学位論文要旨



No 216906
著者(漢字) 国本,伊代
著者(英字)
著者(カナ) クニモト,イヨ
標題(和) メキシコ革命とカトリック教会 : 国民国家形成過程における国家と教会の対立・協調・共存関係
標題(洋)
報告番号 216906
報告番号 乙16906
学位授与日 2008.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16906号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 中西,徹
 東京大学 教授 高橋,均
 東京大学 准教授 石橋,純
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、1910年に勃発したメキシコ革命が約30年に及ぶ改革政策の遂行の過程で実施した農地改革をはじめとする根本的な社会・経済改革と並行して進めた「国家による宗教団体(カトリック教会)の管理体制」の確立過程と、その管理体制が1992年の憲法改変によって大きく変更されるにいたる経緯を考察することにある。その目的のために、本稿は第I部(第1章~第3章)、第II部(第4章~第7章)、第III部(第8章~第10章)、終章および補論で構成されている。

このテーマを設定した理由は次のとおりである。21世紀初頭においても国民の88%(2000年国勢調査)がカトリック信者であり、カトリックの伝統文化とカトリック的な精神風土が深く根づいているメキシコにおいて、社会と文化の基軸であるはずのカトリック教会が国家によって富と特権を徹底的に剥奪され、法的にはその存在すら、革命憲法が制定された1917年から憲法の反教権主義条項が大幅に改変された1992年まで、抹殺されていたという事実に、メキシコ近現代史を専攻する筆者は強い関心を抱いたからである。しかも、革命勢力に参加した国民のほとんどがカトリック信徒であったにもかかわらず、メキシコ革命の動乱期にカトリック教会と聖職者に向けられた憎悪と攻撃は激しかった。メキシコのカトリック教会が1857年にすでに国教の地位を失っており、300年に及んだ植民地時代に蓄積した富と権力を剥奪されていただけではなく、1859年以降はメキシコとの外交関係を断絶したローマ教皇庁からも孤立していたことを考えると、メキシコ革命においてカトリック教会に向けられた憎悪と反感の激しさは理解しにくい。それでは、1910年に勃発したメキシコ革命は、カトリック教会の何を問題視したのだろうか。革命闘争の過程でカトリック教会と聖職者は、どうしてあれほどまでに憎悪の対象となり、過酷な扱いを受けたのだろうか。革命の理念を成文化した1917年憲法は、第3条で宗教の教育への関与を否定し、第5条で修道院の廃止を定め、第24条で信教の自由を謳い、第27条第II項で教会が資産を保有することを禁じた。そしてさらに第130条においては、宗教団体と聖職者の活動と行動を詳細に規制した。このような革命憲法の反教権主義条項は、憲法制定の審議過程でどのような議論がなされて成立したのだろうか。当然のことながら、教会は革命憲法の反教権主義条項の撤廃を要求し、ついには教会がすべての宗教サービスを停止し、いわば教会がストライキに入り、同時に武装蜂起した信徒集団と共にクリステーロの乱(1926~1929年)と呼ばれる、3年に及んだ宗教戦争に突入した。アメリカの介入で国家と教会首脳との間で結ばれた「和平協定」によってこの宗教戦争は終結し、1930年代以降の国家と教会は「非公式の協調関係」とも呼ぶべき、相互の不干渉・不介入の関係を保った。しかしその実態はどのようなものだったのだろうか。1992年の憲法改変によって、革命憲法の反教権主義条項が大幅に削除され、法人格が宗教団体に認められ、聖職者に参政権(投票権のみ)が与えられたが、この憲法改変が決断された背景には何があったのだろうか。以上のような疑問に答えるために、本研究では3つの課題を設定して、考察と検証を試みた。

