学位論文要旨



No 216913
著者(漢字) 大橋,雅津代
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,カツヨ
標題(和) 過敏性腸症候群モデル動物における内臓痛覚過敏に関する研究
標題(洋)
報告番号 216913
報告番号 乙16913
学位授与日 2008.02.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16913号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 准教授 大野,耕一
 東京大学 准教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

過敏性腸症候群(Irritable Bowel Syndrome: IBS)は,機能性消化管障害の1つに分類され,便通異常(便秘や下痢)と慢性的な腹痛(内臓知覚過敏)を伴う疾患である.臨床的にはIBSの発症原因を特定することは難しいが,社会ストレスあるいは腸管内の感染・炎症が引き金となり,自律神経系や腸管内神経系に支障を与え発症するのではないかと考えられている.IBSは症状により、便秘型、下痢型、交互型の3つに分類される.薬物治療は,患者が呈する消化管運動異常を緩和するのみで対症療法が主なものであり、満足度が極めて低い.

腸管には,知覚神経,介在神経,運動神経から構成される腸管壁内神経が細部まで発達している.腸管神経叢の知覚神経が興奮し,その信号を脊髄に伝えることで痛みが生じる.IBS患者では,腸管の炎症性や免疫系細胞の変化が報告され,肥満細胞が内臓の知覚異常に影響している可能性が指摘されている.

本研究では,腸炎を誘発するハプテンとして頻用される2,4,6-trinitrobenzene sulfonic acid (TNBS)を用い、中用量で処置することによりIBS様症状を呈するモデル動物の作出を試みた.具体的には、IBSとしてのモデルの妥当性と新規内臓痛治療の開発における有用性について、以下の3点に着目して解析した。

1)近位結腸のTNBS腸炎が遠位結腸の知覚に及ぼす影響

2)近位結腸のTNBS腸炎が引き起こす遠位結腸の痛覚過敏における肥満細胞の関与

3)IBS治療薬の創出を目的としたターゲットバリデーションの実施

第一章近位結腸のTNBS腸炎が遠位結腸の知覚に及ぼす影響

【方法】

SDラット近位結腸に中用量(50 mg/kg)のTNBSを投与し,処置後7日目にバルーン伸展刺激を用いて遠位結腸の内臓痛閾値を測定した.また,microPETを用いてバルーン刺激時の脳活性を測定した.

【結果と考察】

近位結腸に中用量のTNBSを処置して腸炎を誘発させたのち,経時的に内臓痛閾値を測定すると,腸炎惹起後5日から14日目の遠位結腸において,伸展刺激に対する痛み感受性の有意な増大がみられた.この遠位結腸の痛覚過敏は,投与後7日目において最も顕著であり,全てのTNBS処置ラットは35 mmHg以下の伸展刺激により特徴的な痛み行動(α-position)を示した. TNBS処置ラット(7日目)において、遠位結腸に35 mmHgの伸展刺激を加えた際の脳活性をmicroPETで測定すると,視床および第一次体性感覚野に局在する有意な活性増加が認められた.一方,擬似オペ群では脳活性の有意な反応は認められなかった.さらに,この活性増加は中枢性鎮痛薬のモルヒネの投与により完全に消失し,このとき内臓痛閾値をも完全に回復させた.このことは,伸展刺激で誘発している特異的行動が"痛み反応"に基づく行動であることを示し,さらにTNBS処置7日目のラットは内臓痛を呈していると考えられた.

次に,中用量のTNBS処置後7日目のHE染色およびMPO活性を測定したところ,TNBSに直接暴露された近位結腸には粘膜壊死と炎症性細胞浸潤が観察され,組織中 MPOの有意な上昇が認められた.一方,遠位結腸では粘膜壊死は観察されず,MPO含有量の増加も認められなかったことから,TNBS腸炎は近位結腸に限局していることが分かった.

