシェル・フーコーの「ディスクール」理論を発展させつつ著者自身の言語態分析の理論の輪郭が練り上げられていく。

「コミュニケーション」および「情報」の概念およびその研究史を捉え返すことから著者は、「情報とコミュニケーション科学」の来歴および言語態分析の位置取りを確認する(第1章「コミュニケーション的思考の転換」)。「コミュニケーション」および「情報」の語の使用は、20世紀以後極めて多義的であり、情報理論やサイバネティクス、世論研究、脱工業社会の文脈における政策論など、極めて多様な分野において問題化され、多くの研究モデルを生んできた。著者は、そのなかでもフランスの「Sciences de l'Information et de la Communication」の研究動向に注目し、「コミュニケーション論の再物質化」をキーワードに、その学際研究の行方を見定めようと試みている。

続く第2章「言語学の偉大なる異端をめぐって:意味論とダイクシスの問い」においては、ポール・リクール(Paul Ricoeur)の「ディスクールの理論」、ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard) の「ディスクールのなかの欲望」の「形象(フィギュール)」概念を検討したのち、エリゼオ・ヴェロン(Eliseo Veron)の「ディスクールの物質性」が焦点を当てられる。

第3章「言語態分析へ -言説編成と発話行為の間」において、著者の「言語態分析」の中心的な理論枠組みを提供しているフーコーの「言説」および「言説編成」の概念に検討が加えられる。『言葉と物』(Les mots et les choses, 1966)や『知の考古学』(L'archeologie du discours, 1969)においてフーコーが1960年代に展開した「言説(ディスクール)」の理論は、以後、フランスおよびフランス語圏を中心に、社会学・コミュニケーション研究・歴史学などの学際領域で、「Analyse du Discours(略称 AD)」と呼ばれる研究潮流を生み出した。著者はこの動向に着目しつつも、「コーパス」の「自動分析」を目ざしたADが「見なかったもの」は「ディスクールの潜勢力」であるとする(p.129)。ところが、フーコーの「アーカイヴ」概念に込められていたのは「語られることもできたのに実際には語られなかった発話内容を含む」ものであり、フーコーの「言説編成」は、「語られなかった発話内容の潜勢力をも含めた発話内容間の関係性から成っている」(pp.129-130)とされる。そのうえで、ミシェル・ペシュー(Michel Pecheux)らによる政治語彙分析とフーコーのディスクール分析とを比較している。さらに、デュクロ(Oswald Ducrot)やケルブラト=オレッキオーニ(Catherine Kerbrat-Orecchioni)による「発話行為」分析を加えて検討することにより、「発話行為」の分析と「言説編成」の分析を組み合わせ、ミクロな分析単位からマクロな視点へと至る「言語態」分析の理論の構築への道筋を説いている。

第4章「かたちとしての<リズム>の導入」では、アンリ・メショニック(Henri Meschonnic)らによる「リズム」概念の問い直しを手がかりに、発話のリズムから「ディスクールのリズム」へと至る展開にこの章での考察はあてられている。「最小単位の発話どのように集まり、どのように離散するか」を最も「ミニマルな分析対象」に、「発話 - 発話の関係性がリズムとなり、言語態のかたちを形成する」、これが「言語態分析の仮定する分析対象の姿である」(pp.157-158)とされる。

分析の実践例と、マルチモーダル分析の理論的視点を導入した第5章「映像・文字・会話、マルチモダリティとしてのテレビ番組」を介して、第6章「言語態分析の用語集」において、著者は、著作の前半部で展開してきた言語態分析の理論の主要概念の整理を行っている。「言語態」とは、「発話」、「アーカイヴ」、「ディスクール」を総合する概念であり、「コンテクスト」や「ダイクシス」を踏まえた理論を求めるものであり、「ディスクール」、「発話内容」、「テクスト」を横断し、「メディア」や「マルチモーダル」、ゴフマン(Erwin Goffman)らの「コミュニケーション相互作用」と切り結ぶ概念であることが確認されている。

以上の理論的な研究史の検討の後、第7章以下は、言語態分析の実践を具体的に示す適用編にあてられている。第7章「言語態のかたち - 社会のリズム」では、第4章で検討されたリズム論をふまえるかたちで、時事問題の論調と「社会のリズム」による言説編成の変化が重ねて考察されている。季刊誌における座談会の言説分析をとおして、論壇の言説配置における「言語態の歴史」が分析の俎上に載せられることになる。

第8章「ことばと映像の比較」においては、新聞の言語態に現れたテレビ的な「映像」言語の分析を、小泉首相の「靖国参拝」をめぐる新聞記事の分析を通して提示している。新聞記事における「描写」が、「テレビ」のエクリチュールを下敷きにしていること、ショット分析と新聞記事の記述の順序の分析をとおして明らかにされる。続く第9章「言語態分析の例 - 「小泉劇場」 - 「ウォーターフロント」」においては、政治的言説の言語態分析が、「トートロジー」、「言語ゲーム」、「失言」をキーワードに展開される。また同章の後半部は、都市をめぐる言説に言語態分析の手法を応用して見せている。