第1の課題は、メキシコ革命における教会問題の歴史的背景を整理することである。そのために第1章~第3章で構成された第I部では、独立運動からメキシコ革命勃発にいたる時期を、建国期、レフォルマ革命期、ディアス時代という3つの時期に分けて、国家と教会の関係を考察した。第1章では、独立運動期を含めた19世紀前半の建国期に制定された4つの憲法における教会の位置づけと、19世紀前半のメキシコの自由主義思想におけるカトリック教会観を検証した。続く第2章では、近代国家建設の過程で自国の後進状態の原因の1つをカトリック教会が支配した植民地時代の不の遺産として捉えたメキシコの自由主義者たちが、内的な信仰問題を除くカトリック教会の影響力を政治的にも、経済的にも、社会的にも、排除しようと取り組んだレフォルマ革命によって、組織としてのカトリック教会が崩壊するにいたる過程を考察した。第3章では、レフォルマ革命の自由主義理念を受け継いだディアス独裁時代(1876~1911年)に復興したとされるカトリック教会の「復興」の実態を、聖職者育成問題とカトリック教会の「社会活動」と総称された新たな活動、および公教育の進展状況を考察することによって、「ディアス時代の教会復権の定説」が誤りであることを検証した。

第2の課題は、メキシコ革命が徹底した反教権主義運動へと転じた革命動乱期にカトリック教会と聖職者が迫害された実態を考察し、反教権主義条項を盛り込んだ革命憲法の制定過程を検証することである。そのために、本稿の中核を成す第4章~第7章で構成された第II部を設けた。まず第4章は、政治の民主化を求めたマデロ政権(1911~1913年)の成立を受けてレフォルマ革命で政治的、経済的影響力を失ったカトリック教会が、国民カトリック党(Partido Catolico Nacional)を結成し、反革命政権を支持したことで、革命動乱期に護憲派勢力の攻撃の対象となった背景を明らかにした。続く第5章では、革命勢力と反革命勢力がもっとも激しい武力抗争を展開した内戦時代に、護憲派勢力が行なった教会の建物の破壊と聖職者の迫害・追放の実態に焦点を当て、革命動乱期にカトリック教会が、物理的にも、組織的にも、崩壊した状況を考察した。そして、内戦を制圧したカランサ(Venustiano Carranza)の率いる護憲派勢力が制定した1917年の革命憲法について、第6章で制憲議会がどのような特徴のある代議員たちによって構成されたかを検証し、第7章で革命憲法の反教権主義条項がどのように審議されて成立したかを考察した。

第3の課題は、革命憲法の反教権主義条項に基づきカトリック教会と聖職者の活動を国家の管理下においた、革命後のメキシコにおける国家と教会の関係を考察することである。そのために設定された第8章~第10章で構成された第III部では、カトリック教会と国家が、「対決から協調」へとその関係を転換させる過程を考察した。まず第8章では、1926年に制定された革命憲法の反教権主義条項の実施に反発したカトリック教会が宗教サービスの停止という実力行使に訴え、信徒たちが武装蜂起して政府軍と3年にわたって戦った、クリステーロの乱(1926~1929年)と呼ばれる宗教戦争の実態とその収束にいたる過程を検証した。アメリカの介入によって武力対決が収束される過程で、教会首脳は国家との協調の道を選択し、武装蜂起に訴えて教会を擁護しようとした忠実な信徒たちを見捨てた。その後、教会は表面的には革命憲法を遵守し、反教権主義を貫く歴代革命政権との協調関係を築き上げていった。しかし、この協調関係を外部から認識することは難しく、1980年代に入るまで歴代革命政権の反教権主義的姿勢は堅固であるとみられていた。この時代の政教関係を、本稿では「非公式の協調関係」として捉え、その「非公式な協調関係」を「公式な協調関係」へと転換させる契機となった1979年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のメキシコ訪問に焦点を当てて考察したのが、第9章である。続く第10章では、革命勢力が1929年に結成した国民革命党(Partido Nacional Revolucionario)を継承する現在の制度的革命党(Partido Revolucionario Institucional)による一党独裁体制の弱体化と経済混乱を経験した1980年代に、カトリック教会は政治の民主化と人権問題を追及する非政府組織としての発言力を強め、政治への影響力を増大させ、革命憲法の反教権主義条項を1992年に大幅に改変させることに成功する過程を考察した。