以上のことから,近位結腸のTNBS腸炎は,距離の離れた遠位結腸の痛覚過敏を誘導し,その結果,消化管管腔内壁伸展刺激に対して内臓痛閾値を低下させることが明らかになった.この痛覚過敏は,視床および第一次体性感覚野の脳活性増加を伴い,中枢性鎮痛薬のモルヒネにより消失した.従って,近位結腸の低濃度TNBS腸炎ラットは,IBSモデル動物として有用であると考えられた.

第2章近位結腸のTNBS腸炎が引き起こす遠位結腸の痛覚過敏における肥満細胞の関与

【方法】

実験には,SDラット,肥満細胞欠損ラット(Ws/Ws)およびそのコントロールラット(W+/W+)を用いた.近位結腸に中用量のTNBSを処置し,遠位結腸で痛覚過敏を誘発した.薬物の作用および肥満細胞の変化は,痛覚過敏が最も顕著であるTNBS処置後7日目のラットを用いて測定した.

【結果と考察】

TNBS処置ラット(7日目)において,伸展刺激に対して痛み感受性が増大している遠位結腸では,トルイジンブルー染色陽性の粘膜型肥満細細胞数(MMC)が有意に増加し,擬似オペ群と比べて単位面積(mm2)あたりの細胞数は1.5倍であった.さらに,遠位結腸組織を器官培養し,MMCの特異的マーカーのrat mast cell protease-2 (RMCP-2)の遊離量を測定したところ,腸管重量あたりのRMCP-2遊離量は約3倍であった.これらの結果から,IBSモデルラットにおける遠位結腸粘膜組織では,肥満細胞の浸潤が有意に増加しているだけでなく,浸潤した肥満細胞が脱顆粒亢進を伴っており,遠位結腸での過敏症の発現に関与している可能性が示唆された.

次に,TNBS腸炎と肥満細胞の関係について検討した.Ws/WsラットおよびW+/W+ラットの結腸組織をHE染色すると,TNBSに直接暴露された近位結腸では粘膜壊死と炎症性細胞浸潤が認められたが,肥満細胞欠損の有無による違いは観察されなかった.さらに,近位および遠位結腸の組織内MPO量を測定したところ,両ラットの近位結腸で同程度のMPOの有意な上昇が認められ,遠位結腸でのMPOの増加は認められなかった.これら結果から,中用量で惹起したTNBS腸炎の炎症反応には,腸管肥満細胞の有無は影響しないことが推察できる.また,無処置のW+/W+ラットとWs/Wsラットの内臓痛閾値は,いずれのラットも正常値の範囲内(40-60 mmHg)であったことから,肥満細胞欠損の有無は正常時の知覚には影響を与えないと考えられた.

次に,Ws/WsラットとW+/W+ラットを用いて,肥満細胞の痛覚過敏への関与を検討した.近位結腸に中用量のTNBSを処置し,7日目に遠位結腸での内臓痛閾値を測定した.W+/W+ラットでは,擬似オペ群と比べて有意に内臓痛閾値が低下し,遠位結腸で痛覚過敏が観察された.一方,Ws/Wsラットでは,擬似オペ群と比べて有意な内臓痛閾値の変化が見られず,伸展刺激に対する痛覚過敏は発症しなかった.この結果は,TNBS腸炎による遠位結腸の痛覚過敏には肥満細胞の存在が必須であることを示唆している.

以上の成績から, 中用量のTNBSにより誘発した近位結腸の腸炎は,何ら損傷を受けていない遠位結腸で痛覚過敏を引き起こし,この過敏症には肥満細胞浸潤および脱顆粒亢進が関与することが示唆された.これらの変化は,臨床で報告されているPost Infectious・Inflammatory IBS(PI-IBS)患者の形態学的変化と類似しており,本IBS動物モデルはPI-IBS様病態モデルになり得ると考えられた.

