学位論文要旨



No 216910
著者(漢字) 大井,淳史
著者(英字)
著者(カナ) オオイ,アツシ
標題(和) コイ骨格筋アクチンの安定性に関する分子論的研究
標題(洋)
報告番号 216910
報告番号 乙16910
学位授与日 2008.02.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16910号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 教授 山下,倫明
 東京大学 准教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

アクチンはすべての真核生物に存在するタンパク質である。骨格筋においてはミオシンのMg(2+)-ATPaseを活性化し、筋収縮時の張力発生を担っている。アクチンの3次構造は2つのドメインで構成され、この間を隔てているクレフト領域にはヌクレオチドと2価の陽イオンが結合しており、アクチンの構造安定性を著しく高めている。すなわち、それらの結合リガンドを失うことによりアクチンは速やかに変性する。

アクチンにはいくつかのアイソフォームがあるが,アミノ酸配列はアイソフォーム間および生物種間で高く保存されている。骨格筋アクチン(以下、単にアクチンと略記)に限れば、恒温動物間ではアミノ酸置換はなく、魚類アクチンにおいても数箇所の置換が存在するだけである。それにも関わらず、平均体温の異なる動物種間では熱安定性や重合に伴う熱力学量などの物理化学的な性質に差異が見出され、アクチンの多様性が少数のアミノ酸置換によって実現されていることが示唆されている。

地球上の様々な環境に生息する魚類においては、その環境適応の結果、分子レベルの多様なバリエーションが存在することが知られている。アクチンについても、魚類では少ないながらもアミノ酸置換の異なるいくつかのバリエーションが報告されており、アクチンの構造-機能相関を調べる上で最適な対象である。

以上のような背景の下、本研究では魚類アクチンの機能特性ならびに熱安定性を決定する分子機構を明らかにすることを目的とし、ヌクレオチドとCa2+のアクチンに対する親和性とその熱力学的特性を調べた。対象は単一のアイソフォームからなるコイ速筋のアクチンとした。結果の概要は以下の通りである。

1.アクチンのヌクレオチド交換反応の解析

アクチンに結合しているヌクレオチドと2価の陽イオンは溶液中のそれらと平衡状態にある。恒温動物アクチンの場合、ヌクレオチドの解離は、陽イオンとの複合体として解離する反応経路(コンプレックスルート)と陽イオンの解離後にヌクレオチドが解離する経路(シーケンシャルルート)で起きることが知られている。溶液中の遊離2価イオンの濃度が低いときには、シーケンシャルルートでのヌクレオチドの結合・解離が顕著になり、ヌクレオチドの交換は2価イオンによって著しく制御される。熱安定性などの生化学的性質の異なるアクチンに対する上述のヌクレオチド交換スキームの適用可能性をタンパク質分解酵素であるズブチリシンによって限定分解されたアクチンをモデルとして検証した。対象として調製が容易で熱安定性の高いウサギ・アクチンを用いた。その結果、ズブチリシンによって内部切断を受けたアクチンは、シーケンシャルルートでのATPの結合定数が2.7×105 M-1から1.6×105 M(-1)へと約1/2に低下し、Ca2+の結合定数も3.5×108 M(-1)から2.6×107 M-1へと約1/10に低下していることが明らかになった。また両ルートでのATPやCa(2+)の結合・解離速度定数もズブチリシン処理によって大きく影響を受けていたが、ヌクレオチド交換に対するCa2+による制御機構はズブチリシン処理したアクチンにおいても成立しており、ヌクレオチド交換反応に関する従来の研究手法がリガンドとの親和性が大きく異なるアクチンに対しても有効であることが示された。