以上のような第I部から第III部、全10章で取り上げるメキシコ近現代史における国家と教会の対立関係とメキシコ国民の精神文化を支配するカトリック信仰のあり方は、対極に位置するようにみえる。なぜならメキシコ国民は、20世紀末においても日常生活の中で宗教(カトリック)を意識し、また信仰を実践している、世界でもっともカトリック的な国民の1つであるとされるからである。そのようなメキシコ国民の宗教心とカトリック教会に対する敬意は、メキシコ革命によって確立した強固な反教権主義的国家との関係でどのように説明できるのだろうか。この疑問を解く鍵の1つとして、1990年前後に実施されたメキシコ人の宗教と信仰に関係する3つの世論調査の結果を利用し、メキシコ国民の宗教心、価値観、幸福感、カトリック教会と聖職者に対する姿勢などを、補論で取り上げた。

メキシコ革命は、植民地時代の負の遺産としてのカトリック教会の特権と富と権力を、徹底的に剥奪した。そのために、メキシコ国民は多大な犠牲を払った。また教会は立ち直れないほどの打撃を蒙り、カトリック教会はメキシコの歴史の中の1頁に納まったかにみえた。しかし革命の後継者である制度的革命党政権は、その弱体化に歯止めをかけるために、カトリック教会に擦り寄った。1992年の憲法改変で、革命憲法の反教権主義条項は大幅に書き換えられ、カトリック教会が一定の復活を遂げる環境が整えられた。しかし本稿で示したように、メキシコにおける政教分離の原則は、欧米キリスト教諸国でも例外であるフランスに匹敵するほどの厳しさで守られており、カトリック信徒である国民の教会と聖職者に対する批判的でかつ合理的な視線に、革命の成果を認めることができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「メキシコ革命とカトリック教会―国民国家形成過程における国家と教会の対立・協調・共存関係―」は、1821年の独立から1992年の憲法改定に至るまでの長期間におけるメキシコの国家と教会の関係の歴史について、1次資料と2次資料を渉猟して、新たな観点や発見も交えながらまとめきった大作である。中心となるのはタイトルにもある通り、1910年に勃発したメキシコ革命と、その結果制定された1917年の革命憲法である。この憲法で、社会主義諸国を除けば比類ないほど厳しい教会に対する規制条項が定められた歴史的経緯、そしてそれが国家と教会の武力衝突と和解・協調の時代を経て75年後に撤廃されていった経過――それを描くのがこの論文の主題である。

本論文は序章と終章を除き、三部十章と一つの補論からなっている。第I部(1~3章)は独立からメキシコ革命直前までの時期を、第II部(4~7章)はメキシコ革命と1917年憲法の制定を、第III部(8~10章)はその後1992年に憲法改定に至るまでの時期を扱っている。補論は10章で扱われる憲法改定の背景として、一般国民の宗教観を世論調査に基づいて分析している。

第I部の中心テーマはレフォルマ革命期の国家・教会関係である。1821年の独立後制定された一連の憲法でカトリックは国教として位置づけられていたが、1854年から76年にかけてのレフォルマ革命期に、保守主義者やフランス帝政軍との武力対立の中で急進化した自由主義者によって、1857年憲法と一連の改革諸法が採択され、そこで反教権主義的な規制がメキシコ国家の基本原則として確立されていった。本論文ではその過程とともに、諸規制の内容――政教分離、信教の自由、宗教的宣誓の禁止、出生・婚姻・死亡記録管理の世俗化、公務員の宗教関与禁止、初等教育における宗教教育・行事の禁止、教会や信徒団体などによる不動産所有の禁止と教会資産の国有化など――が詳述されている。これらの規制は、続くポルフィリオ・ディアスの妥協的な政府によって緩和されたとする見方がこれまで有力だったが、著者の研究によれば、教会や聖職者に対する赤裸々な迫害はなくなり、ポルフィリオ・ディアス大統領が私人として聖職者を丁重に扱ったことは確かだが、レフォルマ革命の諸規制がはずされることはなかった。ローマ留学制度や国内の神学校再建などを通して、カトリック教会の復興が行われ、宗教教育を許された私立学校が増えたことは事実だが、人口あたりの聖職者数はきわめて少ないままだったし、私立学校を上回る公立学校生徒の増加があったというのである。