第三章 IBS治療薬の創出を目的としたターゲットバリデーション

【方法】

SDラットの近位結腸に中用量のTNBSを投与し,7日目に遠位結腸の痛覚過敏に対する各種薬物の作用を検討した.

【結果と考察】

IBSの内臓痛知覚異常は,腸管の知覚神経が興奮することにより生じるが,第二章においてその知覚異常に肥満細胞が関与することを明らかにした.また,ヒトは多くのストレス負荷によりIBS症状を呈することが実証されている.これらの要因を考慮し,本項目では本研究で樹立したPI-IBSモデルラットを用いて,IBSの内臓痛治療薬開発を想定したいくつかの薬剤を用いて,ターゲットバリデーションを行った.

知覚神経終末に発現するTRPV-1受容体の拮抗薬(BCTC),肥満細胞膜安定化剤(doxzantrazole),抗不安薬(amitriptyline),神経因性疼痛治療薬の神経型N型Ca2+チャネル阻害薬(pregabalin),消化管運動亢進作用を持つ5HT4受容体作用薬(CJ-33446)および消化管運動抑制効果を持つ5HT3受容体拮抗薬(alosetron)を投与し,PI-IBSモデルラットの痛覚過敏に対する作用を解析した.その結果,得られた効果に優劣はあるものの,5HT4受容体作用薬を除く全ての薬剤は,本IBSモデルラットで有意に内臓痛抑制効果を示した.

これらの知見は,臨床におけるIBS内臓痛治療の効果を予測することを可能にし,新規治療薬のターゲットバリデーションに極めて有用であると考えられた.

【まとめ】

本研究により,近位結腸に投与した中用量のTNBSは,それより下流に位置する炎症を惹起していない遠位結腸で痛覚過敏を引き起こすこと,そしてこの過敏症には肥満細胞が重要な役割を果たすことが明らかとなった.すなわち、近位結腸の免疫系が活性化して種々の炎症性サイトカインが産生され炎症が生じると,何らかの経路でこの変化が遠位結腸に伝搬し、その結果肥満細胞の浸潤と活性化を惹起し,その結果として痛覚過敏が生じると考えられた.今回報告した腸管肥満細胞の変化は,形態学的あるいは組織学的にIBS患者で観察される変化に酷似しており,IBS患者においても同様のメカニズムで痛覚過敏が形成されている可能性が考えられた.

以上,本研究により樹立したIBSモデル動物を用いた病態解析は,IBS病態生理の解明に役立つとともに,新規IBS治療薬の創出と検証に役立てられると考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

過敏性腸症候群(IBS)は,機能性消化管障害の1つに分類され,便通異常と慢性的な腹痛(内臓知覚過敏)を伴う疾患である.IBSは症状により、便秘型、下痢型、交互型の3つに分類される.薬物治療は,患者が呈する消化管運動異常を緩和するのみで対症療法が主なものであり、医療満足度が極めて低く,内臓痛治療に焦点を当てた病態解析と治療薬の開発は急務となっている.そこで,本研究では,ハプテンのTNBSを用い,IBS症状を呈するモデル動物の作出し,その病態を解析するとともにIBS治療薬の探索研究における有用性を明らかにすることを目的とし,以下の3点に着目して解析した.

1.TNBS誘発腸炎を利用したIBSモデル動物の作成

2.IBSモデルラットの内臓痛覚過敏における肥満細胞の関与

3.IBS内臓痛治療薬の創出の可能性

第1章TNBS誘発腸炎を利用したIBSモデル動物の作成

近位結腸のTNBSを処置により,遠位結腸において5日から14日目伸展刺激に対する痛覚過敏が観察された.この遠位結腸の痛覚過敏は,投与後7日目において最も顕著であり,全てのTNBS処置ラットは35 mmHg以下の伸展刺激により特徴的な痛み行動を示した.