2.コイ・アクチンのヌクレオチドとCa(2+)との結合親和性の解析

前述のスキームに基づいて、コイ・アクチンのヌクレオチドおよびCa(2+)結合能の解析を行った。対照として骨格筋の入手が容易なニワトリから調製したアクチンを用いた。アクチン溶液に2価イオンのキレート試薬を添加すると、シーケンシャルルートでのヌクレオチドの解離によってアクチンは変性する。その見かけの変性速度のヌクレオチド濃度依存性から、ヌクレオチドの結合定数と真の変性速度定数を算出したところ、ATPの結合定数は5.0×104 M-1(20°C)と、ニワトリ・アクチンの結合定数1.2×105 M(-1)より小さいことが明らかになった。またADPとの結合定数もコイ・アクチンにおいて1.9×104 M(-1)と、ニワトリ・アクチンの5.1×104 M(-1)より小さかった。一方、結合定数から算出されるATPとADPの結合の自由エネルギー差はコイ・アクチンで-2.3 kJ/molと、ニワトリ・アクチンの-2.1 kJ/molとの有意な差は見出されなかった。すなわち、コイ・アクチンとニワトリ・アクチンではATPのγ位リン酸基の結合には差異がないことが示唆された。また真の変性速度定数に関しては、結合ヌクレオチドの種類に関わらず、コイおよびニワトリ・アクチン間で有意な差は見出されなかった。

次に蛍光性カルシウムキレート試薬、8-amino-2-[(2-amino-5-methylphenoxy)methyl]-6-methoxy quinoline-N,N,N',N'-tetraacetic acidを用いて、Ca(2+)に対する結合親和性を解析したところ、コイ・アクチンの結合定数は6.7×107 M(-1)と、対照のニワトリ・アクチンの1.1×108 M-1より小さく、親和性が低いことが明らかになった。

これらの結果から、ニワトリ・アクチンを対照とした場合の5箇所のアミノ酸置換(Asp/Glu-2, Ala/Ser-155, Val/Ile-165, Ala/Thr-278, Leu/Met-299)は、リガンドを結合していない状態のバックボーン自体の安定性は変えないが、ヌクレオチドおよびCa(2+)に対する親和性を低下させることによって、アクチンの安定性に影響を及ぼしていることが示唆された。

3.リガンドに対する低親和性の分子機構の解析

コイ・アクチンにおけるリガンド結合の特性を分子論的に解析することを試みた。コイ・アクチンには、前述のように5箇所のアミノ酸置換が存在する。その中でAla/Ser-155置換はヌクレオチド結合領域近傍に位置し、ATPの結合に影響を及ぼすことがMorita (2003)によって明らかにされている。一方、現在までに報告されているアクチンのアミノ酸置換とATPとの親和性を検討した結果、Ala/Ser-155置換以外の4つのアミノ酸置換はATP結合能との相関がないことが明らかになった。

Ala-155はアクチンのクレフト内でヌクレオチドを保持する3本のヘアピン構造の1つ(Asp-154-His-161)に属する。Ala/Ser-155置換の立体構造への影響を調べるために、既報の恒温動物アクチンの原子座標を用いて分子モデリングを行った。その結果、Ser- 155の場合には、ヘアピン上の対称位置にあるThr-160と水素結合してβシートを安定化させていることが明らかになった。一方、Ala-155の場合には水素結合が形成されず、βシートの構造に影響を及ぼすことが示された。

ヘアピンAsp-154-His-161とATPとの相互作用は、主にヘアピンの先端部分の側鎖とγ位のリン酸基との結合であることが知られている。しかしながら、上述のようにγ位のリン酸基の結合に関しては、コイ・アクチンとニワトリ・アクチンでは結合エネルギーの差はなかった。そこで分子モデルをさらに詳細に検討したところ、Ala-155またはSer-155は、隣接するヘアピン構造Met-299-Tyr-306のSer-300およびThr-303と水素結合しており、Ala/Ser-155置換が2つのヘアピンに亘って広くヌクレオチド結合領域に影響を及ぼしている可能性が示唆された。

次にATP結合の熱力学的パラメータによる解析を行った。種々の温度で測定されたATPとの結合定数から熱力学的パラメータを算出した結果、ATP結合に伴うエンタルピー変化はコイ・アクチンで-65kJ/molと、ニワトリ・アクチンの-110kJ/molに比して著しく小さかった。このことはAla/Ser-155置換が、ATPとアクチン間に形成される多くの結合に影響を及ぼすことを示唆しており、分子モデルの解析からの推論を支持した。また、結合に伴うエンタルピー項の変化量はコイ・アクチンで-39kJ/mol、ニワトリ・アクチンでは-82kJ/molと、コイ・アクチンではATP結合に伴う分子構造の安定化が脆弱であることが明らかになった。