続く第II部は、1910年に勃発する革命から1917年の革命憲法制定に至る、メキシコの国家・教会関係にとって最も枢要な時期の分析にあてられている。当初ポルフィリオ・ディアスの長期独裁に反対する民主化運動を指導したマデロは、決して反教会ではなかったし、1911年に教会のローマ留学組が中心となり、信徒団体とともに結成した国民カトリック党も政教分離を受け入れ、マデロを新しい大統領候補として支持した。しかし、マデロを暗殺して政権を奪ったウエルタ反革命政府を教会と国民カトリック党が支持したことから、ウエルタに反旗を翻した護憲派軍との内戦の過程で、教会と聖職者に対する迫害が激化していった。当初護憲派はマデロと同じ穏健な政治改革主義者だったが、ウエルタ政府軍と戦い、同時にサパータ軍やビリャ軍と指導権争いをする過程で、次第に目標に掲げる政策を急進化させていった。その集大成が1917年に制定された革命憲法である。著者は制憲議会代議員の職業・教育や思想傾向を分析し、そのほとんどが革命闘争に従事したことのある高学歴の中産階級出身者であること、思想的には急進派と穏健派が混じっていたことを明らかにする。しかし作業委員会の多数が急進派で占められたために、1917年憲法はきわめて革新性の強い内容をもつようになったという。国家・教会関係についても、レフォルマ諸法を超える内容をもつに至った。すなわち、初等教育においては公立・私立を問わず宗教教育を禁じられた他、教会外での宗教的行為や教会による不動産の所有・保有・相続、そして教会関係者による政治に関連する発言、出版、結社が禁止された。さらに、宗教団体には法人格は認められず、聖職者には選挙権も被選挙権も与えられず、聖職者は出生によるメキシコ人でなければならないとされた。また教会は行政当局の監督に服し、布教や教育に用いられる建物も国家の所有と管理下に置かれるし、州議会が各州で活動する聖職者の最大数を決定することになった。

第III部では、1917年憲法の反教権主義条項が各地で実施に移される過程で、聖職者や信徒団体と政府との関係が悪化していき、1926年に上記条項の違反者への罰則を定める大統領令が出されたのをきっかけに、教会はミサなど宗教サービスを停止、クリステーロを名乗る信徒は中西部を中心に武装蜂起し、2~3万人が死ぬ「宗教戦争」が展開した過程が描かれる。この戦争は1929年に終結するが、教会が1917年憲法を受け入れ、政府側も反教権主義条項が完全には守られないことを黙認する形で両者の非公式の協調関係が始まるのは30年代後半カルデナス大統領の時代であった。以後40年間平穏な非公式関係(外国人聖職者の存在、聖職者による政府批判などの言論、私立学校における宗教教育などについての政府による黙認)が続いた後、公式な国家・教会関係再建に向けての動きが表面化するのは、1979年ローマ教皇のメキシコ訪問であった。ラテンアメリカ司教協議会第二回総会に参加するための教皇訪墨を、1859年以来ヴァチカンと外交関係がなかったにもかかわらず、メキシコ政府は認めた。しかし教会側が求めていた1917年憲法の反教権主義条項(宗教教育、教会外での宗教行事、不動産所有、聖職者数規制、選挙権、外国人聖職者、国家による教会監督等)の撤廃が実現されるのは1992年になってからであった。これは累積債務危機、大地震、選挙違反などで危機に瀕したPRI政府が、国民の支持を回復するために教会を利用しようとした結果であった。