最後に、メディアの分析を展開した本論後半部の総合および、最終的な理論的検討にあてられているのが、第10章「メディオロジーからフーコーへ」である。フーコーの「ディスクール」理論との対比として最後に検討が加えられるのが、レジス・ドゥブレ(Regis Debray)らによる「メディオロジー」である。著者は、メディオロジーによる「媒介・伝達の世界」を、「象徴」、「技術」、「実践」、および「環境」という諸項間を結びつける概念連関で示し検討を加えたのち、メディオロジーに欠けているのが、フーコーの「考古学」が定式化していた「ディスクールの論理」であるとしている。さらに「知の考古学」における「時間概念」を再検討し、これをメディオロジーの「通時的分析」と突き合わせたうえで、メディオロジーと知の考古学の接点を、「主体に対する体系の優位」、「メッセージの保存様式への視線」、「言語による政治の出来事化」に見ている。また、メディオロジーと知の考古学との対立点を、「技術の次元」、「歴史区分の立て方」に見て取る。そして、「記憶の場」および「アーカイヴ」概念の再検討を通して、メディオロジーの問題提起を受けたフーコーのディスクール理論の再定義をはかっている。そして、最後に、言語態分析にを具体的方法としていくための「分析の順序」と「分析の道具」をそれぞれ五項目にわたって総括することをもって、著者の言語態分析の方法とすると結論づけている。

著作にはさらに、「補遺」として「物語、経験と歴史」が付されている。「文学言語」をめぐって、「物語と公共言語」、「詩と経験」とに関する考察である。

以上に概略を述べた、原宏之氏の博士学位申請論文『言語態分析 - コミュニケーション的思考の転換』は、以下に列挙する理由から高度な学術的達成を示していると判断される。

1. 独自性:原氏の論文は、ディスクール分析のフランス学派の理論と方法をおもにフーコーの理論に依拠しつつ批判的に継承し、「言語態」の問題系に独自の理論的定式化をおこなうことによって、「言語態」研究の新しいパラダイムを理論と実践において提示するにいたった独自性をもつ。

2. 総合性:原氏の研究は、詩学、会話分析から、ディスクール分析、マルチモダリティ分析、さらにはコミュニケーション論にいたる多様な分野を横断して独自の理論と方法を探求し、詩や物語から、政治的言説、文字メディアからテレビ番組やケータイやインターネットにいたる複合的なメディア領域を視野に収めた分析を提唱する総合性を示している。

3. 一貫性:原氏の研究は、極めて多様な研究領域を縦横に横断し、多数の理論家の知見を動員しつつ推進されており、理論の適用に関しても多様な社会的・技術的・記号的実践の層にまたがって展開されている。そのような多様な研究展開の方法をまとめ上げるのが「言語態分析」の方法的一貫性であり、「言語態」の仮説の有効性が氏の研究を通して明確に浮き彫りにされている。

他方、同論文には、幾つかの無視し得ない問題点、考察の不徹底、改善すべき叙述の問題点があることが、論文審査の過程で指摘された。まず、「言語態分析」の理論的総合を行おうという意図は十分に説得力があるものの、参照している理論が余りに多岐にわたり、考察をつらぬく理論の糸がときに見えにくくなるきらいがある。また参照されている理論相互間の両立可能性、読み替えの幅については、さらに徹底した批判的検討を要するのではないかという指摘がある。とくに、フーコーのディスクール理論やメディオロジーの通時的方法とそれ以外のとくに言語科学に依拠する共時的方法との両立可能性、エスノメソドロジーを援用することの妥当性など基本的な諸点について疑問が呈され審査会においても補足的な説明が求められた。さらに、実践的な分析の事例については、着目点の斬新さについて肯定的な評価があった反面、分析事例の歴史的な位置づけ、分析の徹底性について、より本格的な分析作業が必要であるという評価も下された。また、言語態分析とは科学的方法であるのか、それとも批判の方法であるのか、言語態分析の方法論的ステータスについての説明が不足しているとの指摘もなされた。さらにまた、既刊著作であるにもかかわらず誤植が頻見されること、書誌および一部の翻訳に不備があることも指摘された。

以上の改善すべき点、さらに研究上深めるべき課題が存在することは否定できないが、本論文が上記の独自性、総合性、一貫性の特長を有することは間違いなく、原宏之氏の論文は、独自の「言語態分析」の研究成果を示す業績であると認めうる。

本審査委員会は以上の根拠にもとづき、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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