TNBS腸炎による炎症反応は,直接暴露された近位結腸に留まり,遠位結腸では何ら器質的変化は観察されなかった.さらに,遠位結腸の痛覚過敏に対し抗炎症薬は無効であったことから,炎症性疼痛ではない可能性が示唆された.

TNBS処置ラットにおいて、35 mmHgの伸展刺激を加えた際の脳活性を測定すると,擬似オペラットと比べて,視床および第一次体性感覚野に局在する有意な活性増加が認められた.この活性増加は中枢性鎮痛薬のモルヒネの投与により完全に消失し,このとき内臓痛閾値をも完全に回復させた.

以上のことから,近位結腸のTNBS腸炎は,距離の離れた遠位結腸の痛覚過敏を生じさせ,その部位では器質的変化を伴わないことが明らかになった.この痛覚過敏は,視床および第一次体性感覚野の脳活性増加を伴い,中枢性鎮痛薬のモルヒネにより消失した.従って,TNBSで誘発した結腸痛覚過敏は脳-腸相関を呈するIBS病態モデルとして有用であると考えられた.

第2章IBSモデルラットの内臓痛覚過敏における肥満細胞の関与

TNBS処置ラット(7日目)において,痛覚過敏が生じている遠位結腸では,トルイジンブルー染色陽性の粘膜型肥満細細胞数(MMC)が有意に増加し,擬似オペ群と比べて1.5倍であった.MMCの特異的マーカーのRMCP-2の遊離量を測定したところ,腸管重量あたりのRMCP-2遊離量は約3倍であった.さらに,TNBSにより生じる痛覚過敏は,肥満細胞膜安定化剤のドキサントラゾールを前処置によって用量依存的に有意に阻害された.

肥満細胞と結腸痛覚過敏に関係をさらに解析するために,肥満細胞欠損ラット(Ws/Ws)を用でTNBS処置を行い痛覚過敏の形成について検討した.平常時の内臓痛閾値および近位結腸のTNBS腸炎は肥満細胞の欠損により影響を受けなかったが,TNBSにより生じる遠位結腸の痛覚過敏は形成されなかった.

以上の結果から,TNBSによって生じる結腸痛覚過敏形成には,肥満細胞浸潤および脱顆粒亢進が重要な役割を示すことが示唆された.

第3章IBS治療薬の創出を目的としたターゲットバリデーション

本研究で樹立したIBSモデルラットを用いて,IBSの内臓痛治療薬開発を想定し,1)腸管知覚神経終末の制御,2)臨床鎮痛薬の適応拡大,3)セロトニン関連消化管運動治療薬の応用,の可能性について検討した.

知覚神経終末に発現するTRPV-1受容体の拮抗薬,神経因性疼痛治療薬のpregabalin,5HT2b受容体拮抗薬(RS-127455),5HT3受容体拮抗薬(alosetron),5HT4受容体作用薬(CJ-33446),5HT2b受容体拮抗作用と5HT4受容体作用薬Tegaserodを投与し,痛覚過敏に対する効果を検討した.その結果,5HT4受容体作用薬を除く全ての薬剤は,TNBSにより生じた内臓痛閾値低下を阻害した.

このことから,今回想定した3つのターゲットは,IBS内臓痛治療薬となり得る可能性が考えられた.

以上のように、本研究は,TNBS処置に生じたラット内臓痛覚過敏は,器質的変化のない遠位結腸で観察され,この過敏症には,肥満細胞が重要な役割を果たすことが明らかにした.さらに本モデルは,脳-腸相関を呈した内臓痛であることから,IBSの病態モデルとして妥当であること、そしてこのIBSモデル動物は,新規IBS治療薬の探索に有用であるとも明らかにした.

以上,本論文は過敏性腸症候群モデル動物における内臓痛覚過敏に関する事柄を生理学的ならびに薬理学的に明らかにしたものであり、これらの知見は、学術上の重要性はいうに及ばず、今後の医薬品開発研究にとっても有用な知見と考えられる。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の論文として価値あるものと認めた。

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