しかしメキシコ国民の信仰心はカトリックという宗教に対するものであって、必ずしも教皇庁、教会、聖職者に対するものではないことが補論で明らかにされる。ここで著者は、国家・教会関係を扱った本論では中心的な分析対象とはならなかったメキシコ国民の宗教観を、メキシコだけを対象とした2つの世論調査と、メキシコを含む数十カ国で実施された世論調査を使って分析する。そこで明らかとされるのは、1970年代以降プロテスタントなど新宗派の布教活動の積極化などによってカトリック教徒は減ったが、それでも人口の88%がカトリック教徒であり、しかも信仰心の篤さという点で世界でも上位に属するということである。ただし現代のメキシコ国民は教会が政治に介入することには否定的で、カトリックを宗教として信頼するほど教会や聖職者を信頼しているわけではないという。カトリック教会は世俗の国家にとって危険な存在ではありえなくなっているのであり、それが1992年の憲法改定がほとんど抵抗らしい抵抗もなく進んだ背景であることが明らかにされるのである。

以上のような内容をもつ国本伊代氏の博士論文については、多くの優れた点を指摘できるが、特に次の三点に注目すべきであろう。

何よりもまず、この論文が170年にも及ぶ時期のメキシコにおける国家・教会関係を整理・分析して示した歴史学の大作であるという点である。このように長期を扱い、かつこれまで論争点になっていた諸点や明らかでなかった点を、1次資料に戻って丁寧に分析した仕事として、希有な作品である。

第2に、上でも触れたように、従来諸説があって確定していなかった事柄を、1次資料や2次資料を渉猟して明らかにした点がある。例えばポルフィリオ・ディアス期には教会の復権があったとする見方に対して、レフォルマ改革期の教会規制がそのまま維持されていたこと、教会の影響力は限られたままであったことを明らかにした。また国家と教会の協調的関係が1940年以降にできたとする見方に対しては、クリステーロの乱が収拾される時期からカルデナス政権の時代にかけて国家・教会双方の歩み寄りがあったことを明らかにした。

第3に、従来必ずしも実態が明らかでなかった点についても、1次資料にあたったり、2次資料をつきあわせたりすることで、明らかにした点があげられる。著者の分析によって、国民カトリック党結成の裏に、ローマ留学組の聖職者の増加やレオ13世の「レールム・ノヴァールム」に触発されて進んだ労働者サークルの結成があったことが明らかになった。また憲法制定会議の議事録を精査することによって、代議員個々人の思想傾向を明らかにすると同時に、なぜあれほどまでに急進的な教会規制条項が入れられるに至ったかを明らかにした。レフォルマ革命後の教会所有不動産解体によるメキシコ市の変容(図2-1、図2-2)やクリステーロの乱以降の教会不動産の接収件数(表8-1、表8-2)などのデータを整理し、まとめたことも評価に値する。

国本伊代氏の博士論文は、以上のように質の高い論文であるが不十分な点がないわけではない。

第1に、あまりにも長期の時期を歴史叙述の形で書き進めているために、既存の研究によってほぼ明らかになっていることをより詳細に分析した部分と、既存の研究では十分明らかでなかったことを明らかにした部分の2つが渾然としている点がある。全体をまとめる終章においても、この点が必ずしも明確にされていない。

第2に、レフォルマ改革、メキシコ革命、1992年の憲法改定については詳しく分析されているが、国家と教会が非公式の協調関係にあったとされる1940から1979年にかけての時期の分析は非常に手薄で、全222頁中6頁があてられているだけである。この時期には、著者も簡単に触れているように、カトリック的価値を重視する国民行動党(PAN)の成長、キューバ革命の世論への影響、政府による家族計画の導入などがあったことを考えると、それに対する教会の対応と国家・教会関係への影響について、より深く分析する必要があるだろう。

第3に、国家の側の思想や政策については非常に詳しく書かれているのに比べて、教会の側――教皇庁とメキシコ教会――の思想や政策の変化と、その国家・教会関係へのインパクトについての分析が薄い。メキシコ教会はほぼ一貫して保守反動勢力として扱われているが、他のカトリック諸国で見られたような、新しい時代に適応しようとする動きがなかったのかどうかは、さらに比較検討を要するテーマである。

以上のような問題点が残るにもかかわらず、これらは本論文の価値を少しも損なうものではない。メキシコにおける国家・教会関係の歴史を詳細に分析した壮大な作品として、本論文は学界に貢献するところ大である。

したがって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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