以上のようにコイ・アクチンのヌクレオチド結合を熱力学と立体構造の特徴から包括的に解析することにより、Ala/Ser-155置換がヌクレオチドおよびCa(2+)との親和性を低下させるだけでなく、コイ・アクチンにおいてはATP結合に伴うエントロピーの低下が小さく、この置換がATP・アクチン複合体の構造安定性にも大きな影響を与えていることが明らかとなった。

4.アクチンの熱安定性に対する影響の解析

上述のリガンドに対する親和性および立体構造の特徴がアクチンの熱安定性に及ぼす影響を解析した。溶液のイオン強度の増加および加温によるアクチンの重合促進は熱安定性に対する正しい評価の障害となる。そこでアクチンをpyrene iodoacetamideで化学修飾することによって熱処理中の重合をモニターし、さらに重合能の喪失を指標として変性が定量化できるよう工夫した。これによりATPおよびCa2+がアクチンの変性速度に与える影響を正確に調べることが可能となった。

この方法を用いて0.2mM ATP、0.2mM Ca2+存在下、50°Cにおけるコイ・アクチンの熱変性速度を測定したところ、1.5×10-3 s-1と、対照としたニワトリ・アクチンの3.4×10-4 s-1と比して著しく大きく、熱安定性が劣ることが明らかになった。この速い熱変性はATPおよびCa2+濃度の上昇によって抑制され、特にCa2+の効果が顕著であった。また熱変性に伴うエンタルピー変化を算出した結果、コイ・アクチンで252 ± 18 kJ/mol、ニワトリ・アクチンで270 ± 29 kJ/molと、有意な差は見出されず、コイ・アクチンの熱変性の速さは変性反応の頻度因子によるものであることが示唆された。

以上の結果から、コイ・アクチンにおける低い熱安定性はリガンドとの低親和性に起因するものであることが明らかになった。

以上、本研究において、コイ骨格筋アクチンを対象としたヌクレオチドおよびCa2+との親和性の定量的解析により、Ala/Ser-155のアミノ酸置換がアクチンの構造ならびに熱安定性に影響することを明らかにした。従来から魚類アクチンの安定性に関する特異性が知られていたが、本研究により初めてその分子機構が明らかとなった。本研究の成果は、タンパク質の立体構造化学に基礎的知見を与えるのみならず、魚肉タンパク質の利用加工上の特異性解明にも応用できることから、食品化学にも資するところが大きいと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

アクチンの3次構造は2つのドメインで構成され、この間を隔てているクレフト領域にはヌクレオチドと2価の陽イオンが結合しており、アクチンの構造安定性を著しく高めている。アクチンにはいくつかのアイソフォームがあるが、アミノ酸配列はアイソフォーム間および生物種間で高く保存されている。しかしながら、アクチンの多様性が少数のアミノ酸置換によって実現されていることが示唆されている。魚類の骨格筋アクチン(以下、単にアクチンと略記)についても少ないながらアミノ酸置換の異なるいくつかのバリエーションが報告されいる。このような背景の下、本研究では魚類アクチンの機能特性ならびに熱安定性を決定する分子機構を明らかにすることを目的とした。

まず、アクチンに対するヌクレオチド交換スキームの適用可能性を、タンパク質分解酵素であるズブチリシンによって限定分解されたウサギ・アクチンをモデルとして検証した。その結果、ズブチリシンによって内部切断を受けたアクチンは、シーケンシャルルートでのATPの結合定数が2.7×105 M(-1)から1.6×105 M(-1)へと約1/2に低下し、Ca(2+)の結合定数も3.5×108 M(-1)から2.6×107 M(-1)へと約1/10に低下し、ヌクレオチド交換に対するCa(2+)による制御機構はズブチリシン処理したアクチンにおいても成立した。

次に、コイ・アクチンのATP結合定数は5.0×104 M(-1)(20℃)と、ニワトリ・アクチンの結合定数1.2×105 M(-1)より小さかった。またADPとの結合定数もコイ・アクチンで1.9×104 M(-1)と、ニワトリ・アクチンの5.1×104 M(-1)より小さかった。一方、結合定数から算出されるATPとADPの結合の自由エネルギー差はコイ・アクチンで‐2.3 kJ/mol、ニワトリ・アクチンで‐2.1 kJ/molと、両アクチン間でATPのγ位リン酸基の結合には差がないことが示唆された。次に、蛍光性Ca(2+)キレート試薬を用いてCa(2+)に対する結合親和性を解析したところ、コイ・アクチンの結合定数は6.7×107 M(-1)と、対照のニワトリ・アクチンの1.1×108 M(-1)より小さく、親和性が低かった。これらの結果から、ニワトリ・アクチンを対照とした場合の5箇所のアミノ酸置換(Asp/Glu-2, Ala/Ser-155, Val/Ile-165, Ala/Thr-278, Leu/Met-299)は、リガンドを結合していない状態のバックボーン自体の安定性は変えないが、ヌクレオチドおよびCa(2+)に対する親和性を低下させることによって、アクチンの安定性に影響を及ぼすことが示唆された。

さらに、コイ・アクチンのAla/Ser-155置換の立体構造への影響を調べるために、既報の恒温動物アクチンの原子座標を用いて分子モデリングを行った。その結果、Ser- 155の場合には、ヘアピン上の対称位置にあるThr-160と水素結合してβシートを安定化させていた。一方、Ala-155の場合には水素結合が形成されず、βシート構造に影響を及ぼした。さらに詳細に検討したところ、Ala-155またはSer-155は隣接するヘアピン構造Met299-Tyr306のSer-300およびThr-303と水素結合しており、Ala/Ser-155置換が2つのヘアピンに亘って広くヌクレオチド結合領域に影響を及ぼしている可能性が示唆された。次に、ATP結合に伴うエンタルピー変化はコイ・アクチンで‐65kJ/molと、ニワトリ・アクチンの‐110kJ/molに比して著しく小さかった。このことはAla/Ser-155置換がATPとアクチン間に形成される多くの結合に影響を及ぼしていることを示唆しており、分子モデルの解析からの推論を支持した。また、結合に伴うエンタルピー項の変化はコイ・アクチンで-39kJ/mol、ニワトリ・アクチンでは-82kJ/molと、コイ・アクチンではATP結合に伴う分子構造の安定化が脆弱であることが明らかになった。

アクチンをpyrene iodoacetamideで化学修飾し、0.2mM ATP, 0.2mM Ca2+存在下、50℃におけるコイ・アクチンの熱変性速度を測定したところ、1.5×10(-3) s(-1)と、対照としたニワトリ・アクチンの3.4×10(-4) s(-1)と比べて著しく大きく、熱安定性が劣っていた。この速い熱変性はATPおよびCa(2+)濃度の上昇によって抑制され、特にCa(2+)の効果が顕著であった。また熱変性に伴うエンタルピー変化を算出した結果、コイ・アクチンで252 ± 18 kJ/mol、ニワトリ・アクチンで270 ± 29 kJ/molと、有意な差は見出されず、コイ・アクチンの熱変性の速さは変性反応の頻度因子によるものであることが示唆された。 以上の結果から、コイ・アクチンにおける低い熱安定性はリガンドとの低親和性に起因するものであることが明らかになった。

以上、本研究において、コイ・アクチンを対象としたヌクレオチドおよびCa(2+)との親和性の定量的解析により、Ala/Ser-155のアミノ酸置換がアクチンの構造ならびに熱安定性に影響することを明らかにした。従来から魚類アクチンが恒温動物アクチンに比べて不安定性であることが知られていたが、本研究により初めてその分子機構が明らかとなった。本研究の成果は、タンパク質の立体構造化学に基礎的知見を与えるのみならず、魚肉タンパク質の利用加工上の特異性解明にも応用できることから、食品化学にも資するところが大きく、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42894